- 陸章 -
少女の胸内で日に日に色濃くなるのは、旅人となる心ばかり。
半年……三月だけでも良いと思う
江寧に、榮春は微笑みを湛えたまま告げた。
“人は誰でも、一度は旅を望むものよ”
その言葉に、彼女の急いた心はどれだけ落ち着いた事だろう。
―――穏やかとなった心はしかし、突然の連絡に再び平穏を手放してしまった。
「年末で貴方の仕事は終わりよ」
十月の間を越えて、
江寧の元に久方振りの来客が訪れた。彼女―――青稟が里家に顔を出し、突如そう告げたのだ。
時は夕刻、傾いた陽はその言葉に寂しさを添える。いつか終わると思っていたものは、再会の喜びと共にやってきた。別段驚きはしなかったが、ただ少しばかり淋しいとは感じている。
「そっか……」
「それでね、報酬は何がいいかって」
「報酬?」
江寧の言葉に頷きを見せる青稟は、何でもいいのだという。銭でも物でも、それに見合ったものを出すと。
何でも。そう言われると望みは次々と脳裏に浮かんでは消えていく。
―――旅人として、必要なもの。
そう考えると、とある物を思い浮かべた。旅人としては欠かせない。持たなければ、必ず何れかの門にて止められてしまうもの。
「旌券がいい」
「旌券?」
身分を証明するものとして使われているが、海客は通常浮民扱いであるために貰う事が出来ない。例え胎果であろうとも、海客は海客扱いである。
成人となれば里家には居られずに出て行くことになるので、機会があれば入手すべき物と思っていた。今現在働いている舎館とて、いつまで雇ってもらえるか分からない。
「旌券だけでいいの?」
「欲を言えば、路銀を少し……」
「ええ、分かった」
満足気に頭を振った青稟は、話を終えるとすぐに腰を上げた。夕刻では十分に時間が取れない。それは理解していたが、久方振りの会話には名残惜しいものを感じる。背を向けた彼女の名を呼ぼうとしたその時―――突如、青稟が
江寧の元へと振り返った。
……僅かな笑みを、引き攣らせて。
「
江寧、貴方旅に出るのは良いけど……何処へ行くつもり?」
「え?ああ、一応奏に」
「他は?」
「雁。大国二つを周ろうかなって。日が良ければ範国も―――青稟?」
額に手を当て溜息を吐く青稟の姿に、言葉を途切らせてその名を呼ぶ。呆れたのか、それとも体調が悪いのか。どちらにしても彼女の言葉を待っていた。
「年が明けたら報酬を持ってまた来るわ。旌券はどうなるか分からないけど」
「うん」
「それまでは赤虎の件のような沙汰を起こさないこと。いい?」
赤虎の件、と。彼女の言葉から思わぬ言葉が出た事に驚き目を見開いた
江寧に、青稟は苦笑する。つまりは、四月に起きた事は王宮にまで届いていた。
しかし、年が終わるまであと一月の間に同じような沙汰があるだろうかと
江寧は思う。……いや、決して自分から起こす気は無いつもりなのだが。
「あんな事があったら、命がいくつあっても足りやしない」
「確かにそうね。それじゃあ、」
「うん、また」
そそくさと里家を後にする青稟を見送りながら、
江寧はふと思う。
旅立ちは、桃の花が咲く前に―――と。
◇ ◆ ◇
旅立ちへの準備は、着々と進む。
里家の閭胥に事を説明し、尭衛から長い休暇――半年と少々――の許可を貰い、借りていた舎館の厩舎を掃除する。
提供の間のみ、里家に滞在して良いという条件も忘れてはいない。旅立ち前の一月の間か帰国次第に見つけなければと、そう思っていた
江寧に、榮春と尭衛はあっさりと二人の住む部屋へと招いた。
上手く行き過ぎやしないかと思う反面、恐らく旅の途中で転ぶのだろうと予想できる。
「範、奏、雁……」
隣国である範へは赤虎で一日半。一週間ほど滞在の後、才の海岸を添い奏へと入る。一国を越えるのなら二日。滞在の期間は範と同様、一週間前後。
その後慶の海岸を添い雁国へ―――経路を書き綴った紙は、ひょいと誰かに取り上げられてしまった。
「休憩中に書いてる事は構わんが……此処は無理だ」
此処、と尭衛が指差したのは奏から雁までの経路。何故と首を傾げるその前に、尭衛は口を開く。
「客が言っていたが、巧や慶には妖魔が出る。行くんだったら、阿岸から雁行きの船にしておいたほうが良い」
「阿岸?」
「巧国の青海沿岸にある港だ」
尭衛は近場に立て掛けてあった筒を手に取り、それを広げる。そこには十二国の大まかな地図が描かれていた。
卓の上に乗せると、
江寧はその地図を身を乗り出して眺め始める。此処だ、と角張った指が巧の青海沿いに置かれて、
江寧は頷く。
「途中に浮濠という島がある。そこへ寄ってから二泊三日で雁の烏号だ」
すす、と指を動かし経路をなぞる。
二泊三日の船の旅ならば良いだろう。そう考えていた
江寧を一瞥して、尭衛は話を進めていく。
「最近では慶の沿岸にも出るらしい。行く時は十分に気を付けろよ」
「はい……ありがとうございます」
「休憩が終わったら、空いた客房を頼む」
「分かりました」
そうして出て行く尭衛に、
江寧は感謝した。同時に、随分と恵まれていると感じる。
一年八ヶ月―――その月日の中で、苦悩した記憶が残るのは半年ほどだっただろうか。
「……もうすぐ二年か……」
当時十五だった少女が、今では十七。時が経つのは早いのだと今更ながら実感をする。……それでもまだ、悩むことは多い。
だが何もせず頭を抱え続けているよりは、一つでも行動を起こす事の方がずっと良い。そうして見聞を広めることは、決して悪い事ではないのだから。
出立まではあと一月。その間を、どう活用するか……ひとまずは働きながら他国の情報を入手しようと考えて――――
「
江寧、お前何かやったのか!?」
……唐突に、迎えはやってきた。
女性数名と一人の女御に連れられて、
江寧は王宮の入り口である皋門を潜る。指示の他に口を開く事なく先導する者達に、突然の迎えを受けた当人も一切口を開こうとしない。それは、緊張の表れでもあった。
正門を抜けて路門へと辿り着き、その先に現れた扉を女御は躊躇いもなく開く。さあ、と入る事を促されるままに部屋へ足を踏み入れる。その目前には、良質漂う空間が広がっていた。
質素ではあるが、同時に気品もある。そこは殿堂と呼ばれ、賓客の控えの場所となっている。……だが、彼女は此処が客を持て成す為の部屋であると勘違いしてしまっていた。
部屋を一望しながら、
江寧は息を呑む。自分は場違いではないだろうかと顔を引き攣らせる
江寧の背後では、先導の者達が女御一人を残して立ち去っていく。
……そうして殿堂に残されたのは二人。
女御は榻に掛けられた襦裙を手に取り、佇む
江寧へと声を掛け差し出した。
「こちらにお着替え下さい」
「あ、はい―――ちなみに私が呼ばれた理由については、」
「一切存じ上げません。なにしろ主上が直々にお話しをなさると仰るものですから、急ぎの用件ではないのでしょうか」
「そうですか……」
―――供王。
在位九十年の女王。最年少の王。
江寧の知る限りでは、たったそれだけ。
そもそも雲の上の者である王の素性など、下にまで聞こえてくる筈もない。あるとすればそれが女か男か、御歳はいくつか程度のものだった。さらに会う事は一生にあるか無いか。
……その生涯に一度のものがこれから行われようとしているのなら、余程胆が据わっていない限り緊張は高まり続けるばかり。
江寧もまた、例外ではなかった。
「初めは叩頭礼、それから主上が声をお掛けになったら顔を上げて結構です」
「……あの、叩頭礼とは」
「膝と手を地に着き、頭を下げる礼の事です。倭国ではありませんでしたか?」
「一応はありました……ええ」
江寧が着替えを済ませると、殿堂から上へと延びる階段を女御と共に上る。……その先は、賓客を持て成す掌客殿。詳しくは宿舎を兼ねる清香殿へと案内を受ける。
戸を潜る前に女御より儀礼を簡易ながらも説明し、それからようやく部屋へと入る事が出来た。……だが、はやり緊張が解かれる事はない。
塵一つ無い、磨かれた床。そこに敷かれた敷物は誰が見ても良質物である。黒檀の卓も榻も、
江寧にとってはあからさまに場違いである事を実感させる物でしかない。これならば、さぞかし王も立派な事だろう。
そう黙然と思考に入り浸る
江寧に、突如最後の綱が離れる。
「では、私はこれで」
え、と表情の固まる
江寧を余所に、深く一礼をして部屋を後にする。扉を閉める音を最後に、起居の中には物音一つない静寂がやってきた。
「……どうすれば」
不意に出した言葉は反響もせずに消えていく。それが更に不安を駆り立てるばかりで、緊張を解すには到底至らない。
―――失礼のないように―――
礼儀の説明を受けた際に言われたその言葉が、不意に脳裏を過ぎる。
極限まで高まる緊張。止む事のない鼓動。
のろのろと
江寧が動き出した―――その刹那。
近付いてきた足音が部屋の前でぱたりと止んだ。
「!!」
はたと叩頭の礼を思い出し慌てて跪き頭を垂れると、戸の開く音と共に足音と衣擦れの音が聞こえてくる。それも、足音は二人分。声を掛けられるまでは頭を上げてはならないと説明された際、
江寧は大昔にあった大名行列を思い出していた。……頭を上げれば、やはり失礼にあたるだろう、と。
目前で止まる二つの音。
その代わりに降り掛かったのは、凛とした少女の声。
「頭を上げなさい」
恐る恐ると頭のみを遥か上へと起こす。そこに―――
「白藤の髪に菖蒲のような瞳……
江寧で間違いはないわね」
異彩を放つ、少女の姿があった。
◇ ◆ ◇
―――この方が、供王。
一見は十二、三才だが、恭を九十年という長きに渡って統治し発展させた女王。
華美の装飾、優美な衣服。だが……
江寧が魅かれたものは少女の眼にあった。
王とはこれほど強い目をしているのか。一国を築く者としての、強い目を。
江寧は暫くの間、目前の王の問いに返答をする事も忘れていた。
「
江寧?」
「―――」
「ちょっと……
江寧?」
「え―――あ、すみません!」
はたと我に返った
江寧の顔間近には、供王の顔がある。返答がないためにわざと近寄ったのだが、気付いた際の驚き様には王も瞳を瞬かせた。呆然としていたその理由は敢えて聞くことなく、榻へ座る様にと促す。
畏れ多いと拒否されると考えていた供王――珠晶は、意外にも素直に頷き返答をする海客の様子に驚く。
いつの間にか緊張は解れた
江寧は、珠晶の驚きにも気付く事無く促されるまま立ち上がり榻の元へと歩き出した。
先に腰を下ろす珠晶の姿を確認して、その後一礼をして
江寧もまた榻へゆっくりと座る。……そうして、話は切り出された。
「まずは、蓬莱の知識を提供してくれた事に礼を言うわ」
「いえ―――」
首を振った
江寧に、珠晶の言葉は続く。
「報酬については帰りに用意させるけれど、それでいいかしら?」
「構いません。……あの―――」
「呼び出された理由を聞きたいのね?」
「ええ、はい」
その問いにも素直に頷く。
江寧は先程から王の背後に佇む者を気にしていたが、珠晶は構う事なくその本題へと話を移す。
「先日、あなたを寄越してほしいと雁国から青鳥が来たの」
珠晶の言葉に
江寧が目を見開くと同時、ついに背後に佇んでいた金の髪の男――供麒が口を挟む。
「主上、雁国からは招いてほしいと来たのでは……」
「同じことよ。でも、普通ならそんな事はしないでしょう?」
「そうですね……」
問いに肯定したのは、話題に上がっている当の本人だった。
海客を優遇する国はあれども、海客を欲する国はない。珠晶は雁の余裕だろうかと考えもしたが、雁州国に漂着する海客の数は慶と一、二を争う。そんな国の者が、特定の名を挙げてまで探す人物―――。
「聞いた所では、延台輔とは親しいと」
「いえ……二度ほど、倭国でお会いしただけです。あの少年が延台輔だと知ったのは随分と後ですし」
「そう―――」
困惑の表情を浮かべる
江寧。その顔で、本当に何も知らないのだと悟った。これ以上聞いても何も出ないだろうと、珠晶は深く息を吐き出す。
「それで、あなたは雁に行く気は?」
「え?」
唐突に問われ、思わず間の抜けた声を出す。行くも何も、と
江寧は困った顔をする。
範と奏、その二国を見終えた最後に雁を巡ってから恭へ戻ろうと思っていた。観光や勉強気分で行く予定をしていたが、長く滞在するつもりは一切ない。そう考えていた
江寧は、迷いながらも頭を縦に振る。
珠晶はその返答にただそう、と呟く。行く気があるのなら止めるつもりは全くない。
それは自分の意思なのだから、と……。
「範と奏を見たら、その後に雁も行く予定でしたから」
「首都州には?」
「もちろん寄るつもりですが……」
「それなら報酬と一緒に書簡を渡すから、関弓へ行ったら国府へ届けてくれるかしら」
「分かりました」
肯定の意を示した
江寧に、それから、と珠晶は俯かせていた顔を上げる。
「出来れば恭を出るのは三月初旬にしてほしいのだけど」
「?ええ、構いませんが……理由をお聞きしても宜しいですか?」
「青鳥のやりとりには時間が掛かるの。それに、三月の初旬なら気候はいくらか暖かくなっているはずよ」
「そう、ですね……ええ、分かりました」
この時初めて、二人は顔を見合わせて笑った。海客は柔らかく、王はにこりと口角を上げて。
背後でその様子を見守る麒麟は、安堵の息を吐き明後日の方角を見やる。
黒海を挟みある治世五百年の大国。あと十年で恭の王朝は百年を迎えるが、あの国のように繁栄を続ける事が出来るのだろうか。
そうして自分もまた―――己の選んだ王を見る度、行く先に募る希望と不安が幾度も交差した。
「ちょっと、供麒?聞いてた?」
「あ――申し訳ございません」
「
江寧は帰らせたわよ」
「そうですか……」
「疲れてるなら今日は早く休みなさい」
気遣う王の姿に、供麒はいえ、と言葉を返す。
今はただ、少女の言葉だけが彼の心を穏やかにさせていた。