- 伍章 -
無事に年を越え、時期は早くも四月。条風の風当たりは未だ強いものの、陽は暖かさを増していた。
凌雲山の麓に並び立つようにして構成された首都連檣では、各地に植えられた桃の花が咲き誇る。その陽気で半ば浮かれる者は少なくなかったが、構わず仕事に没頭する者もまた多い。
一方で増える旅人によって繁忙となる舎館では、店員の誰もが忙しなく動いていた。
そして路門へと続く正門の付近に、とある舎館の一つがある。
空いた客房の掃除をようやく終えた少女は、そそくさと扉を開け出て行く。丁寧に閉めたその戸の隣、視界の端に見えたのは見慣れた服の色。振り向いた先には、舎館の主人が佇んでいた。
「尭衛さん?どうされました?」
正面へ向き直った
江寧を余所に、園林へ目を据えている尭衛の表情は読み取ることが出来ない。忙しい中で何をしているのかと首を捻るが、言葉は何一つ掛けて来ることはなかった。ならば何も用は無いのだろうと、一礼をして目前を通り過ぎようとする。
途端、言葉は頭上より降りかかってきた。
「
江寧、お前働き始めてから一度も休みを取ってないだろう」
「え?ええ、はい」
普通は皆そうではないかと思う
江寧だが、実のところ舎館で働く者は週に一度……なくとも二週に一度は休みを貰っている。四月が経過した今でさえ、その事実を知る事はない。よく働く子だと思っていた尭衛は、榮春から指摘を受けてようやく気が付いたのだった。
「一日ぐらい取ったらどうだ?大方稼いだ金も使ってないか里家に預けてるんだろ」
「あー……ええ」
図星を突かれて、
江寧は言葉に詰まる。
使ったのは昨年分の給料のみで、里家の子供達への菓子と閭胥に買った櫛ぐらいだろうか。三月分の銭には一切手を付けていないために、かなり貯まっている。だが、まさかその事を尭衛に見破られるとは。
「今からでもいいぞ」
「え……でも」
「ああ、小遣いがいるか?」
「い、いえ!今から休暇を取らせていただきますね……!」
深く頭を下げて、
江寧は慌てたように廊下を駆け抜けていく。その後姿を見守りながら、尭衛は密かに溜息を吐いた。
「遠慮深いな、あいつ……」
零した言葉は、誰の耳に入る事もなかった。
舎館を飛び出した
江寧は、そのまま小走りで大途へ向かう。宛てはないが、街並みを巡った後に一度里家へ戻ろうと考えていた。……折角気遣われて貰った半日だ、時間は有効に使いたい。
しっかりと舗装された大途を歩き、丑門側から一回りしようと足を進める。連檣へ半年以上住んでいながらゆっくりと巡り歩く事も無かったために、彼女の気持ちは新鮮だった。
歩いたとすれば菓子と櫛を買った時以来だろうかと、思い浮かべながら周囲を見渡す。行き交う人、留まり話す人々の会話を理解して、漂着した後三月程の間は理解できなかった事も脳裏に過ぎる。
―――私は随分と変わった。
少しずつ、世界との違和感差を縮めていく。あと一年もすれば、ほぼ馴染む事が出来るだろう。
……だけど、決して忘れてはいけない。
虚海を越えた国の、大切な記憶だけは。
様々な思いが巡る中で、
江寧が些細な騒動を発見したのは、丁度午門付近へ差し掛かった時のことだった。
近場で口々に小さく呟き合っては、とある方角へと駆け出していく。一人、また一人と途を行く者を眺めていると、
江寧の付近にいた男がふらりと寄ってきた。
何かと問うその前に、男は口を開く。
「気になるって顔してるな?」
「……何かあったの?」
「騎商が連れて来ていた赤虎が脱走して暴れているらしい」
赤虎。それが如何なるものかは理解できなかったが、騎獣である事は間違いないのだと
江寧は直感にして考える。捕らえてきたばかりの騎獣は馴らすか香毬を与えなければ大人しくならない。
青稟に閑話として話した事柄を思い出して、途端身体が弾けたように動き出す。
「お、おい嬢ちゃん!危険だぞ……!!」
背後で叫ぶ男の声を聞き流して、
江寧は走り続けた。
……怪我人が出る。
ただそれだけを思い、恐らく野次馬として現場へ行く男達の後を追った。
騎獣を鎮める方法も騎獣の方法も知識にはない。前者ならば騎商の者が知っているのだろうし、後者は知識ではなく経験を要するものである。そもそも、彼女はその騎獣と対峙する事を考えてはいない。
そこにあったのは、怪我人への懸念一心。
人に慣れていない騎獣が暴れる。それは同時に、怪我をする者がいる事を示していた。
死人が出るのではないかとも考えて、一瞬血の気が引く。もし誰かが負傷しているのなら、助けなければ。
混乱状態になれば、怪我人を置いてでも人は必死になって逃げ出す。そうなれば、置き去りにされた怪我人はどうなるか―――
たとえ偽善者と言われてもいい。
それで人が助かるのなら、命を投げ出したとしても構わないのだから。
◇ ◆ ◇
午門から遠ざかり、未門付近へ辿り着いたその先に群衆はあった。
上がる悲鳴と耳を裂くような咆哮。木霊した騎獣の声は、虎の雄叫びにも酷似している。
散り散りとなる人の波にも構わず、人を避けつつ群衆の中央へと向かう。その姿に驚く者や逃げる事を促す者もいたが、流れ行く人の足音に言葉は掻き消されていった。
その内、一人の少年が
江寧の袖を引っ掴む。ぐいと引き留められる感覚に思わず立ち止まった江寧は、少年の元へと視線を下ろした。
「兄ちゃん行くなよ、死んじゃうって!!」
「っ……怪我人は?」
「そりゃあ居たよ、だけど今はそんな状態じゃなくて…」
そう、と一つ頷いて、袖を掴む手を振り払った
江寧は再び群衆の中へ身を投じる。制止の声は届かず、人波の中へと消えていった。
立ち込める砂埃によって視界を遮られる中、必死に周囲へ目を凝らす。
僅かな血臭に眉を顰めつつも血臭の元を探る。だが、この騒ぎの中で怪我人を見つける事は難しい。
―――どこに。
「おい邪魔だ!退け!!」
瞬間、怒号と共に判断が遅れた。
横へ逸れるも肩がぶつかり、ふらりとよろめく。急ぎ体勢を整えようとした身体は、左半身に更なる打撃が加わり数歩後退せざるを得ない。仕方なく腰を落とし、片足を曲げる。そのまま脚力任せで勢い良く駆け出した身体は、人の間を抜けて再び走り出した。
……刹那、垣間見えたのは地に付着している僅かな血糊。
見つけた。
そう思うと同時、虎の咆哮が間近に響き渡る。近くにいるのだと思いつつも、その姿を肉眼で捉える事は出来ないでいる。
だが、
江寧の脳裏では点々とした血糊の跡を追いかける事の方が優先されていた。
「……!!」
血糊の跡を目で辿ったその先、人が倒れている。見たところ怪我のある部分は肩のみのようだったが、傷口が抉れている事は遠巻きに見ても分かる―――それほど、負った傷は深いのだろう。
人波を抜けて急ぎ駆け寄った
江寧に、その負傷者――男性は、目を瞬かせた。
「大丈夫ですか!?」
「あ、ぁあ………」
「逃げますよ……!」
何とか立ち上がった男性の背や腕を支えながら、その場より遠ざかる。なかなか晴れない砂煙を背にして、
江寧は一旦その場を後にする。
午門まで連れて行こうとしていたが、最中に男女数名が駆けつけてきたために、
江寧は負傷者を任せて再びその場所へと駆け戻った。
その時には群衆も人々の混乱も無く、大途に出ている者は少ない。
建物の陰から見守る者、未だ好奇心が絶えないのか大途で佇む者、そして途からその場へ向かう者。
どれにしても、
江寧を引き留めようとする者は多い。
「あんたは逃げた方がいい!」
「おい、誰かあの子を避難してやってくれ……!!」
周囲からの声に、
江寧の横にいた男が駆け寄ってくる。だが、伸ばした手は虚しく宙を切った。
寸前で、少女は駆け出したのだ。
「待てって!!」
少女を追いかける数名は、獣のいる場所へと急速に距離を縮めていく。
だがしかし、不意に
江寧が足を止めたのはその直後の事だった。
晴れた砂埃の向こうに、赤と黒の体躯が姿を現す。
蘇芳の毛並み、開かれた眼は時折
櫨染の光沢の如く、長い赤黒の尾がゆるりと振られる。人の二倍はあろうかと思うほどの大きさに、
江寧の足は自然と立ち止まった。
……あれが、赤虎。
周囲が必死になって止めようとする理由も、確かに分からなくはない
あの爪で身体を裂かれてしまえば少なくとも重傷。あの牙で、顎で噛み砕かれてしまえばそれで終わり。
……だが、それを恐れては一体誰が止めるというのだろう。
「……押されるな」
呟きは、恐れる自分へ宛てたもの。
自ら危険な場所へ飛び込むのだ、恐怖心に煽られて逃げ出す訳にはいかない。
ゆっくりと足を進める。
その行動に、追いついた男は今度こそと肩を掴む。これ以上行かせる訳にはいかないと。
「戻りなさい」
「怪我人がいるんだ」
「なに?」
少女の言葉に、周囲を見渡す。だが、何処にもいる気配は無かった。何処にいるのかと聞きかけて、手前へ戻した視界の中央には、少女の顔がある。細められた目が、貴方には見えないのかと問いかけているようだった。
たとえそう言われたとしても、分からないものは分からない。男性もまた眉間に皺を寄せて
江寧を見下ろすが、それ以上の言葉を交わすことは無かった。
……何故ならば、赤虎が次の標的を定めたのだから。
「逃げろ!!」
一人の男の叫びが合図のように、陰に隠れていた者が一斉に逃走を開始する。多くの足音が
江寧の横を過ぎては去っていく。戻る足音など存在しない。
だが―――留まる者は、ほんの数名。
「……くる」
飛躍するように駆ける赤虎は、その一歩すら大きい。距離はこちらの数えにして精々二十歩程度。間を詰める事など、赤虎にとっては容易い事だろう。
それでも、
江寧が動くことは無かった。
男数名は既に赤虎の元へ駆け出している。片手に抜刀した武器を携え、駆けて来る獣へ致命傷を負わせるために。
薙ぐ刀剣――恐らくは冬器だろう――は、軽々と跳躍した赤虎へ届くことなく宙を切る。遥か頭上を飛び越えた赤い獣は陽と重なり、影のみを映し出す。弧を描き跳躍した体躯は……少女の元へと。
「危ない!!」
思わず叫ぶ男を余所に、赤虎は
江寧の目前へ降り立つ。逃げ遅れた者はその光景に対して悲鳴を上げていた。
このままでは殺される。今急ぎ戻ったところで少女の命はない。だから、逃げろと言ったのに―――。
目前で呻り声を発する赤虎に、
江寧はただ獣の眼を見据える。
……危機感の喪失。
何処かで体験したものが、再び少女の身体へやってきた。目前に死があったとしても、それを恐怖と認知する事が出来ない。そしてそれは、大いに余裕を生み出す。
「……その爪が私の最期か。それとも、お前のその牙が私の終末か」
赤虎は応える筈もない。未だ呻る事を止めず、
江寧を睨み据えるのみ。
町中だというのに、その場には異様な程の緊張と不安が張り詰めている。対峙する少女と赤虎の姿に、誰もが息を呑んだ。
「……お前になら、命をやってもいい」
口元が弧を描く。
その言葉に誰もが驚き、少女が諦め死を求めているのだと胸内で嘆いた。
伸ばされた掌。
その掌は、赤虎が噛み千切ってしまうのだろうと恐れた。
一歩を踏み出して。
その身体がすぐにでも爪の餌食になる事を想像し、誰もが目を覆い背けた。
そうしてとある者は天帝に祈った。
どうか、あの少女をお助け下さいと―――
その祈りが受け取られたかどうかなど、人には決して分かる筈がない。
だがしかし、刹那にそれは叶った。
「――…お前」
驚きの声は、少女の元から。
衝撃はない。
痛みもない。
やってきたのは、掌に触れた毛並みの感触。
項垂れる頭を目の当たりにして、驚かない筈はない。少女に向けて頭を下げた赤虎が腕に擦り寄ってくる。その異様な光景に、ようやく目を開いた傍観の者達は言葉を口にする事も出来ないまま呆然としていた。
◇ ◆ ◇
「―――あ」
はたと我に返った
江寧は、赤虎の頭を一撫でして駆けて行く。一体どうしたのかと思えば、彼女の目は再びその先へと据えられている。
「お、おい……」
「怪我人を運ぶので、手伝っていただけますか?」
「ああ……」
抜刀していた刀剣を収めて、駆ける少女の後を追う。男が横目で見るその姿は本当にただの少女としか見えない。だが、あれ程凶暴であった獣を、どうやって大人しくさせたのだろう。彼の眼には、ただ少女と赤虎が対峙しているようにしか見えなかったが……まさか魔眼でもあるまいと、そんな考えが男の脳裏に過ぎる。
辿り着いたその先に、少女の言葉通り怪我人数名が倒れ込んでいた。
これが見えていたのかと思う男達を余所に、
江寧は怪我の具合を見回る。一人は気絶、他三人は肩やら脇腹やら多数の切り傷によって流血沙汰となっていた。
「この方々を医者の所まで運んでいただけますか?」
「分かった」
怪我人を傷に障ることのないよう抱え上げると、医者のいる建物へ急ぎ駆け出す。三人目がようやく運ばれ始めたところで、背に控えていた赤虎を振り仰いだ。
「お前を連れてきた騎商の主人に話をしないと、私は盗人呼ばわりされるだろうね」
苦笑を零して見上げる
江寧の言葉を理解したのか、赤虎は喉を鳴らしてとある方角へ顔を向ける。一体そこに何があるのかと目を凝らしていると、戻ってきた群衆の中から駆けて来る者の姿があった。
「その赤虎を手懐けたというのか」
「手懐けた……訳ではないけど」
信じられない、と目を見開く男性。
江寧にさえ懐かれた理由が分からないのだ、誰に分かる筈もない。
「……一応商品、だよね」
「ああ。だがこうも懐かれてはな……」
正に香毬いらずだと呟く男性に、若干愛想笑いを含んで苦笑する。命を懸けて香毬いらずにする気は更々無いし功を為す可能性は低い。そんな命知らずは自分だけだろうと思い、素直に笑う事が出来なかった。
さて、と男性は
江寧の背後に控える獣の姿へ目をやる。ここまで懐かれては、赤虎を引き離すのも容易い事ではない。暫しの間沈黙のまま見定める男性に、
江寧もまた赤虎を振り仰ぎ眺めている。
―――虎と言うより、獅子の方が的確か。
つい先日、騶虞に乗った客が現れたが、あちらの方が虎に似ている。
赤虎の毛並みを眺めつつ、
江寧は内心思う。
「……まあいい。そいつは譲ってやる」
「え?」
突然の譲渡提案に、
江寧は幾度も目を瞬かせる。そいつ、と言われたその先を見れば、男性の視線は明らかに赤虎の元へ。騎獣は高価なものと覚えていた
江寧は、途端あからさまにうろたえた。良いのだろうかと、赤虎と男性を交互に見やる。その意を悟ったのか、いい、と男性は首を振った。
「こっちも大損なんだ、これ以上うろたえたら赤虎を引き戻すぞ」
「う、うん……分かった」
頷かせた男性は笑み、すぐに町中へと視線を向けた。
恐る恐るではあるが、周囲に集まり始める好奇心の眼。赤虎を連れていれば、自然とその眼は着いて来るだろう。そう感じていた
江寧に、再度男から声を掛けられた。
振り向いた彼女の元に、投げ寄越されたのは―――鞍と轡。
「鞍は腹の下に通すんだ。さっさとやって家に帰れ」
「うん、ありがとう」
「それから、奴は肉食だ。草は食べんぞ」
「肉食か……食費かかりそう」
指示の通りに鞍を着け、轡を整える。その間赤虎はされるがまま、先程の凶暴さがまるで嘘のように大人しくしていた。
そうして鞍へ跨った
江寧は、はたと思う。
「騎乗知らないんだった……」
「人語を理解してるんだ、言えば聞くだろう」
「そうか……じゃあ、行こう」
江寧の言葉に、むくりと身体を上げる。本当に理解しているのかと感嘆しながらも、男性へ一礼をした。飛躍する直前、ありがとうと呟いた言葉は果たして男性の耳へと届いただろうか。
返答を待たず、空へと駆け上がる。手綱を握り締めて、一気に上空へと登り詰めていく。風を切るその速さに、
江寧は呼吸をする事も忘れていた。
暫くの間駆け回る赤虎に振り落とされないようしっかりと鐙を踏んでいたが、ようやく上空にて落ち着きを取り戻すと、ほっと一息を吐く。
……そうして、世界を眺めた。
「……豊かな国、か」
治世六百年の大国、南に位置する奏はどれだけ豊かなのだろう。治世九十年の恭国を見て豊かだと思える。だが、それならば奏や雁は―――いや、何処も同じだ。国も人の心も豊かであれば、治世の差など関係ないのだから。
瞼を伏せる。
―――この時、彼女は初めて他国の街並みに思いを馳せた。
(世界を、知りたい)