彼女は杖を頼りに厨房を抜け、水甕の置かれた裏へと出た。
片手に提げていた桶を縁へ置き、柄杓で水を掬い、桶に入れようとしたところで視界の端に映るのは足。
のろのろと上げた視線の先、見覚えある存在に彼女の思考は一瞬で硬直した。手放した尺から地へ零れ落ちる水音だけが、彼女の聴覚を支配していた。
-始声絢爛 後(下)-
「主上……!」
「え―――」
杖を放り、半ば崩れるようにして女が叩頭する。あまりにも唐突な行動を目前にして、
江寧は呆気に取られたまま立ち尽くす。次に出すべき再会の言葉は喉に閊えたまま。我に返り慌てて口から出したのは、制止の言葉だった。
「ちょっと待って榮春、私は」
「貴方様が何故恭へいらしているのかは存じ上げません。ですが、他国に住む私達の為に自国をお離れになるのはどうかお止め下さい……!」
「榮春……」
地に額を擦りつけたままの女性は願いにも似た言葉を連ねて吐露する。十年前より随分と落ち着いた声はよく通り、そして少女の胸を突き刺す。反論は出来ない。瞠目したまま、身は縫い留められたように動かない。次に掛ける言葉が見つからずに沈黙を落とそうとして、不意に男の声が割って入った。
「どうした」
「あ……尭衛さん」
「―――
江寧じゃないか!」
厨房の裏戸より出てきた男―――尭衛もまた、十年の時を経て老いていた。通常の人間ならば誰でも変わるものだが、訪ね来た少女は何一つ変わらない。その所為もあってか、男は即座に目を一つ瞬かせて反応を示す。……彼女は、極国の主になったのではなかったか。疑問と再会の喜びと微かな鈍い感情を入り交えて足を進めた尭衛は
清坂を改め直視する。だが……男の足が少女の目前へ辿り着く事はなく。
「尭衛、無礼を……!」
「あ……」
叩頭していた榮春が即座に頭を上げる。額が砂で汚れてしまっていたが、些細も気にしないようだった。それよりも王に対する礼儀を気に掛け、半ば睨み付けるようにして男を見やる。一瞬にして険悪と緊張感に包まれた井戸端で、
江寧は慌てて頭を左右に振った。
「別に無礼とは思ってないから。だから―――」
「いいえ、そうは参りません」
「榮春、」
彼女がここまで頑固だとは知らなかった。
そう、驚きと共に感じた
江寧は引き下がる事もなく反するも、榮春の意思は固い。徹底的な姿勢を貫く様子に、嘗て親しかった者の感情は含まれていない。これではまるで他人行儀だと―――そう口にしようとした言葉はぴしゃりと区切られ、絶たれた。
「どうかここでお引取り下さい」
門前払いの台詞に愕然としていた
江寧はしかし、次の言葉で閉口せざるを得ずに。
「そうして、芳が恭のように……雁のように、豊かな国を作り上げて下さい」
「―――」
彼女の願望に、反駁の余地は無く。
再び下げていた頭をそっと持ち上げ、小さな声が井戸端に響いて。
「私の願いは、それだけですから」
それ以上は何も言えぬまま、
江寧は顔を俯かせたまま身を翻す。振り返る事もせず、小走りで来た途を戻っていった。
「
江寧」
柵棒へ括っていた赤虎の手綱を外した直後、
江寧の耳に渋みある声が入り込む。ふと顔を上げ、声の主を振り返った先、先程の男が一人と一騎の元へ歩み来ていた。
向き直り男を見上げるも、彼女の表情は僅かに暗い。翳りを窺わせる表情に溜息を吐いた尭衛は、手土産にと笹包みの菓子を手渡した。土産と男の顔を困惑するまま見比べるその視線を受け、男は口を開く。
「尭衛さん―――」
「悪かったな、あんな風にあしらって」
「いえ……」
「だが彼女の……俺達の気持ちもどうか汲み取って欲しい」
気持ち、と。そう小さく呟いた
江寧に対し、尭衛は僅かに顔を顰め、元々細かった双眸をさらに細めて内心を吐露した。
「俺達が普通に年を食っていく中で、お前だけが変わらない。それは時の残酷さと身分の差を否応無しに突きつけられたような気がする。―――今日久々に会って、ようやく榮春と同じ事を思った」
押し出された感情は言葉に乗じて強い口調へと。怒りでも哀しみでもない、言い様のない感情が込み上げるばかりで、それをぶつける場もない。向けるべきは唯一本人のみ。戸惑う少女に非情とは思いながらも、尭衛はきっぱりと言葉を言い放つ。
「もう、俺達の事は気にしないでくれ」
言い切って、男はさっさと踵を返す。僅かに後ろ髪を引かれながらも立ち去った尭衛を呆然として直視し続けていた
江寧は、それ以上の言葉を発する事ができなかった。
◇ ◆ ◇
赤虎に騎乗した主が禁門へ帰還したとの報を聞きつけた峯麒は、公務の手を一時休めて席を外した。傅相へ一言声を掛け、諒承を得るなり足早に西宮を通り抜け、後宮を駆け下り掛けたところで階段を上り来る白藤が視界の中央に現れる。その無事な姿にほっと安堵の息を吐いてから、柔らかな微笑みを湛え主を迎えた。
「おかえりなさい」
峯麒の言葉に、階段で足を止め見上げた
江寧は一時呆然として、それから一つ頷く。少年を通り過ぎ、階段へ掛ける足取りには人並の力強さもない。そこでどこか違和感と不安を覚えた峯麒は先を行く小さな背を見上げ、首を捻った。
「主上?」
その呼びかけに、ぴたりと
江寧の足が止まる。今現在禁門と後宮を繋ぐ階段に存在するのはたったの二。二人きりの空間で、足音さえ無ければ静寂ばかりが広がりゆく。峯麒に背を向けたままの少女はしかし、一度の深呼吸の後に、心底からの本音を声音に乗せて。
「和真―――私は、間違えていたのか」
凛とした声は微かに震える。その言葉に困惑を露呈させる峯麒はさらに首を捻り、答えに窮した。
「それは、どういう」
「時が経っても……私が変わらなくても、あの二人はこれまでと同じく接してくれるものだと信じていた。……だけど」
背を僅かに丸め、顔を覆う音がする。その乾いた音が聞こえるほど、顔に宛てた掌は勢いがあった。
彼女が見せたのは安堵や嬉々とした表情ではなく、深い落胆。その理由を悟った峯麒は眉を顰めつつゆっくりと階段を数歩踏み上がる。彼の顔に浮かぶのは、配慮でも困惑でもない。主の独白を聞きながらも、峯麒はただその背を見上げ続ける。
「不老長寿の、なんて残酷なこと」
「主上―――」
改め呼ぶその声は少女の背後に。はたと我に返り、振り返った
江寧の視界には真摯とした表情を崩す事のない半身の姿。その眼光は普段の諫言時よりも一段と強い。
「たとえ十年という月日が我々には短く感じたとしても、民はその十年がいかに大切なのか……主上はお分かりだった筈です。お分かりの上で向かったのだと思っておりました」
「―――」
「悔やんでいる暇があるのなら、国の発展に力を入れて下さい。ただでさえ、今は忙しいのですから」
勢いのある言葉を放たれて、
江寧は軽くあしらわれたような気分になる。しかしそれと同時に峯麒の内心を聞き受け、自身の甘さを感じざるを得なかった。挙げられたのはこれまで理解していたつもりで内へ浸透していなかったもの。失念は大きく、
江寧は困惑の色を一層深くする。国主の様子を見兼ねた峯麒は、深い溜息を一つ吐き出した。
「……それとも、逃げたいの?」
その台詞に
江寧の眉が僅かに上がる。嘗ての記憶から掘り出された映像は鮮明に、そこで彼女自身がどう受け答えしたのかもよく覚えている。去来するは懐かしさと当時胸中に沸き起こっていた感情。だが―――過去と同様の応答を返す事は決して許されず。
「……“そうかもしれない”なんて、言える筈が無いのに敢えて聞くのね、和真」
棘を含め放つ言葉に対し、峯麒はただ苦笑を零す。
彼女が極みに登ってから早十年。今さら人に戻る事は叶わず、後退も許されない。偏った情で国を動かせば傾く事は王自身が十分に理解しているため、内心を吐き出さぬようにと日々努めていたのだが。
軽率な行動だった、と。反省するように面を僅かに下げた
江寧は旗袍を脱ぎ、そして聞き届けてきた言葉を噛み締めた。
―――絶対に、逃げてはいけない。
「ようやく目が覚めた。―――大司寇と大司馬を連れて例の件を話し合ってくる。峯麒は公務へ戻って」
「分かりました」
口調は強く、そのまま階段を足早に上り行く少女の姿が次第に遠くなる。その場に留まり見上げ続けていた少年は複雑な面持ちのまま、ぽつりと言葉を口にした。
「……ごめん、
巴」
少年の謝罪は、角を曲がり掛けている少女の耳に届く筈もなく。
微かな罪悪感を胸に、峯麒もまた公務のため広徳殿へ戻るべく階段を上っていった。
◇ ◆ ◇
柔らかな陽光が鷹隼宮を照らす。
晴天の下、雲海より来たる潮風は緩やかに、露台を伝い開け放たれた玻璃戸から堂室の中へと流れ込む。窓辺に置かれた花が小さく揺れて、風を頬に受けた青年は書簡を手にしたままゆっくりと振り返った。平穏を思わせる風景に思わず微笑み、窓辺へと歩み寄る。主自らが園林より摘み持ち帰ったものであるが故に、頬が緩むのを抑えきれない。そうして暫しの間視線を釘付けていたところで、堂室の扉越しに発される声を聞いた。
「失礼致します」
一言と共に、声の主は堂室内へと踏み入る。普段ある筈の応答が無い事に首を捻りつつ、衝立の向こうよりおずおずと顔を覗かせたのは背丈の低い老人。そこに居る筈の者は無く、王の補佐役のみが逗留している事に気付いた老人――太宰である小庸はふと足を止めた。おや、と一つ言葉を漏らしつつ数歩を進み、そこで丁寧な拱手をする。青年――峯麒もまた向き直ると軽く頭を傾け、書卓に書簡をそっと置いた。
―――峯麒の成長は十七で止まった。猩々緋の鬣は腰辺りで止まり、顔付きは幼さが失せ、僅かに凛々しさが見受けられる。多大な時を宮中で過ごした結果か、発言も思考も随分と大人びた。今現在は王との関係も良好、周囲からも恙無いように見えた。
「台輔、主上は何処へ」
「例の墓参りへこっそりと」
「ああ……では、恭へお向かいですか」
納得したように頷く小庸に、峯麒は控えめに苦笑を零した。
……この時期になると、王は必ず国外へと外出する。彼女は大凡三日から五日ほどで帰還し、滞った執務は帰還から三日以内に終わらせるので誰も咎める事は無かった。国情が安定している今、官が騒ぎ浮き足立つ行事もこれといって無い。故に国主は峯麒のみへ声を掛けて王宮を後にしたのだった。七日後には戻る、という言葉を最後に伝えて。
「足を延ばし序でに劉王とお会いになって来るようだ。本当は雁と慶へ足を延ばしたかったらしいけど」
「それは流石に……」
峯麒の言葉に小庸もまた苦笑いを浮かべる。芳から慶までの片道で予定の日数を越えてしまう。往復で考えると、半月は掛かるのではないだろうか。それ故に流石に王も断念したのでは、と―――思考を回していた老人の耳へ、不意に上げられた声が届く。思い出したように手槌を打った峯麒は、改め視線を向けて笑う。
「見送りに下へ行ったけど、今日はいい日和だったよ」
嬉しそうに微笑む峯麒に、左様ですかと相槌を打つ小庸もまた口元を綻ばせつつ玻璃越しの雲海を見やる。今流れ込む温かな風はやがて、熱気を含むものとなるだろう。
―――もうじき差し掛かるは初夏。
丁度百年を迎えた、春の終わり頃だった。
―――恭国首都連檣。
白群の空の下、凌雲山の麓に広がる街は賑わいを見せ、所々では明るい声が重奏し喧噪が広がる。供王珠晶の治世がじき二百年を迎える事もあってか近年は旅人の姿も多い。街に吹き下る条風の冷たさは未だ残るものの、褞袍を羽織る程度が丁度良い。それほど、降り注がれる春の陽は温かい。
賑やかな街から少しばかり外れた閑地には冢墓がある。広がる閑地に羅列する墓にはそれぞれ梓の小枝が添えられ、墓と墓の間には人一人が通れるほどの途が空いていた。並列する墓の最中、途に沿い歩き一つの墓の前へ立ち止まる者の姿があった。
「また来たよ」
そうして、彼女は二つの冢墓の前に屈みこむとそっと手を合わせた。
彼は八十年前に、彼女は六十年前にこの世を去った。遺族が居なければ統合される筈の墓はしかし、毎年一度は訪れる客が居るために墓はそのままだった。亡くなった当時何人かは毎年足を運ぶ来客の正体を知っていたが、その者達もとうの昔に冢墓の下へ潜り、眠った。……今や、彼女を知る者は他国の少数のみとなってしまった。
江寧は不意に足音を聞く。背後から聞こえ、突如真後ろで止んだ音の元を確認すべく後方を振り返る。が、顔は逆光で見えず、思わず目を細めかけたところで僅かに渋みのある男の声が降りかかった。
「こんな所で何をしている」
懐かしい声を耳にした
江寧は目を丸くしたまま身を硬直させた。降り掛けられた言葉をそのままそっくり返したい。そう思いつつも言葉は出ず、結局緊張を含んだ声が喉より発される。
「何故、此処へ」
「その珍しい髪色は目立つのでな、まさかとは思ったが」
そう告げた男――尚隆はそのまま膝を折り、片膝を地へ着ける。少女が手を合わせていた冢墓を目前に、眉を顰めた。少なくとも近年亡くなった者の墓ではない。随分と昔に立てられたものであると予想し、一度手を合わせた。驚きに軽く目を瞬かせていた
江寧はしかし、すぐに紡がれた男の言葉を聞き受けた。
「随分と古い冢墓だな。友人か?」
「そのようなもの、かな」
曖昧な返答は苦笑と共に。彼女にとって墓下の者がどういった関係だったと表せば良いのか、実のところ半世紀が過ぎても未だに迷っていた。身内ではなく、友人でもなく、知人と言うには些か遠い。
兎にも角にも、大切な者達だった事には違いなかった。
「色々大切な事を教えてくれた方だけど、結局恩返しはできなかった」
最後の最後まで。
毎年春にこっそりと二人の様子を見に行っていた。何もできず、ただ様子を伺っていた。その内、年々老いる者達を見守るのが辛くなっていったのも確かで。尭衛が先立つ十年前にようやく二者の心情に共感することができたのだった。故に苦い思いを含めてなお、彼女は毎年この地へ足を運んでいる。それがせめてもの恩返しであるかのように。
最後に一つ手を合わせてから立ち上がった
江寧は、両腕を力の限り頭上へ伸ばし肩を解した。視線だけは傍らの男へと向け、腕を下ろすと小首を傾げてみせる。
「さて―――雁の主は何の御用?」
「俺はいつもの視察だ。お前は」
「わたしは此処と……これから柳へ」
「劉王に会うのか」
「ええ」
「ならば俺も行こう」
唐突な同伴の意に
江寧は驚くも、突拍子の無い発言は日常茶飯事であったのを思い起こし思わず苦笑する。
ここまで来るのに苦辛は山程あった。妥協し、挫折しかけた事も数えるには両の指だけでは足りないだろう。……だが、それで良い。
こういった一時の喜びの為に、彼女は苦難を乗り越え生きているのだから。
「では、行くとしよう」
「ええ」
黄昏は未だ遠く。
頭上より降り注ぐ陽光を受けながら、二国の王は地を離れていった。
-完結-