上空に緩く逆巻く風は温かく、山麓に湛えられるは春の陽光。
街には行き交う人々の声が安穏とした雰囲気を作り出し、そこに嘗て存在していた翳りはない。舗装された途の色は霞色、麓より羅列する屋根は薄群青。随所ではためくは慶祝を表す白藤の旗。
王の即位からちょうど十年目を迎えた春季のことである。
-始声絢爛 後(上)-
黄海を中心として北西の方角に位置するは芳極国、その雲海上へ浮上したように見える小島がある。頂に構えられた王宮―――鷹隼宮もまた春を迎え、じき迎える祭典の準備のため宮中では浮き足立った官が目立つようになった。
今日は予想外の来訪があった為に急遽朝議を無しとして、官は準備を進める。突然の来訪に対応すべく、芳国の王は宮の一 ――倭鈎宮へと足を運んだ。そこで待ち草臥れていた大国の主従を遠巻きに眺め、峯王
江寧は思わず小さな苦笑を漏らす。そこからゆっくりと歩み寄り、再会の祝を綴った。
園林の中央へ設けられた四阿にて、背凭れに彫り込まれた虎を一瞥してから、雁国主従は黒檀製の椅子へと腰を下ろした。向かい合うようにゆっくりと坐った
江寧は裳裾を僅かに引き、姿勢を正す。緊張にも似た雰囲気を持つ女王の姿に軽く笑う延王尚隆はしかし、すぐに問うべき数年前の事件を切り出した。無論、少女の胸中に深く残された傷は未だ完治していない。心構えをする間もなく口に出された疑問に苦虫を噛み潰したような顔をする
江寧は僅かに顔を俯かせ、刹那凛とした表情へと変わった。十年前には決してする事の無かった貌だった。
「……天官か?」
「いえ……主犯格は州師の将軍だった」
「では、王師が?」
「王師を出すのは止めた。あれはあくまで将軍が企てた謀反であって、兵は已む無くだから」
それで討ち勝てたのか、と問おうとした尚隆に
江寧は苦々しさを残したまま微かな翳りを浮かべる。頭を小さく縦に振って、説明の前に勝敗を言外に告げてみせた。
「私に襲い掛かった多くの者は、指令によって喰い散らかされたよ」
「指令……もしかして、檮兀か」
「うん」
六太の言葉に
江寧は頷く。峯麒が持つ凶暴な指令に心当たりのあった六太は、彼女の首肯にやはりと思う。泰麒の饕餮ほどではないが、あれは決して人の手に負えるようなものではない。相当数の兵が爪の餌食となった事は間違いなかった。
「朝議は混乱した。冢宰と六官は予定通り峯麒を連れて逃走した。最後に残ったのは私と謀反の者達だけ。宝重を使わなくても、指令が散らかしていった。……峯麒は一月、私に近付く事が出来なかったよ」
言って、
江寧は苦笑を落とした。
一月とは言ったものの、実際の日数は二月に近い。当時現場に留まり続けていたせいか染み付いた血嗅はなかなか落とす事ができず、その上謀反者の残党による怨嗟が囹圄内に充満し、それは峯麒を遠からず苦しめた。だが、相伴を望む少年は顔色が悪くとも王の側に居続ける。……その結果、峯麒は朝議の最中に倒れてしまったのだが。
不調を心配し続けていた王は三公と傅相より叱責を食らい、黄医の診断によって一月の面会謝絶が告げられた。―――その間に残党の処分を決せよという催促を濃く含んで。
無論、裁下を決しなければならない――本来は秋官の管轄だが、今回ばかりは特別である――のだが、彼女は深く思い詰め、それでもよくよく考え、慎重ながら答えを出した頃には一月以上が経過していた。
「皮肉なものだ。信頼しきっていた者が抜き身の刃を私に向けてくるのだから」
「
江寧……」
彼女が悩んだ理由は二つ。主犯の中によくよく見知った者の顔があったこと、その行動が本当に本心から起こしたものか未だに把握しきれていないこと。後者について相談を受けた者達は何れも手緩いと反論を告げたのだが、彼女は限界まで悩み続けていた。
立ち塞がる、真の意味での平等。情に揺らぐことのない、国にあるべき公平の姿を。
「謀反とは、そういうものだ」
「ええ」
軽くはなく、しかし然程重みの感じられない尚隆の言葉に、
江寧は事を口にする度積み重ねていた荷を僅かに下ろされたような気がした。朝廷で一人の意志を一案として通すのは決して生易しいことではない。論争を繰り返すその中での謀反ともなれば、それは誤りだったのだろうかと心細くなり、自他共に疑り深くなる。さらに交流の深い者が側より離れれば離れるほど自身に対する意志が屈折しそうになっていた。謀反はその表れだろうかと、彼女が疑心暗鬼の心情を心底に抱き続けて早数年。ようやく答えが出るのかと思うその刹那―――不意に聞こえた声が王宮の主を呼ぶ。
「主上」
「お、峯麒」
「ああ、延台輔。お二方もこちらに居られたのですね」
園林へ流れ込む緩やかな風潮に靡く猩々緋。十五、六歳ほどの少年は穏やかな面持ちのまま四阿の入口で足を止めた。麒麟の気配を辿り来た旨を伝え、残された席へは着かずに主の傍らへと佇む。そこでようやく二国の主従が揃い、その姿から視線を逸らした尚隆はふと綺麗に整えられた独特の園林を見やる。
園林を囲む回廊に沿って生やされた竹は細々としたものばかり。緑に守られるようにして敷かれた白磁の砂が波紋の流れを描く。所々に置かれた岩は何の変哲も無く、しかしどこか人の眼を惹くものがある。中央に設けられた四阿と回廊の間には大凡一人分として考えられ掛けられたであろう小路が渡され、回廊の一辺毎には小さな滝が落ちていた。
……どの王宮を回ったところで、此処に似た光景など有りはしないのだろう。
「綺麗な園林だな」
「倭の伝統的な庭だそうで……僕は知らないけど」
「今度延麒と一緒に本場を見に行ってみても良いよ」
「いえ、主上が心配ですから」
遠出の許可をきっぱりと断った峯麒は敢えて真面目な顔を作り軽く胸を張る。その様子に思わず失笑を零したのは
江寧だけでなく、雁国主従もまた笑いを零していた。
峯麒が脹れ面となるその前に声は止み、刹那区切られた後に押し寄せる静寂を撥ね退けるようにして延が口を開く。
「峯麒、お前の主を借りていいか」
「え?」
これには峯麒だけでなく、
江寧もまた軽く目を見開かせた。予想だにせぬ発言に対して反論を試みようとするも、彼女が言葉を発する直前に延麒が空かさず己の身の振りを問うた。
「じゃあ、俺は此処で留守番?」
「ああ、頼む」
当然のように返り来る返答を受けて、延麒は楽しそうに一つ頷いた。状況を未だに把握し兼ねる芳国主従は思わず顔を見合わせ、再度問うその前に椅子から腰を上げる延王。王宮を度々抜け出している事を聞き及んでいた
江寧は男の笑みを見上げつつ思う。……恐らくは、抜け出す度にこういった愉しげな表情を浮かべているのだと。
「下りるぞ」
困ったように笑い、すぐに頷いた
江寧は立ち上がる。流石に今現在身に纏うものでは拙いと、着替えの間を貰うこととなった。許可を得た後に峯麒へ禁門までの道程を案内するように告げ、そそくさと身を翻していった。
◇ ◆ ◇
指令を一体隠形させておく事を条件として、小庸は渋々と二人を見送る。侘びを一言告げて赤虎へ騎乗した
江寧は趨虞の後を追って飛び立ち、大きく旋回した後に麓へと緩やかに降下していく。久方ぶりの市井をぼんやりと眺めつつ、午門付近の外還途で降り立った。
其々の騎獣を率いて門を潜り抜けた尚隆と
江寧は暫くの間街中を歩き巡り、やがて一軒の店へと足を踏み入れた。裏に騎獣を置かせてもらい、随分と古めかしさのある堂屋を気に入った尚隆が進んで足を踏み入れ、店内の様子を見渡す。午時を過ぎた所為か、客は点々としている。元々席は十前後しか無いので少ないという印象はあまり感じられないようだった。その内、隅の空席に目を付けた尚隆が先に腰を下ろす。
江寧もまた席に坐るとすぐさま注文を頼み、店の者が離れていくのを待っていたかのように男が話を切り出した。
「何があった?」
「……何、とは?」
突然の問いに理解し兼ねて首を捻り、数秒後にようやく何が聞きたいのかを察し、しかし敢えて素知らぬふりをする。無論、男がこれで簡単に話題を逸らすような者ではない事を彼女は知っている。故に沈黙を守り、男もまた押し黙ったままさも対峙するように向き合い続ける。双方の間に漂う沈黙はしかし―――ただ一つ吐き出された溜息によって破られた。
「……まったく、延王は首を突っ込むのがお好きなようで」
「何とでも言っておけ」
苦笑を零すばかりの少女に対し、あからさまに眉間に皺を寄せた男は小卓上へ片腕を置いた。慶を除く近隣の他国よりも、芳との交流は深い。その理由を表では胎果の誼だと言い切るものの、実を言えば登極以前より親しい者が同等の立場となった事を不安に感じていた。彼女には速決を下す際の冷徹さがない。温情ばかりが先走り、或いは偏りはしないかと屡思う。尤も、当人は日々吟味する中で公私の情を隔てる事に成功しているのだが。
江寧が今苦悩しているのは、そういった事ではなく。
「……近々、恭へ行こうと思いまして」
「恭?」
「知り合いがいるんです」
話の冒頭を耳にした尚隆は一瞬固まり、次いで自然と脱力した。込み入った話であると予想し内心身構えていただけに、それほど重い話ではない事にどこか空振ったような気分に陥る。
「普通に会いに行けば良かろう」
「……いえ、十年ぶりに」
頭を左右に振り、あくまで真剣な面持ちをした少女の姿に尚隆もまた首を捻る。その直後、先刻注文した品が小卓の元へと運ばれてきた。男の前には酒が、少女の前には茶と小さな菓子が置かれる。店の者が再び下がるのを待ってから、ふと心当たりのあったらしき尚隆は納得したように一人軽く頷いた。
「そういう事か」
「そういう事です」
貴方ならお分かりでしょう、と付け足された言葉に、尚隆は若干複雑な情を抱きつつ酒に口をつける。実際、少女と男の悩みには幾らかの相違があった。……店を三十年毎に変えなければならないなどとこの雰囲気では言える筈もなく、それ以上の言葉を飲み込む。
「時とは残酷なものだと、改めて思いました」
「―――そうだな」
……願わくば、気付かないでほしい。真剣に独白する少女を目前にして、男はそう切実に思う。ただ、時の残酷さと言われてしまえば頷くしかなかった。神仙となった者が一度はそういった苦悩を抱え、答えに窮するものだ。早くもその悩みに突き当たってしまった女王へ、大国の王は僅かな溜息の後に口を開く。
「だが、じっとしたままでは変化がある訳でもなかろう」
「……ええ、はい」
「ならば行ってこい」
会いに行けば、良くも悪くも一歩は前進するのだから、と。そう付け足された言葉が少女の胸中へと浸透する。これまで蟠っていた感情が次第に薄れゆき、一つ頷いて見せた
江寧に尚隆もまた安堵にも似た笑みを浮かべる。これで漸進できるのならば良いと、そう願うばかりだった。