「―――慶で、謀反?」
他国の内情、その知らせを受けた王は己の耳を疑った。
-始声絢爛 書-
積翠台に漂うは重々しい雰囲気。それを気拙く思いつつ、
江寧は揃い立つ面々を一望し、最後に自身の手元へ視線を戻すとそっと溜息を落とした。
今現在、場に集うは三公と冢宰、台輔と王を含めての計六名。その誰もが険相であったり、悲嘆にも似た情を浮かべている。流石に長い沈黙を通すわけにはいくまいと、事の真相を問う為に口を開きかけ―――それよりも先に口を開いたのは、書卓から程近い場所に立つ三十代後半の男だった。
「道理で慶からの遣いが来なかった訳ですよ」
「他国の事情に、我々は口を挟めませんからな」
太保と太師の言葉に、太傅と冢宰、台輔が相槌を打つ。三公の眼差しは自然と書卓に落ち着いた国主の元へ。何事かを思いあぐねる風を窺わせ、組み合わせた手を卓上に乗せた王は視線をゆっくりと昇らせる。偶然視線のかち合った青年を見詰めて、ようやく開かれた口からは思いもよらぬ心底からの思考。
「尤も、それが他人事と思わない」
それが何を指し示しているのか、彼らは瞬時に悟った。以前より問題と見なされていた例の件。この場に存在する者が知る、恐らくは確実であろう情報。
「主上、やはり―――」
「大方は理解している。罷免するに至る証拠がまだ無いから、阻止は出来ないけれど……禁軍の右将軍からは決して大僕から離れぬようにとの忠告があったよ」
「左様で御座いましたか……」
王と初老の男―――太師である烽革の会話に、峯麒は顔に浮かぶ真剣さを色濃くする。一間に嘆息を挟み込んで、
江寧は大袈裟に肩を竦めてみせた。
今現在、常に傍へ控える大僕は積翠台の外で警護を続けている。外で警護をさせる事に一切の反対は無く、それが彼女にとって有り難い事この上なかった。首都州候にもまた常時警護の者が必要であると思いつつ、会話は続けられる。
「広徳殿には警護の者が複数。しかし、その役目を州師の左将軍が引き受けるという。勿論断ったけれどね」
「当然です。何を的外れな」
「それを容易く承諾すると思われているほど、甘く見られているんだろう」
敢えて苦笑を浮かべてみせた
江寧はしかし、事態の展開を思えば苦笑をも消しざるを得ない。―――付き物である事は十分に理解している。だが、宮中で死者の出る可能性を認めてしまえば、何かに違和感を抱く。こめかみを強く押さえて思考を巡らせる最中、突如口を開いたのは冢宰の傍らに佇む峯麒だった。
「一応、主上を御守りするよう指令を二体控えさせてます」
「態勢は万全、という事ですか」
太傅―――礫鉦の問いにも似た言葉に、峯麒は頷く。
指令を二、三体ほど隠形させる事を勧めた少年はしかし、当初はすぐに突っ撥ねられた。負けじと推奨を押し返すもなかなか妥協せず、結局冢宰と太宰の一押しを以って彼女の意がようやく折れるに至ったのだが。
刹那、
江寧が溜息を吐き出す。片手に握るのは先日泰麒より受け取った書簡。泰王驍宗が謀反に遭ったのは、丁度半年を迎えた頃だと聞き及んでいる。
「たとえ良い官吏ばかりの朝廷を引き継いでも、結局は綻びが出てくるんだね」
「そのような事は―――」
「私は洌王や冢宰とは異なる方針で政を進めている。それに反する声があるのは当然だと思うし、何より胎果を厭う者も少なくはない」
「……ええ」
王と麒麟。
二者のどちらもが胎果である場合、一年以内に起きた謀反は胎果を厭う者が大半を占めるという。即位式の折、そう延王より教えられた事を思い起こしそっと瞼を伏せる。やはり、乗り越えねばならない道だというのか。
「今すぐ認めてほしい訳ではない。まだ朝は進み始めたばかりだから結果を出せばと―――でも、結局は謀反にまでなるのか」
事実、時は間近に迫りつつある。回避は能わず、これを迎え撃たねばならない。身構える必要性を感じる今だからこそ、彼女の苦悩は終着が見えない。
「……事態が大きくならなければ良いな」
呟いた王の言葉に、誰もが浮かべた険相を色濃くしていた。
◇ ◆ ◇
「そう―――慶で謀反が」
そう言葉を落とした少女に、
江寧は一つ頷いた。
蘭雪堂内に会話が響く。話合う姿は二つ―――宮の主と隣国より足を運んだ来客の姿。一見穏やかに見えたその風景はしかし、内容に耳を傾けると内容は重い。政に関連する話題ならば口を挟む者の姿があったとしても別段不思議ではないのだが―――二者の存在、その地位ある者に席を外せと命じられるのならば、退出を余儀なくされるだろう。
呆れたように溜息を吐き出した少女の簪が揺れる。芳とは乾海を挟んだ隣国である州国、恭―――その主である供王、珠晶は今現在予てからの連絡通り鷹隼宮を訪れていた。
無難に朝議を終えた
江寧は蘭雪堂を訪れ、現在こうして話し合いに至る。
「どの国も大変ね」
「恭も、柳の難民が流れては難問が増えるでしょう?」
「そうね……。六七割方、雁へ流れてくれればそれ程悩みやしないのだけど」
「可能性は十分にある気が―――」
珠晶の言い分を聞いた
江寧は苦笑を零す。事実、柳の民が雁国へ流れ始めている。それを知る者にとっては、何とも言い難い。まして過去に柳の話へ移行した際の延王は酷かった。玄英宮でもあのような表情をしているのかと思えば、朝議で難民の問題を取り上げる官は話を進め辛いだろう。気苦労する官吏の気持ちが、少しだけ理解できたような気がした。
ふと、嘗て一度だけ面会した際の記憶が甦る。そういえば、と
江寧が話を切り出せば、珠晶は小首を傾げる。
「恭には借りがありますね」
「借り?」
「以前、お世話になりましたから」
「ああ、それね。保護する代わりに蓬莱の文化を享受してくれたもの、借りとは思わないわ」
「ですが、」
彼女には世話になった。特に青稟を遣わしてくれた事に関して感謝をしていた。右も左も分からず、里家に預けられた
江寧を導いた者。思い返せば、自然と柔らかな笑みが零れる。
「―――あの時、供王が保護して下さらなければ今頃も言語の習得に苦労していたでしょうから」
「あら、そう?あなたなら二年もあれば独学で得そうに見えるけれど」
「流石に独学二年ではきついですよ。雁に住む海客だって、二年以上は掛かります」
彼―――壁落人がそうであったように。多大な時間を消費したところでやはり独学には限度がある。言語を完全に理解したいのならば、師は確実に必要なのだと、
江寧は経験から学んでいる。隣国の言語を習得済みの者ならば覚えるのは幾らか易しいだろう。だが―――彼女は蓬莱の者。言葉を理解し、応対できるようになるまで相当な時間を勉強に費やした。死に物狂いだった当時を思い出した
江寧はしかし、ただ笑うしかない。彼女の様子に僅かな溜息を零した珠晶は椅子に掛け直し肘掛に腕を乗せる。ふと玻璃越しに見える園林へ視線を投げやる。陽射しを湛えた緑ある地が眩しい。
「王宮には慣れたかしら」
「ええ、近頃ようやく目が慣れてくれました。……あまり豪華な堂は装飾を外すよう言ったのですが」
「“手を加える事は禁じられております”、でしょう?」
「ええ……返答が既に固定されているようですね」
全て見通し済みかと思うほど、珠晶の言葉は的確尚且つ過去に告げられた官吏の台詞と一字一句変わらぬものだった。彼女も登極当時はそう返された事があったのだろうか―――苦い笑みを浮かべ思う
江寧に、視線を戻した珠晶は軽く肩を竦めてみせた。
「どこの宮でもそれは同じよ。潔く諦めなさい」
はっきりとした口調で告げられた珠晶の断言に、はい、と小さく返答の首肯を示す
江寧。絶える事なき王の苦労はまだ始まったばかり。彼女には芳を立て直してもらわなければならないのだ、此処で弱音を吐いてもらっては困る。
半ば睨めつけるようにして芳の女王を見やる珠晶は、途端何事かを思い出したように袖を探る。不思議そうに眺める
江寧を余所に、態々所持してきた物を取り出した。
「そういえば、預かり物があったの」
珠晶の手中にあるのは、至って普通の書簡。宛を知らせるその前に差し出された物をおずおずと受け取った
江寧は、書簡と珠晶を交互に見比べる。その様子を兼ねた少女は笑みを以って言葉無き問いを答えた。
「女御からの書簡よ」
「有り難う御座います」
「それから、」
もう一つ、と同様の書簡を取り出した珠晶は先程と同様に差し向ける。予想外の二つ目に目を丸くした
江寧は受け取ろうと手を伸ばして―――腕を宙で留めた。一度手を引き、今一度宛を訊ねる。
「……こちらは?」
「無礼を厭わずと仰られたのであればどうぞ、と」
告げられ、差し出されたままの書簡を見詰めていた
江寧は複雑な色を貌に浮かべる。
―――まず、王に書簡を頼む事自体が相当な難題である。王の配慮ならばまだしも、面識を得ているとはいえ言い出すにはどれだけの覚悟が必要だったのだろう―――。
「有り難く頂戴致します」
改め差し伸べた
江寧の手が書簡を掴む。その姿に微笑む珠晶は、すぐに何事も無かったかのように話を移す。一瞬その強引な話の移行に気後れを感じた
江寧はしかし、次第に会話へ集中していった。
◇ ◆ ◇
自国へ帰還する供王の見送りを終えた
江寧はその夜、受け取った二つの書簡を手にしたまま正寝へ足を踏み入れた。
机上に置かれた燈篭の仄かな明かりが牀内に広がる。文字が読める程度の灯りに照らされながら、
江寧は臥牀に腰を掛けつつ一度目に渡された書簡の紐を解き開いた。掌を滑り、文頭の見えたところで止めると、羅列する綺麗な字をゆっくりと目で辿る。
―――この度は芳主峯王直々のお言葉を賜り光栄至極に存じ、誠に感謝申し上げます。下官の身でありながら書簡の返答を綴るなど無礼極まりなき事と存じますが、何卒寛大にご容赦頂けますよう。
まずはこの度の登極、心よりお祝い申し上げます。
お世話申し上げた過去の日々が今では夢のように思えて仕方がありません。この書簡をお手に取り拝読されていらっしゃるのだと思うと、感激に言葉も御座いません。
――― 一国の主として民をお導き下さる事を隣国より願い奉り、貴国の益々の御発展と繁栄をお祈り申し上げ、書簡の文末とさせて頂きます。
「……やっぱり、正式に送るとなると堅苦しい文になるのか」
苦笑を洩らした
江寧は手にしていた書簡を丁寧に閉じる。態々他国より祝いの言を述べてくれる事は彼女にとって嬉しく思う。だが、改まった文章を眺めるのでは今一実感が涌かないままでいた。……下官から王へという言葉が胸に靄のような閊えを残す。それはさながら他人事のよう。
少しばかり気を落とし、紐を結び終えた書簡を臥牀上にそっと置きやる。次に膝上へ乗せていた書簡を手に取り、ふと気付くのは紐の端に取り付けられた浅葱色の綬。それが、いつぞや見た彼女の私物である事に気付いたのは暫し見詰めた後のことだった。驚き慌てて開いた書簡の内、先程同様に綺麗な字で書き込まれた内容は大いに異なるもの。
―――
江寧、久しぶり。元気かしら?無礼を承知で読んでくれているのね。どうもありがとう。
今、恭は隣国の事情が影響して難民が少なからず入ってきているそうよ。乾海を渡ってまでは流れて来ないでしょうから、芳は難民について考えなくても安心ね。雁はもう少し多く流れているのではないかしら。雁国の麒麟と知り合いなのだから、もしもお訪ねになられた時はしっかりと情報を聞くのよ。いい?
……こんな風に自由な書き方をしているけれど、正直王に対して良いのかな、なんて迷いがあるわ。だけど、無礼を承知でと頼んだからあなたは怒らないと思うけど。
遠い場所に行った気がして、少しだけ寂しいと最初は思った。だって、王は国に縛られる。奏や雁、範のような大国にならない限り、地を離れる余裕が無いのだから。私も彼此長く生きているのだけど、主上を見ていて時折可哀想と思う時がある。哀れみや同情のつもりはないけれどね。……兎にも角にも、あまり気を詰めて政に取り組んだら駄目よ。気長にやろうと思いなさい。
秋なのにこんな事を言うのはどうかと思うけれど……芳の冬は恭よりもずっと寒くて冷たいと思うから、凍傷なんかになったら駄目よ。仙籍に入っているとはいえ、寒さまで無くなる訳ではないんだから。
数年で国が少しだけ落ち着いたら、恭との交流を深めても良いのかもしれないわね。その時は私と会ってくれるかしら。
まだまだ話したい事はあるのだけど、此処で区切っておくわ。良い国を目指して、頑張ってね。
―――死んじゃ駄目よ。
「……ありがとう、青稟」
書簡を持つ
江寧の手が小刻みに震える。最後の一行で、目頭が熱くなる。じき直面するであろう事態と重なったが故か、それとも。
紐に括られていた浅葱色の綬を取り外す。片手に収めたそれを強く握り締めて、
江寧はそっと瞼を伏せた。