黎明は透き通るように白く。
暁光は貫き刺すように強く。
光輝は募る切望を満たして。
その日の午後。
芳国紲州の中心に高く聳え立つ蒲蘇山、その頂に建つ鷹隼宮では、始声と共に歓喜が喧騒となって宮中を疾走した。
「白雉鳴号!」
朗報を伝え走る複数の小官。それを聞き入れては欣喜雀躍する者達。仕事の手を休め、報が確かである事を問い、そうして狂喜する。永和はじきに終着を迎えるのだ。
「一声鳴号!」
誰もが胸中に抱えていた希求を湧き上がらせて、浮つきながらも彼らを迎える為の準備に着手し始める者達がある。慌しくなる中でただの二人、事を知悉していた仮初の王と新たな主の面を知る武の長は、穏やかな面持ちで報を聞き入れた。
「―――峯王、即位!」
六月―――北西の極国に、春が鳴く。
-始声絢爛 壱-
北西の極国の一声と時を同じくして、北東の極国―――瑞州鴻基山白圭宮。西宮の一廓より、梧桐宮から飛び出たのは凰と一対となる鳥。各国の大事を通達する役割を持つ鳳であった。
「梧桐宮、開扉!」
所用により仁重殿へ赴いていた王と麒麟は、途端に官の声を聞く。予め開け放たれていた窓からは鳳がすいと飛び込み、付近の留まり木へと止まる。羽根を畳んだ矢先に発せられたのは、主従が待ち侘びていた朗報。
「白雉鳴号」
やはり来たかと、戴の麒麟は顔を綻ばせる。手にしていた書簡を卓上へゆっくりと置いて傍らの主へ視線を向けると、泰王もまた口角を微かに引き上げ次の言を待つ。然程の間もなく、鳳は嘴を動かし報を紡ぐ。
「芳国に一声―――峯王即位」
鳳がはっきりと伝えた言葉を聞き終えて、泰麒はそっと瞼を落とした。
―――あの二人は、ようやく天勅を賜り終えたのだ。極みに、登り詰めていった。
無性に湧き上がる嬉しさと訳無き寂しさが胸内で交差する。嘗て己を救い出してくれた姉のような存在が、遥か遠くへ行ってしまったような気がした。……距離が長いとは言えども、仮にも隣国であるというのに。去来する懐かしさは自然と溜息を生み出す。密やかに吐き出された溜息はしかし、傍らに佇む驍宗が異変に気付くと目を細める。大凡察する事の出来る理由に、一間を巡らせる思考に置く。次いで微かに笑みを浮かべた王は傍らの麒麟の肩に軽く手を置いた。
「蒿里」
はい、と来たる返答は小さく。以前にも同様の光景を目にした―――そう思う中で、それはいつかと忘れかけた記憶を手繰る。
……ああ、そうか。あれは確か生国の。
名を呼ばれるも用件を口にしない王の様子を不思議に思ったのだろう、泰麒がおずおずと顔を覗かせると、それに気が付いた驍宗はああ、と首肯する。
「即位式には、お前を芳に遣わそう」
「主上―――」
驚きに軽く目を見開いた泰麒はしかし、すぐに顔を綻ばせる。気を遣わせてしまった事に申し訳なく思うも、彼女と再会出来るのは酷く嬉しい。……恐らく、即位式以降に再会出来るとなれば、芳か戴が軌道に乗り安定を始めた時であろう。故に、長い長い時を待たなければならないのだ。
「ありがとうございます」
柔らかな笑みを湛えて一礼する泰麒に、驍宗もまた微笑を返す。そのまま視線を逸らし、開け放たれた窓から見える空を何気なく見やる。普段と何一つ変わらぬ雲海はしかし、王と麒麟を乗せた神獣が潮を掻き分け西へ西へと進み行くのだろう。
願わくば、芳が逸早く安寧を掴める事を。
◇ ◆ ◇
慶国瑛州堯天山金波宮。その王宮の主が鳳の知らせを聞いたのは積翠台にて政務中の事である。先日訪ね来た者が遂に天勅を受けたのだと知って、つい数年前に体験した自身の記憶を思い起こしていた。
その翌日、春官数名と台輔を交えての話があり、奏上の後幾らかの論議の後に官はそそくさと退出しゆく。二人は官らを見送り、無音を認めた王は書卓上で腕を組み合わせ、溜息を零した。この場に残ったのは、慶の王と麒麟のみ。そうして声の絶えた場の中で赤子――陽子が呟きを入れた。
「……行ってしまったな」
「そうですね―――」
頷いた景麒は、それが先程退出していった官らを指す言葉ではない事を理解している。昨日の鳳が伝えた報。極みに登り、十一という限られた地位と並び立つ存在と為った人物。彼女は今、恐らくは玄武の背に乗り北西を目指しているに違いない。多くの民が待つ、虚海を挟んだ孤島へと。
ふと視線を下げて書卓の前に坐る王を見やれば、思うところあってか腕を組んだままぼんやりと視線を卓上へ向けている。……大凡、見ているものは定かではないはず。
「惜しい、ですか?」
「ああ。私は彼女を招きたかったのだけど、まさか王になるなんて思ってもいなかったから」
「これは誰にも予想出来なかった事でしょう」
景麒の問いに苦笑を交えて返答する陽子は落ち着かせていた腰を上げて立つ。椅子から離れ、裳裾を引きながら窓辺へと寄る。景麒を背にしながらも首肯する王は曇りなき快晴の空を見上げて、ふとぼやきを挟んだ。
「慶賀はどうしようか」
慶賀、と景麒は口内で復唱する。芳へ遣いを向かわせるのならば、人選をしなければならない。一体誰がと問おうとしたところで、ゆっくりと振り返る陽子と目が合う。開かれた口からは、迷いの言。
「私が行く―――と言いたいところなんだが、今私が慶から離れる訳にはいかない。禁軍左将軍には度々離れてもらっているし、左軍を鍛える事は大事だろう」
確かにそうだ、と内心同意して思う。いざという時、州師よりも禁軍が弱ければ話になどならないのだ。王自身が拝命したにも関わらず、その役職をこなそうと専念する官らにとっては、度々の他国への遣いで出されては堪ったものではない。
瞼を伏せて思考を区切ろうとした景麒はだがしかし、突如挙げられた名に軽く目を見開く。
「今回は冢宰と景麒、それと楽俊に行ってほしいと思うんだが―――どうだろうか」
「楽俊殿は大学がお在りのはず。相談も無しに軽々と申されては、」
「ああ―――そうだったな。すまない」
「いえ」
景麒は無愛想のまま頭を横に振る。……今、慶から離れる事の出来る者は限られている。それ故に人選に悩むのも仕方無い。
遠景を眺めつつ思い悩む風を見せる王の姿を暫し見守り、しかしなかなか決められないのか、彼女の視線は上がらない。その様子を見かねた景麒が、再び口を挟んだ。
「冢宰をお呼び致しますか?」
「後でいい。……それよりも、気になる話を聞いた」
玻璃越しに覗いていた景色から視線を外して、陽子は傍らを見上げる。意を含むその表情を向けられた景麒は僅かに眉を顰め、先を問う。―――否、問おうと口を開きかけたところで、不意に戸越しから聞こえた声を聞き視線は自然と衝立へ、意識はその向こう、閉ざされた戸へと向けられた。
「失礼致します」
一礼の後、積翠台へ踏み込んできたのは紺青の髪の少女――祥瓊である。僅かに肩を上下させ息を整えながらも陽子の前で立ち止まり、ようやく口を開いた。
「主上、」
「どうした祥瓊、そんなに慌てて」
驚きに目を見張る陽子は話しかけるも、女史が気を落ち着かせるのを待つ。頭を僅かに傾げ彼女の顔を覗き込むも、途端息を吸い込んだ祥瓊がきっぱりとした口調で、しかし些か焦燥の含まれた声音で言い放つ。
「延王がいらっしゃいました」
来訪者の名を聞いた景麒は目を見開き、次いで傍らの王へと視線を薙ぐ。軽い驚きこそあったものの、彼女は微かな笑みを浮かべて首肯を一つ見せた。目前に立つ祥瓊は既に慣れたのだろう、と半ば呆れを含んで王を見、しかし不意に呟かれた言葉を聞き入れて目を細める。
「やはり、そうか」
「陽子……?」
「いや、何でもない。玻璃宮へお通ししておいてくれないか」
「分かったわ」
頷くや否や身を翻し積翠台を後にする祥瓊を目で追い、閉ざされた戸の音を聞き終えた景麒は溜息を吐く。雁の王と麒麟の突然訪問は何とかならないだろうかと、いつもながら思う。窓辺から離れ再び椅子に腰掛けた陽子は景麒の面持ちを見上げて苦笑を零し、すいと自身に向けられた視線を受けて、問うた。
「景麒、お前も来るか?」
「顔をお出しする程度ならば、少しは」
「―――公務が残っているのだったか」
「はい」
景麒の返答に、そうかと頷きを返す。書卓上の書状を丁寧に重ね、一通りの物を纏め終えたところで席を立つ。そのまま戸へと向かう王の背を追って、景麒もまた積翠台を後にした。
◇ ◆ ◇
幾許かの会話を終えて、慶の王と麒麟が積翠台を退出する時は同じく。金波宮の外殿に位置する殿堂から南に位置する玻璃宮へ移った大国の王と麒麟は、景王との面会を待ち留まっていた。
「なあ、尚隆」
「―――」
延麒は椅子に腰掛けたまま先程より無言を貫く王を見やり、そして大袈裟に肩を竦めて溜息を吐く。これはまるで、不貞腐れた子供のようだ。そう半ばげんなりとして周囲に広がる園林へ視線を泳がせていたところで、不意に金色の気を認めて回廊の一点に目を留めた。景麒が来る事を悟り立ち上がった延麒は、初めに角を曲がり来た緋色を目にする。続いて気の元―――同じ麒である慶の麒麟が歩いてくる姿を見やり微かな笑みを浮かべた。延王もまたちらりと二者の姿を確認して、しかしすぐに視線を手元へ戻す。
「お待たせして申し訳ない」
そう初めに口を開いたのは若き女王だった。いや、と延麒が軽く笑い頭を横に振ると、景王は改め足労に対する感謝を告げる。
「遠路からのお越し、ありがとうございます」
「ああ、いや。何しろ事が事だからな」
「ええ―――」
陽子は頷くも、先程から一切として口を開くことのない男をちらりと一瞥する。どこか不穏な雰囲気を纏う大国の王に困惑を抱きつつ歩み寄り、恐る恐ると声を掛けた。
「……延王?」
「陽子、お前はいつ知った」
「え?」
何を―――そう問う前に、尚隆が椅子から腰を上げた。頭一つ分ほど高い男を見上げる形となって、陽子は視線を逸らさぬまま戸惑いを顔に滲ませる。彼女の背後では咎める六太の声。それを無視する形で、尚隆は問いを続ける。
「彼女が芳の新王になった事をいつ知ったと聞いている」
咀嚼された問いに、ああ、とようやく理解した陽子は彼女達の訪問を思い起こす。……それはほんの数日前の来訪。予想外の再会。そして、別れ。馳せる思いを胸に、陽子は返答の為に口を開いた。
「数日前です。芳国仮王と禁軍左将軍、それから峯麒と共に金波宮へ来たので」
「―――そうか」
彼女の答えに対し、相槌を打つ尚隆の顔が若干和らぐ。何処か安堵にも似た表情を眺めて、陽子は内心首を捻った。
六太と延麒は密やかに言葉を交わし、男の不機嫌な理由を伝える。……尤も、それは治りかけているのだから伝えたところで然したる意味は無いのだが。序で、報を受けた折の男の慌て様を洩らしかけたところで、男の咎める声があったので仕方なく口を噤んだ。
「あまりにも急な報告だったので、雁に伝えるのが遅くなってしまって―――申し訳ない」
「いや、あまり気にするな」
口角を上げる尚隆に、陽子もまたほっと胸を撫で下ろす。緊張が解けたところで、陽子の背後に佇む景麒が途端動いた。主の傍らに並び立ち、そうして何気ない疑問を問うた。
「延王は、どなたを向かわせるおつもりですか?」
「何を言っている景麒。直々行くに決まっているだろう」
「―――そうでしたね」
延王の堂々とした答えに、慶国の主従は思わず苦笑を零して軽く頷く。慶の不安定な国勢と違い、雁は五百年という長い時の間に揺るがぬ政を敷いている。故に王直々が赴いたところで然したる支障は無い。慶もまたいつかそうなれば良いと、苦笑と共に思い、不意にやってきた延麒の何気ない一言が男の情を急降下させる。
「範の御仁も来るかもな」
「六太、それを言ってくれるな」
あからさまに怪訝な情を顔に露呈させる男は見慣れ過ぎた少年の姿を見下ろす。にやりと笑う六太に、陽子もまた微笑を浮かべる。
陽射しの降り注ぐ午後の園林に、穏やかな時が流れていった。
蒼穹は滲む。丹色は傾く。紺碧は揺らぐ。
逆巻いた風は頬を撫で付け、首元を擦り抜けていく。放たれた髪は潮風を受けて靡き、色は斜陽に染まる。細められた菖蒲色の眼は未だ見えぬ小島の方角を見定め、そうしてそっと瞼を伏せた。
……今は不思議と、心が落ち着いている。
揺らぎ一つ無い玄武の背は、一見移動を認める事が出来ない。ただ、掻き分けて跳ねる水飛沫が波跡を後方へ伸ばして、それが唯一前進している事を示していた。
裳裾を引きさらに前方へ進もうとした少女は、途端ぐいと袖を引く感覚を覚えて視線を下げる。そこには、先程まで背後に建つ宮の中で体を休めていた少年が瞼を擦りながら傍らに並ぶ姿。袖を掴んでいた小さな手は、やがて佇む少女の手をしっかりと掴む。伝わる体温が心地好い。
「潮風が気持ち良いね」
「ええ―――」
頷いた少女は靡く猩々緋の髪を眺め、刹那小さな掌を握り返す。瞼はゆっくりと押し開かれ、紅緋の瞳はまっすぐに雲海、障害無き水平線を眺める。……本当に、海以外の何も無い。それが微かな不安を過ぎらせて、峯麒はいつ頃着くのかと問いを投げかけた。
うん、と笑みを湛える少女の顔は黄櫨染に滲む。
「玄武に乗って一泊二日。明日の夕方には芳国に着けるよ」
「そっか……もう少し掛かるんだと思ってたけど、意外と速いんだね」
「うん」
純粋な関心を抱く少年の横顔はしかし、未だ睡魔に打ち勝ってはおらず。明日、鷹隼宮へ到着してから船を漕がれては堪らないと内心思いつつ、王となった少女は苦笑を浮かべた。
「眠いなら、今寝た方が良いよ」
「そうする……」
こくりと首肯すると、峯麒は握り締めていた手をそっと放した。身を翻し、ゆっくりと宮への階段を登り、扉の向こうへと消えていく。後姿を見送り終えた少女はその場に腰を落とし、そうして再び雲海を一望する。片膝を抱えて波飛沫に耳を傾けて、何気なく思う。
……一日など、これからの永い時を思えば瞬く間に駆け抜けて行くのだろう。
「―――明日は玉座、か」
そうぼやいた少女の言葉は、流れ行く潮風に掻き消されていった。