- 最終章 -
その日の夕餉を穏やかに終えた
巴と和真と要の三者は、清香殿に設けられた露台にて雲海上に浮かぶ月を眺めつつ言葉を交わしていた。綴る会話は位を一時取り払い、嘗て蓬莱で過ごしていた時を思い起こさせる。和真は手摺前に椅子を引き寄せると腰を掛け、未だ地に着かない足を前後に揺する。その姿は子供らしい行動ともとれた。
少年は傍らに立つ黒髪の青年を見上げて、僅かに頭を傾げてみせる。
「要は、病気治った?」
「随分と良くなりました」
「良かった―――」
要の答えを聞き、和真はほっと安堵の息を吐いて顔を綻ばせる。久方ぶりの再会はしかし、時を充分に愛しむ事はできない。契約は済ませたとはいえ天勅を受けてはいない。故に蓬山へ戻らなければならない事を要は知っており、青年は左右を見比べた。
「ところで、お二人はこれからどうするんですか?」
要の問いに、
巴は視線のみを傍らの青年へ向ける。鋼色の艶やかな髪は月光に濡れて靡く。綺麗だと思いつつ、彼の問いに応えようとして、ふと考え込む。要の話を聞いた限りでは、蓬山から自国までは玄武に渡してもらったのだという。ならば寄り道も出来ないのだろう―――そう思えば、紡がれようとした言葉は変貌を遂げる。
「……蓬山へ向かう前に慶へ行きたい」
呟かれた主張は細波の音に消されることなく要と和真の耳へ届く。二者は眼を見開き、次いで戸惑いながらも言葉を発したのは和真だった。
「しゅ、主上―――」
「
江寧でいいよ、慣れてないんだから。公以外でそう呼ぶ必要はない」
「うん……」
穏和な顔を向けられて、和真は小刻みに何度か首肯する。このまま蓬山へ向かうのだと思っていた―――だがよくよく考えてみれば、芳へ渡ればすぐに王宮へ迎えられ、他国へ赴ける状況ではなくなる。他の者と別れを告げるならば、天勅前に暇を作る外に無いのだ。
「慶へ行って、別れを言いたいから」
言って、
巴はゆっくりと瞼を伏せる。雁国には後で青鳥を出せばそれなりと返答が来るだろう。……だがしかし、青鳥でやりとりの出来ない話が、慶にはある。未だ復興に力を注ぎ慶の地を離れる訳にもいかない景王は、恐らく即位式に招きを出しても来る事は不可能に近い。登極して五年も経過していないのだから、仕方無いといえば仕方無い。
「陽子―――景王にはお世話になったし、挨拶はちゃんと済ませたい」
組んでいた手を解き、
巴は夜空を仰ぎ見続ける。今は解かれた白藤の長髪が銀を纏い雲海の風によって靡く。横顔は真摯として、その姿を見やった和真の鼓動が急速に跳ね上がった。
―――これが、自分が選んだ王。
当人を目前にして改め思うと、感動にも似た情を覚える。瞬きをする事も忘れて見詰めていると、ふと視線に気付いた
巴が少年へと顔を向けた。
「駄目……かな」
「ううん、それで良いと思う」
我に返った和真は覗き込まれた瞳を視界の中央に捉え慌てて頭を横に振る。返答を聞き終えた
巴は僅かに硬くしていた貌を綻ばせて、少年の頭をゆるりと撫でた。面持ちに不安の滲みはなく、口元は緩やかな弧を描く。
「ありがとう、和真」
少年の承諾を得て安心した
巴は笑みを湛えた。少女の姿を仰ぐまま、和真もまた照れを隠すように笑う。二者の様子を傍で眺める要は自身の主との関係を思い浮かばせ、穏やかな風景を見守っていた。
明朝の上空は次第に薄らと藍白へ染まりゆく。緩やかに吹く風は鴻基山の山肌を沿い壮大に掘り込まれた禁門前の洞へと流れ込む。若干冷気を帯びた風は肌を刺し、微かに肩を震わせた
江寧は赤虎の鞍に乗せていた大袖を片手に取る。肩に羽織り、次いで身を反転させたその先には、朝議前に見送りをと禁門へ赴いた戴国国主と台輔の姿。
「泰王君、この度の待遇、誠に感謝申し上げます」
「礼には及ばない」
感謝の意を篭めて深く拱手の礼をとる次期峯王の姿を眺め、泰王は頭を横に振る。王の背後には芳国禁軍右将軍と芳国仮王、芳国台輔の姿がある。彼らもまた主君に倣い泰王へ礼をとり頭を垂れた。それらの様子を見やって、一つ頷きを見せた驍宗は泰王としてやんわりと言を発する。
「戴の情勢もあり助力は出来そうにないが、芳の安逸を願っている」
「有り難う存じます」
穏やかな返答と静かな一礼を眺め、次いで驍宗は自身の傍らに佇む己の半身である青年へと視線を薙がせる。どこか物淋しそうな様子を横顔で汲み取り、無言のままの泰麒の背を軽く押し出す。背の感覚に気付いた泰麒ははたと驍宗を見上げ、視線を搗ち合わせた。優しげな眼差しに若干戸惑いつつ、次いで目前より呼ぶ名に前方へと向き直る。
「蒿里、」
―――別れの時は間近に。
無意識に歪む青年の貌は、
江寧にとって淋しげに映る。やはり惜別の念はあるのだろうと思いつつ、緋頼の手綱を握り締めていた右手を解放する。泰麒の元へ歩み寄り、青年の手を迷わず握り込んだ。さながら握手を交わすように上下へ振ると、泰麒もまた合わせるように握り返した。
「
江寧さん……ご無事で」
「うん―――国が落ち着いたら、また会いに来るよ」
約束を交わして、
江寧と泰麒は手を解く。……実際、国が落ち着くのは十年以上も後になるだろう。それでもこうして約束をしかと交わす事に微かな希望を抱く。また、会える日が来るのだと―――。
緋頼の鞍の位置を調整し終えると、ひらりとその背に騎乗する。二者が見守る中、最後に背後を一瞥した
江寧は手綱をしたたかに振るった。それを合図として峯麒らの乗る指令や騎獣もまた平坦な岩場を駆け下りる為に地を強く蹴り上げる。跳躍の後に飛翔し、禁門に背を向け疾走を始める。
地は瞬く間に遠ざかる。惜別の念を抱きながらも、
江寧らは白圭宮を後にした。
◇ ◆ ◇
その日、積翠台に所在を置いていた景王赤子は、途端慌てたように踏み入りやってきた官を視界に入れて目を丸くした。何事かと官に問う間もなく、官は何とか息を整えると遣者の一人が帰還した事を告げる。矢継ぎ早にその遣者が
江寧であり、共に芳国仮王が訪ねている事を報告した。これには景王もまた驚き、急ぎ殿堂へ通すようにと指示を出す。一つ礼の後足早に下がる官の姿を見送って、景王もまた身形を整え殿堂へ向かおうとしていた。
無事に禁門を潜り、先導を受けながら殿堂への路を進み、そこで待つようにと示された
江寧ら一行は其々椅子に腰を掛けて時を待つ。暫し無言の待機が続いたものの、静寂は一瞬にして破られる。開かれた戸の向こう、
江寧が目にしたのは台輔と冢宰を連れた景王の姿だった。
「
江寧……!」
陽子は裳裾を引きつつ、小走りで
江寧の元へ駆け寄る。次いで背後の三者の顔を一望し、一先ずはと落ち着きを取り戻して改め口を開いた。
「禁門から帰還したと虎嘯から聞いた」
「驚かせてごめん―――陽子、こちらは芳国仮王の月渓殿」
江寧は半身を振り返らせ、後方にて礼をとる月渓を招く。一つの返答の後に少女の傍らへ歩み寄ると、再び景王に向け軽く一礼をした。ふと以前の親書の事柄を脳裏に過ぎらせた陽子はしかし、それと此度の訪問とは一切関係が無い事と考察する。
「貴方が―――しかし、何故」
「私が連れてきた」
返答は手前より。月渓の代わりに答えた
江寧の言葉に陽子は目を瞬かせ、二者を見比べた。彼女は恭へ行っていた筈で、芳へ赴いた訳ではない。どう考えても二者は無関係のように思われた。戸惑いながらも陽子は改め問いを投げ掛ける。
「
江寧が?」
うん、と首肯を見せる
江寧の傍らに、すす、と寄り添う小さな影。陽子は影へ視線を向けると、何処かで見覚えのある顔が景王をじっと見上げていた。
「如何にも」
「―――峯麒?」
声を聞き、それが蓬山に居た筈の芳国麒麟の雛であった事を思い出す。泰麒帰還の際に指令を駆り受けた際は本当に助かったと思いつつ、何故此処に居るのだろうかと更なる疑問が増える。首を捻る陽子に、峯麒ははっきりとした口調で景王の抱く疑問に応えた。
「こちらが芳国主上に在らせられます」
―――今、なんと。
告げられた事実を理解する事ができない。一体、どういう事なのか。こちら、と示すのは月渓にではない。元慶国飛仙に少年の視線が向けられているのだ。
「……まさか、」
「芳極国の新王は私になったんだ、陽子」
猜疑の言葉も虚しく、肯定の意を示す
江寧に陽子は愕然とする。この状況で彼女が嘘を吐く事など有り得ない。故に目前の少女が芳極国の新たな王。驚愕はそれ以上の思考を働かせてはくれず、呆然とした陽子に刹那声が掛けられる。
「別れの挨拶と侘びを入れたくて。それから、祥瓊を呼んで頂けると在り難い」
「あ―――ああ、分かった。誰か、」
陽子は誰とも無く官に声を掛ける。会話を聞い及んでいたであろう官の一人が了承の意を示すや否や駆け去る足音が響く。新王の提案に月渓は戸惑うも、それが彼女の計らいである事を在り難く受け取った。
女史は然程の間もなく連れて来られた。纏め上げられた紺青の髪を揺らして殿堂へ踏み入ると、少女の目前には懐かしき顔の者が二人―――禁軍右将軍と、元恵州候。二者の顔を見比べて一度閉口するも、景王に促され月渓の目前にまで歩み寄る。もう一生見る事の出来ない顔と思っていたのに。
「……月渓」
祥瓊はおずおずとその名を呼ぶ。呼ばれた男は一つ頷き、随分と変わられたと心底よりの思いを言葉にして零す。それで若干の緊張が和らぎ、祥瓊の肩から力が抜けた。
「まさか、このような形で再びお会いできるとは」
「私も驚いたわ……まさか、
江寧が峯王になるなんて」
親しげな言葉は僅かに月渓を驚かせるも、嘗ての新王との会話を思い起こす。そういえば、彼女と祥瓊は親しい仲であったか。
思いつつも確認の言はなく、次いで女史として宮に居る者の姿を一見する。襤褸を纏う事が辱めと叫ぶ彼女は、もういない。人は、こうも変わる事が出来るのだ。
「女史になったとお聞きした」
「ええ。これからもちゃんと景王を支えていくつもりよ」
柔らかな笑みを浮かべ告げる祥瓊に、月渓はようやく安堵の息を密やかに零した。これでもう、心配する事は無いだろう。そうして月渓もまた顔を綻ばせようとして、刹那祥瓊は微笑を消し改め面を上げる。顔は切なげな色を滲ませていた。
「月渓―――
江寧の力になってあげて。父のように、道を踏み外さないよう」
月渓はただ静かに頷き、諒承を示す。彼女の眼差しは強く、その言葉は彼女の役割を果せなかった事への後悔を含んでいるような気がした。
江寧と陽子は彼らに気を遣い、殿堂を出ると掌客殿への階段を数段登る。二者は最中にて佇むと、
江寧は手摺を掴み空を仰ぐ。斜陽の始まった空は茜色に滲み、遠景はじき夜陰を落とそうとしていた。
二者の間には暫し沈黙が訪れたが、やがて思い起こした出来事への情を胸中に留めた
江寧がぽつりと謝罪を口にする。
「ごめんね陽子。約束を守ってあげられなくて」
「いや……だけど本当に驚いた。まさか、
江寧が峯王になるなんて」
「うん、まだ実感も沸かない」
思わず苦笑を零す
江寧に、陽子もまた笑みを浮かべる。―――登極前は、確かに自身もそうだった。さも過去の自分を見ているようで複雑な心境を抱くも、陽子は軽く相槌を打つ。その反応を見やり少女は深呼吸を一つ済ませると、胸内の思いを明かす。
「……軌道に乗り始めたら、また会えるかな」
問いにも似た言葉に思考は自然と巡る。慶の荒廃は数年の復興作業で治るものではない。それと同様として考えると、国が軌道へ乗るまでに最低八年以上は掛かるであろうと想定できた。さらに大凡で予想を立て、陽子は口を開く。
「十年ほどだろうか」
「もしかしたら二十年かもしれないね」
「芳の国情はそこまで荒れていないと聞いた。多分、掛かっても十五年だろう」
軽く相槌を打つ
江寧もまた悩み、陽子の告げた予想に自然と首肯する。月渓が仮王として立ち国を傾けまいと力を尽くしてきたのだ、そこまで荒廃は進んでいないだろう―――。
思索していた陽子は、そこでふととある事柄に気付く。自身の経験は、他国とは方式が違うなどという事は無いのだろうが。
「そういえば、天勅は?」
「まだ。此処から蓬山に行くつもり」
「そうか……」
頷くも、陽子は思う。同じような年代の者が今、新たな王として君臨しようとしている。しかも同じ胎果となれば、何処か違和感を覚えざるを得ない。だが……彼女は一体これからどのような国を目指していくのだろう。
微笑を零しながら、
江寧の横顔を眺める。彼女を蓬山まで見送りたいが、生憎と今国を離れる訳にはいかない。ならばと、提案を胸に少女へ言葉を投げ掛けた。
「もし良ければ、護衛を着けても良いだろうか」
「ええ、良いけど―――」
目を瞬かせ、次いで頷きを見せる
江寧に、陽子は気を良くして階段の端に控えていた女官へ声を掛ける。手前へ招き、頼み事を口にした。
「禁軍左将軍を此処に」
「かしこまりました」
頭を下げ戸の向こうへそそくさと下がる女官を二者は見送る。陽子と
江寧は顔を見合わせ、次いで笑い合う。
―――最後の晩を、迎えようとしていた。
夜を迎え、その日は清香殿にて一泊する事となった一行は明日に備え其々が早々に就寝する。
江寧はもう少々陽子と話し込みたかったものの、疲労の所為か睡魔は酷く眠気を誘う。仕方なく就寝し、金波宮で迎えた朝は未だ日の出の気配が無い刻だった。
袍衫に着替え、出立の準備を逸早く終えた
江寧は起居を出ると不意に目を見開かせた。未だ眠っているであろう猩々緋が戸の脇にて待ち伏せしていたのである。驚きつつも二者は挨拶を交わし、禁門へと向かう為に近場の女官を手招き案内を依頼する。快く諒承の意を示した女官は身を反転させるや否や路を歩き始める。その後を追って、
江寧と峯麒もまた歩みを進めた。
最中、自身の名を呼ぶ声に反応し、
江寧は周囲に視線を巡らせた。何処に、と背後へ視線を向けたところで、小走りで駆け寄って来る二者の姿を捉える。
「
江寧」
それが誰であるかを認めて、少女は目を瞬かせた。久しぶりに顔を合わせる者達――酷く懐かしく、そして改め別れを惜しむ。
「虎嘯……鈴」
「峯王になったんだってな」
「おめでとう、
江寧」
「ありがとう」
照れたように笑む
江寧に、鈴もまたくすりと笑みを零した。暫し別れ、王となっても態度は変わらない。それは陽子と同じと思いつつ、鈴と虎嘯は笑う。傍でその様子を眺める峯麒は口を出さずに、別れの時までを見守る。
「……昔は、二人に迷惑を掛けていたね」
「俺は迷惑だなんて思った事は一度も無かったが……なあ?」
「そうね。
江寧には色々と助けてもらった事もあるもの」
虎嘯は同意を求め鈴を見下ろし、見下ろされた少女はくすくすと笑いを洩らしつつ頷く。二者の様子にほっと息を吐いて、
江寧は深く首肯する。―――じき、別れだ。
「いつになるか分からないけど、また会いに来るよ。それまで陽子を支えてあげて」
「分かったわ」
「ああ、任せとけ」
其々の言葉を聞き、それを区切りとして、少女は時を別つ事にした。
じゃあ、と会話を切り上げると再び歩を進める。鈴と虎嘯に見送られるまま峯麒と共に路を進み、先導していた女官もまた再び歩き始める。惜別の念を抱いたとしても決して後方を振り返らず、禁門までの路を進み続けた。
禁門の脇に位置する閨門を跨ぎ、潜り抜けた先にある禁門前の平坦な地。既に見慣れた足場の風景の中に、複数の点が見受けられる。既に出立の時を待っていた者が居るのだと思えば、早く起床した筈が一番遅く思われた。苦笑を浮かべつつ
江寧と峯麒は歩き始め、不意に禁門の前に居た男に名を以って呼び止められる。振り返ると、蓬山まで護衛として見送る者が二者の元へ歩み寄り、顔が次第に鮮明となる。
「準備は出来たか」
「うん」
桓魋の問いに
江寧は一度留めた足を再び動かしつつ頷く。向かう先には綻凌と月渓の姿が既にあり、少々離れた場に赤虎が座り込む。緋頼を一瞥した後に月渓らの元へ歩み寄ると、綻凌は
江寧の背後に立つ男に気付き視線を向けた。
「主上、こちらは」
「彼は慶国禁軍左将軍の、青将軍。景女王が蓬山まで護衛としてお着け下さった」
「景王が―――そうか」
綻凌と月渓が相槌を打ち、二者を見比べた
江寧は視線を薙がせると赤虎の名をを呼ぶ。ゆっくりと歩み寄るその姿に顔を綻ばせ、次いで禁門に背を向ける。面持ちを真摯として、出立の言をはっきりと告げた。
「―――行こう」
◇ ◆ ◇
慶国瑛州尭天山の禁門より出立した一行は西方へと向かい疾走を続ける。前方を禁軍将軍の二者が先導し、最後尾に月渓が着く。挟まれるように
江寧と峯麒の二人――正確に言えば二騎――が並び駆け、その態勢を保っていた。
前方を行く綻凌と桓魋をぼんやりと眺めつつ、
江寧は手綱を握り直す。何事かを頻繁に会話する様子を不思議に思い、ふと真横より幼い声が少女の耳に届く。声の元へ顔を向けると、峯麒が視線を前方へ釘付けたまま呟きを口にする。
「仲良いね、あの二人」
「桓魋と綻凌殿?峯麒にもそう見える?」
江寧の問いに頷きかけた少年はふと、主君の言葉を思い起こし内心にて復唱する。途端子供ながら顔を顰めて、その名を改め呼ぶ。字ではなく、本来の名を以って。
「
巴」
「なに?」
「もう王様なんだから、殿は付けなくても良いんだよ」
峯麒の指図に一瞬呆然として、指図を受けた少女は思わず苦笑を零した。地位的には将軍よりも上となったのだ、称を付けずとも呼び捨てで構わないのだろう―――。真面目な顔をした少年に笑いかけ、
江寧は短くも弁解を洩らす。
「ごめん、つい癖で」
「それは分かるけど……」
弁解を聞き受け、続け様に事を告げようとした峯麒は少女の差し出された掌によって言い止す。一体どうしたのかと、赤虎を前方の二者の間へ進める
江寧を目で追う。並ぶ吉量と趨虞の間へ滑り込んだ赤虎の姿に、桓魋も綻凌も目を瞬かせた。
「桓魋、綻凌、何を話してるの?」
「
江寧―――いや、ちょっとな」
「主上を呼び捨てとは……」
「いや、それは別に構わないんだけど」
会話が風に乗じて後方へ流れたのか、聞き受けた月渓は眉を顰め桓魋を見やる。振り返った三者の視界には月渓と、その前方には不貞腐れた顔をした峯麒の姿がある。
「仲睦まじいね」
峯麒の言葉に、三者は顔を見合わせて苦笑する。子供らしい嫉妬だろうかと思いつつ、
江寧は赤虎の疾走する速度を落とし元の位置へと戻る。峯麒を乗せて駆ける貂燕の眼は度々傍らの少女へと向けられたが、当人は敢えて気にする事なく遠景を眺める。何処までも広がる雲海、その水平線に浮かぶ物は一望したところで何も見受けられない。
江寧は方向の感覚を失いそうになるものの、途端桓魋の言葉によって再生を果たした。
「下はそろそろ青海に出るぞ」
誰もが足元の雲海越しに慶の地を見下ろす。最中に地は途切れ、本当に青海の上を飛行し始めるのだと思えば、途端少女の手が握り込んでいた手綱を手前へと引いた。急に留まる赤虎に驚き、月渓を乗せた積風は緋頼を飛び越えその前方を飛ぶ。誰もが慌てて騎獣と指令を引き留めると、峯麒が困惑した面持ちを傾かせて恐る恐ると問いをかける。
「―――主上?」
何も言わずに顔を俯かせ雲海の下を眺める主を気に掛けるも、少年の呼び掛けに反応はなく。一体どうした事かと綻凌と桓姙が顔を見合わせた矢先、耳を疑うような言葉がはっきりとした口調で発せられた。
「ここでお別れだ」
「え?」
誰もが驚きに目を白黒させた。意味の理解をし兼ねて首を捻ると、積風を引き留めた月渓がやはり困惑の色を顔に浮かべて少女に問う。
「主上、一体何を仰るのですか」
「私、恭へ行って来る。五日後、白亀宮で待ってて」
「恭―――」
綻凌が半ば呆然として呟き、桓魋もまた驚きに目を見開かせる。青海を疾走すれば蓬山まではあと少しだというのに、今さらになり他国へ向かうという。期待と共に新王を待つ者の気持を察すれば、逸早く蓬山へ向かう事が優先される。だが、
江寧にとって此処での決断は重要なものであった。
「最後に会うべき人達が居るから。礼を言わないと、私は天勅を受けられない」
真摯とした眼差しを四者へ向ける
江寧に、咎めの言葉を発する者は居らず。雲海上にて暫しの沈黙が下りた後、峯麒が項垂れかけた面を上げるとぽつりと言葉を洩らす。
「……五日後だね」
「うん、五日後」
「台輔……!」
綻凌の声が響く。焦燥を含む制止の言葉に峯麒が否と表し、指令の背を軽く叩く。再び蓬山へ向け疾走を始めようとしていた。その姿を在り難く思いつつ
江寧は西よりやや右側へと身体を向け方角を確認する。恭は確か、あちらだろうか―――。
さらに咎めようとする綻凌らに、峯麒は半身を向け視線を向ける。彼らの気持を察するも、彼女の意志は出来るだけ優先させたかった。
「行こう綻凌殿、月渓殿。
巴の最後の我儘だと思うから」
「―――」
峯麒の言葉に、綻凌と月渓ははたと動きを止める。最後の我儘―――そう聞けば、若干驚きながらも渋々と諒承をした。赤虎に騎乗し大袖を着込む少女を一瞥し、ご無事でと一言を添えて綻凌は背を向ける。月渓もまたそれに続き、峯麒は二者を引き連れて再び西へと滑走を始めた。
江寧は彼らの背を今暫し見送り、見えなくなった頃に残った者を振り返る。将軍の姿を見やり、これまで来た道を指差す。
「桓魋は慶に、」
「生憎と、俺は芳の新王を無事蓬山へ送り届けるよう主上より仰せつかっている」
言って、桓魋は口元を引き上げた。少女の言葉を遮断した上での主張に
江寧の驚きは一瞬。次第に失笑が零れ落ちて、最後に屈託のない微笑に変わった。
「―――相変わらずだね」
「まあな」
桓魋の返答は素っ気無く短くも、
江寧は軽く頷く。手綱を握り直すと、向かうべき方角へと身を向ける。
「分かった。行こう」
手綱をしたたかに振るって、吉量と赤虎は並び疾走を再開する。風を切り駆け抜けるその中で、
江寧は決意を新たにしようとしていた。
◇ ◆ ◇
恭国緯州、その中心部に悠然として聳え立つ連檣山。麓より裳裾のように広がる街並みは普段と何ら変わる事無く、しかし蒼穹の空に一つの変化が見られた。
一人の青年が舎館の大門を潜り出ると、大途にて数人の者が足を止め空を仰臥している。倣い青年―――胡典もまた空を仰ぐと、上空より緩やかに降下を始める赤と黒の二点があった。赤の点に見覚えのある胡典は、その人物を思い出し破顔する。再会は大凡にして三月ぶりだろうか。
ゆっくりと連なる建物の間へ降り立つ姿を捉え続け、胡典は尭衛を呼びに戻るか迷いあぐね、しかし大途へと踏み出した白藤の姿を目にして足は自然と彼女の元へと踏み出される。
「お帰りなさい、
江寧さん」
「胡典―――ただいま」
「尭衛さんなら奥の房室ですよ」
「分かった。ありがとう」
柔らかな笑みを浮かべた
江寧は緋頼を引き連れ胡典の横を通り過ぎる。青年は少女を目で追い、次いで続くように歩く男へ視線を移す。随分と身形の良い者だと思いつつも、厩舎の方角へ歩き去る二者の後姿を見送った。
厩舎へ赤虎と吉量を預け、
江寧は裏戸より舎館の中へ上がる。背後で鳴る足音を確認しつつ、廊下の角を曲がったところで桓姙へと話しかけた。
「慶に来る前は此処で働いていたんだ」
「この舎館にか……」
「うん」
角を曲がった先に広がる園林を一望した桓魋は、随分と良い場所で働いていたのだと感心する。次いで路に歩き慣れているらしき前方の少女を眺め、目を細める。―――別れを告げに来たのだ。思い入れが深ければ深いほど、惜別の念は強いだろう。
さらに廊下の角を曲がったところで、
江寧の足がぴたりと止まる。桓魋は何事かと声を掛けようとして、真直ぐに伸びる少女の視線を辿り、それが最奥に向けられているのだと察した。
息を呑む音が来たる静寂の中に響く。拳を握り、
江寧は再び一歩を踏み出す。戸前まで歩くだけだというのに、随分と時が経過したように感じられる。次いで閉ざされた戸を数回叩き、恐る恐ると押し開いた。
「失礼します」
戸の向こうに広がる光景は、旅立つ以前と何ら変わらない。懐かしさを覚えつつも、目前にて眼を瞬かせる女性と男性と視線を合わせる。一間を置いて、榮春がおずおずと口を開き訊ねた。
「
江寧……なの?」
「ただいま榮春、尭衛さん」
しっかりと頷きを見せる
江寧に、榮春の顔が途端ぱっと明るくなった。彼女が動けない事を思い出して
江寧が歩み寄ると、女性は差し伸べられた掌を両手で掴み取る。
「おかえり……!良かった、無事で」
安堵の息を洩らす榮春を見やって、
江寧は穏やかな笑みを作る。傍で二者の様子を眺めていた尭衛はふと、戸の前にて佇む男に眼をやる。
江寧の連れだろうか―――それにしては、随分と身形が良すぎる。
「
江寧、そちらは?」
尭衛は視線のみで背後を促す。榮春から視線を逸らした
江寧は面を上げ、次いで視線に気付き半身を背後へ振り返らせる。桓魋の姿を確認するや否や、ああ、と笑みを浮かべて再び尭衛を見やった。
「慶国禁軍の左将軍です」
「禁軍―――何故そんな方がお前さんと」
榮春と尭衛の顔が一瞬にして驚きに満ちる。特に、以前春官として務めていた尭衛にとっては六官其々の地位を理解している。それ故に受けた驚愕は大きい。何故、と問う男に対し、
江寧は無意識に眼を細め顔を俯かせた。遂に、言わなければならない時が来たのだ。
「……私が無事に蓬山へ辿りつけるよう、景王が計らってくれたから」
「景王?一体、どういう―――」
「景王とは友人なんだ、実は」
事を告げる
江寧に、二者は愕然とした。王と面識を得る事は容易い事ではない。だというのに、目前の少女は王を友人と言った。これがどういう事であるか、少女は理解しているのだろうか―――。
驚愕は一頻り。次いで榮春が相槌を打つと追求のためさらに口を開く。
「友人なのは分かったわ。でも……何故また蓬山へ?」
榮春の問いに、
江寧は微笑を消し去る。瞼をゆるりと落とし、意を決す。緊張を以って、彼女の疑問に応えた。
「―――私が、峯王として天勅を受ける為に」
告げた言葉に、どれ程の重みがあったのだろう―――蓬山と結びつく二つの単語。それは聞き受けた二者を唖然とさせ、次第に貌を歪めさせる。胸中に受けた衝撃は喉を震わせて、榮春は思わず否定の意を零す。
「……一体何を言ってるの」
「私は芳国麒麟と契約を交わしたんだ。だから芳極国の王として、天勅を頂きに行かねばならない」
「そんな……」
……では、彼女が帰ってきた理由は。
本来喜ぶべき事が、喜べないでいる。別れが唐突にやってきのだ……榮春はそれを穏やかに祝すよりも、自身の胸中に押し寄せる悲しみを押し留める事で精一杯だった。
「……本音を言うと、本当はもう少しだけ此処にいたい。でも……私は天命を受け入れたから、受け入れた以上はやれるだけの事をやりたい。だから―――」
言い訳染みたそれは
江寧の本心であったが、二者の驚愕を完全に和らげるものとまではいかなかった。尭衛は次第に事を受け入れ、榮春は面を俯かせたまま押し黙る。その様子に気を落としかけた
江寧の耳に、呟きのような小さな肯定が微かに届く。
「……そう」
「榮春、」
「別に怒っているわけではないの。貴女がそう決めたなら、それでいいと思う。……けれど
江寧、忘れないで」
ゆっくりと上げられた女性の面に浮かぶのは、哀しみただ一つ。まっすぐに視線を向けられて、
江寧の背に緊張が走る。……最後に、彼女の笑顔を見られそうにない。そう思いながらも、視線を合わせる。
「私達が仙籍に記載されていない、ただの人である事を」
……一瞬、
江寧の表情が硬直する。言葉の意味を理解し、胸中に榮春の言葉が刻み込まれる。顔を歪めかけた刹那―――
江寧は微笑を模った。
「―――分かった。ありがとう」
その笑顔を目の当たりにした尭衛は一瞬困惑するも、次いで苦笑を零した。そういえば、以前も舎館を出る時には笑顔だった。恐らく辛気臭いのは嫌いなのだろう。そう思えば尭衛もまた笑みを浮かべ、ふと未だ王宮勤めの少女を思い出した。彼女には、充分世話になっただろうに。
「青稟はどうする」
「後で書簡を送るつもり」
「そうか……」
確認の後に頷き、それを見終えた
江寧は榮春を一瞥すると踵を返す。床の軋む音にはたと榮春が顔を上げて、少女の背を視界の中央に留めた。
「じゃあ、また」
「ああ、またな」
交わされた言葉は、再会の意を篭めたそれが最後となった。
将軍を連れて戸の向こうへ消え去る少女の姿を最後まで見詰めた榮春は、閉ざされた戸の音を聞き、刹那顔を両の掌で覆う。
手の届かない場所に、彼女は登ってしまった―――そう思わずにはいられなかった。
すぐに蓬山へ向かうため、休憩を入れる事無く二者は厩舎へと歩を進める。先程来た廊下を辿り、裏戸を出るとそのまま赤虎と吉量が休む場所へと向かう。
江寧と桓魋は始終無言のまま、沈黙を保つ。厩舎へ辿り着き緋頼の目前に立つ
江寧は、途端柵棒に掛けた手を留めた。既に吉量を厩舎から出した桓魋は彼女の様子に気付くや否や歩み寄り、顔色を窺うために覗き込む。
「
江寧、大丈夫か……?」
優しく掛けられた言葉に、はたと桓魋の顔を見やる。近距離で合う視線に驚くも、すぐに離れゆく男を一瞥して安堵の息を落とし、再び面を落とした。
「……忘れてたんだ」
独白は低声で。何をとは敢えて問わずに、相槌を軽く打った桓魋は次の言葉を待つ。
「時が止まるのは、自分だけなんだって事を」
―――少女は先程また、と言った。だが実際、王が国を空ける事は決して容易い事ではない。官の制止を振り切り飛び出すのは構わないが、それでは示しがつかない。説得の上で会いに行くしか方法が無いのだが、果たして官が頷いてくれるかどうか。……つまり、確実に会いに行けるとは限らないのだ。
「
江寧、」
「治世が長く続けば続くほど、王の友人は減っていくんだね」
延王もそうなのだろうか―――そう僅かな疑問を抱きつつ、空を仰臥する。空に雲はない。……この蒼穹のように、何も変わらなければ良いのに。
「……引き返したいのか」
「それはないよ。自分で決めた事だから」
桓魋の問いに、
江寧は否と頭を横に振る。その反応に安心したのか、吉量の手綱を握り直した桓魋が安堵の面持ちで首肯した。
江寧は柵棒を取り外すと赤虎を厩舎から連れ出し、ひらりと騎乗する。慣れた動作は滑らかで、すぐに鞍へ腰を落ち着かせる。桓魋もまた吉量に跨り、次いで短くもはっきりとした言葉が耳に届く。
「―――十年」
「うん?」
「十年で、国を復興させる」
力の篭る眼に、桓姙は少女の宣言が真剣である事を悟る。その姿にどこか安堵を覚えて、しかと頷きを見せると横へ並ぶ赤虎の主の肩を軽く叩いた。
「そうか……頑張れよ」
「―――ありがとう」
男の言葉に微笑を浮かべて一つ礼を告げると、
江寧は握り込んでいた手綱を振るう。力強い跳躍の後に飛翔へと変わり、緋頼は風を切り裂き宙を駆け抜けた。続くように上空へ駆け上がる吉量は赤虎に追い着き隣へ並ぶ。それを横目で見やり、
江寧はいよいよと革め意を固めていた。
◇ ◆ ◇
江寧と桓姙が無事蓬山へ到着し白亀宮へ降り立つと、峯麒らが集い待ち侘びていた。
江寧が峯麒に駆け寄ろうとした時、衝立の向こうより次々と立ち入る者達の姿が宮内に並ぶ。女仙はそうして、峯麒の傍らに佇む者を認めるや否や、次々と伏礼をとる。異様な光景に眼を瞬かせる
江寧に向け、最前の女仙――禎衛が穏やかな口調で事を告げた。
「万歳をお祈り申し上げます。峯王ならびに峯台輔」
その言葉を聞き届けた周囲の者もまた次々と膝を屈す。慶の宮内の事もあって若干居心地の悪さを覚えつつも、寿ぎを告げた女仙に礼を一つ告げる。それに対し数人の者が驚くように顔を上げたが、芳の王と麒麟は然程気に留めない様子であった。
数日の間、
江寧らは蓬廬宮にて逗留した。月渓や綻凌は勿論、桓魋もまた天勅までを見届ける為に滞在している。
江寧は女仙の指示に従い丹桂宮へと招かれ、ゆるりと過ごす。当然の如く身の周りの世話をするのは女仙で、しかし自身で出来る事を他人にしてもらう事に違和感を抱く。女仙は女仙で仕事があるのだから、あまり手を煩わせたくはない―――そう正直に告げた際、その場に居た女仙らは皆驚きに満ちていた。
事を説明すると、
江寧の髪を梳きながら、少春は朗らかな笑みを零す。
「女仙にそこまで気を遣って下さる方はなかなか居りません」
「そう……でしょうか」
「ええ。峯王と峯台輔のお二方は胎果でいらっしゃいましたね」
「ええ、はい。服礼も慣れなくて」
「じきに慣れましょう」
少女の言葉に
江寧が苦笑を零せば、少春と周囲に控えていた女仙たちもまた笑う。果たして慣れは来るのかと不安に思いながらも笑うと、途端衝立の向こうより無邪気な呼び声が丹桂宮に響き渡った。
「
江寧!」
猩々緋を靡かせて、峯麒が衝立の間を擦り抜けて主の元へ駆け寄る。髪を結び上げる少春以外の女仙が
江寧から離れ、空かれた間に峯麒は飛び込んだ。少女の膝元に手を置き、眼を輝かせる。
「彩杼たちに転変を見せたら喜んでくれたんだ……!」
「そっか……赤麒だから、身体が赤いんだね」
「うん!」
元気の良い少年の声。それを和やかな表情で見守る女仙達と、穏やかな笑みを湛えたまま椅子に腰掛ける少年の主。しかし、峯麒は首を捻った。元気の無さそうな顔を見上げ、何処か具合でも悪いのかと不安に思う。
「……
江寧、大丈夫?」
「ええ……天勅まではまだ数日あるのに、緊張しちゃって」
江寧は苦笑で誤魔化す。忙しなく女仙の出入りがあってなかなか落ち着けないとは、流石に当人達を前にして言えなかった。そう、と納得を落とし離れる峯麒は、ふと言伝を思い出してはたと動きを止める。
「それから、月渓殿と綻凌殿が先に芳へ戻るって」
予想外の報告に、
江寧は眼を数度瞬く。天勅の前まで蓬廬宮にて待機していると思っていた。だがよくよく考えてみると、天勅の後に玄武に乗るのは王と麒麟のみ。見送りの後に蓬山を出ては二者の到着を迎える事も出来ないのだろう―――。
「見送りは不要って言ってたよ」
「そっか―――」
相槌を打ち、椅子の背に凭れた
江寧の口からは自然と溜息が洩れる。天勅を待ち遠しく思う反面、緊張は高まる。ぼんやりと天井を仰臥しつつ、未だ見ぬ極国の地に思いを馳せていた。
数日を経て、来たるは吉日。
丹桂宮で過ごした数日とは違い、早朝から女仙に起こされた
江寧は意識を微睡ませながらも臥牀から下りると、数人が着替えに取り掛かる。今日ばかりは念入りにと丁寧に髪を結えられ、衣服に皺は一つも無く着せられ、さらに細かな飾を彩られる。床を若干擦る程の長い裳裾を歩く度に引き、長袍は揺れはためく。天勅が大切な儀式である事は
江寧にも理解出来るものの、些かやり過ぎではないだろうかと内心にて思う。
全ての用意を終えた女仙はそそくさと
江寧の周囲から離れ、道を開けた。数人と入れ替わるように禎衛が丹桂宮へ赴き、王の先導を担当する。そうして身を反転させ歩き出す禎衛の姿を追って丹桂宮より出た
江寧が歩くこと暫し―――蓬廬宮の北方に位置するは、雲梯宮へと辿り着いた。
峯麒は既に正装を終えて王の到着を待っていた。女仙の誰もが黒を基とした衣服を身に纏い、そして次々と平伏する。その光景は嘗て白亀宮にて目にしたものの、黒の群衆では印象が異なる。不思議に思いながらも前方へ向き直れば、穏やかな顔付きをした女性―――碧霞玄君が深く一礼をした。
「王にも台輔にも、末長くご健勝であらせられますよう」
玄君に対して、峯麒は出来る限り深く一礼し、
江寧もまた丁寧に頭を下げる。改め前方へ向き直り、目前となった透明状の階を見上げれば、遥か頭上より淡く差し込む光が一段一段を照らす。
江寧は峯麒と一度だけ顔を見合わせ、同時に階段への一歩を踏み出した。
……途端、背に走る戦慄にも似た感覚を受けて、二者は身を硬直させる。
―――いわく、元初に九州四夷あり。
百姓条理を知らず、天子条理を知れどもこれを嗤いて敬うことなし。天地の理を蔑ろにし、仁道を疎かにして綱紀を軽んずること甚だし。風煙毎に起こりて戦禍万里を塵灰にす。人馬失われて血溝を刻み大河をなす。
階を照らす光に
江寧と峯麒は包まれ、天の言を受ける。情報が脳に刻まれていくようで、しかし苦痛は決してなかった。
そうして迷う事無く次の一歩を踏み出す。
―――天帝、これを愁えて道を解き条理を正さんとせんも、人淫声に耽溺して享楽を恣にす。帝悲嘆して決を下す。我、いまや九州四夷を平らげ、盤古の旧にかえし、条理をもって天地を創世し綱紀をもってこれを開かん、と。
大方の意味を理解しつつ、二人はさらに透明な階段を踏み上る。次第に光は強くなり、書き込まれ続ける情報は膨脹する。これが天の意かと関心を抱き、さらなる一歩を踏み締めた。
―――帝、十三国を拓き、中の一国をもって黄海・蓬山となし、王母をしてこれを安護せしむ。残る十二国に王を配し、各々に枝を渡して国の基業となさしむ。
一虫あり。解けて天を持ち上げこれを支う。三果あり。一果落ちて玉座をなし、一果落ちて国土をなし、一果落ちて民をなす。枝は変じて玉筆をなせり。これをもって開闢とす。
痛みのない電流を足元より受け続け、聴覚が失われる。天の意は直接脳に刻み込まれているらしく、それを決して忘れる事はない。天勅とは文字通り、天よりの勅命を賜るものであったか―――。
―――太綱の一にいわく。天下は仁道をもってこれを治むべし。
……途端、光が失せた。
江寧と峯麒は恐る恐ると瞼を押し開く。そこにあった階段と光は既になく、目前に映るは広大な雲海。蒼穹が視界の大方を埋め尽くし、次いで真横に並ぶ猩々緋を見下ろす。少年もまた呆然として、天勅を終えた感覚は漠然としかないようだった。
「あとは進香を終わらせるだけだね」
「う、うん―――」
戸惑いつつも頷いた峯麒は、歩みを進め始めた
江寧の真横に並ぼうと小走りで駆け寄る。その姿に顔を綻ばせて、途端
江寧は足をその場に留めた。少女よりも一歩を前進させた少年は不思議に思い、身を振り返らせた。どうしたのかと問う前に、
江寧は峯麒の本来の名を口にする。
「和真……後悔は、ない?」
穏やかな声を以って告げられる問い。それを聞き受けた和真は確たる自信を以って、満面の笑みを浮かべる。
「何を今さら」
少女の目前へと回り込んだ峯麒は、正面より
江寧を見上げる。一間を置いて、目を細めた少年ははっきりとした口調で応えた。
「僕は
巴に着いていく」
……その小さな麒麟の答えが、彼女にどれ程の安堵を与えたことだろうか。
雲海より吹き込む風に白藤の髪を靡かせながら、蒼穹の空を背に王は柔らかな微笑みを浮かべる。見下ろす瞳は優しげに細められていた。
「―――ありがとう」
差し出された
江寧の掌に、峯麒は迷いなく自分の手を重ねて強く握り締める。
……この手が、決して遠くへ離れることのないように。
永和十年十二月 赤麒還蓬山
飄旋黄旗於天下
十一年六月 芳主峯王巴立
峯王巴 姓清坂字江寧 胎果生
三月 入令乾門抜黄海 昇蓬山授天命
度下山後渡戴 公留王気跡追駆
峯麒盟約 復芳国上龍旗