白夜の空明 緋の曙光

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主人公設定
-設定注意-


・登場人物は後の芳極国女王(胎果)
・次の芳国麒麟が胎果の赤麒
・峯王登極前には再び戴国に泰主従が戻っている
・多少の設定矛盾
・表示できない文字は代わりの文字を使用
(PCからのUPなので、勝手に変換される文字もあり)
 など
上記を踏まえた上で閲覧をお願いします。
閲覧後の苦情はご遠慮下さいまし。


-人物設定-


■蓬莱
髪色:黒   眼色:黒
■十二国
髪色:白藤   眼色:菖蒲
■共通
性別:女
年齢:十五(※序章時)

家庭や友人などの取り巻く環境に疲れ、何の生きる目的も見出せないまま生活を送っている少女。
当時高校一年生。(高校生活は僅か一月半)
五月中旬、高波に轢き流されて、気が付けば恭州国の海岸へと漂着してしまった。
自分の生には関心がないくせに、他人の生き死にとなると何故か必死になる。
十二国へ流されてからは、とある人物の指摘により自分のために生きるという事をようやく学び始める。
■補足:高校では元弓道部。それ以前、小学中学年の頃より弓道を習っていたので趣味を越えて特技と化した。
■騎獣:赤虎。名は緋頼(ひらい)。猛獣として扱われる騎獣だが、彼女には従順。
名前
名字


- 拾壱章 -




 斜陽によって黄櫨染に滲む雲海は穏やかに細波を立てて馬蹄形の孤島に打ち寄せる。砕ける波の音は蓬莱の海岸を思い起こさせ、露台の手摺にて頬杖を着いていた江寧はそっと瞼を落とした。水音が心地好く思えて、視界の遮断によって来たる睡魔が意識を蝕み始める。うつらうつらと船を漕ぎ始め、途端掛けられた背後からの声によって江寧は思わず飛び上がった。駆け上がる鼓動に胸を押さえつつ振り返った先にあるのは、鋼色の髪を持つ青年。

江寧さん、主上がお呼びです」

 泰麒の言葉は穏和を装うも、上下する肩に駆けて来たのだと分かる。火急であるのだろうかと江寧が首を捻りつつ頷けば、泰麒は相槌を打ち踵を返す。普段と比べて足早な青年の姿を眺め、その背を追いかけた。















 二者の間に無言の沈黙が降りたまま、白面の廊下を渡る。呼ばれた以外の情報を全く知らない江寧は案内役として前方を歩む泰麒に問いかけようとして、刹那閉口する。態々此処で知らずとも、用件は泰王直々に話してくれるだろう。そう思案しながら歩を進めていたところで、前方を行く泰麒の足が止まった。傍らには両開きの框窓らしき扉があり、その片扉が僅かに開かれている。皮甲を纏った兵の横を通り過ぎ、泰麒と江寧は扉の間から中へ滑り込む。衝立を避け、堂室へ足を踏み入れたところで椅子に腰掛ける男の姿を視界に留める。次いで二者が声を掛け拱手をすれば、男の視線はそちらへと向けられた。

「来たか、江寧
「何か御用でしょうか」

 拱手と同時に伏せていた顔をゆっくりと上げる。青みがかった白銀の髪はいつ見ても不思議だと思いながら、ふと視界の片隅に小さな緋色を見つけた。一体何かと視線を王より逸らしたところで、江寧の顔が硬直する。目を見開かせまじまじと緋色を眺める少女に、驍宗はああ、と軽く頷き視線を少年へ向けた。

「―――」
「知っているとは思うが、こちらは蓬山公だ」

 驍宗の言葉にやはりと顔を引き攣らせて少年を見下ろす。……蓬山にいる筈の蓬山公が何故此処へ。そう思うも、口に出すまでには随分と時間が掛かってしまった。

「公、何故―――」
江寧を追ってきたから」

 少年のはっきりとした断言は江寧を困惑させる。淋しくなって此処まで追いかけて来てしまったのだろうか。女仙には此処へ来る事を告げたのだろうか。……やはり、蓬山公に会わない方が良かったのだろうか。
 複雑な心境を抱きながらも面は冷静を装い、江寧はあくまで公に対しての接し方で言葉を掛ける。

「公には大役がお在りの筈。私の元に来るよりも早く王気を見つけて、」
「僕は王気を見つけて追ってきたんだ」

 江寧の言葉を遮断して告げる事実に、一瞬耳を疑った。言葉を失い、その意味をよくよく理解して公を改め凝視する。江寧はそれほど、少年の言葉に驚愕と困惑を感じていた。

「……今、なんと」
「公としての大役を果たしに、王気を追って白圭宮へ来たんだよ―――江寧

 真摯として見上げ続ける少年を前に、江寧は呆然とする。今現在王宮に滞在する他国出身者は少女ただ一人。では、目前の麒麟が目的として追った者は。

 ……峯麒は先程、自身を追って来たと言ってはいなかったか。

 至る思考に、此れまでにない程の衝撃が背を駆け抜ける。それと同時、事実を否定しようと必死に頭を横へ振った。

「違う……有り得ない」
「有り得なくない。今こうして会いに来ているんだから」
「きっと何かの間違いだよ」

 江寧の否と叫ぶ声に、峯麒の顔が自然と歪められる。期待していた首肯はなく、並ぶ否定の言葉は前向きな印象を崩壊させる。何故、と峯麒が問いかけるその前に、江寧は言葉を紡いだ。

「私は王の器じゃない」
「器はなくとも資質はあるのだろう」
「泰王君まで―――」

 最中に口を出す泰王の言葉を聞き眉を顰めた江寧は反論を挙げようとして、しかし間を置く事無く再び泰王が説得の言を綴る。

「峯麒が江寧の前で叩頭を出来るのなら、江寧が王である事に違いはない」

 驍宗の言葉に、峯麒ははたと気付く。孤高不恭の生物である麒麟は主以外に頭を下げる事が出来ない。ならば今此処で叩頭礼をすれば、否定を続ける少女も納得をせざるを得ないだろう。
 少年はゆっくりと身を屈め膝を折る。地に着き手を床へ置くその姿を泰王と泰麒が眺めていた刹那、堂室に叫ぶ声が反響した。

「待って!」

 その声に、思わず声の主以外の三者が振り返る。少女の顔は蒼白として、微かに肩を震わせ立つ。やっとの事で搾り出された叫び声は若干掠れ、それでも受け入れようとする気配は見られない。

「猶予を下さい……まだ、受け入れられない」

 少女は俯き悄然としながらも、やはり首肯の様子はない。混乱する脳内を整理しようと必死に思考を巡らせるものの、衝撃に惑わされて事実を呑み込む事も難しい。僅かに眩暈さえも感じて、江寧は思わず片手で額を押さえた。

「出身の国が分かったと思えば、いきなり頂点に立つなんて」

 自身の出生が判明した事は非常に喜ばしい事ではあるが、それがこのような形で判るとなれば別である。……判明と引き替えに、人である事を捨て行くのだから。

「芳の事は全く知らない。足を踏み入れた事だって、」
「僕も無いよ」
「―――蓬山に居た時、峯麒は何も言ってなかった」
「その時はまだ王気がどういうものか解らなかったから」
「でも、」

 否定の言葉は続く。峯麒は少女の台詞に言葉を付け加えるが、それでも拒否は紡がれ続ける。嘗て出会った際の冷静など微塵もなく、その様子を見据えていた峯麒が思わず溜息を零した。……彼女ならば、すぐに頷いてくれると思っていたのに。
 少年の淡い期待は打ち砕かれ、しかし此処で後退する訳にもいかない。王気を纏う者は目前に居て、だが契約を拒否する。複雑な心境を抱き、その思いは自然と峯麒の口から零れ落ちた。

「……逃げたいの?」

 静かに零された言葉を聞き受けて、途端震えていた江寧の肩がぴたりと治まる。はたと我に返り心情を掘り起こし、その本心を自身で確かめる。次いで強張っていた少女の顔が次第に解れ、小さくなりつつある声で一言呟いた。

「―――そうかもしれない」

 軽く頷きを見せる江寧に、驚き軽く目を見開かせたのは泰麒だった。今までに弱気な少女は何度か見た事があるものの、ここまで後込みする様子は初見である。盟約ならば仕方無いと思うも、やはり彼女が後退りする事に若干の違和感を抱く。

江寧さん、」
「その大役を引き受けるには相当な覚悟が必要だと思う。だけど、現実を受け入れる事さえ拒否している今の私に、そんな覚悟が出来るわけない」

 断言は悲痛な声音を伴う。拳を作り視線を逸らし、視界には白面と其々の足元を映すのみ。堂室には痛いほどの沈黙が落ちて、それが自身の所為である事を知りながらも、今の江寧では決して頷く事が出来ない。

「―――ごめん」

 峯麒の泣きそうな顔を視界の端に捉えたが、今の江寧にはそれ以上の言葉を掛ける余裕さえも消えていた。



◇ ◆ ◇



 夜陰の降りた雲海は、月光のみを水面に映し揺れる。波は小さく、穏やかな一面は白圭宮の特有である月白色の壁との境界を明確に浮かび上がらせる。波により歪む狭間を露台からぼんやりと見下ろして、江寧はそっと溜息を落とした。


―――私が王なんて。


 一国の民の命を背負わなければならない、その責任は何にも勝る重圧と言えよう。陽子はそれに耐え切ったのだと思えば、あの緋色が尊く遠い存在であるような気がする。嘗て彼女も通った途はしかし、酷く険しい道程のようにも思えた。
 回避は能わず。天命を受け入れる外に選択肢はなく、もしも受け入れねば人としての終焉が待つ。行き場の内情が胸中に渦巻いて、殊更に重圧を増した。


―――どうすれば。


 江寧は顔を俯かせて思索に耽る。そうして暫し思考を巡らせたところで、ふと堅い足音が遠方より届けられた。次第に近付きつつある音の方角へ視線を向けると、そこに見えるは中年の男性。整えられた身形から、高位の官である事を悟る。

「やはり、迷っておられるようだ」

 渋みある声を聞き、江寧は戸惑うように眉根を寄せた。見知らぬ顔の男が何故、自分を知っているのだろう。そう不審に思いながらも男へ向き直り、頭を僅かに傾げてみせる。

「貴方は……」
「芳極国仮王、月渓と申す」

 男の丁寧な礼節を前にして感心するも、聞き覚えのある名に江寧は道理で、と納得を落とす。元恵州候―――以前より会ってみたいと常々思っていた者が目前に現れやや戸惑いはあったものの、江寧は顔を微かに綻ばせた。

「貴方が月渓殿―――祥瓊から話は窺っておりました」
「……祥瓊様の知人であったか」

 驚きに目を見開かせたのは男――月渓の方だった。元芳国公主の名が近日で極みへ登る者の口から零れようとは予想出来る筈もなく、名の呼び方からして親しいのだと察した。随分とお変わりになられた―――そう内心で呟き、月渓は僅かに目を細める。次いで間を置かぬようにと、別の話題が紡がれる。

「蓬山公より、盟約を迷っているとお聞きしたが」
「ええ―――はい」

 月渓の問いを受け、江寧は静かに首肯する。他者――それも今現在芳の頂点に立つ者――よりその内容の問いを投げ掛けられる事に胸が痛む。苦笑を浮かべようとして、不意に微笑が消失した。苦渋へ変貌した表情は、それに気付いた江寧自身がすぐに解く。詰めかけた息を吐いて、露台の手摺へ凭れ掛かる。

「重圧に……重荷に耐えられなくて、逃げてしまった……」

 それを仮の王に向け告白する事に、どれだけの勇気を要しただろう。近々王となる者が弱音を見せるのは酷く頼りなく思われるのかもしれない。その可能性を脳裏に過ぎらせつつ綴る言葉は僅かに掠れていた。

「正直、情けないです……いざという時に決断出来ないなんて」

 江寧の言葉に、月渓は閉口するまま耳を傾ける。少女の視線は足元に落ち、地より上がる気配はない。意気消沈としながらも、独白を止める様子は無かった。

「王の苦労を傍で見ていた時もあったのに、大変そうだなと思うだけで結局他人事のようにしか思ってなかったんです……親身に感じていれば、すぐ頷ける筈なのに」

 首肯が出来ないとは、つまりそういう事になる。陽子らの苦労を心底より理解しようとしなかった事の表れだった。沸々と篭る情を覚えて拳に力を入れる。逃げたいのかと問うた峯麒の声も鮮明に甦り、肯定してしまった事への後悔が募る。……なんて、情けないのだろう。

「自身が浅はかで……腹立たしい」

 江寧は手摺に背を凭れたまま、首をゆっくりと空へ擡げる。五歳の少年が大役を果たす為に態々蓬山を下りて来たというのに、それに応えられない自身に腹を立てる。どうしようもない苛立ちは多情と混濁して冷静を掻き乱す。顔を顰める少女の横顔を見やって、抱え込む感情を察した月渓はふととある事柄に気付いた。

江寧殿は、王一人が国を作るものと考えているようだが」

 月渓の問いに、擡げていた首を戻した江寧は男に視線を向ける。首を捻り、一間を置いてええ、と数度軽く頷いてみせる。少女の首肯を見やって、月渓は言を続けた。

「貴殿が一国の重荷を全て背負わねばならないと思うのであれば、それは間違いだと断言しておこう」

 はっきりとした口調で告げる男の言葉に、少女は目を瞬かせる。
―――そういえば、無意識にそういった思想を抱いてしまった。国を一人で任せられるような気がして、それが責任の重さとして考え竦んでいたのかもしれない。
 月渓の言葉を聞き終えた江寧はふとそう考え込み、口元を覆うように手を宛てる。

「孤高とならぬ限り、我々は主上を支え続ける。多くの官も台輔も、新たな王を待ち続けていたのだから」

 希望を含み告げた仮王の言は、じき王となる者の情を揺るがせる。見上げる瞳が僅かに泳ぎ、すぐに面を雲海へと向ける。穏やかな波に乗る風が緩やかに露台を吹き抜けて、頬を撫ぜ行く。視線は次第に昇り月を仰臥し、江寧はそっと呟いた。

「……吟味の多い王でも、着いて来てくれますか」
「無論。我々には支えるべき王が必要だ」

 しっかりとした返答を聞き受け、江寧は半ば安堵したようにゆるりと瞼を落とした。


―――やってみるしかない。


 王宮の事も、政の事も、国情も解らない。それでも王として芳を現状よりも善く出来るというのならば、天命に従いやらねば。

 決する思いを固め始めた江寧は傍らの男と視線を合わせる。一つ首肯を示し意を伝えようとしたところで、静かな足音が耳に届く。二者は露台へ向け開く戸の方角を見やり、歩を進め来る男の姿を捉えた。

「ああ、こちらに居りましたか主上」

 戸の影より現れた男は普段の皮甲を纏わず、軽装のまま二者の元へ歩み寄る。うっすらと笑みを浮かべ月渓の隣に立ち並ぶと、少女を見下ろした。江寧は困ったような顔をして芳国禁軍右将軍をやや仰ぎ見る。

「綻凌殿―――まだ契約は、」
「それは分かっている。ただ、これからそう呼ばれるのであれば慣れた方が良いだろうと思ったのだが」

 薄く笑む綻凌は、じきに王となる者の前と言えど態度を変える様子はない。江寧は言葉を受け取り一瞬呆然として、貌は次いで苦笑へと変わる。呼ぶ側としては既に慣れたものの、呼ばれる側としては何とも違和感を感じる。果たしていつ慣れるのだろうかと思いつつ笑みを浮かべると、綻凌が再び口を開いた。

「腹は括ったか」
「覚悟は未だ、」

 頭を横へ振りかけた江寧を眺めていた綻凌は即言葉を制す。それを疑問に思い首を捻る少女に、綻凌は薄く笑みを浮かべるまま否と告げた。

「そんなものは必要ない」
「え―――」
「綻凌、」

 傍らより月渓の咎めにも似た声が挙がる。短な言葉は落ち着きを以って出されたが、仮王と視線を合わせた綻凌は一度頭を振り、すぐに江寧へ視線を戻す。眉を顰めたまま見上げる少女の眼を覗き込むようにしながら、一度咎めかけられた言葉を紡ぐ。

「そういったものは追々に決めていけば良いものだ。今は気楽に考えておけば良い」

 覚悟とは何かを決行する為の意志であり、天命を承ることに覚悟は必要ない。そう言い回し告げた綻凌に、二者の視線が向けられる。物言いたげな傍らの視線に苦笑し、では弁解をと再び口を開いた。

「単純と思われるのは構わんが、実際此処で覚悟を決めたとしても王として動けるのは一月も後だ。今から肩に力が入ったままでは、疲れるのは時間の問題だぞ」

 告げられた言葉を飲み込むや否や、江寧は思わず目を瞬かせ呆然とする。登極してからの後に猶予がないものと思い込みがあったが故に、意外にも時間がある事への驚きが途端破顔した表情に含まれる。―――それで今から張り切っていては、流石に疲れてしまうだろう。

「―――そっか」

 綻凌なりの考慮に、江寧は微笑を零す。二者に礼を一つ呟くと、再び月を仰臥した。


―――しっかりと、向き合わなければ。



◇ ◆ ◇



「そういえば、綻凌殿は何故此処へ?」

 凭れていた手摺から背を離したところで、江寧の脳裏にふとした疑問が過ぎる。頭を傾げる少女に対し、綻凌はああ、と相槌にも似た首肯を見せる。僅かな間を置いて、男は誰に向けるわけでもなくさも独り言のように呟いた。

「―――確かめておきたくてな」

 江寧はさらに首を捻る。月渓は疑問に思うふうを見せず、大凡察しているようだった。一体何を、と問おうとした矢先、綻凌は僅かに目を細め緩やかに口角を引き上げる。細められた目は二者を捉え続けていた。

「天の配剤だ」
「配剤……?」

 答えを得たところで理解は出来ず。聞いた事のない言葉に江寧は眉を顰め、月渓はやはりと瞼を伏せる。彼が察していた事柄は的中していた。
 二者の貌の違いに思わず苦笑を洩らして、綻凌は少女の為に説明を始める。

「例えば、王気を持つ者が蓬山へ向かおうとする。天はその者を手助けする為に様々な人を動かす」
「それって……」
江寧は黄海に興味があり、偶然にも蓬山へ向かう傲隹に勧誘され黄海へ向かう事になった。傲隹と別れた後には私が手を差し伸べて、無事に蓬山へ着く事が出来た―――これで解るだろうか」

―――鵬翼に乗る。
 少女の脳裏に過ぎる、剛氏の諺。王気を具える昇山者の旅路は楽だと。……だが考えを一変させると、彼らは鵬翼に乗ったのではなく天の配剤として乗せられたのかもしれない。そのどちらであるか見極めようと、江寧の目前に立つ男は今確かめに来たのだろう。そうして僅かの間を思いあぐね、江寧は恐る恐ると問う。

「綻凌殿は、配剤として動かされた?」
「どうやらそうらしい。鵬翼に乗ったのみならば、恐らく此処には居ないだろう」

 綻凌は差して気に留める様子もなく笑みを浮かべたまま、しかし途端にそれは苦味を交えて軽く溜息を吐き出す。貌に滲ませる情は僅かな切なさだった。

「しかし、二度目も駄目だったな」

 惜しむ言葉の意味を一瞬理解し兼ねて首を捻り、刹那それが昇山の回数である事に気付く。それで江寧は苦笑を零し、月渓は無言のまま夜空を振り仰いだ。

 月に曇りはなく、その光を眺めて明日への期待を抱く。夜が明け、遥か遠き極国の王宮にて白雉が一声する事を願う。

























 明朝、未だ仄暗い臥室の臥牀にて浅い眠りから意識を覚醒させた江寧は、二重に垂らされた錦の幄を被衫姿のまま潜り出る。玻璃越しの風景、露台の向こうに広がる雲海をぼんやりと眺めながら佇む事暫し。履に足を突っ掛けると戸をゆっくりと開き露台へと出た。陽の出前の潮風が冷たく心地好い。手摺に肘を着き、そっと瞼を落として改め決意を固めた。

―――大丈夫、怯む事など何一つない。

 その落ち着きは、昨日の動揺がまるで嘘のように思えた。これも月渓と綻凌のお陰と、内心二者への感謝を述べる。穏やかな心情で雲海を一望する刹那、背後より複数の足音が響き半身を振り返らせる。そこには三人ほどの女官が露台へ降り江寧の前に並び立っていた。

「失礼致します―――御召替えを」

 告げつつ、丁寧に頭を垂れる女官。その腕に抱かれた長袍を見やり、江寧は思わず苦笑を零す。どうやら、今日か明日で白圭宮を離れ行く事になりそうだ、と―――。







 午を過ぎようやく朝議が解散した事を知った江寧は、堂室にて今後の予定を思案していた。

 まずは延王や景王の元へ知らせなくてはならない。特に陽子とは交わした約束があったのだから、それを果せない事への侘びを告げなくては。祥瓊や鈴にも伝えたい事があって、話したい事は山程あるがそれを長々と話し込む事は出来ない。桓魋や虎嘯や夕暉、楽俊にも会いたい。忘れてならないのは恭の尭衛や榮春達へ。特に黄海へ行く際に一番心配を掛けてしまった榮春には、しっかりと説明をせねば。

 いざ考えると、寄るべき場所が多い事に気が付いた江寧は僅かに驚いていた。いつの間にか、これだけ大切に思う者達が居た。それが今になってようやく理解し、惜別の念を抱く。一生の別れではないが、少なくとも十年前後会えない事は確実である。

「なんて、遅い……」

 悄然とした江寧は深い溜息を吐き出す。そうして次を考える間もなく、戸を叩く音が耳へ届く。顔を上げ短くも返事をすれば、軋みの音を上げ開かれた戸の間より複数の足音が踏み込む。衝立の向こうより姿を現したのは、朝議の解散から直行した泰王と泰麒、それから昨晩江寧を訪ねた二者の姿があった。

「皆様、お揃いで」
「王となる意を決めたとの事を聞き及んだのでな」

 其々が大卓の傍に置かれた椅子に腰掛け、あるいは堂室の壁に凭れ佇む。静かに一つ首肯を示した江寧を認め、驍宗は戸を遮る衝立の方角へ顔を向けた。物音一つない戸の向こう、声を掛け名を呼ぶと、恐る恐ると姿を現したのは緋色の髪の少年。

江寧、」

 先日の落胆を引き摺っているのか、若干気落ちした様子のまま上目遣いで江寧をじっと見やる。その視線を受けて、少女は柔らかな笑みを湛えつつ手招きをした。おずおずと踏み出した一歩は慎重に、二歩は今まで重かった足取りを僅かに浮かせて、三歩は歩幅を広くして江寧の元へ歩み寄る。やんわりと差し出された少女の掌に峯麒は自身の手を乗せると、両手で温かく包み込まれた。

「何処まで出来るのかは分からない」

 うん、と峯麒が相槌を打つ。神妙な面持ちのまま江寧へ視線を据え、いつの間にか静寂の保たれた堂室にて、少年は肩で息をしながら次の言葉を待った。

「それでも、前向きに考えようと思う」

―――どれほど、その言葉を待ったことだろうか。

 少年の心は一晩の間、不安と焦燥によって揺らぎ続けていた。
もしやこのまま契約出来ずに、彼女が死んでしまうのではないか。否、それよりも自分が嫌われている可能性が。どうすれば理解してくれるのだろうか―――思いは交錯し、混濁し、少年を惑わせる。だが……その胸中が今、一瞬にして晴れたのだ。
 憂いの貌を晴らし、次いで視界が歪む。落涙を堪えようとして、少女の掌の温度を改め実感すれば頬を伝うものがあった。

江寧……いえ、主上―――」
江寧でいいよ、和真」

 少女はゆるりと頭を横に振る。呼ばれた名を聞き再び泣き出しそうになり、顔を見やった江寧はふと思索を走らせああ、と声を零す。何かに気付いたように視線を逸らし、再度視線を峯麒へ戻した。

「……いや、でいいか」
「え?」
「いつか要と一緒に丘へ遊びに行ったね」

 一瞬、峯麒は唖然とした。暫し目を瞬かせ、次いで視線を泰麒へと向ける。柔らかく笑む青年の様子に、目前の少女が告げた言葉は真実である事を悟る。驚愕はじわりじわりと心情を侵食して、再度おずおずと問いを掛けた。

なの……?」

 江寧は笑みを湛え、頷く。それでようやく波のように押し寄せる感情を胸に満たして、次いで喉元まで一気に押し寄せた言葉が峯麒の口から叫びとなって吐き出される。嬉々とした情に勝る、その疑問。

「何で……どうして早く言ってくれなかったの!!」

 癇癪を起こしたような叫びに誰もが目を丸くするも、江寧は苦笑を零す。微かに震える少年の肩に片手を置くと、峯麒は自身の肩に乗せられた手と目前の少女の顔を見比べる。不満の色を顔に滲ませ口を引き結べば、江寧は穏やかな口調で訳を述べた。

「私に懐いたら、蓬山公としての役目を果せないんじゃないかと思ってたから」
「それは―――」

 江寧の言葉に、峯麒は思わず閉口する。蓬山にて、彼女の元へ通っていた事は事実。懐いたと思われて――勿論懐いていたのだが――当然だった。反論の意も無く気を落ち込ませて顔を俯かせると、すぐに少年を呼ぶ声がある。目線のみを声の主へ向け、僅かに頭を傾げた。

「でも、今は安心して名乗れるよ」

 柔らかな笑みと穏和な声を聞き受け、垂れていた頭を上げて江寧を見やる。嘗ての顔と違えど変わらない雰囲気。……今度は、死ぬまでこの手を離すことはない。

―――ようやく、この時が来た。

、これからも一緒にいてくれる?」
「ええ」

 首肯は力強く。峯麒の手を包み込む掌に力が篭る。それを感じ取った少年は一つ頷いて、再び問うた。

「国を見棄てたりはしない?」
「絶対にしない」

 これにも江寧は頷いて、真摯とした少年の問いに応えた。菖蒲色の眼は揺らぐ事無く緋色を見詰め、次の問いを待つ。

「民を思惟してくれる?」
「うん―――約束する」

 微笑みを湛える少女の姿が近くなる。掌が離れ、それが背にある事に峯麒は気付く。強く抱き締められて、少年は思わずそっと瞼を伏せた。

―――嘗ての曙光を思い出した。

 こんなにも早く誓いの日が来るとは思わずに、こんなにも近くに会いたいと願っていた者がいたとは思わずに、蓬山で過ごしてきた日々を顧みて、そして思う。


 かけがえの無いものが今、此処にあると。


 腕の中から解放された峯麒は江寧から少しばかり離れ、ゆっくりと白面の地に膝と掌を着く。頭はすんなりと項垂れる事を許して、それを深く深く下げた。
 紡ぐ言葉は、既に決まっている。

「天命を以って、主上にお迎え致します」

 声は震えなかった。明瞭とした声は堂室に満たされ、空気が一変する。峯麒は一つ深呼吸の後に、最後の誓約の言を紡ぐ。

「これより先、御前を離れず、勅命に背かず、忠誠を誓うと誓約申し上げる―――」

 最後まで綴られた契約の言葉。それを聞き終えて固唾を呑む者達を傍らに、江寧は目前の緋色を見下ろし、そっと瞼を伏せた。



「許す」





―――行こう。
 私が今、やるべき事を成す為に。
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