白夜の空明 緋の曙光

名前変換

主人公設定
-設定注意-


・登場人物は後の芳極国女王(胎果)
・次の芳国麒麟が胎果の赤麒
・峯王登極前には再び戴国に泰主従が戻っている
・多少の設定矛盾
・表示できない文字は代わりの文字を使用
(PCからのUPなので、勝手に変換される文字もあり)
 など
上記を踏まえた上で閲覧をお願いします。
閲覧後の苦情はご遠慮下さいまし。


-人物設定-


■蓬莱
髪色:黒   眼色:黒
■十二国
髪色:白藤   眼色:菖蒲
■共通
性別:女
年齢:十五(※序章時)

家庭や友人などの取り巻く環境に疲れ、何の生きる目的も見出せないまま生活を送っている少女。
当時高校一年生。(高校生活は僅か一月半)
五月中旬、高波に轢き流されて、気が付けば恭州国の海岸へと漂着してしまった。
自分の生には関心がないくせに、他人の生き死にとなると何故か必死になる。
十二国へ流されてからは、とある人物の指摘により自分のために生きるという事をようやく学び始める。
■補足:高校では元弓道部。それ以前、小学中学年の頃より弓道を習っていたので趣味を越えて特技と化した。
■騎獣:赤虎。名は緋頼(ひらい)。猛獣として扱われる騎獣だが、彼女には従順。
名前
名字


- 玖章 -




 上空が薄らと白藍に染まり始める。陽の出は未だ遠く、深い朝霧に包まれた地が遥か足元に広がる。遠景に連なりゆく山の峰々は輪郭を浮き立たせ、それはかつて少女が黄海で見えた蜃気楼を思い起こさせた。
 江寧と延麒を乗せた赤虎は四肢を力強く躍動させ空を疾走する。大凡二日の旅路は然程苦を感じさせる事もなく、向かうべき目的の地は徐々にその姿を現す。天をも貫く壮大な山―――雁国靖州関弓山。その中腹に掘り構えられた禁門へと、緋色は迷いなく駆けて行った。

 無事降り下った緋頼を禁門前に待たせ、延麒と江寧は開かれた禁門を足早に潜り抜ける。遣者と合流する前にと、先導する延麒は仁重殿へ足を向けた。何も言葉を注さず後を追って来る少女に内心感謝を述べつつ、宮内を歩き続ける。女官以外の誰とも会う事無く抜けられたと思っていた延麒は最中、仁重殿の前に佇む官の姿を認めてはたと足を止めた。これまで何も言わず着いて来た江寧もまた官を見やり、短くも声を発する。

「秋官長大司寇―――」
江寧殿、お久しぶりです」

 大司寇――朱衡は久方ぶりに見た少女へ軽く一礼をする。江寧もまた拱手を返すと、次いで朱衡が視線を向けたのは目前の小さき靖州候へと。

「台輔」
「文句があるなら後でいくらでも聞く!でも、今は先に遣者を送り出す方が先だからな……!」

 述べられる小言を察知しているのだろう、延麒は再び歩き出しつつ半ば自棄に言葉を告げて朱衡の前を過ぎる。後に江寧が男に頭を下げつつ続き、仁重殿へと踏み込む。二者を視線のみで見送った朱衡は、小さくなる足音を聞きながら密かに溜息を落としていた。










 仁重殿へ入るなり、江寧は替えの襦裙と荷を女官より渡される。御召し替えを、と僅かに頭を下げる女官の背後には卓に置かれた皮甲。後々あれを着込むのかと思えば気が沈むが、仕方ないと割り切った少女は隅に置かれた衝立の向こうへと向かう。その背を見送りながら、延麒は堂室の中央に置かれた大卓の椅子に腰掛けた。軽く謝罪の言葉を掛けると、少女の苦笑する声が衝立越しに聞こえる。

「……やっぱり、不安か?」
「うん―――ほんの少し。私的とはいえ、雁の遣者として行くのだから当然といえば当然だけど」

 履を用意された物と替えつつ、江寧は微かに抱く不安を口にする。久方ぶりに要と会える事は嬉しく思えたが、以前泰麒より泰王の容姿を聞き傑物――否、堅物の印象が拭えない。少しでも失礼と取られては延王の体面に傷が付くやもしれないという不安さえもあった。
 着替えを終えて衝立から身を現せば、女官らがそそくさと皮甲や膝袴の取り付けに掛かる。椅子に腰掛けていた延麒はその様子を眺めて苦くも笑みを浮かべていた。……毎度の事ながら、その光景は凄まじい。
 一通りを着せ終えた女官が下がり、最後に大袖を卓上に残し次々と堂室を退出する。それを見送った江寧は一つ溜息を吐くと、延麒の傍らへと歩み寄った。卓上には二つの書簡が揃えられており、それを目前の少年は難なく手に取る。

「これは景王からの書簡だ。こっちは尚隆からの。私的な訪問だから、どちらも王か台輔に渡してほしい」
「分かった」

 少女が首肯する、その仕草は既に硬い。これだけ王や麒麟と誼があり、幾度も会話をしていながら緊張が取れないのは最早如何しようもないものかと延麒は苦笑を洩らす。次いで書簡を角筒に収めると、そのまま江寧に手渡した。

「そこまで緊張しなくとも、最初の取次ぎは他の遣者が全部やってくれるはずだ」
「うん―――」
「そんなに硬くなる事も無いさ。緊張しすぎて書簡を取り落とすより、気楽に構えてやり過ごした方がましだろ?」
「やり過ごすって……」

 角筒をそっと受け取りながら、江寧は少年の言葉に困ったような顔を見せる。確かに取り落とすのは困るが、やり過ごすという表現は如何なものか。
 当惑する江寧を見上げつつ、延麒は落ち着かせていた腰を上げて歩き出す。此処で時間を無駄に潰してはいけないと、堂室を出ようとしたところで江寧が小走りで追いついた。

「まあ、要は王と台輔の様子が分かれば良いから。な?」
「―――うん」

 頷きつつ、少女は片手で大袖を羽織る。その姿を一瞥して、再び禁門への路を辿り始めた延麒はふと嘗て慶にて保護された際の泰麒の姿を思い起こす。あれから、どれだけの回復を見せたのだろうか―――。
 何れ来たるであろう再会の時を思い巡らせて、視線を白面の路へ落とす。早く玄英宮の主が帰還すれば良いと淡い期待を抱きつつ、禁門へ向け歩を進めていた。



◇ ◆ ◇



 禁門にて延麒に見送られ玄英宮を旅立った遣者七人は関弓を北東へと駆ける。出来る限り纏まりつつ滑走する集団の中には緋頼と江寧の姿もあり、背に括られた荷嚢の他にはしっかりと弓を携行していた。他の遣者もまた冬器を佩刀し、甲器を備え、さも危険な旅路のように装う。……泰王が玉座に帰還したとはいえ、つい一月前には艮海に妖魔が跋扈し、戴へ踏み込む事さえ叶わなかったのだ。充分に警戒をする行為は然して不思議ではなかった。

 雁国と戴国との間に広がる虚海――艮海を渡る最中、何度か妖魔の姿を遠巻きに見つけたものの、方角を遣者らへ向く様子はなく。そのまま一日半を費やし宙を駆け続けたところで、ようやく見えて来た戴国藍州の沿岸に誰もが安堵の色を顔に浮かべる。
 あと僅かと飛行を続け、戴国国都である瑞州鴻基へ一行が到着したのは、その日の斜陽を迎える頃だった。

 舎館を取り終えたところで数人が到着の旨を知らせる為に国府へ赴き、その間に江寧らは客房の起居にて彼らの帰還を待つ。見慣れぬ顔振りにもようやく慣れ始めた江寧は、次いで先程眺めた鴻基の街並みを思い起こして複雑な心境に至る。国の中心にしては随分と荒廃していた。王が玉座に不在の上、偽王が起てば国都でさえこれだけ荒れるのかと思わせる。

 芳もまた、王が登極しなければこうなるのだろうか―――。

 窓際に佇む江寧は、夜陰の下りた街をじっと見据える。溜息を吐きかけたところで、国府に向かった者達の帰還の足音が耳に届く。振り返る先に身形の整った男達の姿があり、返答は明日か明後日との事を起居にて待機していた者達へ報告していた。










 国府からの返答があったのは、予定よりも逸れた三日後の事だった。
 其々が正装に身を包み府第へと赴く。角筒を胸元に携えた江寧は緊張に身を硬くさせながらも遣者らと行動を共にし、戴国国主への謁見が叶う事となる。王の帰還から間もなく、官が浮き足立つ中での訪問は雁からの使者だからこそ取り次がれたようなものだった。
 そうして掌客殿に通され待つこと暫し。突如として踏み込んできた者を認めた官らが次々と叩頭礼をとり、雁の遣者らが慌ててそれに倣う。開かれた路を通る足音は二つ。共に衣擦れの音が響き渡り、それが止むと同時に叩頭を解くようにとの声が掛けられた。言葉に従い面を上げたところで、その場の誰もの眼に映るは丁寧に纏め上げられた白銀の髪に紅玉を思わせる眼。纏う袞と漂う厳格に、彼が泰王である事を悟る。
 礼儀通りの言を綴り始める雁の遣者の最後方にて、江寧は王の傍らに佇む黒髪の青年に視線を向けずにはいられなかった。










 一通り予定されていた形式は江寧の予想に反し呆気なく終わった。遣者らは掌客殿への滞在を推され、謹んでそれを受ける。数室に分かれて其々が緊張を解き休息をとる中、江寧は正装のまま起居の隅に置かれた榻へ腰掛けていた。
 元々豪奢な部屋では気が落ち着かない事もあり、密やかな溜息は幾度となく洩れる。皮甲の重さは然程気にならないが、やはり先程の宿の方が落ち着くと思いつつ、途端衝立越しの声が起居に響き江寧は目を丸くする。女官らしき人物が起居にて休む者達に其々拱手をとると、最後に少女の元へと向き直った。次いでその名を確認すると、緩やかに口角を上げて笑みを作る。

「台輔がお待ちです。どうぞこちらへ」

 掌を衝立の先へ向ける女官を見やりつつ呆然とした江寧は、暫しの間を置いた後にようやく言葉の意味を受け取る事が出来た。



◇ ◆ ◇



 女官の先導を受けつつ、廊下を歩くこと暫し。やがて見えてきた一郭の付近にて女官が立ち止まり、くるりと背後を振り返る。江寧を無表情に見やって、掌を前方の一郭へと差し向けた。その促しに若干躊躇いながらも頷くと、女官の前を過ぎたところで両開きの戸が視界に映る。戸の片方は人一人分程の間が開けられており、江寧は恐る恐る戸の間を覗き込む。静寂の保たれた堂室に首を捻り、するりと内へ身体を滑り込ませる。前方を隔てる衝立から顔を覗かせたところで、ようやく黒髪の人物を見つける事が出来た。

「台輔」
「―――江寧さん、」

 雲海を眺めていた青年は突如聞こえた声にはたと振り返る。何時ぞやの少女が衝立に隠れつつ視線をくれるその姿に柔らかな笑みを向けて、彼女の元へと歩き出す。
 江寧の背後に待機していた女官はぱたりと戸を締め切り、そそくさと路を引き返して歩き去っていく。遠ざかる足音を聞きながら、江寧は思わず破顔した。

「要、無事で良かった……」

 安堵のあまり目前の青年を抱きしめようとして、江寧ははたと立ち止まる。一国の宰輔に対してならば、完全に無礼な振る舞いである。手を間近にまで伸ばしていた為に、ゆっくりと手元に腕を戻して一先ずは落ち着きを取り戻す。その様子に泰麒が頭を傾げ、何でもないと江寧が頭を横に振る。改め眺めると、黒髪――鋼色の鬣――が帰還の際よりも随分と伸びている事に気が付き、内心ほっと胸を撫で下ろした。成獣してあの短いままであれば流石に可哀想だと思っていただけに嬉しく思う。
 泰麒に着席を促された江寧は大人しく椅子に腰掛ける。対面となるようにと、泰麒は自ら運び持って来た椅子に座った。

「今は再興で忙しい?」
「はい……でも、ぼくはまだ何もしていないのですけど」
「なら、これから忙しくなるんだろうね」

 言って、江寧は苦笑を零した。慶の滞在時に宮内の様子を間近に見ていた江寧にとっては、此処も忙しくなるのかと思う。街の様子を思い起こせば、少なくとも一年は多忙だろうと予想できる。戴はこれからだ。これから、軌道に乗る為に大変な苦労をするのだろう―――。
 思考を巡らせ、江寧は唐突に思い出した人物の顔に、俯きかけた面を上げた。

「李斎殿は?」
「邸宅で療養しています」
「療養―――」

 泰麒の言葉を思わず呟くように復唱する。慶ではあれだけ療養を済ませて旅立った。だからこそ、戴でも何か大きな事柄があったのだと推測できる。……否、無い方が可笑しいのかもしれない。

「……皆、大変なんだ」

 慶も、戴も、そして巧も。そう思えば、延王が以前ぼやいていた言葉を途端脳裏に過ぎらせる。雁の周りはどうしてこうも危ういばかりなのだと。確かに、と江寧は不謹慎と思いつつも納得するように何度か首肯する。その光景に泰麒は頭を傾げたが江寧は差して気にする様子もなく、次いで別の話題を浮上させた。

「そういえば、和真に会ったよ」
「え―――」
「あの子、峯麒だった。稀な赤麒らしい」

 泰麒は一頻り目を瞬かせて驚く。唐突な話だけあって、嘗て自身に懐いていた少年が神獣の姿とはとても結びつかない。まして自身以外では景台輔や延台輔のような黄昏の印象しかなく、赤麒と言われたところで想像が追いつかない。暫し思案していたところで、泰麒はふと抱いた疑問を口にする。

「……峯麒は、蓬山に?」

 泰麒の問いに江寧は首肯しかけて、途端背後より戸の開かれる音にふと振り返る。再び戸の閉まる音が堂室に響き、衝立の向こうからゆっくりと現れた白銀によって、二者はそれが誰であるかを悟った。

「親しき仲を邪魔するようで悪いが」

 つい先程聞いたばかりの声に、江寧は慌てて片膝を着き拱手をする。主上と口にしつつ、泰麒は目を細めて泰王――驍宗を見上げた。

「泰王君―――いえ、こちらこそ多忙の最中に申し訳御座いません」
「いや。李斎と蒿里より貴殿の事は聞かせてもらった。泰麒が蓬莱にて世話になったそうだな」
「いえ……」

 江寧は遠慮がちに頭を横へ振る。その拍子に少女の背の物が微かに音を立てて、はたと預けられた大事な物を思い出す。会うのならば泰麒へ手渡そうと考えていた品を背の荷嚢から取り出し、漆によって艶やかな光沢を帯びる角筒を丁寧に驍宗へ差し向けた。

「延王と景女王より、泰王君への書簡をお預かりしております」
「景―――慶の新王が、私にと?」

 軽く目を見開いた驍宗に対し、江寧は一つ首肯する。少女と角筒を見比べ、男は差し出された品を片手で受け取った。僅かに口角を上げて、驍宗はしかと頷く。

「後で目を通しておこう」
「有り難う存じます」

 無礼もなく無事に渡せた事で内心ほっと胸を撫で下ろした江寧は半歩身を引かせるとゆっくりと立ち上がる。少女から視線を外した驍宗は次いで己の麒麟へと向き直り、はっきりとした口調で嘗て自身が付けた字を口にした。

「―――蒿里」

 今しがた少女を眺めていた泰麒の視線がふと逸れる。再度主君を見上げた要は一つ返答をして、ゆるりと首を傾げる。彼の穏やかな顔を見たのは久方ぶりだと、驍宗は懐かしさを感じながらも気遣いを含む言葉を紡ぐ。

「久方ぶりの再会だ、今日は好きなだけ話し合うといい」
「主上、」
「私は別件がある故、一度失礼する」
「はい」

 拱手のまま深く頭を下げる江寧の傍を、身を反転させた驍宗が擦れ違い行く。二者は暫し衣擦れと硬い足音を聞き、戸の閉まる音と同時に江寧の緊張が一気に解けた。椅子へと腰掛け足を投げ出しつつ脱力する少女を見やって、泰麒は微かに苦笑を零す。

江寧さん」
「うん?」

 名を呼ばれてゆっくりと体勢を戻しつつ視線を向けた江寧は、軽く頭を下げる泰麒の姿に思わず目を丸くした。以前は大して違和感の無かった動作が、今では何故か不自然に思える。それでも泰麒は普段通りに軽く一礼を終えて、頬を緩めた。

「来てくれて、ありがとうございます」

 思わぬ感謝の言葉を受けて、江寧がさらに目を見開かせる。刹那、嘗て蓬莱にて接していた高里要としての面影を重ねて、口元が自然と弧を描き柔らかな笑みを浮かべていた。彼が以前と何ら変わらなかった事に、酷く安堵を覚えながら。



◇ ◆ ◇





- 暁跡 -




 峯麒がとある人物に王気を見出した事を知った女仙らは甫渡宮の大扉を閉め、それ故に昇山者の中で囁かれた噂は確信を得て瞬く間に広がった。王を見つけた事への喜びと王を迎えに行かぬ麒麟に対しての不満が密やかに囁かれ、事を偶然耳に聞き入れた峯麒は悄然と項垂れる。とぼとぼと歩く少年は蓬廬宮への途を閉ざす門の前にて立ち止まると、小さな身体を萎縮させて門戸を背に座り込んだ。

「……どうしよう」

 呟かれた独り言は意気消沈として溜息を吐かせる。確かに、王を見つけながら盟約を交わせなかった麒麟など、落ちこぼれと言われて当然なのかもしれない。それでも現実を受け入れようとして、しかし峯麒は未だ受け入れる事が出来なかった。

江寧が……王だなんて」

 数日の間に親しみを持った少女。彼女に王気があったなど、今でも到底考える事が出来ない。だが―――急速に駆け上がったあの鼓動は、今でも覚えている。

「あの時惹かれたのは間違いじゃなかったんだ……」

 小さな掌を胸に当てて、峯麒はそっと瞼を落とす。指令の、檮兀が居るとの忠告を無視してまで向かいたかった意識と感覚もまた、思い起こせば鮮明に甦る。……やはり、彼女には王気があるのだ。
王気に納得は出来るのに、彼女が王である事を受け入れられない思考の矛盾が消沈を深くする。どうにもならずに地へ落とした視界は、ふと陽を翳らせた影の輪郭を捉える。顔を上げると、見慣れない男性が小さく蹲った峯麒を見下ろしていた。

「公、王を見つけたとの噂が立っておりましたが」

 男の言葉を聞き、峯麒は項垂れながらも小さく頭を縦に振る。正直、その質疑は天幕の間を歩く度に厭きるほど聞かれた。

「……本当です」
「盟約をお済ませではないのですか」

 これには頭を横に振る。峯麒の返答の後には必ずと言って良い程、溜息がそっと落とされるのだ。そうして少しばかり呆れの眼で見られる―――それが怖くとも、峯麒はこれまでに何度も同じ答えを口にした。……そうして、今もまた。

「まだ……王は蓬山から出て行ったから」
「ならば王を追わねば」

 しかし、男の返答は此れまでと些か異なるものだった。はっきりとした低声に含まれたものに批難はない。それで目を丸くした峯麒は男を見上げ、恐る恐るながら頭を傾げる。

「……追いかける……?」

―――何故、その考えに至らなかったのだろう。
 女仙は、昇山者が居る間は決して黄海へ赴かないようにとの忠告を峯麒に出していた。峯麒は珍しくそれを守っていたし、黄海に行きたいという思いもなく時を過ごしていた。王気を持つ者は昇山するものと教わったから、そんな考えさえ思いつかなかったのかもしれない。
 峯麒は小さな掌をゆっくりと閉じる。……この小さな手でも今、出来ること。

「―――そうだよね、追いかけないと」

 扉に凭れていた背を離すと少年は勢い良く立ち上がる。胸中に灯る意志が自身の役割を思い出させる。麒麟が王を選ばずにどうするのか―――そう言い聞かせ、峯麒は路を歩き出した。
 少年の後を追う男は、彼の一変した様子に驚きを感じつつも呼びかける。男の言葉に反応して身を翻すと、靡く猩々緋の鬣が陽を受けて艶やかに光る。

「公、」
「一つ、お願いがあります」

 男をじっと見上げる少年の眼には力強い情が篭る。それを受けて逸らすまいとした男は蓬山公の言葉に何か、と短くも言葉を返す。一間を置いて、峯麒ははっきりと自身の意を口にした。

「共に、来てくれませんか?」

―――実をいえば、王を迎えに一人で発つのは心細いものがあった。確たる意志とは裏腹に、黄海より外へ出た事は一度としてない。まして此処、甫渡宮周囲は雲海の下に位置するもの。そこから黄海を抜け十二国へ出る事は安闔日以外に適わない。ならば八亀宮より雲海上を行くしかないと思案する峯麒は、十二国を知る供をどうしても連れて行きたかった。
 峯麒が口にした切実な願いは、一つの拱手として返された。次いで軽く頭を下げ、男が返答の言葉を告げる。

「……その頼み、謹んでお受け致します」

 返答が諒承である事に安堵した峯麒は一つ頷き、歩き出しかけた足がふと過ぎる疑問によって立ち留まる。前方を向いた少年が再び振り返ると、再び口を開いた。そこに、先程の真摯さはなく。

「そういえば、まだ名前を聞いてない」
「―――月渓と申します」

 男の名を聞き、峯麒は頷く。何度か聞き覚えがあり、有名なのかと思いつつ少年の足は一歩踏み出される。あとは女仙を説得させて、王気を辿るのみ。

「行きましょう月渓殿―――王を迎えに」
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