- 捌章 -
峯麒が
江寧の元へ通い始めて数日。午の前までは甫渡宮にて御簾越しに進香を行う昇山者を見守る。しかしそれでも一向に王気を見出す気配はなく、遂には周囲より期待されていた禁軍の右将軍にさえ、峯麒が膝を折る事は無かった。
此れを聞き剛氏らが首を捻る。黄海の旅は偶然などであれ程楽にはならない。だが、鵬翼に乗ったと思われたそれは間違いだったのだろうか―――と。
傲隹が進香へ向かう間、時を持て余していた
江寧は玉秦と共に綻凌の天幕へ顔を出していた。
ここ数日常に
江寧の傍らを離れる事の無かった峯麒は今、甫渡宮にて昇山者の進香を見守っている。故に蓬山公無しでの訪問だったが、それでも綻凌は彼女たちを快く迎えた。
「先程、仮王が足をお運びになられた」
「恵州候が……?」
綻凌の報告に対し、驚く玉秦と関心を抱く
江寧。其々の反応を眺めつつ、一つ首肯を見せると膝に乗せていた手を組み直して二者の元に向き直る。
「進香を済ませて、一応午に裁可を受けるそうだ」
「それは……本人の意思で?」
「いや、推し勧められて―――と」
一間を置いて、玉秦は苦笑を零す。誰に推されたのかは大方想像できる事にもまた苦く笑みを浮かべざるを得なかった。
そうして暫し三者は話し込む。
江寧の希望もあって芳の気候や現状、乾海の様子諸々を話題に挙げた。厭きる風もなく耳を傾け続ける少女に、綻凌は変わり者だと関心を惹かれる。他国からの者であるのに、今現在傾国の芳をこれ程までに知りたがるなど酷く珍しい。
そう思い微かに口元を緩めた綻凌は、唐突に何気なく心底に潜む本音を吐き出した。
「実を言えば、私は次の王が宮に居た者で無ければ良いと思っている」
「え?」
目を丸くする
江寧と玉秦。同じ情を顔に滲ませた二人を交互に見やって、男はあくまで真面目を装わずに言葉を続ける。
「先の王―――洌王と同じ事はすまいと、それだけに拘って逆に道を踏み外しそうな気がしてな」
「ああ……」
「昇山者の中でそう拘る者は少なくない筈だ。そうなれば、麒麟はあっという間に失道だぞ」
そう言って綻凌はくつくつと笑いを口篭らせる。だが、言葉の意味を理解すれば男の装われた貌など無意味に等しい。吐き出した言葉は彼の本心であったし、二者はそれを冗談として受け取るつもりは無かった。
官吏の大抵は固定概念を持つ堅物と言えよう。過去の経験があればそれをすまいと前例を避けるものだが、実際洌王は法による修正という固執によって登霞した。官吏は果たしてそう捉えるかどうかは判らないが、綻凌の言葉が正しければ当人の自覚とは関係なく固執となるのは違いない。
「綻凌殿、楽しそうに仰らないで下さい」
「―――楽しそうに見えたならば謝るが」
形だけでもと男の言葉を咎める玉秦に対し、綻凌は苦笑を零すまま膝の上に肘を乗せて頬杖を着く。器用に体勢を保つ男を見やりながら、
江寧は先程聞き入れた言葉を胸中にて復唱していた。
途端、天幕の框窓が開く。背後を振り返ったところで、内を覗き込む顔が逆光により翳った。玉秦が人物の名を告げなければ、
江寧は男に近付くまで判別出来なかっただろう。次いで手招きと共に召集の声が聞こえて、二者は頷き腰を浮かせる。その刹那―――傍らに腰掛けていた綻凌が一方の名を呼ぶ。
「
江寧、少し残りなさい」
「え?」
制止を掛ける綻凌に戸惑いの視線を向けながらも、
江寧はおずおずと頭を縦に振り諒承を示す。少女の間近に身を置いていた玉秦もまた何かを察したのか、音もなく立ち上がると裾を払った。
「玉秦殿、先に行ってて下さい」
「分かりました」
すぐに返された返答を聞き受け、
江寧は框窓を屈み潜り天幕の外へと消えていく玉秦を見送る。天幕からの退出を済ませると、框窓はすぐに閉ざされた。それを確認した直後、背後に落とされた深い溜息に身を振り返らせる。
江寧が先程見ていた余裕を含む笑顔は既になく。それ程重い話なのだろうかと不安を脳裏に過ぎらせながら、少女は綻凌と対面するように向き直った。
「何ですか?」
「……一応、傲隹の貌を知っておいてほしいと思ってな」
「顔、ですか……?」
綻凌の言葉の意味を把握出来ずに首を捻る。顔とは如何なる意味であろうか―――思いつつも言葉を待つ
江寧に対し、目前の男は頭を横へ振ると声音を数段落として呟きを零す。
「正直な話、傲隹が何故
江寧を杖身として雇ったのか私には分からない」
「え?」
ただ腕が立つからではないのか。そう口から零しそうになる言葉を飲み込んで、深まる疑問を抱き頭を傾げる。どういう事かと
江寧が問いかけようとした矢先、告げられた言葉は耳を疑うような事実。
「……奴は、海客や胎果が嫌いなんだ」
「―――」
思考が停止せざるを得ない。短く声を発したつもりが、言葉にならない。
江寧は暫しの間を置いてまさかと綻凌の言葉を疑ったが、男は一切視線を逸らす事もなくさらなる事実を述べる。
「ただ嫌悪を感じるだけではない。消えて無くなれば良いとさえ呟いていた時もあった。それなのに、どういった心変わりかは知らんが
江寧を雇った」
閉口は自然と。押し寄せる悲しみはゆっくりと。裏切られたような感覚に陥って、不意に
江寧の脳裏に過ぎるのは黄海での出来事。蠱雕の急襲。あの時、さも捨て駒のようだと思ったのは間違いではなかったか。
江寧の胸中に虚しさが渦巻く。―――同時、同様の境遇である蓬山公を思い出してふと思う。疑問は自然と口から零れ落ちた。
「……傲隹殿は、公が胎果である事を知った上で昇山を決めたのでしょうか」
「どうだろうな……」
綻凌の曖昧な返答を聞き、
江寧の頭が次第に項垂れる。傲隹には気を付けるようにと忠告をするつもりだった男にとって、少女の落ち込み様に眉を顰める。いくら彼女の身を案じての事とはいえ、些か言い過ぎた部分もあっただろうか、と。
江寧は瞼を伏せる。二月の間、信用していた者の裏を知った胸中は、僅かに痛みを訴えていた。
◇ ◆ ◇
綻凌に別れを告げ、
江寧が足取りを重くして傲隹の天幕へ帰還すると、一行は既に下山の予定を組み上げていた。
次の安闔日までには令坤門前の城塞へ辿り着くようにと、出立を早期に決めて一通りの予定を立てる。婁庚にその旨を伝えると、彼は頷くや否や天幕を出て行ってしまった。その背を見送り、途端傲隹が言葉を低声にて半ば投げやりのように吐き出す。
「公は、王の選定を拒否しているのだ」
その言葉に誰もが目を見張る。二月の昇山を共にした男の一人が一体何を言い出すのかと咎めるものの、男は己の発言に対して一切の悪気を持たない。誰もが困惑の色を浮かべる中で、
江寧だけが否と断言を示した。
「それは違います」
「違うものか……現に鵬が居ると噂されながら未だに王との盟約は無い」
昇山の最中、剛氏らは傲隹の一行から死者を出すなと注意を呼びかけていた。黄海の旅にて鵬を失えばその反動が一気に押し寄せてくるからだと婁庚に教えられ、ではやはりこの中に王となる者が居るのだと思っていた―――だが、その結果がこれでは。
「俺でもない、玉秦でも鄭玄でもない……他の誰もが至日まで無事でと言われた。だが、それは絶対に有り得ないことだ」
「そう言い切れる確証は、」
「黄海の旅が鵬無しであれ程楽になる可能性など皆無――― 一度黄海へ入った事のある者ならば分かろう」
堂々と告げる傲隹に、数人が同意の首肯を繰り返す。それを一望すると、僅かに目を細めて誰もが予想せぬ言葉を吐き出した。
「―――王を選ばぬ胎果の麒麟など」
「傲隹殿!!」
その先を言わせまいと、反射的に身を乗り出した
江寧が咄嗟に名を叫ぶ。徐々に見えてくる男の本意に胸を痛めて、深い溜息を足元に落とす。押し黙った傲隹を半ば睨めつけるようにして見やる
江寧は、否定の意を篭めて僅かに首を振った。
「……差別は良くありません。胎果の何処が悪いというのですか」
「…………」
江寧の言葉に対し、傲隹の返答は一切として無かった。
一度天幕を飛び出し、裏の柵に繋がれた赤虎の元へ歩み寄った
江寧は、鬣を撫でつつ気を沈める。
……彼に偏見はないものだと思っていた。ああいった考えを持つ者は決して少なくないが、海客だと告げた際に見せたあの顔は偽りの表情であったのだと思えば、気はさらに落ち込む。沈んだところで何も変わらない事など承知の上で、
江寧は一時の悲しみに浸っていた。
「……どうして」
江寧の呟きに反応を示し、緋頼は主の顔を振り仰ぐ。明らかに普段とは異なる様子を感じ取ったのか、主の腕に額を擦り付ける。小さく鳴らす喉の振動が腕から伝わって心地好い。それを慰めのように感じて、
江寧は思わず首元を抱き込んだ。鬣に顔を伏せ、ふと思う。
―――傲隹の心底に潜む本音を知りたい。
彼自身の口から本心を語ってほしい、と。厭う理由の詳細を聞く前に悄然としたところで、彼女自身釈然としないのが現状だった。ならば問い詰めれば良い。落ち込むならばそれからでも良い―――そう思い直した
江寧は、緋頼の額を一撫でして離れる。天幕の入口へと回り込もうと歩みを進め、ふと表に見慣れた男と見慣れない女性が居る事に気付いて足を止めた。
「鄭玄殿?」
「ああ、ちょうど良かった」
何がちょうど良いのかと、首を捻りつつも手招きに応じて傍らへと歩み寄る。もう傍らに佇む女性の姿を見やって、
江寧はその姿が女仙である事に気付いた。女仙は
江寧を見るなり微笑を湛えて向き直る。
「
江寧殿でいらっしゃいますか?」
「ええ、そうですが……」
「延台輔がお見えになられております。ご案内致しますので、どうぞこちらへ」
その言葉に
江寧は目を見開き、鄭玄は二者を凝視する。案内の為に歩き出しかけた女仙を眺め、はたと我に返った
江寧は咄嗟に制止を掛けた。延麒が格好について然程気に留めない事を知っていたが、今の袍衫のままでは流石に気が引ける。せめて襦裙に替えねばと、女仙に向け軽く拱手をした。
「用意をするので、少しだけ待って頂けませんか?」
「―――承知致しました。終え次第、天幕の外へおいで下さい」
「はい」
女仙の返答にほっと安堵の息を吐き、鄭玄と共に一旦天幕の内へと戻る。框窓の手前に置かれた荷嚢から襦裙を引っ張り出し、玉秦に声を掛ける。ちょうど冬器の手入れを終えたばかりの玉秦は振り返り、
江寧の手元に抱かれた衣を視界に捉えて立ち上がる。事情を察して、一つ頷きを返した。
「隅を使いましょう」
「ありがとうございます」
薄い衾を手に取った玉秦は、隅に立つ
江寧の姿を覆い隠すように広げる。そそくさと手を動かし着替えを始めたところで、玉秦の背後に立つ鄭玄が恐る恐ると衾越しの少女に声を掛けた。
「
江寧……お前、延台輔と面識が?」
その言葉にぴくりと反応を示したのは、彼らの様子を眺めていた傲隹だった。顔を顰め、まさかと凝視する。衾の向こうから聞こえたのは、苦笑を交えた少女の肯定。
「ええ」
「延王とは?」
「良くして頂いています」
衣擦れの音と共に、さも大事でもないかのように返答の言葉が衾を越えて届く。天幕の内にて休息を摂っていた誰もが声無き驚きを窺わせ、途端着替えを終えた
江寧が声を掛け、それに応じた玉秦が衾を取り払った。淡い白緑の襦裙が下ろされた白藤の髪を引き立てて、袍衫を纏っていた印象が払拭される。身形を整え終えた
江寧は、そのまま框窓へと歩み寄ると半身を振り返らせる。
「行って来ます」
「あ、ああ……」
動揺を浮かべながらも頷く鄭玄を見やって、
江寧はそれ程普段とは違うだろうかと苦笑を零しつつ框窓を潜り出た。表に佇んでいた女仙は
江寧に気付くと、さあと歩みを促す。それに応じて、蓬廬宮への途を踏み出した。
女仙に案内され歩くこと暫し。八角形の建物の前で足を止めた女仙は、振り返ると入口を差し入る事を促す。
江寧は頷くも恐る恐ると身を踏み込ませて、白亀宮の内に見つけた金の鬣にほっと胸を撫で下ろした。少年の元へゆっくりと歩み寄ると、その名を久方ぶりに呼ぶ。
「六太」
「
江寧、元気そうだな」
「……どうして此処に」
「以前訪ねた連檣の舎館の主人から、
江寧が黄海へ入ると聞いて来たんだ。それで、火急の用で迎えにな」
「迎えにって……」
江寧は思わず目を瞬かせる。火急とはいえ、雲海上から来れば安闔日は関係ないのか―――内心そう考えつつも、火急の言葉に首を捻った。何があったのかと問うその前に、延麒が早々と応える。
「―――戴の王と麒麟が玉座に帰還した」
―――戴。
麒麟の性を失ったのだと告げられた彼が、王を見つけたのだ。しかも、大凡半年で王までもが玉座に戻ったという。噎ぶほどの吉報にしかし、
江寧はあくまで気を抑えたまま延麒に改め確認を問う。
「……本当に?」
「ああ。青鳥でのやり取りは既に済ませてある。遣者の中に
江寧も加わって、戴へ向かってほしい。泰王と泰麒の様子を見てきてほしいんだ」
分かった、と首肯を見せ返答する
江寧は、ふと延麒の言葉を思い返す。六太もまたあれ程までに泰麒の事を気に掛けていた。だというのに、行動派の延主従がそうして任せるのは珍しい。そう思いつつ
江寧はまじまじと少年の顔を見やると、傍らに騶虞を控えさせた延麒が視線に気付いたのか顔を上げた。
「延麒は行かないの?」
「尚隆が巧を見に行ってるから、今俺が国を離れる訳にはいかない。……本当は行きたかったんだけどなぁ」
「そうだよね……」
これには流石に苦笑を零しざるを得ない。雁とは青海越しに存在する巧州国―――その国王は慶号の赤楽元年、遂に崩御した。台輔失道以前より難民が奏と雁に流れ、それが雁にとっては問題となっていた。崩御となればさらに難民が二国に流れ行き、遂に延が巧へ様子見に飛び出したのだろう。
相変わらずだと思いつつ、
江寧は口元を押さえて官の苦労を推し測ると、途端延麒が思い出したように別談を切り出した。
「そういや、峯麒はどうだった?」
「私に懐いてしまって……でも、今は峯麒としての役目があるだろうから、蓬山から離れて正解かもしれない」
「そうか……そうだな」
江寧と峯麒の関係を思い起こし、延麒は複雑な情を浮かべながらも頷く。彼女なりに気遣っている事を感じ、それが何故か無性に悲しく思えた。
延麒が僅かに面を俯かせると、途端
江寧は逸れた話題を戻すようにして言葉を綴る。
「とにかく、荷を取ってきてからじゃないと戻れないかな」
「じゃあ俺は此処で待ってる。なるべく急いでくれ」
「うん。また後で」
少年に一度別れの言葉を告げると、
江寧は頷くや否や身を翻して小走りのまま白亀宮を後にする。その後姿を見送りながら、延麒は強引に頼んでしまった事への後ろめたさを感じていた。
◇ ◆ ◇
江寧は蓬廬宮と甫渡宮への途を隔てる門を越え、襦裙の裾を僅かに持ち上げながら傲隹らのいる天幕へと急ぐ。早く行かねばと急く心とは裏腹に、着慣れない襦裙の裾が些か邪魔をする。何とか蹴躓く事なく天幕の前へと辿り着いた
江寧は、框窓を勢い良く開き内へと駆け込む。突然の帰還に驚く者達を余所に荷を纏め始め、着替えを残すところとなった頃、
江寧が手を止める。最奥に腰を落ち着かせる男を見やり、歩み寄りつつその名を呼ぶ。
「傲隹殿」
「ん?」
「急用あって、雲海上から帰還する事になりました。なので、此処でお別れです」
自身の言葉に非礼を感じつつも、深く頭を下げた
江寧には男の顔に浮かぶ情を見る事もない。暫しの沈黙が天幕内に下り、
江寧がゆっくりと顔を上げる。刹那、差して何の情も映してはいない眼が少女を見上げ続けていた。
「先程の、延台輔からの件か」
「はい」
「……分かった。好きに行くがいい」
「今まで、お世話になりました」
改め礼として拱手をとる
江寧。ああ、と頷くのみの傲隹は微かに頬を緩めたが、彼女はそれに気付く事無く礼を解く。次いで、胸中に渦巻く疑問をそのままにしてはいられないと意を決して口を開いた。
「最後に、お聞きしたい事があります」
「……何か?」
「傲隹殿は何故、海客や胎果を厭うのですか?」
一瞬、誰かが息を飲むのが聞こえた。問うてはならない事柄だったかと不安を過ぎらせたが、問いを言い切ってしまった
江寧には返答を待つ事しか出来ない。弁解をするという手もあったが、それだけはしたくはなかった。別段後ろめたいものではないのだから、と。
数拍の沈黙を置いた後、傲隹が僅かに目を細めてゆっくりと口を開いた。
「この地で生きていくのなら、胎果も海客も関係なかろう。それを前面に押し出して己を可哀想と嘆くばかりの者など、俺は知らんよ」
傲隹の返答を聞き届け、
江寧は暫し呆然とした。もう少々異なる意見を聞けると思っていた
江寧にとって、呆然として目を瞬かせる以外の反応が見当たらない。首を捻る傲隹を目前に、
江寧はおずおずとさらなる問いを投げかける。
「―――蠱雕の時は、」
「あれは君が以前一人で倒せたと言っていただろう。それを信じて、」
「じゃあ、私を胎果と知っていながら雇ったのは何故ですか」
「杖身は腕が立つか否かだ。それに、君は己を可哀想だと思っていたか?」
「いえ、」
頭をゆるりと横に振る
江寧を見やり、ならば良かろう、と傲隹は素っ気無く告げる。何かが違う、と違和感を持ち始めた少女の面持ちを察したのか、男は微かに苦笑を浮かべた。
「……綻凌殿に何かしら吹き込まれたな」
男の言葉が図星を指す。僅かに眉を顰めた少女に、やはりと思う。傲隹が深く溜息を吐いたところで、新たな質疑が出された。
「以前、胎果や海客など消えてしまえばいいと、」
「ああ、十数年前に言った覚えはある。言葉が分からぬとしつこく縋りつかれた海客を一蹴りしてな」
―――状況説明無き言葉とは恐ろしい。
津々とそう感じ思う
江寧は閉口し、その様子を眺めていた傲隹は微かに笑む。困惑に満ちた少女の顔色を見上げつつ、傲隹は軽く頭を傾げた。
「……おや、想像と違っていたか?」
「……私を、捨て駒と思ってはおりませんでしたか?」
「そんな事はない。ただ、
江寧自身の行動は尊重すべきと思い好きなようにさせたつもりだ」
「先程の蓬山公に対しての言葉は、」
「鵬は必ずいる。だというのに、早く選定をせず盟約を交わさぬ事に苛立ちそう零した。我ながら不謹慎だとは思ったが」
言って、傲隹は困ったような笑みを作る。間を置かず綴る言葉には若干の呆れを伴っていた。
「俺の言動はよく誤解されるらしい。……そして綻凌殿は、どうやら心理戦がお好きなようだ」
男の言葉に、
江寧は思わずはたと面を上げ目を見開く。途端、犬猿の仲と鄭玄が告げた意味をようやく実感した気がして、少女は唖然とする。たとえ試していたと言えども、人を使い競う事など迷惑以外の何物でもない。
江寧が半ばげんなりとした表情を貌に出せば、男は笑みつつ立ち上がると少女の肩を叩いた。
「そういう事だ。道中気を付けてな」
見送りの言葉を受けて、
江寧は一間を置いて頷き一つ拱手をした。次いで天幕にて休む者達に向け一礼すると、荷嚢を肩に掛ける。迎えが火急であった事をふと思い返せば、随分と話し込んでしまった事に焦燥を感じる。だが、お陰で胸の閊えは無い。
「
江寧殿、お気を付けて」
「玉秦殿も、至日までご無事で」
玉秦が框窓を開き、外へと促す。荷を全て抱えて急ぎ天幕の外へと駆け出した
江寧は、ふと足を止める。裏に繋がれていた筈の緋色がゆっくりと歩み寄る様に驚き、その背後を見慣れた男が歩く。彼が緋頼の手綱を柵から離したのだと察して、
江寧は男の元に駆け寄った。
「鄭玄殿―――」
「急ぐんだろう?さっさと行きな」
「うん―――鄭玄殿も、ご無事で」
「おう」
挨拶を早々に済ませ、踵を返した
江寧は赤虎の手綱を引かずに走り出す。手綱を取らずとも着いて来る事を知っているからこそ出来る行為だった。
そうして、
江寧は緋頼と共に蓬廬宮への途を駆けて行く。もう戻る事のない路を少女が振り返ることは、一切として無かった。
その日の夕刻、麝香苴の苑へ赴いていた峯麒は遠景をぼんやりとして眺めていた。
数日の間に少女と仲良くなるも周囲の大人から話しかけられ、緊張ばかりが続く。流石に疲れて苑へ足を運びのんびりしていたが、気を休める筈が何故だかそわそわとして落ち着かない。身に潜むざわめきが何であるか解する事も出来ず、胸を両手で押さえ込む。鼓動は早くなるばかりで、峯麒は思わず身を震わせた。
「……なに」
斜陽で空が黄昏の色に滲む。立ち上がった少年の顔までもが陽に照らされて、それが勢いよく背後を振り返る。傍らに佇んでいた女怪が声を掛けたが、峯麒が名を呼んだ事で言葉を留める。次いで血相を変え走り出した公を追って、その影に滑り込んだ。
向かうは甫渡宮への途――今は町を模したような奇岩の間。最中に遭遇した彩杼を連れ数日通っていた天幕の元へ向かうと、偶然にも天幕の前に一行の主が女性と話し込んでいた。視界に捉えたまま駆け寄り、男――傲隹を見上げる。
「あの―――!」
唐突に聞こえた声に二者が視線を下げ、突然の訪問者に目を瞬かせた傲隹が掌を玉秦に翳し会話を中断させる。その場の誰もが次々と膝を折り拱手をする中で、傲隹が落ち着きを繕いながら口を開いた。
「これは公……如何なされましたか?」
「
江寧は、いる?」
息を切らせながらの問いに、傲隹の背後にて拱手をしていた者達は自然と顔を見合わせる。僅かな沈黙を置き、礼を解いた傲隹は思案の後に頭を横に振り否と告げた。
「先程、蓬山を発ちました」
「……そんな」
深緋の瞳が目一杯に見開かれて、峯麒の足は自然と数歩後ずさる。次第に淋しくなる気持ちに顔を歪めると、視線は自然と背後の景色に向けられる。夜陰が落ちつつある遠景を眺めて、峯麒がはたと重大な事に気付いた。……動悸が消えた。それが何を意味するのか、ようやく理解する。
―――ああ、この鼓動がそうだったのだ。
何故もっと早く気付かなかったのだろう。そう思ったところで時は既に遅し。肩を小さく震わせ、再び傲隹を見やる。悲しみを含む眼を逸らすことのないまま、ぽつりと峯麒が呟いた。
「……どうして引き止めなかったの」
今にも泣き出しそうな少年の声に、男の傍らにいた玉秦が困惑の眼差しを傲隹に向ける。どうしたものかと少年と男を交互に見比べると、これには流石に傲隹も動揺しているのか、若干躊躇いつつも少年に言葉を掛ける。
「公、」
「
江寧には、王気があったのに……!」
「な―――」
少年の言葉に、聞き受けた誰もが身を振り返らせる。王気と聞いた者達はざわめき、蓬山公の言葉を広める。周囲はあっと言う間に喧噪が包む中、騒ぎの中心に佇む峯麒は数歩足を踏み出して、闇夜の迫る空を見上げた。
―――暁光が、離れゆく。
峯麒の叫びも虚しく、蓬山を立ち去った少女に声が届くことはなかった。