- 漆章 -
黄海に取り巻かれた五山、その東方に位置する蓬山には悠然として構えられた蓬廬宮が佇む。唯一蓬廬宮の外に建つ離宮は甫渡宮―――翠の釉薬の屋根が目印となり、しかし間を繋ぐ途は迷宮の最中に門で仕切られて、決して行き来する事は出来ない。故に門前から甫渡宮の途脇には多くの天幕が張られ、それはさも町があるかの如き錯覚を受ける。誰もが黄海を越えて安堵の顔をしている事だけは、
江寧にも察する事ができた。
「これ……全部昇山者の天幕ですか?」
「ああ。後々増えてさらに賑やかになる」
「―――昇山の様子を知っているようで」
「ああ。三十年以上前に一度来ている」
「三十年―――、」
綻凌の言葉に目を瞬かせた
江寧は、次いではたと思い出した。彼らは地仙であるが故に老いる事無く、外見で判断してはならない。―――つまりは、傲隹や鄭玄、玉秦もまたそうであることを。
「昇山は一度しか許されないと言うが、それは公が違えばまた別の話だ。現にこうして私が許されているのだから」
「ええ……」
相槌を打った
江寧の傍では、既に綻凌らの一行が天幕を張ろうとしている。
江寧は近場の光景を見守り、それから奇岩を背にゆるりと視線を薙がせる。誰もが麒麟の裁可を待ち望んでいるのだと思えば、異様な空気を感じさせる。部外者が居る事に場違いと感じると、自然と深い溜息が零れた。
―――兎にも角にも、自身の目的は終わった。あとは時を待って恭へ帰還するだけ。
江寧は自身にそう言い聞かせながら、ふと逸らした視線が靡く紅紫を捉えて気を惹かれる。振り返った女性の顔を認めて咄嗟に声を上げると、足が自然と動き出す。
「玉秦殿!」
「
江寧殿―――ご無事で何よりです」
駆けて来る少女の姿に安堵の笑みを湛えた玉秦は、皮甲を覆う布に手を掛ける。さっと取り外したそれを丁寧に折り畳むと片腕に提げた。額に汗を浮かべた
江寧を眺め、ふと背後から接近しつつある男へと視線がいく。それが誰であるかと認めるや否や、玉秦の顔色が豹変した。
「……将軍」
「お前達も無事で良かった。虎賁氏は天幕に居るのか?」
「ええ、はい―――居りますが」
「そうか」
頷く綻凌の顔は穏やかなままであるが、対し玉秦はやや緊張の面持ちで男を見上げている。双方を見比べて僅かに困惑する
江寧は、会話の終点を待とうと閉口する。だが、その様子に気付いた綻凌が苦笑を浮かばせながら二者の肩を叩く。行こう、と歩き出し向けた背に玉秦と
江寧が思わず顔を見合わせ、次いで小走りでその後を追う。何処へ向かうのかと疑問に思いながらも、問いを投げかける事はなかった。
やがて蓬廬宮へと繋がる門近くに張られた天幕の前で足を止める。表では鄭玄が冬器の手入れをしており、ふと見上げて三者を視界に入れると軽く目を見開く。立ち上がり何事かを口にしようとしたが、綻凌によって制止を受けた。
「彼は中か」
「そうです」
「少しばかり話がしたい。他者が立ち入らぬよう頼む」
「承知致しました」
軽い拱手の後、鄭玄が天幕の框窓を開く。綻凌は仄かな光が差し込まれた天幕の中へと身を潜らせて内へ入ると、框窓はすぐに閉じられた。それを
江寧が眺める事暫し、不思議に思った玉秦が首を捻りながらも様子を窺う。少女の視線は変わらず天幕へと向けられており、唐突にぽつりと呟きが傍らの二者へと届いた。
「……何か」
「はい?」
「関係がぎくしゃくしているように見えますが……」
「―――ええ、そうですね」
少女の言葉に二者は内心驚きながらも、傍らの玉秦が首肯を見せる。次いで足元の冬器を拾い上げながら、鄭玄がさも大した事でもないかのように一言を紡ぐ。
「犬猿の仲さ」
軽く放たれた言葉を聞き、真っ先に反応を示した玉秦は慌てて男を振り返った。浮かべるは焦燥。二歩程の間合いを詰め寄り、密かに咎めようと声を潜めた。詰め寄られた方は閉口する気も無く、落ち着きを保ったまま女性と視線を合わせる。
「鄭玄殿……!」
「別に隠すべきことじゃないだろ?」
鄭玄はからからと笑いを零す。玉秦にとって、その陽気さが今だけは後先を案じる事の無いもののように見えて仕方が無い。……それに、とさらに制止の言葉を続けようとした矢先、
江寧の元へ向き直った鄭玄が早速と言わんばかりに口を開いた。
「仕事上ではそれなりだが……此処だけの話、俺としては同族嫌悪にしか見えな」
「聞こえているぞ鄭玄殿?」
突如として言葉が遮断される。鄭玄は今度こそ焦燥を滲ませて勢い良く振り返った先に、天幕より出てきた傲隹と綻凌の二者を捉える。玉秦はその場で拱手をして、続くように
江寧もまた礼をとった。傲隹は二者を一瞥して、一度別れた少女の無事を確認する。大事が無く幸いと微かな笑みを浮かべ、次いで鄭玄の様子を捉えて微笑を歪める。
「口が滑ると大変だな」
「……申し訳ありません」
傲隹に続き天幕より顔を出した綻凌もまた苦笑を零せば、それが冗談を含めて責めているのだと分かる。玉秦と
江寧はほっと息を吐いて、紡ぐ三者の会話に暫し耳を傾ける。黄海を抜けるだけでこれだけの余裕が作られるのだと思えば、黄海に慣れた者が抱く警戒心は余程のものである事が理解できる。拱手を解きやや地へ傾けていた面を上げたところで、
江寧らの背後から僅かに上がるざわめきが聞こえた。
振り返った先、ゆっくりと開く門と人々の片膝を着く後姿。誰かの呟きによって、門を潜る者の正体を把握する事となった。
◇ ◆ ◇
門が開かれた後の途は次第に貌を変える。門の手前から感染したように沈黙が広がり続け、それは例に漏れなく傲隹らにも影響を与えた。
昇山者たちは次々と膝を着き拱手をする。礼の先には、数人の女仙に囲まれゆっくりと歩みを進める猩々緋。それが先日に助けてくれた彼である事を改めて確認した
江寧は、ふとある事柄を思い出し密やかな声を地に落とす。
「……公の元へ帰還を」
呟かれた言葉を聞き受けた影は一瞬獣特有の臭気を鼻腔に掠らせる。それで戻ったのだと思い、
江寧はそのまま周囲の沈黙に合わせて拱手を続けた。
―――もしも後々お会いできたなら、礼を言わなければ。
何気なく思い浮かんだ考えは、胸中の心情を自然と顔に滲み出させていた。
昇山者の中でも瞬く間に些細な騒ぎとなったのは、峯麒が麒麟の中でも極稀な赤麒麟であるという事実だった。誰もが初めて見えるその姿に目を見開かせて、峯麒の離宮入りを皮切りに周囲から声が上がる。傲隹や綻凌もまた暫しの間呆然と甫渡宮へ視線を釘付けていたが、同じく離宮を眺めている
江寧だけは微かな笑みを口元に浮かべていた。
「……赤麒か」
「戴が黒で芳が赤―――近年は珍しい事ばかりだな」
一方は関心を、もう一方は驚きを抱いて膝元の埃を払う。人は次第に天幕を離れて甫渡宮へと足を向け始めている。その様子を遠巻きに眺めながらも、他人事のようにしてなどいられないと其々に一歩を踏み出して、途端傲隹と綻凌の背後から鄭玄の声が耳に届く。
「俺達は進香に行って来るが、その間
江寧はどうする?」
「綻凌殿の天幕の裏に緋頼を待たせてるから連れてくる。あとは一人で暇を潰すよ」
「ああ、分かった」
快く頷いた鄭玄は歩みを進め、前方に佇む二者の元へ駆けつける。玉秦らが三者の後に続き、その後姿を見送る
江寧の胸内には僅かな疎外感が募る。複雑に絡まりつつある感情を抱きながら、少女は綻凌の天幕へ向かう為に足を進め始めた。
綻凌の天幕裏より赤虎を連れ戻した
江寧は、手綱を引きつつ各所に張られた天幕と行き交う人の姿を眺める。容姿は様々に、誰もが希望を抱き此処に留まる。集った者達の中から王気を見出す事が出来れば、芳はいよいよ復興の兆しを見せるのだ。―――そう思いながら、
江寧は傲隹らの天幕の裏へと回り込む。手綱を立てられた柵に括り着けると、緋頼はゆっくりと地に伏せる。緋色の傍らに腰を落とし、そうして鬣を撫でていた。
疲労が溜まっていた事もあり、やがて睡魔が
江寧の意識を蝕む。重くなる瞼を手の甲で擦り、しかし眠気が退く事はなく。赤虎の体躯に背を預けて空を仰臥すれば、陽の傾き始めた晴天が眼に刺激を与えた。……刹那、視界の端に映る緋色の何か。
首を起こし視線をもう一つの緋色へと向ける。それは、いつぞやに会った少年の姿。
「―――公」
「今さっき進香が終わったよ―――無事で良かった」
彼女を覗き込む少年の深緋の眼。表情を硬直させたまま身を起こした
江寧が目を瞬かせて、次いで慌てて拱手をする。あまりの驚愕に、睡魔はいつの間にか吹き飛んでいる。対し峯麒は目を丸くしながらも、目前の少女から視線を外そうとはしなかった。
「何故此処に公が、」
「うん、莫套が案内をしてくれた」
少 年は同意を地に求める。自身の影からは低声にて応と返答があり、
江寧は緩ませようとした口元が引き攣るのが分かった。それが指令という事は分かるが、流石にこうして目前で話されては緊張が走る。そんな
江寧の様子を余所に、峯麒は朗らかな声で言葉を発した。
「お邪魔して構わないかな」
「―――ええ、少々お待ち下さい」
赤虎から離れ立ち上がった
江寧は、そのまま峯麒の横を通り抜けると表の框窓を軽く叩く。返答はすぐにあり、そのまま手前に開き天幕の内を覗き込む。ちょうど傲隹と玉秦が何事かと話し合っていたようで、邪魔をしただろうかと思いつつも
江寧が事を告げた。
「傲隹殿、公がお見えになられました」
「なに―――?」
「此処へお招きしても宜しいですか?」
「……ああ、お通ししろ」
頷いた
江寧は、何気なく傲隹の傍らに座る玉秦を見やる。彼女にしては珍しく、表情を硬直させながら場を退出しようとしていた。
江寧もまた気を遣い出て行こうとしたところで、表では峯麒が待ち構えている。少女の姿を見るなり表情を明るくして、突如空虚の右手を取ると握り締めた。
「公―――」
「一緒に行こうよ」
―――まただ。
少年の笑顔が嘗ての少年と重なる。あの少年ではない事など理解している筈なのに、笑顔で言われれば断れない。
江寧は複雑な心境を抱えたまま、峯麒に手を引かれて天幕の内へ引き返す。赤麒の背後にやって来た少女の姿に――否、それの手をしかと繋ぐ峯麒の姿に半ば驚きつつも、傲隹は片膝を着くと礼を取る。垂れた頭をゆっくりと上げると、峯麒の笑顔が男の視界の半分を占めた。
「こんにちは」
「まさかこれ程早く公がいらっしゃるとは思いませんでした」
傲隹らの張った天幕と甫渡宮の間は随分と空いている。間にはまだ幾人もの昇山者が居り、裁可は何日も後と予測していた傲隹にとっては驚きの外に表す情がない。しかしあくまで冷静を装い、男は拱手を解くと少年を直視した。眼は僅かに細められて、傲隹は意を決し口を開く。
「公―――裁可は如何か」
傲隹の問いに、峯麒の眼が一杯に開かれる。次いで子供なりに顰めた顔が集中を物語る。一瞬にして落ちた沈黙が
江寧にとっては痛い。……大切なこの時に、何故他国の民が芳国麒麟と手を繋いでいるのだろう。
そう思いつつも
江寧は時を見守り、やがて合い続けた視線を先に区切ったのは峯麒だった。ゆるりと視線を地に落とし、ゆっくりと瞼を伏せる。
「……至日まで、ご無事で」
峯麒は申し訳無さそうに告げる。……彼は理解していた。断りの言葉の裏を返せば、再び黄海を歩き戻れという言である事を。
しゅんと項垂れる峯麒の手に力が篭る。少女の手を握り締めた掌にもまた強く力が入れられて、
江寧は思わず目前の少年をまじまじと見た。先程までの明るさがまるで嘘のようだった。
対し、傲隹はやんわりと笑みを浮かべる。再び下げた頭は先程よりも深い。
「―――有り難う存じます。これだけの数が居りましょうから、大変ですな」
そう言って、男は普段にない微笑を湛えた。はい、と素直に首肯する峯麒を傍らに、
江寧は何処か違和感を覚える。的確な情を表す言葉が見つからず、胸に引っ掛かる靄がもどかしい。意識的に顔を顰めかけて、突如峯麒が声を上げた。
「あの、」
「はい?」
傲隹と
江寧は首を捻る。先程までは人見知りもなく普通に会話をしていた少年が言い淀ませる何かを気にして、彼の言葉の先を待つこと暫し。峯麒がくるりと振り仰いだ先は背後の少女へ。微かに頬を緩ませて、問いをその明るい声音で投げかける。
「この者を借りていいですか?」
峯麒の予想もできない言葉に、二者は一頻り目を瞬かせていた。
◇ ◆ ◇
「―――驚きました」
呆れたように告げる
江寧は、しかと握り込まれた手をぶらぶらと揺らす。途を歩く際に昇山者より注目を受け、尚且つ寄り来る者達と話す際に一時も手を離そうとしない。これは懐かれたとしか言い様がなく、苦笑を落として傍らの少年を見下ろす。嬉しそうに繋いだ手を振り歩く少年の姿は、どうしても神獣には見えない。
気を良くしたまま歩みを進める峯麒に、さらなる言葉を掛ける。
「女仙に叱られますよ?」
「蓬山公は僕。だから別にいいの」
江寧が問うも、少年は言葉を一蹴りする。振り返ると猩々緋の髪が陽に照らされて眩い。少年の笑顔もまた明るく、足取りが軽いように思われた。歩みの先には甫渡宮があり、宮前の階段に女仙が待っているのだと、先程峯麒が楽しげに話していた。
峯麒の話に耳を傾け続けていた
江寧は、ふと延麒が話していた事柄を思い起こす。数月前に玄英宮にて聞いた事だったか。
「……そういえば、公は胎果とか」
「そうだよ」
頷いた峯麒はその場に立ち止まると
江寧を振り仰ぐ。向けられた眼が何度か瞬いて、斜陽に重なる少女の姿をじっと見詰めた。蓬山へ来た者の中で胎果である事を聞かれたのは初めてだと思いながら、仰臥を止めてしっかりと向き直った。柔らかく笑んだ
江寧は膝を折って目線を合わせ、僅かに声を潜めて問いを囁く。
「差し支え無ければ、日本での名を教えて頂けますか?」
「うん、北山和真」
「―――」
―――思考が一瞬にして硬直する。
無意識に無意識に息を詰める。
目前の猩々緋を蓬山公として見ていた視角が崩壊を始める。そういえば、彼は赤毛だった―――。
刹那、
江寧は今すぐにでも目前の小さな身体を抱き締めたい衝動に駆られる。伯母の罵倒が記憶から掘り起こされ、和真の母親から受けた暴言を脳裏に過ぎらせ、しかしそれは違ったのだと、思わず溢れそうになる言葉を喉元まで抑える。抑止を懸けた反動か、目元に熱を覚えていた。
……けれど、と思う。
己の名を明かして再会を喜ぶ事は容易い。だが、それで懐かれたままではすぐに来る別れが辛くなる。恐らく、この少年は別れに耐え切れないだろう。蓬山公としての役目を放棄してでも、と着いて来るかもしれない。……それだけは、絶対にならない。
「……
江寧?」
何かに耐え忍ぶような少女を目前にして、峯麒は恐る恐ると問う。繋がれた手が小刻みに震えて、少年の心配を煽る。俯かせた顔は情を読み取る事ができず、ふと頬へ滴り落ちる雫を捉えて首を傾げた。
「……泣いてるの?」
江寧の手甲に乗せられる少年の小さな掌。慰めるように叩く優しい手に、
江寧は胸中を打たれた。慌てて左袖で頬を拭うと、無理にでも笑みを作ってみせる。取り繕われた表情だったが、峯麒はほっと胸を撫で下ろす。安堵によって少年の笑みが戻った事に安心を覚えて、
江寧は自身の手に乗せられた掌を左手で撫ぜた。
「―――少しだけ、目が乾いて痛くなっただけですよ」
「そう?それなら良いんだけど……」
ええ、と
江寧は首肯する。
―――内心、自身の名は決して明かさない事を密かに決意していた。