- 陸章 -
黄海の夜明けはやや薄暗い。一月以上を過ごしたとて慣れはなく、眠りを深くする事もない。皆誰もが周囲を警戒しつつ灌木の下や騎獣に身を寄せて眠る。その中で、群衆の一部は動き出していた。
間近に迫る最大の難関――岩の砂漠を無事に越えることが出来れば、蓬山まではあと約半月。当初十三人だった傲隹率いる一行はしかし、ここ数日の間に六人もの尊い犠牲を払ってしまった。群衆はさらに酷く、多くの随従や昇山者が命を落としている。その理由は妖魔との遭遇が急激に増えた事にあった。難関通過の為に集う剛氏の間にはやがて密やかな囁きが行き交う。……もしや、鵬雛が失われたのではないか、と。
江寧の離脱から、数日後の事であった。
「―――やはり、駄目だったか」
騶虞の手綱を持ち立ち上がった傲隹は、此れまで来た道とは呼べぬ途を振り返る。数日の間に移動した道程は半月前と比べて然程長くはない。だが、それでも背後より来るのは妖魔ばかりで、緋色の騎獣がやって来る様子は一向に無い。蠱雕との相討ちの可能性が過ぎり、深く溜息を落とす。弓射は良い腕をしていたというのに。
眼を細め途を眺めていた傲隹は、途端近付く足音を聞き受けて半身を振り返らせた。
「傲隹殿、」
「妖魔がこうも頻繁に出没しては、
江寧も苦戦しているか、或いは―――」
「……一人で蠱雕を討たせようとするなど、初めから無茶な事だと分かって行かせたのは傲隹殿のはずだ」
「俺は彼女の言葉を信用して行かせたまでだ。無茶な事ではない」
傲隹は穏やかな顔付きのまま言葉を返す。その様子に目を据え、無意識に眉根を寄せた鄭玄が一歩を踏み出した。辺りは未だ仮眠を摂り静まり返っている。それを起こすまいと気を遣い声を潜めて、さらに返答の言葉を綴る。
「犠牲は少ない方が良い……それは分かる。だが、何も一人残して進む事は無かったろう」
「ならば、君が残るつもりだったか?」
「―――お前、」
据えた視線は鋭利となり男を突き刺す。言葉を続けようとした鄭玄は、刹那間に割り込まれる者の姿を捉えて数度眼を瞬かせた。何故、と問う間も無く女は空を指差す。位置は然程高くは無かったが、指の方角を辿った先に見えたのは紅の一点。声を出しては他者の睡眠を妨げる……それは承知であったが、鄭玄の喉元から競り上がる衝動が声を洩らしかけて、途端噎び込む。代わりに大きく手を振れば、次第に鮮明となる紅の上にて小さくも手が幾度も弧を描く。
生還に嬉々とする鄭玄の傍らで、傲隹は近付きつつある点を無表情で眺めていた。
無事に傲隹らと合流を果たした
江寧は、労いの一声を掛けられた後に灌木の根元へ座り込み休憩を摂る。ひたすら飛び続け、時折降り立ち隠れて妖魔の通過を待ち、それを繰り返して探し迷い、ようやく辿り着く事が出来た。故に大した休憩はなく、疲労の蓄積した身体はやや重い。自らの手で僅かに痛む肩を解していると、
江寧の傍らに並び座る者があった。
ふと視線のみを向けた
江寧が捉えたのは、数日振りに見た紅紫の長髪。一行とは少しばかり距離のある灌木の下、出立の準備を始めた者達の動きを眼で追いながら、玉秦が口を開く。
「
江寧殿」
「はい?」
いつになく真剣な声を聞き、少女の顔が自然と横を向く。全てを見透かすような漆黒の瞳が白藤を映し込んで、何気なく惹かれた
江寧もまた玉秦を見返す。
「貴殿に知って頂きたいお話があります」
「私に……ですか」
「はい」
首肯は力強く。眼は真摯として向けられ、
江寧は僅かに息を呑む。対面し二者の間に沈黙が降りる事暫し、切り出しに思案していた玉秦はふと視線を逸らし遠方を一望する。密やかに話し合う傲隹と鄭玄、婁庚の姿を捉えながら、傍らの少女へと言葉を向けた。
「傲隹殿と鄭玄殿の関係は、貴殿にはどう見えておりますか?」
「……気の合う主従」
江寧は自身の眼に映るまま告げる。これまでの傲隹に対する鄭玄の態度がそれを思わせ、実際そうではないのかと首を捻る。問いそのものに疑問を抱く
江寧に、玉秦は一つ頷きを見せて再び口を開く。
「そうですね。傍からであれば、当然そのように見えましょう」
「……違うんですか?」
少女の問いに、返答は当然のように首肯一つ。やや困惑の面持ちで玉秦を見据えていると、女は膝の上に手を組み
江寧を見やった。
「そもそも、杖身を雇うのみならば他国の者を引き入れても可笑しくはない。ですが十三……今となっては、剛氏と
江寧殿を除き六人となってしまいましたが……生まれは皆芳なのです」
「ええ……そのようですね」
此れまで見てきた一行の様子からすれば当然のようにそう思ってきた。随従は確かに皆芳の民であるが、大金をもって迎えられた護衛――杖身は他国の者も少数ながら混ざっている。だが、一行の中で杖身として身を置くのは
江寧のみである。言葉として告げられる前までは差して違和感を抱く事は無かったのだが。
「
江寧殿が主従として見えるならば、それは根本自体を誤解されている」
「それって、どういう―――」
「私達は雇い雇われた関係ではないという事です」
はっきりとした口調をもって出された言葉に、
江寧は軽く目を見開かせる。昇山の希望を持つ者が集い、一行として共に蓬山を目指す―――その珍しい形態を知り驚く
江寧に、玉秦はそっと瞼を落とした。
「誰もが天意を諮ろうとしている」
「……玉秦殿も、ですか?」
呟くような言葉を聞き受け、少女は恐る恐ると問う。彼女もまた、王たる器量を信じ此処まで来たのだろうか。そう思い玉秦の表情を窺う。ゆるりと上がる口角に、薄く開かれた目には切なげな色を浮かべ手元へ視線を落とす。暫し思いあぐねる風を見せ、ふと苦笑を零した。
「―――以前、私は恵州師の将軍を務めておりました」
「将軍……道理で」
相槌を打つ
江寧は、内心驚きよりも納得の意が強かった。急襲する妖魔に対し振るわれる戈剣の腕は他者よりも長け、妖魔を切り捨てる事にも随分と手慣れているように思えた。それが将軍となれば胸中に納得が落ちる。州の名を聞き逃さず、
江寧はさらなる問いを投げかける。
「では、月渓殿をよくご存知でいらっしゃるのですか」
「ええ、はい。
江寧殿は恵州候の事をいつ頃お知りに?」
「未だお会いした事はありません。ですが……彼をよく知る者が、友人として慶に居りましたので」
「左様でしたか……」
慶、と呟き、玉秦は思わず笑みを湛える。そういえば、慶は新王の登極から未だ数年しか経過していないのだったか。此度で飄風の王が出るのならば然したる差は無いと、傍らの少女へ視線を向ける。―――彼女にならば、話しても良いだろうか。
「私は、彼が昇山する事を望みました」
玉秦の告白に、
江寧は相槌を打つ。それを確認して一拍の間を置いた後、綴る言葉を続けた。
「王を弑いし奉り、しかし上六官を纏め上げて仮朝を崩す事のないあの方ならば、たとえ過去の天意に背いたものがあろうと王気を具えているのかもしれないと思った。けれど……月渓殿は、頑なにそれを否定していたのです」
―――今でも玉秦の記憶に鮮明として残る嘗ての光景。甦るはその言葉。幾ら勧めたとて首肯を一度も見る事はなく。勧める度に返される言葉は同じく、仮王として起つか否かと迷っていた当時の光景を思い出さずにはいられなかった。
「私が仮王に留まっているのは、正当なる次期国主へ国を渡す為―――と」
……自身に王気がある訳が無い、と。言葉の裏に存在する音を悟った玉秦もまた困惑し、そして熟考する。答えを見出したのはそれから一週間後の事だった。
「ならば……私も、見守ろうと思いました。峯麒がもし月渓殿の前で膝を折る事が無いのなら、その頭は一体誰に下げられるものかと」
「―――玉秦殿は、月渓殿に王になってほしかったのですね」
「……そういう事になりましょうか」
自身の本音を明かされたような気がして、玉秦は照れたように笑う。本来推したかった者の拒否によって、彼女は直接そこまで言う勇気を持つ事が出来なかった。今思えば一度でも言えば良かったと思い、笑みに微かな苦が混ざる。
「それで、他に王となるやもしれない者を私なりに見出し着いてきたのです。ですから、私は最初から天意を諮ろうという気はありません」
断言ははっきりと。
江寧は頭を僅かに横へ振る玉秦を眺め、次いで準備を終えたらしき傲隹らの姿を見やる。掛けていた灌木の根から腰を浮かせてゆっくりと立ち上がり、ぽつりと呟くような問いを洩らした。
「此度で、飄風の王となるでしょうか」
「……まだ分かりませんね」
身形を整えて、玉秦は歩き出す。垣間見た横顔に浮かぶ笑みを認めほっと溜息を洩らした
江寧もまた後を追い駆け出したところで、出立の声が二者の耳へ届くこととなった。
◇ ◆ ◇
五山を取り巻く黄海、その中でも比較的山に近い層に広がるは灼熱の地。陽は容赦なく頭上へ降り注がれ、岩肌は焼け石の如く。水場は在ろう筈もなく、遠景に揺らめく蜃気楼が多くの者を惑わせた。人が通るには困難と思われるその場所を、彼らは最後の難関と称して突き進んでいた。
岩の砂漠を歩き続ける群衆は、日が経つに連れて負傷者を続出させる。肌を曝す者は火膨れを起こし、水不足により倒れる者がある。その度に幾人かが介抱をして背負いつつ止めていた足を再び動かし始めた。それを傍で眺めていた傲隹らは、予定していた日数よりも幾分か遅れるやもしれないことを日に日に感じ取っていた。
「ようやく半分まで来たな」
岩の影に潜む鄭玄はからからと笑う。男の言葉に頷いたのは玉秦で、後を追うように他の者が頭を縦に振る。
江寧は赤虎の体躯に纏わり付いた砂埃を払い落としながらふと空を見上げた。陽は没し、じきに夜陰が降りようとしている。夜の砂漠は急激に冷え込み寒くなると蓬莱にて聞いた事のあった
江寧だが、黄海の事情は些か違うようで、時折生暖かな風が岩肌に沿って途へ流れ吹く。照りつける日が無い分過ごしやすいのは実に有り難い事の様に思えた。
昇山者からやや離れた場所に集い密やかに話し込むは数人の剛氏。その内、豪商の者に雇われた中年の男が呟くように疑問を吐き出す。
「しかし……えらく違うな」
「うん?」
「妖魔だよ。さっき流砂のあった場所にはよく飛廉が出る。なのに一頭も出ないとなりゃ……鵬が戻ってきたか」
「確か―――あの時離れてたのは、傲隹の一行だったな」
剛氏の視線が婁庚へと注がれる。男はただ静かに瞬きをするのみだったが、彼にも根拠の無い確信めいたものが胸中に渦巻いていた。これ程までに楽な黄海の旅は経験した事が無い婁庚にとっては尚更、鵬翼に乗っているのだと思わざるを得ない。ただ―――誰が鵬であるかまでは判断し兼ねるのだが。
「砂漠を抜ける前に死人を出すなよ。誰が鵬か、まだ分からねぇんだから」
密やかな忠告に、婁庚は傲隹らを一瞥しつつ頷きを見せるのみだった。
「
江寧は、蓬山に着いたらどうする?」
岩に背を凭れ掛けながら、鄭玄が傍らの少女に問いかける。傲隹や玉秦もまたそちらへ顔を向けると、目を瞬かせた
江寧を視界に入れる。その意味を理解し兼ねるのか、首を捻り問いを返した。
「どうする、って―――」
「黄海を見る為に来たんだろう。ならば、蓬山へ到着した時点で
江寧の目的は終わりになる。その後は何かしら考えているのかと思ったのだが」
鄭玄の言葉の意味を解したのは傲隹だった。きょとんとした少女を腕を組むまま見下ろして、やんわりと笑む。あと数日で砂漠を抜ければ、辿り着くべき終着点は間近に迫る。大凡二月の旅は終わるのだ。
芳の民は甫渡宮までの途の脇に天幕を張ると、進香を済ませて麒麟の裁可を待つ―――だが、目前の少女には裁可を待つ必要がない。ならば今後は一体どうするつもりなのか、彼女なりに考えていると思っていた鄭玄や傲隹はしかし、その予想が外れて思わず苦笑を零す。どうやら、黄海を進む事で精一杯だったらしい。
暫し顔を伏せて思いあぐねていた
江寧は、ふと顔を上げる。自身の影に一度視線を落として、ああと指令の存在を思い起こす。
「そうですね……一目蓬山公を拝見させて頂いた方が、」
「おいおい、麒麟は見世物じゃないぞ」
鄭玄の笑いを含んだ言葉を聞いたのか、周囲から洩らされた忍び笑いが場に満ちる。黄海に入った者のぴりぴりとした緊張や警戒はなく、先日の妖魔の急襲が嘘のように思われた。
頭上を振り仰げば無数の星と朧げな月の光が遥か頭上を照らす。こういった夜は火を焚かずに済むのが幸いで、今もこうして岩の影に集い話し込む周囲に、火の灯りは一切見受けられない。静かな夜はいつまで続くかと、傲隹は群衆を見渡し目を細める。
―――やはり、この中に鵬雛が居るのだ。
それは鄭玄であるかもしれないし、玉秦であるかもしれない。はたまた己自身か……それとも。
数日の後、群衆は無事に砂漠を抜ける事が出来た。
灼熱に体力を削られた者は多く、岩の砂漠を抜けて少しばかり歩いた先、目前に広がる小広な草原の途を見つけて誰もが心を逸らせる。細く連なる木々の下に座り込み、先程長右の群れと遭遇した際に負傷者した者達の手当てに掛かり始めた。次々と休憩に入る群衆はしかし、その中から突如として傲隹が立ち上がる。
「どうした?」
「……もう二日ほどで到着するだろう」
「ああ」
「皆、行けるか」
一行に掛けられた言葉を聞き、数人が驚きの声を上げる。一行の外からも剛氏の声が聞こえて、傲隹はそれを一切として聞き流す。此処までこうして群れて来たのはそれが安全であるからで、群衆として行動する事は難関を潜れば不要となる。それを剛氏もまた知っているからこそ、驚きの声は挙げられた。―――安全圏とはいえ、此処は未だ黄海という事を忘れてはならない。
「傲隹殿、」
「なに、こちらは腕の立つ者ばかりだ。少数で向かうと言えども、小物ならばすぐに払い除けられる」
他方から留まるようにとの催促と、傲隹の言葉の受け取り方と。その意味は少しばかり食い違っていた。互いの言葉の意味を理解した
江寧は、僅かに眉を顰める。説明したところで発言を撤回するような男でない事もこの二月で理解していた
江寧にとっては、迷いは一拍。切り出す為の勇気もまた一拍を置いて、傲隹の前に立ち留まった。
「傲隹殿、私は残ります」
「
江寧―――」
応と頷こうとしていた玉秦と鄭玄にとって、少女の申し出は驚きに値する。男の前に佇み直視する
江寧の声は凛として、傲隹もまた少女を真っ向から見下ろす。一間の対峙の後、途端
江寧は柔らかな笑みを浮かべる。睨み合いという雰囲気を払拭するかのように、朗らかな声がその理由を述べた。
「到着が早かれ遅かれ、麒麟の裁可はあるのですから。今は手当てを手伝って、負傷者に手を貸します」
「そうか……ならば好きにするがいい。着いたら俺の天幕を訪ねて来い」
「分かりました」
頷いた傲隹はそそくさと踵を返し、鄭玄らの名を呼ぶ。他の者は若干戸惑いながらもその後を追い、顔を振り返らせて
江寧の姿を垣間見る。笑顔のまま一行を見送る少女の姿は、どこか淋しげに見えていた。
◇ ◆ ◇
「良いのかい?彼らと行かなくても」
長右に足を掻かれ、
江寧の手当てを受けている男がそう訊ねる。対し、迷いもなく首肯する姿に少女の優しさを感じ取る。これまでの旅路で傲隹らが手を差し伸べた事は一切として無かった。それが今、こうして初めて―――たとえ置いて行かれようとも留まってくれた事に男は感謝の意を述べる。差して気に留めていないのか、作業に集中する
江寧の返事は短かなものだったが。
一日ほどその場に留まった群衆は、負傷者の手当てを終えて静かな一時を過ごす。此処が黄海と忘れてしまう程の静寂が、逆に剛氏らを不安に陥れる。こうも静まっているのは人の手に負えぬようなものが来るからか。それとも単に小物ばかりが周囲に隠れているのか。どちらにしろ妖魔の奇襲のない今だからこそ気を休められるようなものだった。
やがて、ようやく砂漠を越えたらしき昇山者が途を歩いてくる姿を数人が視界に捉え始める。次々と顔を上げて自分達が辿り来た途を振り返ると、次々と登り進む者達が群衆の方を目指し歩いて来るのが見える。先頭を進むのは剛氏らしき者と暗い橙色の髪の男。
江寧の傍らで禁軍右将軍だと囁く声があり、他国の将軍への関心からか
江寧は思わずまじまじと先頭の男を見詰めた。
だがすぐにその視線に気付いたのか、男はふと足を止めて群衆を一望する。それから視線の合った者を目指し随従らの間を縫って進む。向かった先は、白藤の少女へ。
「令乾門では虎賁氏と共に居た者か」
「虎賁氏……?」
それが誰を指すのか理解出来ずに首を捻ると、男はああ、と短く声を発して笑う。ゆっくりと立ち上がった
江寧から視線を外さず、少女の疑問に応じてみせた。
「王の公務時の警護をする役職を虎賁氏という。嘗て傲隹がそれに任じられていた」
「ああ、傲隹殿が」
納得し、相槌を打つ
江寧。以前、夏官に身を置いていたという傲隹の言葉を思い起こし、成程と納得の意を落とす。男は傲隹の姿を視線のみで探し、やがてこの場に彼の者の姿が無い事に気付く。無意識に眉を顰めてみせた男は風除けの布を外して顔を露とする。端整な顔立ちの男は一巡りさせた視線を少女の元へ戻すと、声を数段落として問いかけた。
「奴は先に行ったのか」
「ええ。もうすぐだから、これ以上の危険は無いだろう―――と」
「……何度も黄海へ入っている割には、割と大きな油断をする」
男は大きく溜息を吐き出す。呆れにも似たその表情を
江寧は無言のまま眺めていると、それで、と会話を紡ぐような言葉を口にした。
「此処に残ったのはお前だけか」
「はい」
「……そうだな。難関を越えたのだから、此処で休息を取る事に罰はあるまい」
険しくなりかけた男の顔が、途端解れる。綻ばせた顔のまま振り返ると、背後に引き連れていた者達の姿を一望する。風除けの布を木の根に掛けると、男は連れに笑いかけた。
「此処で彼らと共に休憩を取る。各自休んでくれ」
木の根に腰掛けた男は自身の膝へ丁寧に畳んだ風除けの布を掛ける。その上に手を組み置くと、休憩に入る者達を暫し眺めていた。砂漠での奇襲が嘘のように穏やかで、途端どっと疲労が押し寄せる。それを無理矢理忘れようとして、隣に腰掛けている少女へと話を振った。
「しかし……お前一人を置いていくとは。傲隹も随分と冷静になったものだ」
「あの―――
江寧と申します」
突如として少女の名乗りを傍で聞き、男は自身の言葉を顧みてああ、と頷いた。お前呼ばわりは心地が悪かったのかもしれないと思いつつ、軽く拱手をとる。
「これは失礼仕った―――禁軍右将軍の、輯 綻凌と申す」
綻凌と名乗った男は口元に笑みを湛えて傍らに視線を下ろす。その紹介に改めて関心を抱く
江寧は一礼を返すと、少女の行動が意外に思えたのか、綻凌は微かに驚きの表情を見せた。何かしら思うところあって、次いで何気なく問いを投げかける。
「
江寧は何処の出身かな」
「……胎果なので、出身の国は未だに不明のままです」
「では、芳の民という可能性もある訳だ」
「―――まさか」
「まさかなものか」
江寧の否定は穏やかな声によって遮断を受ける。何故と問いを返す間もなく、綻凌はさらなる問いを少女に振った。
「今年で幾つになる」
「歳末で二十二になります」
一時仙籍にあった所為か、外見の成長が留まった年月がある。実年齢を言えば二十二で合っているものの、今現在の外見は十九か二十か……童顔もあって、傍から見た
江寧の年齢はそれ以下にしか見えないのが現状だった。
戸惑いながらも答えたものの、綻凌からの反応がない。考え込む風を見せたまま視線を手元に下げている。それを不安に思い様子を窺っていた
江寧は、途端発せられた男の声にびくりと肩を跳ねさせた。
「……
江寧」
「はい」
綻凌の静かな言葉に
江寧は緊張を走らせる。周囲とは異なる空気に冷汗を掻きそうになり、顔を覗き込む綻凌を直視する。見分されているような感覚がやけに恐ろしい。その空気を
江寧が暫し味わったところで、綻凌がやや顔を離すとようやく言葉を切り出した。
「三年前、芳に蝕が通り過ぎた。だが、その前ともなれば二十年ほど前に一度」
「―――え?」
「故に、そういった可能性がある」
思いも寄らない話に呆然とした。あまりにも唐突に出生の国を可能性として見出され、困惑ばかりが胸中に渦巻く。どうせなら一生分からなくとも良い。そう思い過ごしてきた日々の記憶が走馬燈のように駆け巡る。次いで、今此処に集う者達が目指す場所を思い、
江寧は慌てて頭を振った。
「ですが、有り得ません」
「……何故に?」
「たとえ芳の民であったとしても、私は王の器など持ってはおりません。そのような大任を背負う覚悟もありません」
「たとえ覚悟が無くとも、天がどのように見込まれるかは分からない」
冷静に告げる綻凌の言葉に、それでも
江寧は可能性を否定をする。延や景のように何処か違う雰囲気を纏っている事も、見目が整っている事もない。王と面識があるとは言えどもただただ平凡で、何の取り得もないというのに。
表情を曇らせながら、
江寧は否定の言葉を続けた。
「蓬莱には仙籍や神籍がありません。天帝――神を信じる者の方が少ないですし、麒麟のように意を介す者も居ません。……海客には、天の理を呑み込む事は難しい。それでもですか?」
「それでも、だ」
男の断言に一切の迷いはなく、はっきりとした口調は
江寧の不安を煽る。かといって、芳の民が目前に多く居る―――その中から自身が選ばれる事は有り得ないと思えば、揺らぐ心情を幾分か抑える事は出来た。
笑みの消えた少女の表情を横目で窺った綻凌は、
江寧の肩を軽く叩く。随分と重く考えさせてしまっただろうかと、思わず苦笑を零しつつ弁解にもならない本音を綴る。
「正直、私とて定められた理以外のものは分からんよ。天帝を見た者はなし。……これからも見る者は無いだろう。天が人と関わる事は有り得ないのだから」
大勢の休む姿を視界の端に留め、先程辿り来た途を眺めながら綻凌が溜息を吐く。―――昇山とは、長い道程に値する何かを得る為の旅ではない。寧ろ多くのものを失くして、なお進み続けなければならない人の心情を天が試す為の道。少なくとも、綻凌はそう考えていた。
「だが、やれと言われたのならばやる。覚悟は追々決めて行けば良いことで、玉座に就くだけでも災厄が無くなる。妖魔は出なくなる。民はそれだけでも喜ぶ」
妖魔を目前として、それらが自国の地に跋扈する様を思い浮かべる者が幾人居よう。想像する者達の中で、思い浮かべた者に胸を痛める者が幾人在ろう。それを思える心持のある民へ、天が王気を与えるのだと。
ふと視線を薙ぐと、表情を硬くさせる傍らの少女が視界に収まる。安心させる為の話が逆効果となった事に気付かなかったと、僅かに情けなさが込み上げてくる。それを破顔と苦笑に変えて、
江寧の頭を撫でた。
「まあ、選定次第だ」
綻凌の軽く掛けられた言葉に、
江寧の表情は微かに和らぐのみだった。
それから数日、草原の地から歩き続けた群衆は妖魔の襲撃を一切受けず、やがて翠の釉薬の屋根を目に留めて皆嬉々とした表情を浮かべる。
あれこそが甫渡宮―――長い旅路の終わりが、間近に迫っていた。