- 肆章 -
地に浸る深淵。その鬱蒼とする闇は夜の中で駆け渡る際に見た虚海にも酷似している。一望を映す視界には延々と夜陰が浸透するばかりで、それが地であろうと天であろうと然程変化はない。強いて挙げられるとすれば、月が地上から眺めるよりも幾らか近くなった事ぐらいだろうか。
恭州国上空を駆ける点は二つ。どちらもしなやかな体躯に月光を受け、白銀と赤銅に波打つ毛並みが夜に溶け込んだ筈の二騎を引き立てる。赤銅――赤虎の騎手は手綱を握る右手を鞍に置き、空に浮かぶ月から目を離す。下ろした視線の先は、自身の足元へと。
当初点々としていた地の明かりは、次第に漆黒の中へ溶け込みゆく。風を裂き滑走する赤虎の隣には、並行するように宙を駆ける趨虞の姿。少しずつ上がる視線は趨虞の騎手へと向けられ、それにふと気が付いた傲隹は僅かに目を細めた。
「どうした、
江寧」
「いえ―――久しぶりの長旅だな、と」
「そうだな……長い旅になる」
頷いた傲隹は、夜空を仰臥して柔らかく笑う。その余裕に流石と感心しつつ、
江寧は手綱を握り直した。
二者の向かう先は、他十一名の滞在場所である乾へ。合流次第準備を整え令乾門の開扉を待つ予定であった。
連檣から乾までの道程は徒歩と船を駆使し大凡二月ほど。それが宙を駆ける騎獣であれば数日で辿り着けるのだから、黄海で歩き詰めとなる昇山者にとってこれ程に楽なものはない。彼女が騎獣持ちで幸いと思う傲隹は、ふと風に掻き消される事なく呼ばれた自身の名に反応した。傍らへと視線を向け首を捻ると、それが返答となって少女に伝えられる。
「そういえば……何故連檣に?」
何気ない疑問を口にする
江寧に、傲隹は笑みを浮かべたまま、ああ、と相槌を打つ。数日前の記憶を掘り起こしながら、その答えを口にした。
「少々用があってな。一度は乾に着いたが、騶虞であれば早かろうと戻ってきた」
「そうですか…」
江寧は頷き、暫し考え込む風を見せる。やや逸れた視線はただ空虚を見据え、二者の間に無言の沈黙が落ちる。風を切る音だけが耳に入り込み、会話は完全に途切れた。
その後、二騎の疾走から随分と時が過ぎ行く。ふととある事柄を思い出した
江寧は、僅かに傾けていた面を上げて傍らの男へと視線を向けた。
「傲隹さん」
「ん?」
半ば睡魔も含め返答をする傲隹。その様子に誰しも眠気には弱いものだと苦笑を零しながら、
江寧は脳裏から消えぬ内にと未だ浮かぶ事柄を思い口を開く。
「恵州候の事は御存知ですか?」
「ああ、俺とて昇山する前までは夏官に身を置いていたからな」
……恵州候、月渓。
峯王仲韃――後の洌王――を弑いし奉り、数年前より仮朝の中心となった男。今現在恵候は別の人物が任に就いているものの、これまでの経緯によって恵候の馴染みが強い為に今でさえその号で呼ぶ者が居るのだから困ったものだ。そう思いながらも傲隹もまた恵候を慕って来た。
国を傾けまいと苦労を厭わず国政を立て続け、政を行い、体制の微調整も欠かす事は無かった。麒麟旗を目にした恵候の顔が今でも鮮明に甦る。皆が待ちに待った、希望への旗だった。
傲隹はこれまでの経緯に思いを馳せて瞼を落とす。その横顔を眺めて、
江寧は男の顔色を窺うように覗き込む。恐る恐ると少女の言葉は放たれる。
「では……恵候は昇山なさいますか?」
その問いに、傲隹の落とし込んでいた願いが胸内で顔を出す。僅かに眉を寄せるようにして出立前の言葉を思い起こす。気持は理解出来るつもりだったが、それを納得として見る気は毛頭無い。
「……あの方は恐らく、昇山したとしても王になる為ではあるまい」
その言葉に
江寧は思わず男を凝視する。一体どういう事かと問う声を挙げかけて、刹那言葉を飲み込む。遠方を眺める傲隹の眼差しが、少なくとも
江寧には淋しげに見えていた。数日前にも似たような眼を見た気がして、それ以上の口出しをする気は次第に失せる。少女の悄然とした様子を感じ取ったのか、傲隹は口元に苦笑を含んで
江寧を見やった。
「盟約の時を見る為にならば来るだろう」
「盟約―――」
麒麟が天の意を授かり王を選定する。王気のある者と契約を交わす事だと聞いていた
江寧は、思わず顔に複雑な色を浮かべた。ではやはり、芳の民でありながら自らが王になるという考えは持ち合わせていないのだと。
祥瓊の話もあり、一度だけでも会えるかと僅かに期待していた
江寧のそれは、瞬時にして玉砕を受けた気がした。
「あの方がどうかしたか?」
「いえ、」
内心では落ち込みつつも頭を横に振る
江寧に対し、傲隹は首を捻る。次いで進行方向を見詰め、夜陰の最中に指を差し向ける。いくら目を凝らしたとて見えぬ闇をぼんやりと眺めつつ、男は手前の希望を告げた。
「明日の朝には乾に着く予定だからな」
傲隹と
江寧が無事乾へと辿り着いたのは、翌日の昼の事だった。
朝方に到着する予定が遅れたのは予想外であったが、然程支障はないと傲隹は笑う。次いで命乾門の開扉を待つ昇山者の集う広場を抜けて、待ち合わせていたであろう閑地へと赴く。人がこれ程集まりながら何処も喧騒のない様子に
江寧は首を捻ると、突如伸ばされた手に腕を引かれた。
「あまり周りを見ないほうがいい」
「―――分かりました」
注意を受け取りつつも、
江寧の視界は進み行く前方の人だかりを捉え続ける。視線を逸らしたところで外れる事の無い光景に、ふと思う。此処で開扉を待つ者達は皆芳からやってきた者なのだろうか、と。
腕を掴む前方の男を見上げて、途端その足が留まった。
江寧もまた慌てて立ち止まると、傲隹が一つの方角を指し示す。手の方向を目で追い辿った先、一角に集う昇山者を視界に留めた。その集団に向け傲隹がひらりと手を振ったのだから違いない。
「随分と遅かったな」
「何かあったのですか?」
「ああ、護衛に役立ちそうな者を連檣で雇うことが出来た」
言って、傲隹は背後に佇む
江寧を手前へ引き寄せる。背をそっと押し出し雇った護衛を紹介すると、集った者達はしかと頷く。誰もが軽い拱手で挨拶を済ませると、突如小路の影より出てくる者がある。
江寧の傍らに立つ傲隹は、それが剛氏なのだと密やかに耳打ちをした。
「追加は満甕石だけで良いか」
「ああ、宜しく頼む」
傲隹の返答を受け、剛氏はやや釣り上がった藍色の瞳を細める。
江寧を一瞥すると、さっと踵を返し再び翳る小路へ消え行く。その背を見送って、傲隹は相変わらず素っ気無いと苦笑を零しつつ視線を傍らへと向けた。
「婁庚という。後で話してみるといい」
「はい」
頷く
江寧は同行する予定の者達の姿を一望する。恐らくは皆夏官に縁ある者なのだろう、屈強そうな男達の甲冑姿が勇ましい。また男装した女性も二人ほど紛れ、その姿に何気なく安堵感を覚えていた。
傲隹の声を合図に、十と数人ほどの集団が移動を始める。行き交う人々の合間を縫い行く者の後を、
江寧は赤虎を引き連れて見失うまいと追いかける。喧騒の無き街の様子に違和感を覚えながら、彼らと共に北西へと歩を進めた。
◇ ◆ ◇
一度亥門を潜り、市街の外へ出たところで男達は傲隹を先頭に途より逸れた地を踏み歩き出す。市街から少しばかり離れた場所には新緑が芽生え始め、木々は未だ肌を剥き出しにしている。その寄り合う樹木の間からは、所々に垣間見える灰白色の布幕。その内、門の死角となる北西の場所に安闔日を待つ彼らの天幕はあった。
「悪いが、五日此処で待機だ」
「分かりました」
天幕を眺めつつ首肯する
江寧は、次いで振り返ると市街の向こうに靄のかかった壁を仰ぐ。―――否、壁に見えたそれは想像を超えた壮大な断崖の姿。正しく天に届く山はしかし、一国に存在する凌雲山を幾重にも連なり合わせところで比べようもない程に巨大な大山である。見る者を圧倒させる程の存在感を醸し、しかしその大山であるが故に全貌を鮮明に拝見出来る事は無理にも等しい。
「金剛山を見るのも初めてか」
「―――ええ」
護衛の一人が
江寧の傍らへ並び立つ。一見二十代後半の男もまた金剛山を仰ぎ見ると、ほうと息を洩らした。陽は高く、降り注がれる眩しさに目を細める。その横顔を
江寧は見上げて、途端背後からようやく聞き慣れ始めた男の声に振り返る。
「安闔日まではあと五日ある。それまでに
江寧の皮甲を揃えなくてはな」
「え―――」
思わず目を瞬かせる
江寧に、傲隹は苦くも笑みを零す。他は皆腕が立つからと言ったところで、流石に襦裙や袍衫のみで黄海に踏み込ませる訳にはいかなかった。命知らずと周囲から蔑まれる事も哀れまれる事も好ましくはない。まして傲隹は彼女を死なせるつもりなど微塵も無なかった。
「あの、」
「死ぬつもりがないなら、大人しく皮甲を着た方が身の為だぞ?」
江寧の傍らに立つ男はからからと笑いながら忠告を口にする。冗談のように聞こえたそれは、眼が事実と語る。言葉を受けて一瞬身を硬くさせる少女の様子に再び笑いを零すと、見兼ねた傲隹が男を咎める。それですぐに男の笑い声は途切れた。
江寧はほっと安堵の息を洩らし掛けて、すぐに傲隹より手招きを受ける。
「俺はまだ残っている用を片付けに行ってくる。後の事は鄭玄から聞いてくれ」
「鄭玄?」
聞き覚えのない名に首を捻ると、傍らの男がすぐさま反応して閉口を解く。ひらりと掌を振ると、
江寧の視線はそちらへ引き寄せられる。屈託無く笑う男の姿を見上げた
江寧は、まさかと眼を見開かせた。
「鄭玄さん?」
「ああ、宜しく」
人懐こい笑みは、五日後の黄海入りを待つ者の顔には見えない。誰もが緊張を持ち市街さえも喧騒は無かった。だというのに男の余裕は
江寧にとって異様な存在に映る。不意に顔を顰めた
江寧の横顔を見やり、傲隹は新しく護衛となった者の肩を叩いた。
「そんな顔をするな。じきに慣れるから」
騶虞に騎乗し上空を駆け去る傲隹を見送った
江寧と鄭玄は、天幕から少々歩き距離を置く。戌門と亥門の間、角にあたる郭壁付近の外還途にて立ち止まった鄭玄は、目前に聳える角楼を仰臥する。その姿を背後から見守っていた
江寧は、恐る恐ると声を掛けた。
「鄭玄さん、黄海へ入った事があるんですよね?」
「ああ―――これで四度目かな」
さらりとした告白は男の見せる余裕の理由を納得させる。鄭玄は僅かな間の思案の後、くるりと背後を振り返った先には鄭玄をじっと見据える少女の姿。つい先程傲隹が口にしていた名を思い起こすと、改め口を開いた。
「
江寧……だったか?その様子じゃ、黄海は初めてみたいだけど」
「ええ、はい」
「だったら、少しぐらい知識はあった方が良いんだよなぁ」
鄭玄は角楼へ視線を戻しつつ、黄海での経験を振り返り思索を始める。嘗て三度足を踏み入れた地の何処を探しても安穏とは程遠い。いつ何時妖魔に襲われてもおかしくないその地は、さらに落石や瘴気が黄海へ入った者達を襲う。……妖魔と対峙したのは、二度目に黄海へ赴いた時だろうか。
思い起こす最中、馳せる過去に一度歯止めを掛けると、鄭玄は郭壁に背を凭れて笑みを浮かべる。
「まあ、せめて禹歩ぐらいは」
「禹歩?」
「妖魔を避ける為の歩法さ」
へぇ、と
江寧の口から関心の声が洩れる。彼女が黄海の知識の皆無さを再認識して、ふと先程傲隹に耳打ちされた事柄を胸内に呼び戻す。それでは恐らく、あれも本当の事で、決して冗談では無かったのだろう。
「なぁ
江寧、剣は扱えるか?」
「多少は……」
沈みゆく語尾。その様子にようやく確信を得て鄭玄が首肯を見せる。傲隹の耳打ちの理由を理解した鄭玄に対し、
江寧の胸内には不安が甦る。どうしたものかと眉を顰めかけたところで、男の軽い手槌の音で何事かと眼を瞬かせた。彼は変わらずの微笑を浮かべたまま、自身の提案を口にした。
「だったら、三日で教えてやる。付け焼刃になるかもしれないけど、無いよりはましだからさ」
彼女の胸中に混濁する情は呆然と当惑と。
江寧は此処でようやく先案じを覚える事となった。
◇ ◆ ◇
傲隹が乾を発ち早三日。北に位置する子門付近へ降り立った騶虞と共に、彼は外還途を西へと歩み始める。安闔日まではあと二日と迫り、門は行き交いがやや多くなる。人々の姿を視界の端に収めながら亥門を過ぎたところで、傲隹は目の前に見覚えある紅紫の髪を捉えた。
「お帰りなさいませ。如何でしたか?」
「ああ……上から行くらしい」
傲隹の言葉を受け、女性は思わず顔に困惑の色を浮かべた。それを気に留める事無く歩を進める男の後を追いかける。騶虞を挟み並び進む二者は暫し会話をせず、角楼を過ぎてようやく傲隹が口を開く。その顔には落胆が僅かに篭められていた。
「あの方はやはり、昇山する気を持ち合わせてはいないようだ」
「……そうですか……」
女性もまた悄然として肩を落とす。無意識に抱いていた期待が打ち壊されたのだと知り自らの胸元に手を当てる。そっと溜息を吐き出したところで、傲隹が気を立て直して女性に問いかける。
「皆に変わりは無いな」
「ありません。鄭玄殿と
江寧殿以外は」
自棄にきっぱりとした返答を聞き入れて、傲隹は思わず視線を紅紫の髪へと向ける。靡く長髪が彼女の横顔を度々覆い、その情を窺う事は出来なかった。だが、挙げられた二者が三日の間に何をしていたのかは大方想像がつく。それは、傲隹が出立前に鄭玄へした耳打ちの所為でもあるのだが。
「大丈夫だろう。大した心配はいらん」
言って、傲隹は鞍に置いていた荷袋の紐を肩から提げる。袋の中からは歩く度に擦れぶつかり合う金属音が何処か心地好い。
―――己が強運を持ち合わせているのだから、危機とて越えられるだろう。
微かに上がる男の口角。その貌を目に映す者は誰一人として居なかった。
歩を進めると、途端郭壁が途切れる。角楼特有の弧状を描き郭壁と連結したそれは、現在位置が北西である事を示していた。壁に沿い歩を進めていた傲隹は方角を変えると壁から離れ行く。その後を追う女性は、ふと自身らの天幕の傍らに動く者を見る。それが鄭玄と
江寧の二者であると気付く事に然程時間は掛からなかった。
男は剣を、少女は長刀を携え幾度も刃を交える。その度に響く金属音が場の緊張を高めて、言葉を途絶えさせた。腕の立つ者から見れば少女の振るいは未だ危ない部分もある。だが、三日の後の上達振りは確かに見受けられた。
「鄭玄、
江寧」
傲隹が名を呼べば、二者の切り結びは途端留まる。互いに戈剣を手元に寄せて、男の姿を認めるなり軽く拱手をした。彼らの前に立ち留まる傲隹は肩から提げていた荷袋を地に下ろすと、少女の肩を叩く。
「甲皮を調整して、後は休め」
「え―――いえ、ですが、」
「黄海に入れば安息は取れん。休めるのは今の内だぞ」
「―――はい」
渋りつつも、
江寧は首肯する。目前に置かれた荷袋を手渡され、大人しく胸中に抱き収めた少女は一礼を済ませると足早に天幕の向こうへと消えていく。その後姿を三者が見送って、途端密やかな声が傲隹の耳に届いた。それは黄海入り前の遠征に対する労いの言葉だった。
対し傍らに向き直った傲隹もまた囁くような声音のまま彼に問いを投げかける。
「鄭玄、どうだ?」
「剣はてんで駄目だが、戈は良い。三日間で随分と伸びましたから」
鄭玄の報告に一先ずは安堵の息を吐く。次いでもう傍らの女性を振り返ると、彼女は凛とした表情を男に向けた。
「……玉秦はどうだ」
「然程問題は無いと思われますが」
「分かった。ご苦労」
天幕へ下がるよう指示する傲隹に対し、二者は軽く頷き踵を返した。天幕へと向かうその最中、一方はふと足を止める。黒紅の髪が軽く揺れて、錫色の眼が仮の主君をじっと見据える。
「傲隹殿」
鄭玄の傲隹を呼ぶ声はしかし、数段低い声音の中に負の情が微かに含まれている。対峙にも似た雰囲気を読み取り玉秦もまた足を止める。二者を交互に見やって、思わず当惑の意を顔に滲ませた。落ちる沈黙が緊張を募らせて、途端鄭玄が口を開く。
「何故連れて行こうと思いました?」
問いの口調は若干強く。余裕を以って問いを聞き届けた傲隹は、直視するまま口元を引き上げた。細められた眼には情を浮かべず、鄭玄よりも先にふいと視線を背ける。背後に待たせていた騶虞の手綱を握り直すと、再び男を振り返った。
「……さあな」
傲隹は苦笑を浮かべたまま、二者から遠ざかる。戌門へと向かう男が見えなくなるまで、鄭玄と玉秦は次第に小さくなりゆく背を見送っていた。
◇ ◆ ◇
その日の乾の市街は明朝を迎えた後、いつになく忙しないものとなっていた。
低声多く騒がしさを増す群衆の殆どは隔壁を伝いに東南へ向かい流れを作る。東南の先には他門と比べ明らかに厚みある壮大な宗闕――地門が聳え立ち、開扉予定の昼前までは随分と猶予があった。にも関わらず、門前には多くの人でごった返している。
その群衆の中、彼ら昇山者の間を縫うようにして進む傲隹らもまた、市街にて猶予を潰すつもりは無かった。
犬狼真君を祀る祠に進香を済ませた
江寧は、玉秦と共に地門を仰臥する。市街の周囲に多々存在するものよりも壮大な宗闕と東南周囲を覆う石畳が、分厚い扉越しの危険を物語る。
「……大きいですね」
「地門の先にある令乾門は、これより一回りほど大きいですよ」
「そんな大きな門、一体誰が開けるんですか……?」
「令乾門には霊獣の天伯が居りますので。人の姿となって、年に一度門を開きます」
江寧の問いにはっきりとした口調で受け答えする玉秦は、凛とした表情を崩さない。普段よりも低く強張る声は、開扉間近の緊張を覚えているのだろう。地門へ向けていた
江寧の視線が一度だけ傍らの女性に一瞥のみ戻される。玉秦の口元が引き結ばれ、その顔はやや険しくなりつつあった。
途端、二者の背後から聞き覚えのある声がする。振り返り見た
江寧は、ざわめきある群衆の中を掻き分けるようにして進み来る傲隹の姿を捉えた。玉秦もまたそれに気付き半身を振り返らせたところで、彼の後を追い辿り着く他の者達を見やる。黄海へ踏み込む準備は皆既に万全として、後は時を待つのみ。
「―――地門が開くぞ」
途端、頭上より降る声に
江寧が振り仰ぐと、鄭玄が周囲と同じように門を見上げている。皮甲を纏い冬器を携行する姿は以前天幕前で見た軽装の印象を砕かせる。声を掛けようとしたその刹那―――低く鳴り渡る太鼓の音がその時を知らせて、ざわめきが沈黙と化していく。
黄海へ向けて開かれゆく門を眺めながら、傲隹は傍らの護衛となった者の肩を軽く叩いた。
「覚悟は出来たか、
江寧」
「―――はい」
首肯の動作は硬く。開く地門の間へ人が次々と流れ始め、
江寧らもまた人波に乗じて歩を進め始めた。
地門から令乾門までは深い登りの峡谷が続く。幅は異様な程に広く、途は瞬く間に次の門へと足早に向かい進む者達で埋め尽くされた。
江寧らもまた分散する事なく歩を進め、途を登り行く。空を見上げたとて、壮大が故に薄まったように見える金剛山が視界の中央を占める。多くの者は前方を見据えたまま前進するのみで、
江寧はぼんやりと眺めた人波を嘗ての慶国内乱の様子と重ね合わせていた。
「そんなに不安そうな顔をするな」
「鄭玄……殿」
「無理に付けなくて良いさ」
鄭玄は微かに笑むと、
江寧の右隣に寄り添う赤虎を見下ろす。強暴で知られる騎獣の手綱をこの少女が持っている事に何気ない違和感を感じつつ、途端足を止めた前方の者に合わせて彼らもまた立ち止まる。遠方に立ち塞がるは二層の門。遥か頭上に掛けられた黒塗りの扁額には、金字で書かれた門の名。確かに令乾門と書かれたそれは、未だぴったりと閉ざされて開門の気配を見せることは無かった。
大衆の間に流れる異様な程の沈黙の中、玉秦はまだ午ではないと
江寧へ耳打ちする。それに首肯してなお、赤虎の主君は令乾門を見上げ続けた。……正確には、朱塗りの門扉に刻まれた霊獣の姿を。
――刹那、不意に響き渡る唸りが鼓膜を震わせる。
音は途に満たされ、開扉を待つ者達のざわめきと交錯する。初めて耳にする低音を聞きながら、
江寧は傲隹を一瞥する。令乾門を見上げる傲隹の眉間には若干皺が寄せられ、やや睨め付けているようにも見えた。
唸りは次第に静まりゆく。共に群衆のざわめきも収まりつつあって、
江寧はふと高楼にぽつりと浮かぶ影を眼に留めた。ゆっくりと降下するそれが人影なのだと逸早く理解すると、眼を見開きまじまじと見詰める。人の良さそうな老爺はしかし、あれが天伯の人形であるのだと鄭玄より耳打ちを受けた。途端、少女の脳裏に過ぎるのは麒麟の転変。あれと同じようなものだろうかと思い、やがて老爺の姿は目前に集う群衆の向こうに消える。
江寧の視界には留まる事なく沈黙の中に身を置くこと暫し―――突如、鄭玄が騎乗を促す。
「乗っとけ。絶対に空へは飛ぶなよ」
「え?」
「空には妖魔が居る。あっと言う間に餌食にされちゃ堪らない」
だろう?と同意を求める言葉はあくまで明るげな声音を装う。対し、確かにと頷きを返す
江寧は緋頼の背に騎乗する。すると、不意に押し寄せて来た生温い風を頬に受けた。地門から令乾門までの途は無風。では、と視線を遠景へと延ばした先に、令乾門開扉の様子が窺える。
急速に高まる緊張。それを押さえながら、
江寧は同じく趨虞に騎乗する傲隹を視界の端に捉えた。やはり乗っていくのだと知って、途端湧き立つ歓声にぎょっと眼を見張る。門は既に開き、内側と外側より押し寄せる者達が交差する。初めて目の当たりにするその光景を呆然として眺めていた
江寧の裾を、軽く引く者があった。
「―――さて、俺達も行こうか」
◇ ◆ ◇
昇山者たちは安全確保の為に城塞までの道程を必死で駆け抜け、宗闕へ足を踏み入れる。黄海で蓬山を除きただ一つの休息地である城塞の内部までは石畳の隧道が導く。途を駆け抜けた先、広がる里にも似た街並みを一望して、
江寧は赤虎の手綱を引く。傲隹は一度十三名の無事を確認すると、鞍から身を下ろして宿を目指し歩き出した。その後に一同が続き、
江寧の前を行く玉秦がふと顔を振り向かせた。
「安闔日はどうでした?」
「……はっきり言って、衝撃的でした」
苦笑しつつ、
江寧は擦れ違う者を何気なく眼で追う。誰もが険しい表情の中に微かな安堵の色を浮かべて途を歩く。何処からか賑やかな声が一時涌いて、城塞内の安全を示しているようだった。
宿は最低限の食事が出され、土間を床として借りる事が出来た。傲隹らより雑居寝と聞き、
江寧は厭う様子を一切見せずに土間の隅へ座り込む。駄々を捏ねる年ではないし、だからと言って年頃の娘が雑魚寝に顔を顰める事も無く受け入れる事に違和感を持った鄭玄は彼女の隣に腰を下ろす。
「こうして寝るのは慣れてるのか?」
「え?ええ、旅をしている時は節約でよく土間を借りてましたから」
江寧は頷いて、袈裟懸けしていた弓を壁に立て掛ける。同時に背を凭れて、緊張からか無意識に入れていた肩の力をゆっくりと抜いた。我儘や不満を洩らされるよりは良いかと思いつつ、傲隹らもまた土間へ座り込んだ。
婁庚が語る黄海の様子に耳を傾けながら、
江寧の気は時折城塞の外へと向けられる。妖魔の声が厚い城壁を通り抜けて響き渡り、声がする度に同じく土間に留まる昇山者達がちらほらと顔を上げた。妖魔との遭遇が少ない者にとっては不安を煽られる。彼女の気を察知した傲隹は安心させるようにやんわりと笑みを浮かべて、大丈夫だと告げる。
江寧は頷くものの、やはり緊張が解れる事は無かった。
それから土間で一夜を過ごし、夜明け前に出立を決めて宿を出た。夜明けと言えども、辺りは未だ夜のように暗い。妖鳥の鳴き声を聞き慣れない
江寧の眠りは浅く、瞼は僅かに重い。眠れたかという玉秦の問いに、
江寧はゆるりと頭を横に振っていた。
空いている内にと祠廟への参拝を済ませ、城塞の門扉を待つ者達に混ざり時を待つ。待ちながら
江寧は次々に祠廟へ参拝にやって来る昇山者たちを眺めていた。皆――剛氏を除いて――芳の民であるのだと何気なく思い、ふと傍らの玉秦を見上げる。凛とした表情を見据えていると、玉秦は視線に気付き
江寧の元へと顔を向ける。
「なに?」
「鄭玄殿や玉秦殿が乾海を越えた時、妖魔は出ました?」
「そうですね……ええ。王が不在となって五年経ったにしては、随分と少ないように思えましたが」
それも、国を傾かせまいと仮朝を指揮して祭祀を欠かさず行う候のお陰だろうか。男の顔を思い起こしつつ、玉秦は同時に数日前の落胆を胸に去来させる。彼が居るからこそ朝廷の腐敗は抑えられ、しかし多数の推薦を受けてなお首を横に振る仮王は、盟約の時を見る為だけに雲海より蓬山へ赴くという。可能性を否定する気は解らなくも無かったが、玉秦にはその言い草がどうしても解せないでいた。
逸れた思いを、瞼一つ落とすと共に遮断する。改め
江寧を見下ろすと、彼女の視線は祠廟前に出来始めた列へと戻されていた。それにほっと息を吐いて、玉秦は門扉に集う者同様に開扉の時を待ち佇む。
門の開扉までは暫しの間があった。
誰もが最後の確認を終えて、兵士に見送られるまま最後の安全地を離れ行く。……全ては、峯麒の住まう蓬山へ赴き、天意を諮る為に。
傲隹一行の他にも多くの昇山者が門扉と同時に流れ出た。そこから長々とした岩の間を下り切ると、目前に広がる鬱蒼とした森へと足を踏み入れる。その光景はさも一団のように見えて、実のところ多くの一行が安全の為に身を寄せて移動をしているだけなのだが。
赤虎を引き連れ森を進む間、
江寧は誰一人とも言葉を交わさずにいた。集団の中から聞こえる声は密やかなものだったが、口を引き結んだままの少女を気に掛けて玉秦と鄭玄が顔を見合わせる。問いかけようと玉秦は口を開きかけて、途端背後より鳴り響き渡る鐘や太鼓の音に集団の足が留まった。―――令乾門が閉じる。
木々に覆われかけた遠景をじっと見据える
江寧の姿に、ああ、と思う。彼女は緊張を以って、この時を気に掛けていたのだと。