- 参章 -
「あと二日で此処を発つ。それまでには、行くかどうかを検討してくれ」
見下ろす退紅色を前に、
江寧は動かない。
ただ一つ瞬かれたそれが、榮春には首肯に酷似しているような気がした。
ようやく後片付けを終えて房室に戻った尭衛を迎えたのは、椅子に腰掛けたまま深刻な面持ちをした榮春だった。
尭衛が戻ってきた事を認めるや否や、俯きかけた顔を上げ柑子色の眼を向ける。普段見せる事のない表情に首を捻り、後ろ手に戸を閉めると同時に引き結ばれていた口が開かれる。
「尭衛」
「うん?」
名を呼ばれるまま尭衛は返答をする。聞き入れた声音は重く、それを気に掛けると榮春の隣に置かれた椅子の元へと歩み寄る。椅子を引こうと伸ばした手を、一回り小さな手が掬い取った。
「尭衛、
江寧を止めて」
「何だ?」
「あの子、芳の昇山者と一緒に黄海を抜けるつもりなの」
その告白には彼も驚かざるを得なかった。不在の時に何があったのかと疑問を抱き、一先ずはと榮春の肩を軽く叩き宥める。掬われた手をゆっくりと解くと、今度こそ椅子の背凭れを掴み手前へ引き寄せた。腰を落ち着かせる彼の元に向けられた視線は僅かに鋭い。
「黄海へ行くなんて私は反対よ。だって……妖魔が沢山いるのよ?死ぬかもしれないのに……」
「榮春―――」
彼女の保身を思うが故の反対であることは尭衛にも充分に理解できる。だが―――彼は首肯したいところを手前で抑えた。ここで頷く事は出来ない、と。
「興味本意だけで黄海に入るのは自殺行為も同じ。そうでしょう?」
「だが、それは
江寧の意思だろう?」
「それは……そうだけど」
尭衛は、つい先程擦れ違った元海客である少女の様子を思い起こす。就寝前の挨拶を交わした彼女の顔には、切なげな表情が微かに浮かんでいた気がした。見間違いであればと思っていた矢先の報告に、少しばかり気落ちする。溜息を吐き出した尭衛を見やって、榮春は視線を目前に留めたまま悄然とする。
「……尭衛は、
江寧が死んでも良いの?」
「死んでほしくないとは思うが、残念ながら意思を捻じ曲げる権利は持っていない」
黄海へ行きたいと当人が言うのならば、望むままにすればいい。半ば投げやりな思いを脳裏に過ぎらせて、尭衛ははたと思考を留める。榮春の姿を見据えると、沈みかけた空気を打ち消すように笑みを作った。
「だがな、榮春」
彼の声掛けに一つ瞬かせた榮春は頭を傾げると、尭衛は笑みを浮かべたまま卓上に肘を置く。彼女を安心させるように、彼の手が白い手を包み込んだ。
「妖魔に殺されるつもりで黄海に足を踏み入れる奴は一人も居ない筈だ」
「でも、」
「―――まあ、普通はそう思うか」
零れるは苦笑。掌に仄かな温度を感じつつ、視線は自然と戸の向こうへ。
廊下を挟み斜向かいの房間……先程其処へ入った少女の顔を思い起こしながら、尭衛は眉間に僅かな皺を寄せていた。
明朝、空を覆う漆黒が次第に薄まりゆく頃。そそくさと着替えを終えて房室より出てきた尭衛は、斜向かいの戸が既に開かれている事に気付く。厨房へ向かおうとした足を廊下の最中で止めると、未だ人の起きた気配のない廊下、その側から園林を見渡す。だが、園林も未だ静寂を落とし込むばかりであった。……となれば、彼女の行き先は一つ。
尭衛が足を向けた先は、舎館の裏に面した場所にある厩舎。彼女の騎獣の為に貸し出したのが最奥の一つである。
江寧が房間か園林に居なければ残る行き先は厩舎ただ一つだった。
「
江寧」
「―――おはようございます」
赤虎の首元を抱いていた
江寧は、名を呼ばれ鬣に伏せていた顔を上げる。舎館の主人の姿を視界に捉えて、次いで頭を軽く下げた。それに応えて尭衛もまた挨拶を交わせば、少女の顔が綻ぶ。普段通りの光景―――その姿が、やけに彼の不安を煽った。胸内の情が微かに面へ表れて、
江寧は尭衛の様子に違和感を感じると赤虎に触れていた手を離した。
「何かありました?」
「少し、話を良いか?」
「―――良いですよ」
少女の頷きを確認すると、その傍らへと歩み寄る。彼女の横顔をまじまじと眺め、やはり変化は見られず尭衛の視界には普段通りの
江寧にしか映らない。どうしたものかと密かに息を吐き出して、昨晩の件を口にした。
「黄海に行くそうだな」
「ええ……」
相槌を打つ最中に、垣間見える少女の翳り。行く事こそ希望はしているものの、聞かれる際には胸が痛む。身勝手な行動に申し訳ない思いが浮上して、
江寧は目を細めながら地へと視線を落とす。だが―――それでも、と。
「黄海に興味があるそうだが、行くならそれなりの覚悟を決めなきゃならん」
「はい」
返答の口調ははっきりと。それが覚悟を露として、尭衛は半ば睨み付けるように目を細めた。
「数ヶ月は戻れん。それでも良いのか」
首肯はただ一つ力強く。見上げる眼は真摯を伴い直視する。覚悟は既に据えたのかと、視線を受ける男は思う。
「命の保障は何処にもない。それでもか」
これにも応えは頭を縦に振るのみ。一歩も後退する気配のない
江寧の様子に、途端尭衛は瞼を落とした。
此処まで決めているのならば、理由はもう聞かない。若き日に同じような無茶をしていた自身では、もう口出しは出来ない。尭衛の判断は呆れにも似た溜息として吐き出されて、赤虎の傍らに佇む白藤を改め視界に収める。以前と同じように送り出せば良いのだと、己に言い聞かせて。
「出立はいつだ」
「明後日に」
「……分かった。仕事に行くぞ」
諒承の言葉を聞き受け、
江寧は思わず呆然とする。確実に引き止められるものだと思っていた返答の内容は間逆のもので、何故と問い返しそうになった言葉を飲み込む。折角諒承を貰ったのだ、受け取っておかねば―――そう思いつつ歩き出した尭衛の後ろを追おうとして、ふと足を止めた男が半身を振り返らせた。
「
江寧」
少女は名を呼ばれ、返答は短く。頭一つ分上の顔を見上げれば、尭衛と視線が合った。先程と異なりやんわりとした雰囲気に胸を撫で下ろしながら、頭を傾げる。
「本当は、俺も反対だったんだがな」
苦笑を伴った男の告白に、気を落とした
江寧は謝罪の言葉を呟くように述べた。
◇ ◆ ◇
その日の夕刻、ようやく落ち着き始めた仕事を見計らい休憩を入れた
江寧は、房間とは正反対である厩舎へと足を向けた。最奥だけあって、誰も足を延ばす事はない。人との接触を極力避けたい時、
江寧は赤虎の元で身体を休めていた。
今日もまた緋頼の傍らに近付こうと柵へ手を掛け、不意に背後よりの気配を感じ取る。勢い良く振り返った
江寧の視界に映り込んだのは、揺れる麹塵の髪。
「お前の騎獣か?」
「ええ」
「驚いたな……まさか騎獣持ちとは思わなかった」
驚きとは言葉ばかり、口元に笑みを湛えて
江寧の傍らへ歩み寄った男もまた柵に手を置く。口を開く事無く見上げ続ける少女の視線を受けて、男は肝心な事を忘れている事に気が付いた。
「そういえば名乗りがまだだったか。俺は傲隹という」
「傲隹、さん……?」
「ああ。氏は鴻、名は彈だ」
先日と異なり帯刀はなく、軽装姿の傲隹は赤虎の元へと視線を下ろしている。対し呻る緋頼の頭を
江寧の手が撫でゆく。耳元で何事かを言い聞かせると、次第に警戒の声は落ちていった。一通りの様子を見守りつつ、傲隹は柵に半身を凭れさせる。
「お前の氏は?」
「
坂、です」
「
坂 江寧か―――良い名だ」
言って、目を細める傲隹の姿を
江寧は屈むまま見上げる。それが何処となく誰かと重なって、僅かに顔を綻ばせた。
二者は互いに身の上話を軽く話し合う。傲隹は傾きつつある芳国の現状を淡々と説明し、その上で年替わりの初旬に麒麟旗が揚げられた事を告げた。昇山の志を持つ者達にとっては待ちに待った時である、と。
相槌を打ちつつ話に耳を傾けていた
江寧もまた、これまでの経緯を話す。伏せるべき事柄は多々あったが、それでも
江寧の話を理解したのか軽い首肯を見せる。それにほっと安堵の息を吐くと、一時の間を置いて本題に足を踏み入れた。
「剛氏と
江寧と俺を含めて計十三人で蓬山へ向かう」
「十三……」
「なに、皆腕の立つ者ばかりだから大丈夫だ。黄海に足を踏み入れた者が半数以上を占めるからな」
「そんなに―――傲隹さんも?」
「勿論」
半ば誇らしげに頷く男は口角を上げる。その余裕から、黄海へ踏み込んだ回数が一度きりではない事を
江寧は悟る。同時、昨日訪れた際の姿を思い起こして、男もまた腕が立つのだと思う。そうでなければ他者を誘う事もない。
そう巡らせていた
江寧の思考は、途端傲隹の問いによって遮断された。
「ところで、剣は使えるか?」
「ええ、多少は」
江寧は頷く。―――尤も、彼の禁軍将軍に才能は皆無と判断された事もあったが。
一体何故と問いかけるその前に、柵より身を離した傲隹は袖を軽く払うと傍らの彼女へと向き直る。急に落ちた場の空気に自然と
江寧の眉が顰められる。
「基本的には援護を頼むが、万が一という事もあろう」
「万が一……ですか」
ああ、と首肯する傲隹の表情は些か硬いものへと変わる。だが其れもすぐに緩められて、少女の肩が軽く叩かれた。
「そういう可能性は無くもない。大丈夫とは言ったが……それなりに危険な土地なんだよ、黄海は」
「そういえば……
江寧、お前の親は何処にいる?」
唐突に投げられた問いを聞き受け、一瞬眼を丸くした少女の顔からは次第に笑みが消えゆく。走馬灯の如く脳裏を疾走する過去の記憶に、
江寧は傲隹から視線を逸らすと手前へ落とす。首を擡げた緋頼の姿が自然と視界に収まり、柵越しに手を伸ばす。柔らかな毛並を撫でつつ、返答を口にした。
「……居ません」
「居ない?」
「親も祖国も、分からないので」
祖国と聞き、傲隹は一瞬その意味を理解する事が出来なかった。一拍ほど置いてようやく当て嵌まる言葉を見出し、次いで驚愕に眼を見開かせる。
江寧の姿を改めまじまじと眺めると、確認するかのように問う。
「―――お前、海客か」
「ええ、胎果です」
既にこちらの世に溶け込み、全く違和感のない少女が海客である事を認め難く思う男は、嘗て遭遇した事のある海客の姿を思い浮かべる。少女と見比べたとて、差は明らかなものであった。
首を捻ったところで、ふと思い出した事柄に顔を顰める。……賜った仙籍は時折厄介な時もあるものだ。海客の言葉と言えども、言葉が翻訳されてしまうのだから。
「海客の言葉は通じんと聞いた事がある」
「言葉は勉強すればどうにでもなります。ただ……世の理を受け入れる事だけは苦労しましたが」
笑みに微かな苦笑を混ぜる
江寧に、ああ、と傲隹は思う。
舎館の者と話が通じているのだから通じている事は確かである。だが、蓬莱や崑崙から来たのならば文化も異なる。それをよく学んだものだと感心を抱かせた。理解し難いもので残るは世の理ならば、それは仕方がない。蓬莱の子は女の腹に宿り生まれると言うし、木の実から生まれるなどとは思うまい。まして天の意があるか否かなど、目前の実証がある筈もなく。
江寧の苦笑に乗じて傲隹もまた笑みを浮かべると、さらなる問いを少女に向ける。
「一つ、質問しても良いか?」
「はい」
やんわりとした少女の頷きを認めると、昨晩より胸内に抱いていた疑問が喉元にまで競り上がる。直視する
江寧の視線を受け取ると、見返した傲隹はその口を開いた。
「お前は何の為に黄海へ赴く?」
男の問いは、騎獣の鬣を撫でる少女の手をはたりと留める。視線は直視のままであったが、その様子から僅かな驚きを感じ取る事ができた。
瞬きは数度。刹那、
江寧の眼に力が篭る。真摯とした情を含む視線が、傲隹の昇山に対する情をさらに涌かせた。
「―――さらなる理を知る為に」
◇ ◆ ◇
大方の仕事を終えた尭衛は、厨房にて明日分の仕込を始めていた。
早く作業を終わらせて床に就きたいと思いつつ手は緩めず、そうして半分ほど片付け終えた頃だろうか。厨房と廊下を隔てる戸がゆっくりと押し開かれて、その隙間からおずおずと覗かせるは少女の顔。厨房の様子を窺うような視線の巡りに、尭衛は作業の手を休めて彼女の名を呼ぶ。視線を合わせ頷くと、
江寧はそれを良しと受け取ったのか厨房に足を踏み入れた。後ろでにゆっくりと戸を閉ざして、男の前に向き直る。
それで、尭衛は大方話の事柄を察した。
「尭衛……」
「榮春には俺から話を―――」
「ううん、自分で話す」
尭衛の言葉を遮り頭を横へ振る
江寧。その様子に驚き目を瞬かせると、意を決するかの如き声音を聞き届けて不安が宿る。訣別ではないが、それに似た雰囲気を漂わせる姿を見れば流石に心配が過ぎった。
「大丈夫か?」
「これは私が言い出した我儘だから。これ以上の迷惑を掛ける訳にはいかないよ」
江寧ははっきりとした口調で告げる。その姿と五年前の少女の姿を比べると、差は歴然として表れる。しみじみとして成長を思う尭衛は、同時に再び連檣を離れ行く事への寂しさを覚えていた。帰って来たばかりだというのに、やはり一所に留まる事は出来ないのか―――と。
「……お前も、随分と成長したな」
「そうかな」
「ああ。早く行って来い」
苦笑を交えて
江寧の肩を軽く叩く。彼女の身体をぐるりと反転させ戸へ向き直させると、その背を押すように叩いた。されるがままの
江寧は尭衛の顔を仰ぎ見ながら、反対である筈の意を胸内に落とし込んでくれた事に感謝する。押されるがまま戸を開き厨房を出たところで、ありがとう、と呟きを入れると廊下を足早に駆けて行く。戸の間から小さくなる少女の背を覗き見ていた尭衛は、聞き届けたその言葉にさらなる寂しさを募らせていた。
房室にて椅子に腰掛ける榮春は、窓枠に切り取られた玻璃越しの深淵をぼんやりと眺めていた。
手元には先程胡典が気を遣い淹れたばかりの茶があり、湯呑を両手で緩く包み込む。彼女達の旅立ちは明日と思えば、情は次第に切なくなる。視線を湯呑の茶に落として、指が震える度に広がる波紋を何気なく見据えていた。
―――恐らく。
不自由な片足のせいで何処にも行けないから、自由奔放に他国へ赴く少女に嫉妬しているのかもしれない。或いは、黄海に行き怪我をして、自分のような不自由になってはほしくないという願いもあるのかもしれなかった。
どちらにしても彼女は行くのだろう。また、長い長い旅になってしまうのだから。
榮春は気を沈めて、途端戸の開かれる音がする。彼女は尭衛が仕事を終え戻ってきたのだと思い込み、顔を上げた先にあったのは頭を悩ませていた当人の姿。白藤色が視界から外れてくれない。
「榮春」
名を呼ばれ、榮春は歩み寄る
江寧の姿から視線を外さずにいる。それが一時の――或いは最期の――別れの挨拶となるが故に。
「
江寧……黄海へ、行くつもりなのね」
「うん―――ごめん」
「…………」
三文字の謝罪が頭から離れない。謝るぐらいなら行かなければ良いのに。
思いは募る。募るばかりで、それを全て打ち明けようとは思わなかった。打ち明けたところで、彼女が留まってくれる筈はないのだから。
一度視線を手元へ落とし深い溜息を落とした榮春は、改め少女の姿を眺める。明日には赤虎に騎乗して空を駆け行く。嘗て見た光景のように、朝陽の中に溶け込んでゆくのだと。
「いつから放浪癖がついたのかしら」
「榮春……」
不意に榮春が思い出したのは、昨夜の尭衛との会話。彼女は死ぬ為に行く訳ではないのだ。そう考えると、幾分か胸内の不安が楽になる。
感情は瞬時にして呆れに摩り替わる。二度目の溜息を落とすと、榮春は淋しげな笑みを微かに浮かべた。
「尭衛も
江寧の黄海行きを許してしまうんだもの。しょうがないじゃない」
もしも尭衛が本気で反対を前面に押し出していようものならば、今頃青稟を招いているだろう。
江寧に対して言葉は容赦が無いのは、青稟だけなのだから。それが無いのだから尭衛は既に諒承している。仕方がないと、真剣な眼差しを向ける
江寧に対して榮春は見上げるまま眼を僅かに細めた。
「早く行きなさい。今回ばかりは、笑って見送る事は出来ないから」
「―――うん」
身を翻す
江寧の姿を、榮春は敢えて視界に入れる事は無かった。数歩の足音と戸の開閉する音を聞き終え、ようやく飲みかけの茶を口にする。
―――行ってらっしゃい。
胸内でそう告げながら、榮春は瞼をそっと落とす。彼女の姿を再び
見える日が来ればと、
江寧の無事を一人祈っていた。