- 弐章 -
凌雲山の麓、裳裾の様に緩く下り広がる街並みを虚海より吹き寄せる条風は容赦なく吹き抜けていく。峰々の間に入り込む風が海鳴りにも似た音を奏で、寒冷を一層に引き立てる。人々は褞袍を掻き合わせながら、その誰もが温暖を待ち遠しく思う。
恭国首都連檣。時期は二月も末へ差しかかろうとしていた頃の事だった。
凌雲山の麓に限りなく近い街並び。大途にありながら午門からは程遠いその場所に、とある舎館は建ち構えられていた。
何時になく忙しい昼餉時、廊下を小走りに抜ける少女の姿がある。襦裙は質素、氈帽として巻かれた布の結び目が肩口に垂れて片耳を覆う。包みを胸元に抱え、廊下の角を曲がったところで探していた人物を視界に留めた。
「尭衛!」
「ん、どうした」
「どうしたもこうしたも……一体何を考えてるんですか!」
少女―――
江寧の叫びに、尭衛は目を丸くする。胸元に包まれた中身が何であるかを思い起こして、途端手槌を打つ。弓射に良かれと思い用意した袍が気に入らなかったか、はたまた襦裙ではない事への反論か。
どちらかと考えつつ
江寧を見下ろす。
「園林で弓射……しかも芳の昇山者たちへ健勝祈願の鏑を放つのが私だなんて聞いてません!」
「ああ、それか」
夕餉前、特別に行う予定であったそれは、彼女が帰還したからこそ出来るものだった。既に言伝を受け取ったのだと思い込んでいた尭衛は故に一切の言葉を足すこともなく、今こうして
江寧に問われたところでようやく彼女の耳に届いていなかった事を知る。一間に考えをめぐらせ、尭衛は改め彼女との視線を合わせる。
「胡典や榮春からは?」
「何も聞いてません」
ゆるりと頭を横に振る
江寧。その様子に僅かな苦笑を浮かべつつ、尭衛は呟くような詫びを一つ告げた。残された時間は半日をとうに切っている。練習する猶予も流れを十分に聞く余裕もない事は明らかだった。配慮が足りなかった―――内心で反省しつつも、彼の口からはついつい言い訳染みた言葉が発せられる。
「お前さんが帰って来たから、浮かれたまま言い忘れてたな」
「そんな大事なこと―――」
忘れないで下さい……と。そう続けようとした
江寧は台詞を最中に良い止す。舎館の混み具合を目にすれば、尭衛の仕事の量も分かる。連日に渡り人の出入りが多く誰もが忙しなく動き回っている。仕事を手伝う
江寧もまた同じであるが故に余裕の無さは良く分かっているつもりであった。ならば、話が行き届かなかった事も無理はない。
考えつつ、
江寧は佇む数人の客の姿を廊下の角から見やる。彼らはこれから妖魔の跋扈する不毛の地に踏み入ろうとしている。安息など皆無な、水無き地に。
「―――昇山者は、これから蓬山目指して黄海を抜けるんだね」
「ああ、そうだな」
尭衛は頷くも、少女の視界からは外れている。
江寧の視線は未だ昇山者へと向けられ、眼は微かに細められる。そこに篭められた情を読み取ることは、彼にとって酷く難しい事のように思えた。
暫しの間廊下にて行き交う客を眺め、途端
江寧が尭衛の元へと視線を戻す。貌は少なくとも当惑した表情ではなくなっている。
「……尭衛」
「うん?」
落ち着いた
江寧の声に対し、尭衛はただ頭を傾げるのみ。一切問うこともなく、少しばかりの期待を含め彼女の返答を待つ。
「何処かで練習する場所はある?」
「やる気になってくれたか」
安堵の笑みを微かに浮かべて、彼は
江寧の肩を叩く。勝手な発案を時間間近にて首肯か否かを選択させてしまった事には申し訳なく思いながら、人気の無い場所を思い探る。そこでふと浮かぶのは、舎館の裏。
「裏庭を使え。あそこなら、客は滅多に足を踏み入れて来ないだろう」
「分かった、ありがとう」
「いや―――悪かったな」
尭衛が謝罪を口にした途端、目前の少女が軽く目を見開く。まじまじと男の表情を眺めて、驚きの表情はすぐに破顔した。僅かに篭められていた肩の力が抜かれて、ゆるりと頭を横に振る。
「忙しい中ですから、仕方ありません」
では、と舎館の主に対し軽く礼の後、
江寧はすぐさま身を反転させる。そのまま裏庭へ行くのだろう―――そう尭衛は思いつつもしっかりとした背中が消えゆくまでその場に佇み見送っていた。
◇ ◆ ◇
その日、飯堂にて昼餉を終えた男は満たされた腹内を落ち着かせるために舎館内の廊下をぶらりと巡り歩いていた。
午門から随分と離れたこの舎館にさえ多くの芳の民が宿泊している。廊下にて擦れ違う者達の様子を眺め、時折左手に広がる園林へと視線を薙がせる。次いで男の脳裏に過ぎったのは未だ雪に覆われた祖国の姿。崩御から早五年が過ぎ、日々刻々と傾き続ける豪雪の地。その下で暮らす民は苦を強いられながら、新王登極の時を待つ。洌王の悲惨な時代もあり、民の新王への期待は募り続け大きなものとなっている事を男は知っている。
―――恭は豊かだ。
祖国に思いを馳せ、芳が後々恭のように為ればと願い、男はふと足を止めた。
行き交う人々の話し声を抜けて、弦音が彼の耳に届けられる。何処からかと周囲に視線を巡らせるも、一定に弓弦を鳴らす仕草をする者は見受けられず。音を便りに歩を進め廊下を歩くと、廊下の間に人気の無い串風路のような路を見つけた。廊下から身を乗り出し先を見やると、それは裏庭へと続いているらしかった。
「何処から―――」
串風路へ飛び降りると、止まぬ弓弦の音を辿り小走りで路を裏庭に向け進んでいく。開けた庭の手前で立ち止まり、そっとその先を覗き見やる。そこに、音の根源が存在した。
ゆっくりと引かれた弓弦。揺るぎは見られず、的無き先の壁に視線を据える少女の姿。その立ち構えはしっかりとしている。眺めるのは僅かと決めていた男の意思はしかし、途端放たれた濁り無き弦の音に足が留まった。
そうして暫し目を釘付けていると、刹那少女の構えが崩れる。一体どうしたのかと眼を瞬かせていた男の元に、向けられた少女の視線。自分の所為で構えを崩したのだと気付けば、最早覗き見をする事も意味がない。思いつつ、男は路の終わりを抜けた。
「申し訳ない、邪魔をしただろうか」
「いえ―――何か御用でしょうか?」
少女の声は男が想像していたよりも幾分か柔らかい。先程までの横顔が妙に凛々しく見えていたからだろうか。
そう違和感を胸に覚えながらも、男は少女の視線を受けて見返す。
「弦の音を便りに此処まで来たんだが……君は」
「舎館の者に御座います。昇山者の皆様への健勝祈願として行う弓射に備えておりました」
「それは有難い……後々、是非とも聞かせて頂こう」
男の言葉に対し少女は無言の拱手を返す。礼儀正しい態度に舎館の者だけあると思う反面、それとは別に何処か違った雰囲気を男は感じ取る。それは何が、と的確に話せるものではなく、強いて言えば勘とでも言おうか。惹かれる何かが、この少女には備わっているのだと。
男はふと少女の手元へ視線を下げる。左手に握られた弓の表面は漆の艶の如く。独特な湾曲を描き、その端からは減が歪みなく張られている。所々に刻まれた傷跡が良く使い込まれた事を表していた。
「時に―――弓射の腕は」
「人並、でしょうか」
「そうは見えない」
少女の言葉はすぐに否と返される。暫し目を見開き、次いで驚きを隠すかのように口を引き結ぶ。少女はそのまま首を傾げた。
「それは……何故です?」
「揺らぎない構えと歪みのない弦の音。明らかに経験を積んだ者の引き方だろう」
的確な表現を用いて訳を説明する男に、少女は思わず愛想笑いを苦くする。分かる者が見ればあの言葉は誤魔化しに過ぎない。そう思いながら、少女はさらに言い訳にも似た言葉を発した。
「弓を握り始めたのは幼少からですので、構えだけは成っているかと―――」
「そうか……」
その言い訳を聞きつつ、男は相槌を打つ。彼の様子に少女は内心ほっと安堵の息を洩らして、力の入りかけた肩が脱力をする。左手の弓を近場の壁に立て掛ける少女の姿を眺めると、男はふと何気なく頭に浮かんだ問いを口にした。
「……公の事柄で出たものはあるか?」
「大射、でしょうか」
「大射―――?」
無意識に男の眉間に皺が寄る。予想外の答えを受けて、男は咄嗟に言葉を復唱する。彼が思い当たる言葉の姿を思い起こせば、まさかと猜疑の眼を目前の少女へ向けた。柔らかく笑む彼女の内実は、果たして如何なるものなのか―――。
「それはいつ」
「ええ、今年の初頭にお招き頂きました」
少女はしれと大射が大事でも無いかのように告げる。平然とした様子に男は驚きつつ、ふと別件を思い起こして我に返る。迫る時にもう行かなければと足を進めかけ、その前にと目前の少女の名を問いかけた。
「名は何と」
「
江寧と申します」
「
江寧か……覚えておこう」
それが別れの言葉となり、男は身を翻すと陰りある串風路へ小走りで溶け込みゆく。その姿をぼんやりとしつつ見送りながら、
江寧は壁に立てた弓へ再び手を伸ばした。
―――時間は、迫り来る。
◇ ◆ ◇
連檣に夜陰の降り始めた頃。
舎館中央に位置する園林。普段は夜と共に闇を潜ませる其処はしかし、燈篭に囲まれ仄暗い光を帯びていた。
園林の中心に佇むは、鮮やかな袍を身に纏う者。御髪には一つの彩を添え、左手に握られた弓は仄暗い光を反射させ淡香を乗せる。右手に持つ矢の先には鏃の代わりに小さな球状の筒が固定されていた。
番えの流れはゆるりとして、少女はじき漆黒の深くなる天を仰臥する。遠方より響く男性の声を耳に聞き入れながら、硬い弓弦を引き絞る。脇の棚に置かれた残り数本の鏑を一瞥し、息を吸い込む。周囲に集う者からの視線を受けつつ、しっかりと弦と矢を握り込んでいた右手を迷う事無く放す。
天に向け放たれた鏑は、清涼として澄んだ音色を夕刻の空に奏でる。響き渡るその音色に耳を澄ませながら、
江寧は次の鏑を手に取った。
「お疲れさま」
無事に事を終え、房室へと下がった
江寧を迎えたのは薄紅色の髪の少女だった。
椅子に腰掛けたまま労いの言葉を掛ける榮春の姿を視界に収めて、
江寧は一つ頷く。彼女もまた対面側の椅子へ腰を下ろすと、大卓の縁に弓を立てかける。微かに疲労の色を浮かばせる顔が卓上に伏せられると、榮春が顔を綻ばせた。
「余程疲れたのね」
「あれだけの人に注目されて、疲れない方がおかしいよ……」
げんなりとしたその声に、榮春はくすりと笑う。廊下の角から覗き見した彼女の姿は落ち着きがあるように見えた。それがよもや緊張で顔が引き攣っていただけなど、誰が思おう。
それから会話が途切れ暫し。遠方から微かに聞こえる声を何気なく聞き入れながら、ふと
江寧が伏せていた面を上げる。そういえばと、気付いたように房室を視線のみで一望した後に終点は対面する女性の元へ。
「尭衛は?」
「まだ片付けがあるって」
「そっか……」
言って、
江寧は僅かに肩を落とす。珍しくも落ち込む風を見せる彼女を気に掛けて、榮春は顔色を窺う。疲労とは別の色が浮かぶその表情に首を捻った。
「何かあったの?」
「少し相談があったんだけど……忙しいなら、後でいい」
榮春の問いに、その場を取り繕うような笑みを浮かべて
江寧は頭を横に振る。はたまた彼女にしては珍しい答えを聞き受けた榮春は柑子色の眼を瞬かせ、次いで湛えたものは柔らかな微笑。俯かせかけた
江寧は思わず彼女の表情に目を据えた。
「私も相談に乗ってあげられるわ」
「―――良い、かな」
「ええ」
頷いた榮春にそれでもなお浮かない顔をして、半ば真摯の色を眼に灯した
江寧は恐る恐ると問う。
「……榮春は、黄海についてどの位知ってる?」
「黄海?」
予想外の問いに、問われた方は目を丸くする。恐らくは芳の昇山者の話に関心を抱いたのだろうと思いつつ、榮春は他者より聞いた際の記憶を掘り起こす。遡らせる事一拍、自身の口元に添えていた手を離して、視線を改め
江寧へと向けた。
「入った事はないから、知っているのは人伝いに聞いたものばかりね……」
「それでも良いよ」
一つ首肯を見せると、
江寧は卓上にゆっくりと肘を置く。そう、と相槌を打った榮春は一つの深呼吸の後に話を切り出した。
「……人の住めない土地。緑は少なく、水は人が飲めるものじゃなく、溢れんばかりの妖魔が黄海には居るの」
「うん」
「黄海へ入るには、剛氏を連れて行った方が安全だって」
「剛氏……?」
「黄海の案内を職にしている人のこと」
へぇ、と少女の口から関心の声が洩れる。剛氏の事は数年前、とある客より聞いた話で、案内役は必要だとしきりに言われた事が印象強くよくよく記憶に残っていた。他は無いかと記憶を探るものの、他に記憶に残り尚且つ彼女に話せる事柄は特になく。一息を吐いてから、榮春はゆるりと頭を横に振る。
「私が聞いたのは、それ位かしら」
「そっか―――」
「あまり役立たない情報でごめんね」
「ううん、黄海の大まかな様子は分かったから。ありがとう」
口元に笑みを浮かべる
江寧に、榮春はほっと安堵の息を吐く。力になれただろうかと頬を緩めかけて、途端目前の少女が顔を戸の方角へ向ける。睨めつけるようにじっと戸を見据えて、
江寧は無意識に取った弓を握り締めた。誰、と呟いた彼女の言葉は房室に響き渡り、途端男が戸の間からゆっくりと姿を現す。……その男に、確かな見覚えがあった。
「―――昼間の」
「申し訳ない……訪ねようと思い此処まで来たが、つい立ち聞きしてしまった」
麹塵の髪色を視界に入れて、
江寧は昼時の会話を思い出す。芳の昇山者の一人だった―――そう思い出しつつ、穏和な男の顔を見やる。榮春は男に対し一つ頭を下げると、男もまた彼女に対し拱手の礼をとる。昼間には無かった帯刀が武人を思わせた。
男は礼を解き大卓の側に立ち留まると、傍らに腰掛ける白藤の少女を見下ろす。僅かに目を細めて、その口を開いた。
「黄海に興味があると見える」
その言葉に、
江寧は軽く目を見開く。振り仰いだ菖蒲が男の姿を視界に収め続けた。驚きと疑心が混濁して、顔には複雑な色を浮かべる。
「……それで」
「はい?」
「黄海をその目で見たいか」
男のはっきりとした口調に、今度こそ少女の思考が停止する。まさか、と脳裏に浮かぶものはただ一つ。
「―――ならば、俺と共に来るがいい」
差し伸べられた男のその手は、少女に大きな困惑を与えた。