- 壱章 -
蒼穹を彩る上空、緩やかな潮風が吹き渡る雲海までもが白波も立つこと無く青々として、雲海に突出した孤島は清々しさを纏いその日を迎える事となった。
先日の慌しさとは一転、穏やかな面持ちの者達が其々に身形を正し行き交う。白面の回廊の一角、一時待機として指定された廊下の隅に官の姿を目で追う人物の姿もまた皺一つない正装に被われ、乱れなく纏め上げられた御髪が巾責に収められている。しかしながらそれを当人は良く思わず、時折深い溜息が廊下に落とされた。次いで回廊より一望出来る雲海を覗き込み、来たる時を今暫し待っていた。
雁国靖州関弓山、その頂に悠々として聳え立つは賢帝の住まう玄英宮―――その一廓にて、良き日は祝される事となる。
雁国の盛大なる慶賀は治世十年毎の経過を区切りに行われる。中でも大射は冬官匠師らの腕が大いに発揮され臨む所と存分に揮われた。応えるように弓射の者もまた腕を磨き、慶賀大射の時を迎える。
特に此度は延王も何時になく心待ちにしているという噂が囁かれ、祝賀の用意は着々と進められていた。
だが、回廊の隅にて佇む者は他官と些か事情が異なる。青年――のように見える女性は、実を言えば他国からの賓客として迎えられていた。
彼女の名は
江寧。
先日、慶国より玄英宮を訪れた者である。
雲海と上空を隔てる水平線をぼんやりと眺めていた
江寧の元へ歩み寄る者がある。傍らに立てば自然と彼女の視界の隅に捉えられ、頭一つ分程上にある男の顔を振り仰いだ。気軽に掛けられた男の声に、今は安堵感を覚える。
「今さら逃げ出したくなったよ……」
「お前も緊張には弱いらしいな」
「この状況なら誰でもなるって」
「ああ、違いない」
さも他人事のように笑いかける男を半ば睨めつけるようにして見上げた
江寧は、意識的に顔を顰めてみせる。それすらも軽く笑い流した桓魋もまた、慶の禁軍左将軍として相応の正装を纏う。立場は違えどここまで異なるものかと、
江寧は余裕綽々とした顔から視線を逸らした。
「延王君との約束を破る訳にもいかんだろう」
「―――けど、口約束」
「今更逃げ出す計画を立てるのかお前は」
笑みに苦笑を交えて傍らを見下ろす桓魋は、力の入り過ぎた
江寧の肩を軽く叩く。緊張のあまり思考が退避へと逸れる気持ちは桓魋にも十分に理解出来る。多官集う公の場では腹を括り胆を据えねば、硬直する身体が上手く動いてくれない。幾度も場に赴かなければ慣れは来なかった。
嘗ての己と傍らの少女を重ね合わせて、桓魋は思わず同情の意として背を叩く。地の壁に打ち寄せ始めた白波へ視線を落とす
江寧に、改め励ましとして言葉を掛けた。
「腹を括ってやってこい。一度事を始めれば、緊張は自然と解れるものだからな」
大射は予想外の出来事もなく進められ、無事夕刻にその幕を閉じた。
心身ともに疲労困憊と化した
江寧はすぐ様場から離脱すると、通りすがりの女官に清香殿への道案内を頼む。諒承するや否や足早に歩を進める女官の背を追いかけ、目的地までの案内を終えるなり女官はそそくさと立ち去る。その背を見送れば、忙しい中で頼んだ事を
江寧は申し訳なく思った。
堂室を抜け臥室への戸を越えれば、目前には天蓋と幄のある臥牀が目に入る。毎回の如く豪奢な臥牀では寝付けず睡眠は浅すぎたが、今ならばしっかりと意識を落とせる気がする。そう思いつつ、
江寧は柔らかな衾褥の上に身を投げ出した。
……しかし、それも束の間。
「
江寧様、ご起床を。主上がお見えになられております」
数人の女官が臥室へ入るや否や、身に纏う袍を解き襦裙を着せ始める。襦裙に袖を通させる者があり、御髪を解く者があり、履を変える者がある。延の来訪を耳に聞き入れた者の手回しによるものである事など知る由も無い
江寧は、口元を引き攣らせたまま着替え終わる時を待つ。
大方の作業を終えて女官が離れると、解放された感覚に乗じて押し寄せる疲労が
江寧を襲う。座り込みたい衝動を抑えながらも、そろそろと臥室を退出していく女官らの後を追った。
◇ ◆ ◇
「しかし、手順の説明だけでも上手く乗ったな」
清香殿の堂室、豪奢な室内に置かれた卓の向こうにはくつくつと笑いを零す王の姿。対し疲労を抑え込みながらも椅子に腰掛ける
江寧は、半ば困ったように眉を顰める。王の放つ言葉を聞き入れると口を引き結び、次いで反論にも似た言葉を洩らした。
「大射の日程を一日早めたのは延王君ではないですか」
「まあ、そうだが」
差して悪びれもなく軽く首肯する延は卓上に頬杖を着く。王が早めたその一日を大射の予行にあてようと考えていた
江寧にとっては予想外であったが、無事終えられた事に改め安堵感を感じる。ほっと胸を撫で下ろすと共に溜息が洩れて、その様子に延は口角を緩やかに上げた。これでいつぞやの約束は果たされた、と。
対面する白藤を眺めつつ、延はふと思考から気に掛かった言葉を胸内より取り出す。
「この後は恭に向かうのか」
「いえ、少し寄る所がありまして」
「ん?」
返答は首肯ではなく。軽く頭を横へ振る
江寧は、ふと顔を綻ばせる。穏和な面持ちで笑みを湛えつつ、延より投げられた問いに言葉を返した。
「久しぶりに楽俊の所へ行ってみたいと思います」
「ならば、此処へ来る前に会いに行けば良かっただろう?」
「時間が無かったので……」
それに、と紡ぐ言葉を続けようとしたところで、突如堂室の戸が数度叩かれた。振り返り戸へ視線を向けた二者の視界に、ゆっくりと開かれた戸の間を抜け足を踏み入れる者を捉える。身形と顔を認めると、それが慶の禁軍将軍である事を確認した。軽く拱手の礼をとり、その頭を垂れる。
「失礼致します」
濃藍の前髪が揺れる。真直ぐに二者の姿を視界に収めた桓魋は、床に着いた片膝を上げた矢先に目を丸くする。少女の稀なる襦裙姿に驚きを一拍、次いで疲労の滲みかけた貌に同情もまた一拍。金波宮に滞在していた頃でさえ煌びやかな居場所が心地悪いと告げていたのだ、此処も心地良い筈もない。そう思いつつ、桓魋は
江寧の傍らへと歩み寄る。合間を見守っていた延は二者の顔を見比べて、軽く頷きを見せた。
「連れは禁軍左将軍か」
「青将軍とは面識が……?」
「一度顔を合わせただけだが、信は厚いと聞いている」
誰からと聞くまでも無かったが、桓魋は微かに照れを含ませて口元を緩める。その表情を覗き込むようにして見上げる
江寧は、和やかになりつつある雰囲気に気を良くして傍らの男の脇腹を人差し指で軽く突く。何かと視線を提げた桓魋に向けられたのは、良かったね、という声無き言葉。その口話を読み取るなり、男はすぐ様表情を硬く戻してしまったのだが。
二者のやりとりを眺め終えた延は、ふと頬杖を止めるや否や口を開いた。
「どうだ二人とも、雁に来る気は」
これには聞き入れた二者も流石に目を見開く。予想外の勧誘に桓姙と
江寧は思わず顔を見合わせ、先に動いたのは桓魋だった。その後に
江寧が続き、二者は礼をとる。
「畏れながら、慶から離れる気は御座いません」
「既に景王よりの申し出を受けておりますので」
「―――そうか」
返って来たものは惜しむような王の声。たとえ冗談であっても、その申し出だけは受ける事はない―――その志を受け自然と目を細めた延は、大袈裟に溜息を零しつつ凭れに背を預けた。
「俺も情の厚い臣が欲しくなってきた」
「そうなったら、臣の温情で調子に乗ってやり放題だろ?」
不意に少年の声が堂室内に響く。耳に残るその声の主が誰であるかを認めて、靡く明るい金色の髪を視界に入れる。ゆっくり歩を進める少年の名を
江寧が口にした。……尊いながらも弟のような存在となったのは、果たして何時頃なのだろうか。
「六太」
「青将軍を此処に連れて来たのは俺なんだ。景王と楽俊に其々渡してほしい物があるからさ」
「二人に……ですか?」
首を捻り問いかけたのは桓姙だった。景王赤子の登極から今年で早くも四年目―――だが、特にこれといって何かしらの祝いがある訳でもない。他国よりの品であれば尚更疑問を抱え、尚且つ他国の台輔が学生の身分である楽俊へ品を送るという事に相当な違和感を覚えた。
眉を顰めていた桓魋に対し、延麒はあくまで軽く笑いかける。
「あくまで俺個人からの品だけどな。景王の分は青将軍に頼もうと思う」
「は、畏まりまして」
「
江寧が楽俊の所に行くなら序でに頼む」
「承知致しました」
告げた諒承の意に満足した延麒は、次いで己の主と対面するように腰掛ける少女へと視線を向ける。視線をかち合わせ、延麒がはたと思い出したように問う。
「……で、
江寧は楽俊と会った後に恭へ向かうのか?」
「知り合いがいるから、国都の連檣に向かおうと思って」
初耳の事実に軽く相槌を打ちつつ、延麒はふと先日の一報を脳裏に過ぎらせた。届いたばかりの新しい情報を知る者はもう一人と、半身を振り返らせ尚隆を見やる。王もまた思い起こしたのか、己の半身に向け一つの首肯を示した。すぐに半身と視線を戻した延麒は、雁の主従の様子に首を傾げる
江寧の姿を再び眺めた。
「だったら街の人通りには気を付けた方が良い。芳の民が多くなる筈だ」
「芳―――?」
何故、と彼女が疑問を抱き問いかけるその前に、延麒が答えを口にする。
「先日黄旗が揚がったらしい。昇山者は恭国臨乾の令乾門を目指して虚海を渡って来るだろう」
「令乾門が開くのは春分一日のみ。人が殺到するのも無理はないな」
二人の言葉を聞き受けて納得する
江寧は、同時胸内に思いを浮かべる。
―――彼の舎館もてんてこ舞いだろう。
嘗てあった忙しさの比ではないのやもしれない。その中で訪ねる事に些かの抵抗感が芽生え、同時、手伝いに行くのも良い事だと思う。
その後の延や延麒との会話を終えるまで、
江寧の胸内に交差する対の思いが掻き消える事は無かった。
◇ ◆ ◇
慶国靖州凌雲山、そのなだらかな麓に沿い連なる国都尭天には街並みが広大なる地に伸び続け、年々緩やかながら湧き始める活気が国の行く先に希望を見出す。景王赤子による治世はじき四年―――嘗て跋扈していた妖魔の姿はしかし、今では影すら見かける事もなく。
一泊の為に取った舎館の起居にて、
江寧と楽俊は小卓を挟み椅子へ腰掛けていた。
「―――で、
江寧はどうするんだ?」
「うん、忙しかったら手伝う事にしたよ」
事のあらましを一通り説明した
江寧は、楽俊の問いかけに軽く答えを返す。恭へ帰還後、舎館を訪れ人不足であれば手を貸す事を考えていた彼女は軽く頷きつつ手元の湯呑へ視線を落とす。茶面の波紋を眺め、途端聞き入れた楽俊の声に下げかけた面を上げた。
「にしても、随分と久し振りだなぁ」
「彼此二年以上は会ってないから、本当に久しぶり」
―――最後に会ったのはいつの日か。
思い返せば、二人が面と向かい話すのは舒栄の乱の最中以来である。
江寧はその後拓峰の乱の後に蓬莱へ帰還を果たし、再び十二国へ舞い戻った後々も訪れようとはしなかった。……否、訪問する余裕が無かったのだ。
江寧は過去の記憶を掘り返し、途端雁国麒麟に頼まれたものを思い出せば足元に置いた荷嚢の中より預かった包みを取り出す。卓上へ置くと、鼠姿の楽俊が疑問を抱き自然と首を傾げた。
「これは延台輔から預かってきた品」
「延台輔から?」
包みを押せば、すす、と卓上を滑り楽俊の目前に留まる。確認の為に包み口を開き覗き込むと、一時の静止の後に再び口をぐっと閉めた。彼の様子を不思議に思ったが、
江寧は大方中身の予想を着けたが故に敢えて何も言わず見て見ぬふりをする。内心苦笑を零しつつ話題を上手く摩り替えると、楽俊もまた気遣いに気付いたのか振られた話題に便乗した。
話し込む事暫し、ふと話は僅かに逸れて楽俊が革め口を開く。
「この間は陽子たちが心配してたぞ。
江寧は無茶をし過ぎるから、せめて一所に留まってほしいってな」
「それは心配に入るかどうか……」
伝言にも似た言葉を聞き、
江寧は苦笑せざるを得ない。自身は無茶をしているつもりなど微塵も無かったが、傍から見た近頃の印象がそう映るのならば流石に大きな行動は控えるべきだろうか。自粛の考えを巡らせながら、湯呑の茶に一口を付けた。口内に広がるのは微かな茶特有の苦味。
中身の半分程を喉へ通したところで、
江寧がさらに関係性のない方向へと話題を持ちゆく。
「―――芳では黄旗が揚がったって。昇山者が令乾門を目指して恭国に雪崩れ込むらしいよ」
「令乾門は春分に開く。選定が早けりゃ、夏至前には王が登極する筈だ」
「かなり早いね」
「それでも峯王が討たれて五年。王を失った民にとって、五年は酷く長いもんだ」
峯王と聞けば、
江寧の脳裏に自然と浮かぶのは祥瓊の顔。彼女は芳の元公主、黄旗が揚げられたと聞けば平然とした態度であっても胸内では複雑な思いを抱くのだろう。そう考えれば、黄旗飄旋の報を堂々と告げる事は無神経のように思われる。
さらに蓬山を思えば、はたと目前の半獣の青年を目に留める。―――今現在、彼の国の王は不在のまま。失言だろうかと、
江寧は恐る恐ると彼の表情を窺った。
「……楽俊も、そう思ってる?」
「そうだな―――でも、おいらが次の王に選ばれる事はまずねぇ。禅譲だからな」
「禅譲?」
聞き慣れない言葉に
江寧は首を捻る。彼女の疑問を読み取った楽俊は軽く笑い、その意味を咀嚼し例を挙げて説明を口にする。
「先の塙王の姓は張だ。そんでもって、おいらも張姓」
「……同姓続きは無いって事ね」
「ああ」
楽俊は惜し気もなさそうに首肯する。代わりの如く落胆の色を見せる少女は、しゅんと項垂れて肩を落とした。
「楽俊なら良い王になれると思ったのに」
「そんな器じゃねぇ事は自分がよく解ってるつもりだ」
「そうかな……」
顔には複雑な色を浮かべ、途端
江寧は手元の茶を飲み干しに掛かる。
禅譲の制度は実に納得がいかない。だが、それが理ならば諦める外に無いだろう。内心でそう割り切りつつ、彼女は片手の湯呑を卓上へと置く。
江寧の様子を眺めて、楽俊はふと思い出したように笑った。
「それに、王宮は一生かけても見慣れそうにねぇからな」
「―――それは右に同じく」
彼の意見に対し、少女が一間を空けて同意する。金波宮といい玄英宮といい、気が落ち着かず慣れないのはどちらも確かなことであった。同意見を持つ者が間近に居た事を知った双方は思わず笑い合う。
弾み始めた話は暫し続き、気付けば昼餉前を迎えようとしていた。