- 伍章 -
時は無難に過ぎ、蓬山は二人の蓬山公を迎えて季節を明るく彩る。女仙たちの朗らかな笑い声が何処かより聞こえて、以前の隅にあった寂しさはいつの間にか薄れゆく。
九月半ば、夏の山を越えた頃の事だった。
岩の迷宮に切り取られた蒼穹の空を仰ぎ見、峯麒は近日玉葉に賜った言葉を胸に留めていた。蒼穹に映える深緋が、今は落ち着いて視界の端に入れる事ができる。心中が落ち着いている証拠なのだと、自身の状況を把握する事すら容易い。これも玄君のお陰と内心感謝を告げながら、入り組んだ小径を迷いなく抜ける。
門は閂をされぴったりと閉ざされている。その向こうにあるのが甫渡宮―――昇山者たちを迎える為の離宮がある。さらに途沿いに歩けば、黄海と蓬山とを隔てる山門が聳え立つ。峯麒は山門を目指し足を進め、目前の門を開こうと閂に手を掛けた、その刹那。
背後より突如として駆けつけて来たのは見覚えある一人の女仙。彼女が急ぎ持ち寄ってきたのは、碧霞玄君よりの招きだった。
女仙に先導され白亀宮へ辿り着いた峯麒は、玉葉とその背後の三者を視界に収めた。二者は見知りのある人物……延麒と陽子。次いで陽子の傍らに腰掛ける女性は峯麒にとって初見であり、陽子と玉葉の顔を見比べる。少年の顔に浮かべられた疑問の色を読み取って、延麒が一歩踏み出した。
「こっちは戴国瑞州師将軍の李斎だ」
「将軍殿……?」
峯麒はまじまじと李斎を見やる。片腕が無いようだが何かあったのだろうか―――そう何気なく思いつつ、そろそろと前進する。李斎の目前で立ち留まると、礼儀として丁寧に辞儀をした。女性から小さく困惑の声が洩れていた事を少年は聞き逃さない。
「あの……初めまして、峯麒です」
「麒麟―――ですが、」
「ああ、赤麒なんだよ」
延麒の挟み入れた補足に、李斎は目を瞬かせる。次いで赤毛の少年を見詰めると、戴国の雛――己の記憶に存在する泰麒の姿と重ね合わせていた。六年も経過した今ではあの小さな姿ではない事は理解している。……だが、どうしても重ねてしまう。甫渡宮への途沿い、張った天幕から出た先に飛燕をまじまじと見ていた、戴国の希望を。
李斎より受ける眼差しを気にしつつも、峯麒は傍らの延麒を見上げた。
「それで、用件は一体何でしょう」
「今峯麒が下した指令は?」
「五つです。白鵺と孟槐と賓満……それから、谿辺と陸吾」
挙げられた種族の名を記憶した延麒は、口元に手を当てて指令を選ぶ。指令は借りられるだけ借りた方が良いものの、峯麒は未だ下国前の身。出来れば少なく、それで良き手助けとなるならば―――。
やや俯くようにして下げていた顔を上げると、唐突に延麒が言を切り出す。
「泰麒帰還の為に、陸吾と孟槐を貸してくれないか?」
帰還と耳に通した峯麒の眼が一杯に開かれる。蓬莱にて遊んだ要の顔が不意に脳裏に過ぎって懐かしさを覚える。彼がこちらへやって来るのだと理解に至り、面持ちは真摯へ変貌していった。
「要をこっちに連れてくるの?」
「ああ」
延麒のはっきりとした首肯。そこで即頭を縦に振りたい思いが先走りしそうになって、もう傍らに佇む玉葉の姿を視界に入れて思わず返答を留めた。本当に自身が先に返答をしても良い事であるのかと迷った結果に、玄君を振り仰ぐ。
「玉葉様、」
「峯麒は、泰台輔に哀れみを持っておられるようじゃからの」
やんわりとした笑みを湛える玉葉の言葉に、峯麒の頭は今度こそ迷いなく縦に振られる。次に少年が向けたのは自身の足元、光によって作られた影にはっきりとした声が落とされた。
「貂燕、馮愈。泰麒帰還助力のため、延台輔と共に行け。あちらでは延台輔の指示に従うよう」
《 しかし、主――― 》
隠形のまま反論の声を挙げたのは馮愈だった。躊躇いを含んだ声は主に向けられ、しかし峯麒は否と言う。泰麒帰還の為に動く者が蓬山に三者も赴いて、自身もまたそれに協力する事が出来るのならば、否と頭を横に振るつもりなど毛頭ない。改め、指令に強く言い放った。
「これは命令だ」
《 ……御意に 》
峯麒の強い口調に対し、返答は渋々とした諒承の声。次いで動く二つの気配を感じ取ると、幼いながら険しい面持ちが洩らされた溜息によって和らぐ。一切の反論が無かった貂燕には少しばかりの感謝をしていた。
峯麒と指令のやりとりを眺めていた陽子と延麒は微かに苦笑を零す。峯麒の肩に手を置いて、延麒が少年の顔を覗き込んだ。
「悪いな、峯麒」
「いえ。貂燕と馮愈をお願いします」
「終わったらちゃんと帰すからな」
うん、と首肯した峯麒の貌には穏やかな笑顔が戻る。その様子に安堵の息を吐いた陽子は、ふと浮上した考えに眉を顰めた。
泰麒の助けとして蓬莱へ向かった彼の慶国飛仙は、役目を果たした後にどうするつもりなのだろうか―――と。
◇ ◆ ◇
数日の間を以って、峯麒が下した二つの指令は無事蓬山への帰還を果たした。
紫蓮宮にて休む主の下へ戻った馮愈は、泰麒と李斎、景王と延王の四者が再び蓬山へ訪れた事を知らせ、主は足早に白亀宮へ向かおうとした。だが路を歩く最中、女仙に引き留められた峯麒は結局、泰麒ら一行との面会を果たす事が出来なかった。
峯麒は悄然として身を反転させ紫蓮宮への路をゆるりと歩く。再会への期待を膨らませていただけに落胆もまた大きく、面会が断られたとなれば要に何かあったのかと一層心配になる。不安に駆られつつ歩を進めていたところで、見慣れた滅紫が視界を占める。
「峯麒」
彼女の名を呟こうとして、すぐに面を俯かせて閉口する。瞳は揺らいで口を引き結べば、彩杼は屈み込み少年の顔を覗き込む。峯麒の剥れたような顔から思考を読み取る事は彩杼にとっては容易だった。
微笑を浮かべて、小さく落ちた肩に手を添える。再度名を呼ぶと、峯麒は正面からの視線をしっかりと合わせた。
「泰台輔がご心配ですか?」
「……うん」
頷く峯麒に、やはりと彩杼は思う。数日前、彼女は峯麒が二体の指令を躊躇いなく貸し出した事を女仙たちの噂によって耳にした。以前に泰麒と縁がある事を少年直々に打ち明けてくれた事もあり、その分面会はならぬと人払いを受けた際に不安が過ぎった。心配になり探してみれば、やはり峯麒の落ち込み様は激しい。
目をやや細めて落涙を我慢する少年の姿が淋しく思えた。
「日本では仲良くしてくれたんだ……だから、ちゃんと会いたかった」
「芳と戴は同じ北の極国。台輔とは縁があるのですから、峯麒が王を選び下国なさればお会いする事も叶いましょう」
普段よりも柔らかく言葉を口にしながら、峯麒の手を引く。紫蓮宮への路を辿りかけたその足を共に進ませた。言葉を受けて顔を上げた峯麒は、ただただ不安げな眼を揺るがせながら自身の手を優しく握り締める女仙の顔を見上げる。その優しさが、今は涙腺を緩ませる。一歩を進める度に薄まる不安、共に溜めていた涙が落ちそうになって、思わず袖で顔を覆った。
「会えるかな……」
「ええ、お会い出来ます」
励ましの言葉に暫しの間、左手を引かれながら右袖で目元を拭い続ける。敢えて見てみぬふりをしつつ角を曲がったところで足を止めると、峯麒もまた顔から袖を離し目前を見やる。紫蓮宮は間近に迫っていた。
ゆっくりと手を離し、宮の外見を改め見上げた峯麒はふと過ぎる思考に彩杼の顔を見上げる。横顔は変わらず穏やかのまま、しかし視線は紫蓮宮から僅かに外れているように見えた。
「彩杼はずっとここに住んでいて、自分の国とか家族が恋しくないの?」
峯麒の投げた問いかけに、彩杼は無意識ながら目を見開いた。予想外の問いに反応が一間遅れて、穏やかな笑みが崩れゆく。嘗ての過去が走馬灯の如く駆け抜けて、自らの意志でそれを遮断する。昔の事なのだと割り切ると、ゆっくりと瞼を落とした。
「ええ、大丈夫ですよ。女仙たちが皆家族のようなものですから」
「そっか―――」
納得の意を示した小さき蓬山公の様子に一先ずはほっと胸を撫で下ろす。深い詮索は誰かの傷を抉るという事を、この少年は知っているのだろうか―――。
思いつつも口には出さず、彩杼は話題を無理にでも摩り替える。
「峯麒、芳国の昇山者が甫渡宮へ集うのはいつかご存知ですか?」
「ううん、まだ何も聞かされてないけど」
「でしたら、先にお教えしておきます」
言いつつ、彩杼は紫蓮宮内の堂室へ誘導する。中央に置かれた大卓、その一角に置かれた椅子を引いて、峯麒を手招く。少年は走り寄ると、引かれた椅子にゆっくりと腰掛けた。それを確認した後に、彩杼は少年の傍へと寄り立つ。猩々緋を眺めつつ、記憶を振り返りながら口を開いた。
「歳末に黄旗が揚げられる予定です」
「コウキ……?」
歳末という言葉は理解したものの、その後の聞き覚えのない単語に峯麒は首を捻る。当初に浮かんだ文字は“塙麒”だったが、話の流れからそれは否と当て字を切り捨てた。さらに頭を悩ませたところで、彩杼が単語の説明を差し込む。
「麒麟が王の選定に入った事を知らせる為の旗……正式には麒麟旗、と」
「そうしたら、甫渡宮へやってきた昇山者の中から王を選ぶんだね」
峯麒は彩杼の首肯を返答として受け取る。
昇山者が集えば峯麒は甫渡宮へと移り、群集の中から王の選定を始める。それは進香する者を御簾越しに眺め、また甫渡宮までの途に張られた天幕を巡り、天啓の在るか否かを見定めるのである。
幼いながらに思考を巡らせ、途端峯麒は妙な緊張に襲われた。重き大役であると改め感じ、思わず顔が強張る。その様子に顔を綻ばせた彩杼が、軽く頭を横へ振った。
「実際、選ぶのは来年の春分が過ぎてからになりますよ」
「それでも緊張する……」
芳国の未来を担う者を選ぶ事は、民の行く末を左右させる。まして北の極国となれば冬は豪雪に襲われるという噂を女仙より聞き及んだ峯麒は、次第に責任の重さを背に負い始める。真摯の面持ちで、来たる時期に切なく思いを馳せていた。
「春……」
春を過ぎ、甫渡宮に集う昇山者の中に王気を見出せば、この慣れた蓬山と女仙たちに別れを告げる事となる。思えば思うほど、惜別の情を募らせずにはいられなかった。
―――春季まであと半年。
時は刻々として、曙光は蓬山へ迫りゆく。