- 肆章 -
ようやく夏季八月の下旬を終えようとして、気怠い暑さも生温い風もない蓬山は緩やかに流れる時を過ごす。陽は真上よりやや傾き始め、それでもなお頭上を照らし続ける。地に沿い吹きゆく風を頬に受けながら、峯麒は麝香苴の苑、その広場に身を佇ませていた。
転変から十日ほど、峯麒は黄海に赴く事もなく一日の大半を麝香苴の苑にて過ごしていた。
ただ広場の中央に立ち留まり何かしら思案している少年の様子に、女仙たちは不安を口々にしては苑へと顔を出す。落ち着きを伴い交わす言葉に、以前の峯麒と重ね合わせる事が出来ない。不安はさらに煽られて、迷った挙句久方ぶりに現れた玉葉の元へ話が通された。
玉葉が苑へ赴くと、何かしら熟考していた峯麒がふと半身を振り返らせる。咲き乱れる花の中に立つ猩々緋が鮮やかに靡いて、深緋色の眼を丸くして女仙の長を見やる。二度目の遭遇に一頻り驚きを見せると、はたと我に返る峯麒の顔が冷静へと戻りゆく。
「玉葉様、」
「峯麒、ほんに久方ぶりなこと」
裳の擦れる音が風の中に溶け込む。湛えられた笑みが穏やかな空気を作り上げ、峯麒は無意識に脚を後退させる。小さく首肯する少年の姿を認め立ち止まった玉葉は、それでも態度を変える事なく言葉をかける。
「暫しの間、恙無くお暮らしか?」
「はい―――」
峯麒は遠慮がちに頷く。以前と比べ控えめになった赤麒の姿を眺めつつ、玉葉は先程女仙より告げられた話と目前の少年の様子を重ね合わせた。確かに、何かしらの思惑を胸に渦巻かせている。
広場より動く気配もなく佇む峯麒に向けて、玉葉ははっきりとした口調で名を呼ぶ。
「峯麒」
名を呼ばれ俯きかけた面を上げる。深緋の眼と、先程と比べ僅かに細められた眼とが搗ち合う。一時の風が止んで、二者の間に静寂が満ちていく。一瞬、峯麒が微かに憂いを過ぎらせると、玉葉が口を開いた。
「やはり、転変は女仙に伏せておられるのかえ」
言葉として表された事実に驚愕した峯麒は眼を一杯に見開かせた。それを知るのは峯麒とその指令のみ。隠形こそしているものの一切離れた気配など無く、ましてそれを他者に告げぬようにと念を押している筈である。少年はそれが不思議でならなく、思わず掛けられた問いを返した。
「……どうしてそれを」
「峯麒の悩み、この玉葉にまで隠し遂せると思し召してか」
「……ごめんなさい」
―――碧霞玄君に隠し事は無用。
以前彩杼が告げた言葉を思い返し、峯麒は悄然として頭を深く垂れる。小さく詫びの言葉を告げると、そっと頭に手が置かれた。優しく撫でられる感覚が何故か切ない。涙を目尻から零しそうになって、見られる前に袖で涙を拭い取った。
それから暫し転変について話し合ったが、峯麒はなかなか悩みを打ち明けられずにいた。迷った先にふとした疑問を思い当てて、再度玉葉へと視線を向ける。
「玉葉様、以前に生まれた赤麒麟はどのような方でした……?」
峯麒にとって些細な疑問であったが、玉葉は僅かな間に記憶を掘り起こした後に口を開いた。
「以前なれば遥か昔じゃが、恐らく七百年ほど前の劉麟になろうて」
「七百年前―――」
峯麒は呆然とせざるを得ない。七百年も前となれば、気の遠くなるような過去である。数字で言われようとも、今一つ実感が沸かないのが現状だった。気は自然と沈み込んで、麝香苴の花の中に座り込む。
裳裾を視界の端に捉えながら、峯麒はぽつりと言葉を口にした。
「……僕はまだ、自分の転変の姿を受け入れる事が出来ません」
静かに告げられた少年の胸内の悩みに、玉葉は一つ瞬きその小さな姿を見守る。小さき者とて、彼が麒麟である事に違いはない。だが、当人が受け入れずにいるのであればそれは問題と化す。せめて麒麟としての自覚を持たせねばと、玉葉は眼を細めた。
「それは如何様に」
訊ねる声音を聞き入れて、深く溜息を足元へ落とした峯麒が悲しげに瞼を伏せる。思いは沈痛となりつつある。
「もしも王が僕の麒麟になった姿を見て……気持ち悪いって言われたらと思うと」
言って、峯麒は最中言葉を留めた。
―――言われたらきっと、立ち直れない。
心中に響くは自身の心底からの声。否定される事がこんなにも恐ろしいものだと、しみじみと感じざるを得ない。
両腕を抱く少年。その頭上からは、突如穏和な声が注がれた。
「王に足るお方は、かような事など口にはせぬであろう」
「ですが―――」
惑いの情を含んだ眼が玉葉を見る。不安の渦中に取り残されたような感覚……それを傍らに蹲る幼き麒麟が胸中に持つというのならば、酷く悲惨な事のように思われた。
風に散る猩々緋の髪が玉葉の指を掠める。それを掬い取り、転変を遂げれば鬣になる筈の数本をゆるりと撫ぜる。黒麒といい赤麒といい、数百年に一度の者が病む様子は見るに堪えなかった。
「麒麟への侮辱は、己の半身を貶すに等しいもの。ましてそれを軽口に乗せる者へ、天が王気を与える筈もなかろうて」
胸中に浸透する玉葉の言葉に、思わず顔を振り仰がせる。深緋の瞳が揺れながら、縋るような眼差しを彼女へと向けていた。その不安に応えるよう静かに首肯すると、玉葉が目にしたのは少年の切なげに歪んだ眼から不意に零れ落ちる温かな雫。峯麒の軽くなる胸内では、涙を塞き止める事は出来なかった。
玉葉は静かに頭を撫で、笑みを湛える。
「赤銅は空に栄えるもの。それをよくよく心に留めておくがよろしかろう」
「―――はい」
玉葉の言葉を聞き入れ、峯麒はようやく口元に笑みを浮かべた。久方ぶりに見る事の出来た顔に安堵した玉葉は、少年から数歩離れる。別れの言葉を告げ踵を返したところで、ふと呼び止める声がした。
「玉葉様、」
半身を振り返らせる玉葉。視線を向けた先に、小さく辞儀をする峯麒の姿が麝香苴の花群の中にある。
「ありがとうございました」
―――感謝の言葉。
はっきりとした口調、その声音に明確な安堵を覚えて、玉葉は今度こそ麝香苴の苑を後にした。
◇ ◆ ◇
その日の夕刻、静かに風が変わりつつある事を肌で感じ取った女仙たちは麝香苴の苑を訪ねる。じき峯麒の夕餉の時刻にはしかし、苑にも紫蓮宮にも小さき蓬山公の姿を見える事は出来なかった。
他の宮を探すものの行方は知れず、露茜宮へ赴けば巧麒が女怪の膝元で眠る姿が確認されたのみ。これは一大事と騒ぎ出した直後、一人の女仙が一羽の雉を発見する。
雉は紫蓮宮の起居、大卓上にて羽根を休めていた。女仙たちが集い始め、やがて駆けつけて来た禎衛が雉を目前にして頭を横に振る。どういう事かと周囲の女仙が問いかけ始めた矢先――突然雉がよく通る声で片言ながら言葉を綴り始めた。
「ホウキ、ハ、コウカイ」
「峯麒が黄海に行ったと?」
果たしていつ出かけたのか―――彼の外出する姿を見た者は居らず、雉を囲む女仙たちは騒然となりつつある。普段の黄海行きでは必ず夕餉時前に帰還していたため、さらに心配は波紋のように広がる。何かあったのかと禎衛が問えば、雉は妙な間を置いて黒々とした嘴を小刻みに震わせた。
「ヨウマ、ト、ニラミ、アイ」
「妖魔……」
「……折伏の最中のようですね」
蓉可が呟くと、彩杼が事情を察し言葉を差し入れる。麒麟が妖魔と睨み合うとなれば折伏のみ。その最中となれば、こうして遣いを向かわせ事情を説明させる事ぐらいしか連絡する手段が無い。対峙する中で彼なりに考えたのだと、心中を察した。
禎衛は以前峯麒の指令として見覚えのある雉を見詰めたまま、次の言葉を待つ。一度閉口させた嘴は、さらなる間を置いて途端動かされる。
「アサ、ニ、ハ、カエ、ル」
―――朝には帰る。
今現在が夕刻でありながら朝を示すのは、妖魔がそれなりの強大さを持つ事を意味する。大凡苦戦を強いられているのだろう……そう思うものの、小さき蓬山公が折伏する姿を想像する事は出来なかった。泰麒もまたそうであったと、蓉可は内心密やかに思う。
彩杼はゆっくりと禎衛の傍らに並び立つ。峯麒の指令を目前にして、いつぞやの少年との会話を思い出した。何故難しい顔をしているのかと問われたつい先日……今も確かに、難しい顔をしているのかもれない。
複雑な心境を抱き、それをすぐに区切らせる。彩杼は改め、指令へと視線を向けた。
「妖魔の種は何と?」
彩杼の問いに、ふと女仙の声が途切れる。静寂の波が押し寄せて、雉は擡げていた首をゆっくりと起こす。知性の低い妖魔であるが為に会話は片言だが、白鵺は記憶の覚えが良い事で知られている。それを信じ静寂の間を待つと、たった三文字、その種族の名を口にした。
「リク、ゴ」
雉――瀞竪の途切れ途切れの言葉に途端、数人の女仙より悲鳴染みた声が上がった。無理もないと彩杼は思う。
陸吾……人の三倍はあろう虎の姿をした支子色の巨躯、背に続く焦茶の鬣、暗黒色の禍々しく鋭利な爪、黄と茶が入り混じる九房の尾。高知能を持つそれは、凶暴をも兼ね合わせていた。
対峙しようものならば、気を抜く事は決して許されない。気迫負けすれば、即座に体躯目掛けて爪が振り下ろされるのだから。
「禎衛様―――」
禎衛のもう傍らに佇んでいた蓉可がおずおずと声を掛ける。対し僅かに面を下ろし視線を向ける禎衛は、蓉可のみならず誰もが浮かべるであろう不安の色を読み取る。女仙は麒麟に遠慮がない、だがそれと同時に深い愛情を向ける事も確かである。子同然の少年が危機に曝されている事を知りながらどうする事も出来ずにいるのは、確かに堪える。そう思いつつも、禎衛は背後に集う女仙たちを振り返った。しんとした空気の中、はっきりとした口調で言葉を綴る。
「今は、峯麒を信じ帰りを待つ事が我々女仙の出来ること」
それしか出来ない事と理解しながら、禎衛はさも己に言い聞かせるように告げる。不安の色が薄れゆく女仙たちの顔を眺めて、無事の帰還を心中で祈り続けていた。
翌日、空が白々として薄明を迎えるころ。
蓬山の迷宮、その上空を越え滑りゆく影がある。駆ける一点は捨身木を目指し緩やかな降下を始め、根が張り巡らされた麓へゆっくりと降り立った。
巨躯の背に騎乗するは赤毛の少年。所々が裂かれた衣のまま、それを然程気にも留めずに少年は妖魔の背より滑り降りた。背を振り返る事もせず、走り行くは迷宮へ。取り残された妖魔はぐずぐずと形を溶解させて、影の中に溶け込んでゆく。
迷宮の小径を難なく抜けると、少年の住まいである紫蓮宮へと向かう。恐らくは女仙の誰とも会わぬであろうと考えていた峯麒は、躊躇いなく起居へ足を踏み入れたところで目を丸くした。
数人の女仙が戸の方角へ視線を向けていたのである。
「峯麒……!!」
血相を変え身を翻した女仙たちは峯麒の身体に視線を巡らせる。所々破けた衣が陸吾との対峙の凄まじさを物語り、蓉可は思わず顔を顰めてずいと顔を寄せた。
「お怪我は御座いませんか!?」
「うん、大丈夫」
平然とした蓬山公の様子に女仙達はほっと安堵の息を洩らす。それが一斉に重なり合い深い溜息の様に聞こえて、峯麒は思わず小さく侘びを告げる。自分の身勝手な行動によって心配を掛けたことは確かであると、心底にて申し訳なく思っていた。
詫びに対し返ってきたものは、蓉可と彩杼のやんわりとした笑顔。いいえと頭を横に振って、少年の頭をそっと撫でる。その配慮が心に染みた。
「蓉可、彩杼……ごめん」
「もう黙って黄海へ行かないと、お約束して下さいましね」
「―――うん」
峯麒の頷きは小さく。それでも真摯とした眼差しを向けられていれば、女仙たちはそれ以上注意を上重ねする事が出来なかった。やがて緊迫していた空気が和らぎ穏やかになりつつある時、ふと少春がぽつりと問いを呟く。
「峯麒、陸吾は……」
少春の言葉にはたりと女仙たちの微笑が失せる。誰もが峯麒を眺めて、事の行方に不安ながら関心を持つ。彼女たちをさっと一望した後、峯麒は己の足元に落ちた影へ名を落とした。
「貂燕」
途端、影があるべき形状より外れる。波紋のように広がった消炭色はすぐに新たな形を成して、白面より焦茶の鬣がじわりと競り上がってくる。支子色の体躯と数房の尾が形成された影よりぬっと現れて、荒々しい獣の姿を象った。隠形していたのだと、彩杼は妖魔の姿を視界に入れながら思う。同時……峯麒が陸吾を下した証明代わりとなった事を内心喜ばしく感じていた。
陸吾――貂燕を傍に控えさせながら、峯麒は目前の二人の女仙の元へ視線を戻す。すっと息を吸い込んで、何かしらの決意を灯したまま彼女たちの名を呼ぶ。
「彩杼、蓉可」
二者は短く返答する。穏やかな目線を受けて、少年は背筋を伸ばしながらはっきりとした口調で宣言を言葉にした。
「僕が赤麒麟として転変した姿、近い内に絶対見せるから」
深緋の眼が強気を浮かべる。少年なりに必死である事をよくよく感じた女仙たちは、思わず顔を綻ばせる。彩杼と蓉可もまた微笑を湛えると、快く首肯を見せた。
「ええ、」
「楽しみにお待ちしておりますね」