- 参章 -
八月中旬。
幾度となく黄海へと足を運ぶ峯麒の指令は、いつしか女怪を除き四体となっていた。
昼時、黄海から蓬山へと帰還した峯麒は数人の女仙に出迎えられる。岩の迷宮へと立ち入れば視界は薄鈍色に染り、途を迷いなく進みながらも傍らに添う彩杼と蓉可は背の小さき赤麒へと言葉を掛ける。
「峯麒、少しばかりは黄海行きをお控えなさいませ」
「どうして?」
峯麒は面を振り上げる。憂慮を含めた蓉可の表情に疑問を感じ軽く頭を傾けると、前方にて歩を進めていた彩杼が立ち止まり半身を振り返らせた。薄鈍一色の背景の中、靡く滅紫の長髪が峯麒の視線を捉える。
「指令をお下しになられる事は大切です。ですが多少は蓬廬宮にてお休み頂きませんと、女仙たちは心配で落ち着きませぬ故」
「そう、なんだ……」
普段と相変わらず淡々と告げる彩杼。台詞に含まれた情を読み取る事が出来ず、視線は自然と足元へ落下する。悄然としてさらに頭を垂らした。
「ごめんね蓉可、彩杼」
「ご理解頂ければ十分に御座います」
やんわりとした笑みを湛える蓉可。彩杼の引き結ばれた口元もまた微かに崩れて、峯麒はようやく安堵にも似た雰囲気を感じ取りほっと息を吐く。次いで、自身の肩に余分な力を入れていた事に気付いた。それで無意識に緊張を走らせていたのだと知る。緊張する事など、何も無いというのに。
岩の迷宮を抜けた刹那、開けた途の中央に少春の佇む姿を三者は捉える。彼女は猩々緋を認めて駆け寄り、峯麒の居住の宮である紫蓮宮まで供をする。少年は黄海での出来事を綴り、はたと思い返して足元へ名を呼びかけた。
途端、少年の影より伸びる白い犬狼の姿。
「今日は谿辺を指令に下したんだ」
「まあ―――」
何気なく告げられた報に女仙たちは驚く。つい先日にも賓満を下したばかりであったが、無邪気にそう報告する麒麟の姿が傍らに潜む指令との差異を感じさせる。数年前にも酷似した感覚を思い起こして、蓉可はそれが泰麒の時にあったものと気付く。少しばかり変わっているのが胎果の麒麟である故か赤麒である故か、それは分からなかった。
無邪気に話を続けていた峯麒は矢先、何かを思い出し笑顔から一転憂いを浮かべて目を細めた。
「でも……転変はまだ、」
「焦燥せずともまだ時間はありますよ」
上りかけた階段の最中に踏み留まり、前方を導く者と後を着く者もまたその場に足を止め置く。沈みゆく声音にゆるりと頭を振る少春は小さき蓬山公に微笑みかける。峯麒は心配そうに眉を顰めながらも一つ首肯すれば、女仙達の笑顔が視界に映る。
言いながら彼女たちは心配している事を、少年は何気なく感じ取っていた。……そして、自分が微かに気負いしていることも。
露茜宮にほど近い小径の傍、流れるその川の中に峯麒は半身を沈めていた。
傍らには指令の一つ、孟槐が控える。ヤマアラシにも似た姿に、峯麒の鬣にも似た紅色の荒い赤毛を背に持つ。頬に張り付く髪を掻き上げて、峯麒は孟槐、馮愈の名を呼ぶ。
「僕の髪は馮愈と同じだね」
「主の鬣ほどお美しくはありますまい」
遠慮がちな返答を受けて、峯麒は困ったような顔をする。少年にとっては同じような赤毛に見えるのだから、自分の髪がどう美しいのか今一理解できない。さらに言い返そうとしたところで、聞き慣れた女仙の声が川岸より響いた。
「峯麒、」
水を掻き分け振り返った所で、乳白色の布を携え佇む彩杼が再び峯麒を呼ぶ。反応を返し岸へ向かうところで馮愈を隠形させる。岸へ上がった身体からは水が滴り落ち続けて、そこに一枚の布が掛けられた。包まれるようにして身体を拭かれていると、視界に自然と入るのは彩杼の貌。
「ねえ彩杼、ひとつ聞いていい?」
「何に御座いましょうか」
女仙の貌は変わらず無表情のまま。視線だけがちらりと向けられて、峯麒は肩に力が入るのを感じた。緊張していた理由は恐らく、彼女の表情にある。思いつつも、恐る恐ると問いを投げかけた。
「彩杼はどうして難しい顔をしてるの?」
その問いに、彩杼の動かしていた両手がふと止められる。一時の硬直の後、再び黙々と動かされた手に首を捻る峯麒の頭には、途端布が掛けられる。茉莉花の匂りが峯麒の気持ちを些か和らげた。
身体は布に包まれたまま髪に滴る水を拭われるところで、やや頭上より降りかかる声を聞く。
「―――公は、以前登霞なされた峯麟について聞き及んでおりますか?」
「ううん」
首を横へ振った峯麒は、軽く一つの相槌を打つ彩杼を見上げる。彼女の視線はどこか遠景へと投げやられていた。
「峯麟は二代、王をお選びになりました。洌王とその前の王で」
「ふうん……」
―――自分の前の芳国麒麟。その話を、峯麒は不思議な気持ちのまま聞き受ける。他の女仙は他国の麒麟の話を滅多にしない。挙がるといえば峯麒と同じく胎果の泰麒の話ぐらいなもので、珍しくも思う。
彼女の蓬山での暮らしを聞きながら、少年の胸に何気なく違和感が過ぎる。それが普通の麒麟の暮らしであるのならば、もしや自身は異様なのではないだろうか、と。
過ぎ去る疑問を余所に、彩杼はゆるりと瞼を落とした。一間を置いた後に口を開く。
「……私は、芳の生まれなのです」
聞き入れた言葉に、峯麒は思わず頭上を振り仰ぐ。彼女の言葉はどこか意を決した後の告白のように思えた。驚きに目を見開かせた少年の顔を一瞥して、彩杼は傾き始めた陽のある空へ視線を薙がせた。
「女仙として召し上げられたとはいえ、自国の王が斃れたと聞けば胸が痛みます。前々の王が身罷られた後に峯麟は一度蓬山をお訪ねになりましたが、酷く落ち込まれておりまして―――ですが、その後すぐに新王と盟約を交わす事が出来ました」
「盟約?」
「御前を離れず、勅命に背かず、忠誠を誓うと誓約する。それが、天帝に選ばれた者と交わす契約です」
先日教わったばかりの言葉を女仙の口より紡がれ、それが盟約というものなのだと改め思う。思いながら、王を選ぶ事などできるのだろうかと不安に駆られる。彼女たちが自分は麒麟であるのだと言うから違いはない。だが、果たして天啓が如何なるものか訊ねたところ、曖昧な返答しか得られず未だ不安に陥る部分があった。
峯麒は俯き加減になり、彩杼の話に耳を傾け続ける。
「峯麟が再び選定をなされて、私は心からお喜び申し上げました」
川岸に緩やかな風が吹く。それを感じつつ遠景を見やる彩杼の面持ちに、刹那影が差し込んだ。
「―――それが三十と数年で終わるなど、嬉々とした中で誰が思いましょうか」
「……峯麟は、亡くなったの?」
ええ、と静かに頷く彩杼に、峯麒は微かに戸惑う。彼女の頷きによって、峯麒の理解できた事が一つだけあった。
峯麟が亡くなった、故に自分が次の芳国麒麟として生まれたのだと。
複雑な面持ちのまま顔を俯かせていると、頭上から微かに洩れた苦笑が聞こえる。
「実を申せば、峯麒が選定する事をつい先案じしてしまうのです」
「先案じ?」
首を捻る峯麒の頭から、水滴を拭っていた布が取り払われる。布は折り畳まれ元々掛けられていた腕へ戻り、彩杼は少年の傍らへと屈み込む。そこで、少年は初めて彼女の悲しげな顔を見た。
「先案じ―――いいえ。もしかしたら、時が来る事を怖れているのかもしれません」
意味を巧く理解できずに首を傾げるばかりの峯麒は問いを掛けようとして、遠景に捉えた他の女仙の姿に言葉を飲み込んだ。他の者達がいる中で話すべきではない話題である事だけは、少年にも伝わっていた。
◇ ◆ ◇
蓬山一帯に漆黒の夜陰が下りたころ。
紫蓮宮内の最奥に位置する臥室、その臥牀に小さく腰を掛ける者と傍らに佇む者が灯された燈籠により影を帯びる。
影色を纏う猩々緋の髪。暫し微動だにしなかったそれが、不意に揺れ動く。俯かせていた面を上げて、傍らの女怪を手招いた。
「乖雍」
峯麒の元に数歩近付いた女怪は四肢を屈ませると目線の高さを合わせる。深緋の瞳を覗き込んで、膝に置かれた小さな手を両手で包み込んだ。仄かに伝わる温かさが、乖雍には愛しく思える。
「何かお悩みですか、峯麒」
両手の中にすっぽりと収まった峯麒の片手が力を篭めるのを感じ取る。それが少年が何かしら悩んでいる信号である事を、乖雍はこの数月で知った。彼に一番近い者である自身が彼の悩みを聞かねばと強く思いながら、手の甲をゆっくりと撫でゆく。
暫しの沈黙が落とされて、峯麒の視線だけが僅かに上げられ上目遣いとなる。
「―――僕はいつ、王を選び始める?」
不安気な問いに対し、乖雍は柔らかな笑みを湛えた。
「来年の春か夏頃には昇山者が黄海を抜けて甫渡宮に集います。その時、お選びになれば宜しいのですよ」
ただ峯麒が落ち着かないが故に遣者への返答を少しばかり遅らせた事だけは、女仙の考慮もあり当人に話すことは暗黙の了解となっていた。故に乖雍の口からも洩れる事はなく、やんわりと問いを返す。そう、と悄然としたまま頷いた峯麒は、空いている片手を女怪の手の上へ重ねた。
「……乖雍、これから話す事は女仙の皆には秘密にしてくれないかな」
純粋を浮かべていた眼が重く沈み歪む。主の真摯の意を汲み取って、乖雍はただ静かに首肯した。
「分かりました」
乖雍の頷きにも決して真摯を崩すことなく、彼女を見詰め返し続ける峯麒は羽毛に覆われた手を握り締める。言い惑いかけて、深呼吸を数度繰り返した後の口から出てきたものは、嬉々とするべき筈の報。
「僕、転変出来たんだ」
吉報に驚愕する乖雍は、その事実に喜ぶどころか打ち沈む様子の主に首を捻る。あれほど転変出来ず苦悩を抱えていたのに、いざ苦悩を晴らした結果がこの落ち込み様。一体どうしたものかと戸惑いながら、乖雍は峯麒の顔をまじまじと見詰めた。
「それは、いつに」
「今日。帰りを伝えるからって、乖雍は先に蓬廬宮へ戻ったでしょ?」
「はい」
「そのすぐ後に……初めて転変した」
いつものように帰還の報を女仙たちへ伝える為に乖雍を遣わし、峯麒から離れた数十分間の出来事。指令と言葉を交わし、ふと転変出来ないかと数度試したところで彼は無事に変貌を遂げる事が出来た。
己のもう一つの姿を
見える事を楽しみにしていた峯麒が見たものは鹿の如き四肢、その体躯が彩る紅の色。視界の端に髪であった猩々緋が鬣として短くも靡き、ようやく自身が麒麟であるのだと感じる。
「全身真っ赤で、」
「峯麒は、赤麒麟ですから」
うん、と相槌を打つ峯麒の面持ちは未だ影を持つ。ゆっくりと瞼を伏せ、昼時前に浮かんだ情がどっと胸を去来する。
転変によって自身が極稀な赤麒麟である事を理解した、それと同時。心底より涌き上がる感情を見出し、彼は無意識に慄いた。決して他国の麒麟には理解出来ないであろう、この心情。
「―――転変、したくない」
峯麒の告白に乖雍は目を瞬かせ、次いで戸惑いを浮かべる。予想外のあまり、こういった場合にどう受け答えをすれば良いのかと困惑を色濃くするばかり。手中にある少年の拳にはさらに力が篭められて、当人もまた胸中で苦渋しているのだと察した。
「峯麒、」
乖雍の呼びかけに、峯麒はゆるりと頭を左右に振る。転変によって気持ちの整理が着かなくなっている。それを察しながら、どうする事も出来ず伏せるばかりの自身に峯麒は苛立ちと不安を抱えていた。今暫くの間は、自身のもう一つの姿を受け入れる事が出来ないかもしれない、と。
「転変すれば禎衛たちが喜ぶけど、それでも僕は僕自身を気持悪いって思ったから」
黒麒は綺麗な鋼色をしていた、と女仙たちは言う。ならば自身の赤も同様と思っていた峯麒は、自身の姿に期待を打ちのめされた。紅に染まった体躯に異様と恐ろしさを感じ取ってしまったのである。
交錯する感情は胸中を右往左往とする。初めて衝突する障壁に戸惑い、逃げ出す事も叶わずただ立ち止まる。ただ、予め乖雍と他言無用の約束を交わしたのは、転変を期待する女仙たちに心配をかけまいとする心情故にであった。
「……ごめん」
母親代わりである女怪の眼には、悲しげな我が子の姿が映り込む。葛藤する主を見守る事しか出来ないのだと理解して、乖雍はいいえ、と頭を振った。障壁を乗り越える少年を、しっかりと見守らなければ。根付く意思を心中に抱きながら、乖雍は包み込んでいた彼の手を解放した。代わりに両手を峯麒の頬へ添えて、優しく撫ぜた。彼女なりの優しさの表現である。
「本当はこの姿なんだって事を認められるまで、皆には内緒にしておいて」
峯麒の言葉に、乖雍はしっかりと頷く。それでも笑みを浮かべる事もなく、彼は心底に置かれた思いを呟くように吐き出した。
「僕はまだ、真直ぐに見られない」
―――血に染まったような、自分の姿を。