- 弐章 -
峯麒の蓬山帰還から早二月。
蓬山や女仙らに馴染み始めた少年は、岩の迷宮に身を留めるのみならず黄海へと足を延ばすようになっていた。
胎果であるが故に泰麒の例が浮上する。不安要素はあるものの、帰還から半月後に指令を下した事で峯麒の世話をする女仙らの間にはほっと安堵の息が洩れた。
それから束の間の安心を得てさらに一月半後、二つ目の指令を下した峯麒は何の疲労感を見せる事なく少年の住まいである紫蓮宮への帰還を果たす。迎えに赴いた彩杼が目にしたのは、二つの指令と戯れる峯麒の姿。
「あ、彩杼」
「峯麒……指令をお出しになるのは構いませぬが、先に御召し替え下さいませね」
「うん!」
無邪気に振る舞う峯麒の姿を眺め、彩杼は自然と顔を綻ばせる。生活の中において蓬莱の名残は多々現れたが、時折女仙を驚かせるのみで然程問題として挙がる言動は無いように思われた。
臥室へと向かい走り行く猩々緋を見送り、ほっと溜息を吐く彩杼。刹那、彼女の背後で衣擦れの音がする。振り返ったそこに、禎衛の姿があった。
「禎衛様―――」
「峯麒は何処へ居られる」
「つい先程に臥室へ。御召し替えをされておいでです」
「そうか……」
行き先を聞き、禎衛は微かに面を提げ口元に手を添える。ふいと逸らした視線が思案の風を思わせて、彩杼は何気なく問いを投げかけた。
「何か不安がお在りですか?」
「―――延麒と景王が来られてね」
「延麒と……慶国の王が?」
妙な組み合わせに彩杼は首を捻ると、禎衛は軽く首肯する。雁と慶が手を組み何かしらを始めるのだろう。そうでなければ態々蓬山へ赴く筈もない。彩杼の思考は巡りつつも、禎衛が紫蓮宮へと足を運んだ理由と繋がりそうにもない。未だ胸中に疑問が渦巻く中で、ふと視線を傍らの女仙へと戻した禎衛が口を開く。
「玄君がお伺いを立てておられる間に、峯麒を延麒と逢わせてみてはと思うたのだが」
「ああ、それで……泰麒も、景麒とお会いになられておりましたものね」
嘗て泰麒が蓬山公として住まう頃の出来事を思い出す。景麒に懐いた泰麒は、頻繁に黄海へと赴いていた。遅かろうとも黒麒は転変を果たした―――それが“兄弟”との接触も少なからずあるとすれば、機会を逃さず会わせるに越した事はない。
軽く相槌を打つ禎衛は、柔らかく微笑む。
「月日が早ければ、転変を思い出すのも早かろう」
「ええ」
彩杼もまた軽く何度か首肯すると、ふと禎衛の心中に持ち上がった不安要素に思わず溜息を吐く。
「ただ泰麒と違うのは……自らの意思で黄海へお行きになられる事かね」
その言葉に僅かな苦笑を零すと、戸の間よりひょっこりと顔を出した少年が頭を傾げると共に素っ頓狂な声を上げた。自分の部屋にやってきた客の顔を認めるなり戸の間からするりと抜け出て、禎衛の元へと駆け寄って行く。
「あれ、禎衛?」
「峯麒、雁の麒麟とお会い致しますか?」
「雁国の麒麟……延麟?」
「いいえ、今は延麒です。峯麒と同じ胎果に御座いますよ」
「ほんとに!?」
深い緋色の眼がぐっと見開かれる。禎衛の袖を掴み揺する峯麒、その少年を見守っていた二人は思わず笑いを零した。
ええ、と頷く禎衛は、面会の旨を傍らの彩杼に言伝する。受けた方は軽く頷くと、そそくさと踵を返し足早に紫蓮宮を後にした。
◇ ◆ ◇
白亀宮にて待つ陽子と六太の元へ駆けつけてきた足音は二つ。どちらも軽い音に六太は窓越しの景色へ向けていた視線を逸らし戸を見やる。陽子が彼女らに気付いたのは、姿を認めてからのことだった。
「延麒、」
「少春……と彩杼か。どうした?」
腰掛けていた小卓より飛び降りた六太は、二人の女仙の傍らへと駆け寄る。彼女らが来た事から、何かしらの事情があるのだと察していた。二者は一度顔を見合わせると、少春が言葉を紡いだ。
「峯麒に会ってはもらえないかしら」
「峯麒?ああ、まだ時間はあるだろうから良いけど」
「そう、良かった……」
了解の意を告げると、少春と彩杼の貌が綻びを見せる。僅かに眉を顰める六太の背後には、彼女達の会話を耳にした陽子が腰を浮かせていた。遠慮がちに、初見の女仙へと問いを投げかける。
「私も会って良いだろうか……?」
「ええ、景王も是非お会いになられて下さいましね。お二人と同じ胎果ですから」
微笑み告げる彩杼の言葉に、陽子は半ば驚きの表情を伴って女仙の顔をまじまじと見やる。初めて聞き及ぶ事実に目を瞬かせると、六太が笑みを灯す。それで、延麒は知っていたのだと察した。
やがて戸の向こうからおずおずと顔を出したのは、雁の麒麟よりもやや背の低い赤毛の少年。振り返った少春が小さくも手招けば、少年は女仙よりも軽い足音で駆けゆく。彩杼の伸ばされた手を握り、初見の二者へと向き直る。
「あの―――初めまして」
軽く一礼すれば赤子の御髪よりも深い緋色がさらりと靡く。その光景を陽子も六太も呆然として眺めていた。
彼らの想像していた雌黄は、少年の何処を探しても見つからなかったのである。
「彼が……峯麒?」
「少春、」
六太は思わず馴染みある女仙へ視線を向ける。彼女は頭を軽く縦に振った。その顔には微かに笑みが浮かぶ。
「赤麒です」
「赤麒麟か……俺も見たのは初めてだな」
「今現在蓬山に居られる麒麟は巧と芳……二頭の麒麟です。塙麒は未だ人の容を取ってはおりませんので、」
「ああ……そういうことか」
成程、と納得し頷く六太は彩杼と手を繋ぐ峯麒の傍へと歩み寄る。目線は自然と下がり、体勢を中腰へと変えると未だ他者に慣れる事のない少年へ気軽に言葉を掛けた。
「峯麒、蓬莱の名前は?」
「あるよ」
「だよな。俺は六太、こっちは景王で、」
「中嶋陽子という。宜しく」
「うん、宜しくお願いします」
峯麒は深々と頭を下げる。習慣は抜けないものだとつくづく思いながら、陽子は苦笑を零した。本来麒麟は王以外に頭を下げぬ生物……それを以前聞き入れてから頭を下げない事が当然のように思い続けていたのだが、そうでも無いらしい。
苦笑しつつも思考は回る。子供らしいと思いつつ、傍らの六太と見比べると色は違えどさも兄弟のように見えた。
覗き込むようにして少年と視線を合わせる六太は笑みを浮かべて口を開く。
「で、峯麒の名前は」
―――名前。
そういえばと、少年は思う。
女仙からは今まで“峯麒”としか呼ばれず、名を自己紹介をした覚えがない。これが蓬山へ来てから初めての事と気付いて、途端照れながらも笑った。
「北山和真、です」
女仙が彼らに気遣い、起居をそそくさと後にした直後のこと。
不意に深く落とされた戸惑いを読み取った六太は、峯麒の顔を覗き込む。覗き込まれた方は眼が泳ぎ、その暫し後に口を開く。
「あの……聞きたい事があって」
「うん?」
「どうしたら、日本へ帰れる?」
幼き少年の口から予想外の問いが紡がれて、目を見開いた六太は思わず背後に佇む陽子の顔を見やる。陽子もまた六太へ視線を向け、顔を見合わせる形となった。それから再び峯麒へと向き直ると、僅かに頭を傾げ問いを投げ返す。
「帰りたいのか?」
「お父さんとお母さんが心配していると思うんだ。
巴も、要だって……」
「……要?」
その名前に、二人はぴくりと反応を示す。―――それは、泰麒の蓬莱での名前ではなかっただろうか。
まさかと過ぎる思いに、陽子が和真の元へと近付く。
「二人の名字は?」
「ええと……」
「もしかして、要の方は高里か?」
「うん、そうだけど……」
思わぬ少年の縁に、六太は無意識に息を詰めていた。要が間違いなく黒麒ならば、もう片方の人物は嘗て泰麒帰還の為に蓬莱へ向かった慶国飛仙の名。二者と繋がりのある峯麒―――ならば、あちらは行方不明事件として扱われ騒ぎになっているだろう。二人の口からは自然と安堵の息が洩れた。
「……そうか。やっぱり会ったのか」
「要と知り合いなの?」
「ああ。要も麒麟なんだ」
「え?」
きょとんと目を丸くする峯麒に、ああ、と六太は思う。恐らく彼は同類と知らずとも無意識に縁を持ったのだ。それは、この少年が胎殻を纏いながらも同じ光に惹かれたのだと感じた。
峯麒から離れ、榻に軽く腰掛けた六太が笑みを含みつつ背凭れに片腕を置く。
「お前と同じく珍しい色の麒麟でさ。要は黒い麒麟だ。雄だから、黒麒という」
「こっき……?僕は?」
「お前は赤い麒麟で雄だから、赤麒」
「へえ―――」
感心の色を見せる少年と同様に相槌を打つ陽子は、それでも未だ蓬莱を気に掛ける峯麒を安心させるかのように微笑みかけた。
「二人は大丈夫だ。今年中にはきっと会えると思う」
「ほんと……?」
「ああ」
六太の頷きに、途端峯麒は頬を緩めて笑みを湛えた。それは真昼の太陽を思い浮かばせて、腕を後ろ手に組むと大きく首を振る少年は不安を和らげて口を開く。
「じゃあ帰らない。二人がこっちに来るんなら、楽しみに待ってるから」
希望は強く。二月に及び留めていた戸惑いが胸内から掻き消えたような気がして、彼はほっと安堵の息を静かに洩らした。