- 壱章 -
少年の目前に在るは澄みきった川辺。
緩やかに流れゆく水辺、その面にあるはずのない遠景を見詰める。鏡の如く映り込む景色に懐かしさを覚えながら、小さな掌は自然と伸びゆく。
幼き少年は水越しにその景色があるのだと信じて―――飛び込んだ。
蓬山に春季が訪れていた。
正式には、蓬山に季節という括りはない。年中草花が咲き誇り、暖かな風が揺れる緑の地を撫ぜていく。その気候を季節として例えるならば春。―――だが、その他に春と称す事の出来る理由があった。
蓬廬宮、宮の一に響く声。露茜宮から聞こえるそれは獣の姿をしていた。
姿は鹿に酷似し、しかし白角は額に一つ。後方……背に続く、金色の鬣。未だ小さくも雌黄を帯びた毛並み―――その姿は正に、神獣麒麟の姿であった。そしてこの蓬廬宮の主、蓬山公と呼ばれる存在でもある。
彼は、塙麒と呼ばれていた。
女仙の誰もが彼の誕生を祝した。しかし、それと同時に少しばかり胸を痛める。特に彩杼は、他の誰よりも不安と落胆の色を見せていた。
今は失き、黄金の果実。麒麟の果が実っていた筈の捨身木、その根元で疲れ果て眠る、一人の女怪。
本来ならば彩杼が面倒を任せられる筈だった、極国の麒麟。十月十日に熟せば女怪の手によりもがれる筈であった者。
蝕によって流されてしまった峯果に手が届く事無く女怪の悲鳴と共に消えていった。身近に他国の麒麟が生誕している様を彼女は見ている。そんな女怪をどう慰めてやる事が出来ようか、女仙達の中でも心配だと不安の声が密やかながら上がっていた。
時折玉葉も捨身木へと姿を現すものの、乖雍は酷く落胆の色を浮かべ俯くまま。
―――蓬山の蝕から、既に四年が経つ。
雁国の麒麟が頻繁に蓬莱へ渡り捜索をしているが、未だ吉報は届いていない。
「乖雍」
彩翡は通り掛かりに女怪の名を呼ぶ。
乖雍は上半身を起こし、自身の名を呼ぶ声の方角へと顔を向けた。それが彩杼であると理解すると、再び身を伏せてしまう。
……峯麒、
乖雍の胸内には悲痛な叫びが渦巻く。その情は、母親が我が子へ向ける心配と酷似していた。
―――この痛みはいつまで続くのだろう。もしや峯麒はあちらで酷い目に遭っているのかもしれない。下手をすれば死んでしまうことも。嗚呼、何故あの時蝕から峯麒を守る事が出来なかった―――
乖雍を支配する罪悪感と焦燥。その二つが混濁してさらに気を悄然とさせる。その思いを持つのは彩杼もまた同じであったが、情の重さは量り兼ねる。十月十日捨身木に寄り添う程に女怪の思いは深い。それと比べる事など、出来る筈も無かった。
彩杼はいつものように水桶を抱え捨身木の根に横たわる女怪の元へ行こうとして、
「二人とも、急ぎ海桐泉へおいでませ!」
叫び声を聞き振り返った彩杼の視界に、突如取り乱した少春の姿が映り込む。彼女の息は切れ切れに、それで急ぎ駆けつけて来る程の火急である事を察する。対し彩杼は咄嗟に言葉も思い浮かばず、擡げていた頭を上げた乖雍と目を合わせた。呆然とする暇もなく、すぐに反応を示したのは乖雍であった。
毛並みある身を震わせると、折畳まれた脚をさっと伸ばす。視線は周囲の岩、その向こうを凝視している。一体何事かと目を丸くする彩杼の耳に、突如歓喜の声が届く。
「峯麒!!」
それは彼女が叫んだと同時、爆ぜたように飛翔した。女仙の頭上を軽々と飛び越え、岩の迷宮を駆け下りていく。乖雍の反応に唖然として、彩杼の思考は硬直する。
今、乖雍は“峯麒”と呼ばなかったか。
「彩杼、早く!」
「はい―――!!」
少春の声に思考を引き戻すと、踵を返し乖雍の後を追う。必死に脚を動かしながら、峯麒帰還という言葉が脳裏にこびり付き離れなかった。
◇ ◆ ◇
―――光が千切れる。
少なくとも少年にはそう見えて、切れ間へと手を伸ばす。口から吐き出された無数の気泡と共に彼の身体は手を翳した方向へと浮上していく。
まるで、見えない何かに導かれるように。
その子供は、水を汲みに行った容苛の前に突如現れた。
ばしゃりと水面を破る音。それに顔を上げて、一瞬彼女は己の眼を疑った。
芥子のような、猩々緋色の御髪。紅玉にも似た紅緋の眼は、ただ宙を彷徨うばかり。水を吸い込んだ異装姿のまま川より出てきた少年に仙女は悲鳴を上げて、それでやっと少年は容苛へと視線を向ける。
「……ここ、どこ?」
「―――此処は、蓬山の海桐泉です」
「蓬山……お父さんとお母さんは何処?どうして僕はここに居るの?あの二人は何処に行ったの―――」
今にも泣きそうな顔をする少年に目を瞬かせ困惑の色を浮かべるばかりの蓉可。どう返せば良いのか分からず、取り敢えずと懐の手巾を取り出した。
「一先ずはこちらへお上がりなさいませ」
「うん、」
少年は小さく頷き、顔に張り付いた髪もそのままに水辺から上がる。幾度も滴り落ちる水に地が濡れて、足元が水浸しとなる。蓉可はせめてもと、片手に持つ手巾で濡れた少年の顔を拭う。額の水滴を拭い取ったところで、岩の迷宮より反響する声を聞き届けた。
「峯麒!!」
「え……?」
突如として発声の源が変動する。思わず頭上を振り仰いだ蓉可の視界に映り込んだのは、人型であれど人ではなきもの。それが呼ぶは峯麒―――。水辺に急降下する女怪の姿を凝視しつつ、目前の少年を視界の端に留めておく。何事かと女怪の降下した先を目で追うと、彼女は真っ先に蓉可と少年の元へと歩み来た。
「乖雍……?」
蓉可は女怪の眼を覗き込む。乖雍の視線は真直ぐに水浸しの少年へと注がれていた。まさか、と蓉可の脳裏に過ぎる予感は、すぐに真実となる。
「蓉可、」
「―――禎衛様」
急ぎ駆けつけて来た禎衛の姿を捉え、蓉可はほっと胸を撫で下ろす。次いで傍らに佇む少年を見やると、息を整え終えた禎衛は蓉可の隣へと並び立つ。まじまじと少年を見詰めて、はっきりと少年の正体を告げた。
「そちらの御子が峯麒と、」
「……芳国の、麒麟……?」
貌に驚きを満たした蓉可に対し、禎衛は深く頷き言葉を続ける。
「峯麒が今しがた自らのお力で御帰還なされたと、玄君より―――」
禎衛は言い止して、はたと視線を少年に留め置く。麒麟にあるべき彩が一切としてなく、紅を基とした御髪と眼に驚愕と戸惑いを覚える。……同時、嘗ての蓬山公に雌黄ではない者があった事を思い起こした。
言葉を続けようとしたところで、背後からの声に禎衛と蓉可は振り返る。
「公が黒麒の後に赤麒と続くとは、ほんに珍しいこと」
「玄君―――」
女仙の長を目前にして、二者は丁寧に叩頭する。玉葉は其々に声を掛けた後、女仙の背後に佇む少年の元へと歩み寄る。少年の片手は既に女怪が握り締めていた。
「わたしは玉葉と申す者。この度蓬山への帰還、お喜び申し上げる」
「ほうざん……?」
「蓬山は峯麒のあるべき場所」
玉葉の言葉に首を捻るばかりの少年は、戸惑うまま周囲を一望する。ただ川辺の向こうに映る景色が直視出来るのみで、それ以外に然程違和感を感じる事は出来なかった。傍らに身を寄せる異様な容の者にさえも疑問を感じず、すんなりと彼女の存在を受け入れる。ただ、あるべき場所という玉葉の言葉に僅かな引っ掛かりを覚えていた。
「蓬山にはじき慣れよう。分からぬ事は女仙と女怪の乖雍より聞きくりゃれ」
「かいゆ―――この人のこと?」
「然様に」
頷いた玉葉の面持ちをまじまじと見上げて、峯麒と呼ばれた少年は自然と首肯する。
この地を本能的に受け入れる少年の姿に、蓉可と禎衛は貌を見合わせる。途端、視界の端に駆けつけて来た少春と彩杼の姿が映り込んだ。
春の歓喜が海桐泉より広がりつつあった。