- 零章 -
峯王並びに峯麟登遐の知らせが蓬山へ届けられて、早くも二月の時が過ぎ去った。
周囲を隔たるかの如く聳え立つ金剛山。峰々の内に広がるは海無き国、黄海。その中央に立つ蓬山の一角には枝垂れた樹木―――捨身木に先日、一つの卵果が実った。
金色のそれは紛れもなく峯果であり、捨身木の根より生まれ落ちた女怪が峯麒と呼んだ事から、次の芳国麒麟は麒である事も判明した。
十月十日もすれば麒麟は孵り、蓬山に祭りの季節が訪れる。
蓬山にて務める女仙らは嬉々としてその時を待ち。
―――それから七月の月日が過ぎた。
……今朝から、色の異なる風が吹く。
蓬山の女仙である彩杼は両手で一つの桶を抱えつつ何気なく思う。空を仰ぎ見たところで蓬山の様子は普段と何ら変わることなく、岩の迷宮を抜けた最中に見た捨身木、その根元にて張り付く女怪にもまた異変を見受ける事は出来なかった。
「乖雍」
彩杼は彼女の名を呼ぶ。
女怪の名は乖雍。上半身は羽毛に覆われ、鶸色の蛇鱗が胸元から線のように腕へ手甲へと伸びている。半身に狼の脚を持つ彼女は彩杼の声に身を振り返らせると、軽く頭を下げた。そうして再度頭上に輝く金色の果実へと視線を戻し、“彼”を仰ぎ見守っていた。
「あと三月もすれば孵るのですね」
「―――蓉可」
ふと視線を捨身木より背けると、同じく海桐泉の帰りであろう蓉可が彩杼の傍へ歩み寄りつつあった。彼女には大凡四年ほど前の泰麒の件もあってか、複雑な情が胸内にあるだろう。そう察しながらも彩杼が視線を戻したところで、再度彼女へ声が掛かる。
「彩杼様が初めて麒麟のお世話をなさったのはいつ頃なのですか?」
彼女の問いに、ふと過去の記憶を掘り起こすと思いを馳せる。嘗ての蓬山公の顔を遡り思い出しつつ、蓬山務めとなった日から年を数える。そこでようやく記憶から取り上げたのは、最北の国を支える者。―――柳国劉麒。
「今の劉麒が最初だから……大体百三十年ほど前に」
「劉麒が―――そうですか」
柳に対する風の噂をふと脳裏に過ぎらせながらも軽く相槌を打つ蓉可は、さらに質疑を投げかけようとした―――その刹那。
瞬時にして、風の色が変貌を遂げる。
「―――公」
「え……?」
呟かれた言葉を聞き取る事が出来ずに蓉可は首を傾げる。彼女を余所に空を仰臥する彩杼は深く眉を顰めて、ふと四年前に蓬山を襲ったものを思い起こす。まさか、と悪寒が彩杼の胸を通り過ぎた。
「蓉可、桶は其処へ置きや」
「あの……!」
「禎衛様の元には玄君が居られるはず、」
言って、彩杼はそそくさと身を翻す。早く向かわねばと足を進め始めて、不意に二者の足がその場に縫い留められる。垂らされた髪が突風に攫われ散乱していく。思わず袖元で顔を覆うと共に、彩杼は戦慄を背に走らせた。
―――蓬山に駆け抜ける変異。
風は吹き荒び、運ばれた花弁が突風と共に舞い上がる。轟々と音を立てて捨身木の枝をも揺らす風、その天災は―――蝕。
うねり轟く大地の咆哮が蓬山に響き渡る。捨身木の根元より上がる女怪の悲鳴に、彩杼と蓉可の顔からはさっと血の気が引く。それは、以前にも蓬山で起こった不遇を片隅にやったはずの記憶から不意に引き起こされた所為でもあった。
「峯果が……!!」
蓉可の叫びに、彩杼もまた捨身木を見やる。金色の、芳国麒麟の果。決して揺れる事なき果実が今、蝕の暴風に煽られていた。
「峯麒……!!」
女怪の悲鳴が蓬山に木霊する。頭上に晴天はなく、そこに広がるのは赤黒く変色し混濁した雲ばかり。嵐のように吹き荒れた風は、花の咲き乱れた蓬山の地を抉り荒ませていく。
「峯麒!!」
峯麒の女怪である乖雍は必死に手を伸ばす。
七月の時を見守っていた果は今、非情にも乖雍の目前で捨身木の枝からぶちりと途切れる。目前にあった金色は指を掠めて頭上へと吹き上げられ、悲鳴も虚しく頭上を幾度も彷徨する渦中へと溶けゆく。
さらなる暴風が周囲の砂利を巻き込み吹き上がると、それら全てを飲み込み足早に北西へと過ぎ去っていった。
蝕は蓬山を去り、悲惨な地と果の無き寂しげな捨身木が残された。女仙たちは落胆と不安を見せ、中でも乖雍の悄然とした様子は見るに耐えない。女怪を見守る碧霞玄君――玉葉は、未だ捨身木に張り付いたままの乖雍の元へと歩み寄る。その手を掬い取ると、峯麒の捜索と帰還の約束を交わしていた。
彩杼は遠景を遠巻きに眺めて、ふと視線を逸らすと目を細め空を仰ぎ見る。泰麒と共に見つかれば良いと、胸内の片隅で思う。
―――だが、月日が過ぎ去っても峯麒発見の報が舞い込んで来ることはなかった。