―――十月初旬。
李斎は泰麒を伴い、慶を出立していった。
- 十一章 -
江寧が高楼へやってきた時には、二つの点は既に空へ溶け込んでいた。
王の傍らに立つ雁と慶の麒麟を交互に見比べて、陽子の腰掛ける椅子の背前にて立ち止まる。立ち止まった足音が陽子の耳にも届いたのか、彼女は背後を振り返る。
「
江寧は、別れを言わなくて良かったのか?」
「うん、まあ」
零された苦笑には微かな寂しさが含まれていた。その様子に延麒は首を捻ると、何かあったのかと
江寧に問いかける。彼女は僅かに視線を逸らすと露台の向こうに広がる雲海を眺めて、眼を細めた。
「別れなら昨日言ったし―――旅立ちの時は、来るなって要に言われたから」
「そうか……」
彼女が戴の民ならば供に連れて行っただろう。そんな考えがふと陽子の脳裏を掠め、
江寧の出身が未だ不明である事に気が付いた。彼女の出生は一体どの国なのだろう。
数秒の間を置き問おうとした陽子は、突如呼ばれた自身の字により喉まで出掛かった言葉をすぐに飲み込む。呼んだのは王の半身である景麒で、傍らに佇んでいた為か仰ぎ見るようにして彼を眺める。
「何だ?」
「
江寧殿から、話があると」
「景台輔―――」
陽子の傍らより焦りを含んだ
江寧の声がする。背後を振り返ると、困惑の面持ちで景麒を見やる彼女の姿が目に入る。延麒もまた
江寧を見上げて、こちらは目を瞬かせていた。
言い淀む彼女に、景麒は長い溜息を吐く。
「……泰麒はもうお行きになられました」
「それはそうですが……」
「
江寧、私に話があるのか?」
椅子から立ち上がった陽子は三者を振り返り改め眺める。それぞれが異なる表情を浮かべる様に異様さを感じつつも、一先ずはと
江寧に向き直り問いかける。菖蒲色の瞳が僅かに揺らぐ。
「言わないと分からない。話せるのなら、話してくれないだろうか」
王の問いに、
江寧はゆるりと瞼を伏せた。
彼女の決意は心底にて揺らいでいた。陽子が良いと首肯すれば仙として生きる事も可能である。老いも病気もなく、安穏として時を過ごし、赤子の王朝を支える事も一つの道だろう。だが……彼女の中で、それは人として生きる事を辞めることのような気がする。
朝を支える者は多い方が良い。しかしそれは飛仙ではなく地仙の役割であって、王を支えたいのであれば一度飛仙としての仙籍を返上するべきであると。そう思いつつ、返上の後までも案じが先走りしてしまう。
だが……彼女の眼差しを受けた途端、何かが弾けた。一度として揺らぎを見せる事のない目前の王。風貌に安堵したのか、全てを投げ出しても良いと思ったのかは
江寧自身にもすぐに理解する事は出来なかった。
ただ、それによって申し出を口にする決意を固める事ができた。
一度静かに深呼吸をすると、
江寧ははっきりとした口調で言葉を紡いだ。
「―――主上、私は仙籍を返上致します」
驚きに目を見開かせたのは陽子と延麒の二者だった。景麒は顔を顰めたままそれ以上の言葉を差そうと思わず、陽子の傍らに佇み見守るのみ。一先ずは用件を言い切った事で呼吸を整える
江寧に、途端陽子から焦燥を含む声が上がる。
「
江寧、」
「元々泰麒帰還の為に昇仙が必要だから仙籍の賜りを受け入れた。けどそれももう―――役目は全部、終えたから」
「仙籍を返上して、その後は何か考えているのか?」
「緋頼と一緒に恭国へ向かいます」
「何をする為に」
「帰りを待っている人達が居るんです。未だ待っているかは分からないけど……一度会いに行きたい」
真摯とした双眸。彼女の姿を暫し視界に据えて、周囲に沈黙が落ちる。さも対峙するかのような眼差しに耐え兼ねて、先に折れたのは陽子だった。
詰めていた息を吐いて、分かったと頭を縦に振る。本来ならば信用出来る者として鈴や祥瓊同様に傍に居て欲しかったが、彼女のやりたい事を妨げるようなことはしたくないと、招きの誘いを胸にしまい込む。僅かに惜しむ情が胸に広がって、刹那苦笑の含まった声で
江寧が言葉を紡ぐ。
「もしも主上が温情を賜って下さるのでしたら、師を着けては頂けないでしょうか」
「師……?」
「二年ほどこちらの言葉を話していないので、忘れたものが多くて。せめて一月前後だけで良いのですが」
―――そういえば、そうか。
仙籍を返上するとはそういう不便が出てくるのだと、脳からすっかり抜け出ていた事柄を思い出す。何分勝手に神籍へ入れられ言葉に不自由をした事が無いものだからと苦笑しつつ、かつて共にやってきた杉本や浅野の顔が脳裏を過ぎった。苦い思いが胸を去来する。
その思いは一時。瞬時にして切り替えた後に、陽子は
江寧に向け首肯した。
「分かった。それなら太師を紹介しよう」
「太師……ですか?」
「ああ、遠甫だったら師として申し分ないだろう」
言って、陽子は笑う。
江寧は彼女の笑顔を見やり、次いで景麒へと視線を移す。一つ頷きを見せられ、それでようやく彼女は頭を深々と下げた。
「―――ありがとう。身勝手でごめん」
江寧の言葉に対し彼女は首を横に振る。
暫し頭を下げ続けるその姿に、景麒と延麒は其々に複雑な思いを抱き見守っていた。
◇ ◆ ◇
「そういや
巴、尚隆と交わした約束は覚えてるよな?」
「え?」
唐突に延麒より話を振られた
江寧は、思わず素っ頓狂な声を上げる。次いで記憶を次々に掘り起こして、やがて辿り着いたのは舒栄の乱の際に交わした約束。
「―――ああ、大射」
「二ヵ月後の慶賀に訊ねてくれ。また書状を渡すから入ってくるのは禁門からな」
「うん、分かった」
待ってる、と短くも言葉を返した延麒は万遍の笑みを浮かべる。陽子と景麒はその様子を何も言わぬまま見守る。
白々とした月は淡い光を弱めて、夜更けを静かに物語っていた。
翌日、太師の邸宅へ招かれた
江寧は朝方に足を運ぶと、戸を開き出てきたのは幼き少年だった。年は十の前後。目を瞬かせていると、少年は頭を傾げ
江寧を見上げる。
「遠甫にご用?それとも虎嘯?」
「え、あ、いや、ええと―――」
言い惑う
江寧の顔を丸い双眸が覗き込む。半ば困ったような貌をしていると、戸の奥より穏やかな笑い声が聞こえてきた。それは次第に近付くと、少年の背後より現れたのは白髪の老人。髭は長く蓄えられ、双眸が心境の穏やかさを語る。
「子供は苦手と見える」
いえ、と戸惑いがちに頭を横へ振る
江寧。彼女は風貌を改め確かめると恐る恐ると訊ねた。
「貴方が太師の―――遠甫殿?」
問いに対し首肯が返ってくる。それに一先ず安堵の息を洩らすと、二者との距離を数歩縮めたところで、遠甫の脇より顔を出す者がある。巌のような体格と顔を認めて、それがかつての仲間である事を理解した。
「
江寧、一体どうした?」
「虎嘯……いや、太師に用があって」
「―――そうか」
軽く相槌を打つ虎嘯はそのまま、老人と少年の脇を通り抜けて出て行く。何処へ、と問いを投げると内殿へという返答がある。彼は自分の役割をこなしに行くのだと察して、
江寧は暫しその場で虎嘯の背を見送っていた。
曲がり背が消えたところで、彼女の背後より遠甫の声が掛かる。
「では、始めて宜しいかな」
「ええ。宜しくお願い致します」
彼女が十二国の言葉を思い出すまでに然程時間は掛からなかった。
世の理を記憶より掘り起こし、言葉を完全に得たのは一刻が経とうとした頃のこと。一度休憩を入れようと、少年――桂桂を含めた三者で茶の時間を割く。一息入れたところで、戸を叩く音がする。扉越しより聞こえたのは陽子の声だった。
桂桂により開かれた戸の向こう、揺らめく緋色に視線が釘付けられる。位袍よりも質素な服装でやってきた王の視線は太師へと向けられていた。
「こちらに
江寧が居ると聞いたので」
「おお、ちょうど一息入れたところでな。入りなさい」
「失礼します」
軽い一礼の後に起居へ踏み込んだ陽子は、遠甫の向かいより起立した
江寧の姿を目にする。深く拱手をすると、面を上げた少女の口元が弧を描く。
「主上、」
「今はその呼び方じゃなくていいから」
「―――分かった、陽子」
江寧は頷きを見せて、口調を変える。陽子はその様子にほっと息を吐くと、桂桂の隣に置かれた椅子へと腰掛ける。目前には淹れたての茶が置かれて、湯気を眺めつつ手前で指を組んだ。
暫くは他愛のない世間話が続いた。
江寧の不在、一年八ヶ月の時を覚えているだけ話した。差して大した話題も無かったが、それでも頬を緩ませ聞き届けていた
江寧の姿に、陽子もまた目を細める。
白端の茶を湯呑の半分辺りまで飲み終えたところで話は自然と途絶える。その機会を狙い、陽子は口を開いた。
「
江寧に、一つ話したい事があって」
「なに?」
頭を僅かに傾げる
江寧に、陽子はあくまで軽く問いかける。
「
江寧は恭へ行った後、どうするつもりでいる?」
「……大して考えてはないかな」
「そうか―――」
彼女の応えもまた軽いものだったが、陽子の僅かに落とされた声音と引き結ばれる口元に微かな違和感を抱く。
江寧はその様子を気に掛け、自然と上目遣いで問うた。
「どうして?」
問いかけに反応して、陽子は俯かせていた面を上げる。その双眸に含まれた真摯の意に、
江寧の表情が若干硬くなる。一時の静寂を置いて、彼女は今まで胸に抱いていた言葉を発した。
「もしその後の用が無いのなら、是非とも慶に手を貸してはくれないだろうか」
―――驚愕と、呆然と。
陽子の言葉に目を見開くまま、反応を示す事が出来ない。ただ、視線だけは目前の王を直視していた。
そしてその言葉は、さらに続けられる。
「先日の謀反でも分かるように、私には信用の置ける官がまだまだ少ない。一人でも多くの手助けが欲しいんだ」
「陽子……でも、」
「
江寧が仙籍を返上すると申し出てくれたからこそ、私もこうして言わなければと思った」
返上の後に恭国へ。だがその後どうするかは彼女が決めるべきであり、本来他人が口を出すものではない事を陽子は重々に承知している。その言が身勝手である事も十分に理解したつもりでいる。それでも祥瓊や鈴らと同様、信頼に値する者として助力を頼みたかった。
目前には未だ戸惑うままの
江寧が手元へ視線を下ろしている。その様子を窺おうとして、彼女は突如ふいと面を上げた。困り抜いた先の表情には穏和が浮かぶ。
「……あまり大した事は出来ないよ」
「
江寧が小さいと思う事が、私にとっては大きな事かもしれないんだ」
陽子の貌は変わらず真摯のまま一つ首肯する。説得の言葉を聞き受けて、
江寧の口からは溜息が洩れた。だが重くはない、何かに区切りを着けるように吐き出された息。
次いで困ったような顔をして、
江寧が言葉を発し始める。
「―――雁の」
「うん?」
「雁での大射を終えたら、此処に戻ってくるかもしれない」
「それでもいい。待っているから」
彼女は頷き、柔らかな笑みを湛える。陽子もまた表情を緩めて、組んでいた指を解き湯呑の側面に触れる。熱気に包まれていた湯呑はいつの間にか釿婆子のような温もりへと変わっていた。
◇ ◆ ◇
―――旅立ちの黎明。
禁門に佇む影は大凡二つ。尭天山の麓から裳裾のように広がる街並みを眺めて、
江寧は胸の高鳴りを抑えていた。
彼女の隣には赤虎が寄り添い、延々と続く上空へと頭を上げる。鈍色は淡く、時折薄い雲の切れ間から白藍の空が顔を覗かせる。前方の視界に霧掛かる事もなく、出立にはちょうど良い天候と、
江寧は緋頼の頭部を撫でつつ目を細めて笑った。
「……一年半前も、此処からだった」
ぽつりと呟きながら思い起こされた記憶。一年半ほど前に延麒と共に蓬莱へ旅立ち、その出発点は今立つこの場所。……この深く繋がる縁が絶える事はきっと無いのだろう。そう思いつつ、足場として立つ事の出来る場所の限界まで歩を進める。当時は夜更けに発った為に景色を眺める事は出来なかったが、今は鮮明として街並みを拝見できた。国都だけに、街は広大な地に延ばされている。
陽子には見送りの無用を告げたため、他者にその情報が行き届いたのだろう。当然の如く誰一人として居らず、その場にあるのは尭天山に吹き当たる風の音のみ。風は崖を伝い掘り込まれた禁門の内へと吸い込まれ、時折
江寧の頬を緩やかに撫でていく。
彼女は静かに瞼を伏せて、暫しその風を肌で感じ取っていた。
今まで、様々な事があった。
多く大きな出会いがあり、そして同様別ちもあった。忘れないものがあれば、忘れてはならないものもあった。言い尽くせない程の感謝と謝罪。全てを背負い今、此処から旅立ちを再開しようとしている。
「―――行こう」
手綱を片手に持ちながら、緋頼の背に取り付けた鞍の鐙に足を掛ける。かつて何度繰り返したか分からない行為が今、
江寧には酷く懐かしく感じていた。
ひらりと騎乗し、頭数個分高くなった目線に昂揚を覚える。革め旅立ちを噛み締めながら、手綱を持つ手が留まる。手元を振るう事に暫し躊躇いを持って、握り締める拳に力が篭った。
「緋頼、」
騎獣の名を呼ぶと、紅色の頭部が持ち上げられる。主を振り仰ぐ赤虎はじっと
江寧を眺め続けて、言葉を待つ。視線に苦笑を零しつつ、彼女は仰ぐ頭部に掌を添えた。
「一年以上も待たせて、ごめん」
侘びを告げる
江寧に対し、緋頼は別段何を訴える訳でもなく視線を上空へと戻す。その反応に差して気に留めていないのだろうと察し、次いで感謝の言葉を述べた。だが、やはり何の反応もなく。
その様子にほっと胸を撫で下ろすと、ようやく昂揚が静まりつつあった。
――― 一度だけ、背後を振り返る。
掘り込まれた先に聳える、固く閉ざされた巨大な門。いつかまたこの地へ戻って来る事を思い描きながら、その光景を脳裏に焼き付ける。慶賀の後に訪ねるこの地は、少しでも変化を遂げているだろうか。
思いを胸に秘めつつ、
江寧は手元に握り締めていた手綱を振るう。この時を待ち遠しく思い詰めていたかの如く、緋頼は体躯を空へと伸ばす。空虚を力強く蹴って、上空に吹き荒れる突風を切り裂く。
遠景となりつつある凌雲山を背に、彼女は青海へと向けて駆け去っていった。
-浅黄の橋-完