- 九章 -
―――砂沢の事故死。
それは
巴にとって予想外の事態であった。
砂沢はアパート前に待ち構えていた取材陣に注意を投げ掛けていた。その最中、突如暴走した車が運悪くも取材陣の群れに突撃し、その事故に巻き込まれ亡くなったのだという。
状況を聞き届けた少女は呆然とする。次いで酷く歪んだ顔が悲嘆の影を浮かばせた。関わるなという忠告を受け入れてはくれなかったのだ。……彼は、危害を加えてなどいないのに、何故。
巴は下唇を噛み締め、顔を俯かせる。要は彼女を心配するように傍らに添う。
直接糾弾する者は居なかったが、周囲では彼女もまた祟るのではないかという噂が密やかに囁かれていた。
夕刻、要や広瀬とは別方向へ別れた
巴は、海岸へと向かっていた。
乗車したバスに揺られつつ暫し遠景を眺め、海岸沿いのバス停で下車をする。階段を上り、防波堤に添い少しばかり歩いたところで、石造りの防波堤を背に座り込む。周囲に人影はなく、ただ一人漠然と海を眺めていた。
波の砕ける音が響く。
波音のみを一心に聞き続けて日没を待つ。今は何も考えたくないが為に耳を傾けていたそれは、一時間が経過した頃には崩壊への音色にしか聞こえなくなっていた。
声一つ上げず、
巴はただただ頬に伝う温かさを袖で拭い取る。自身の所為で他人を巻き込んでしまった事がひたすらに悲しい。返してと叫ぶ伯母の悲痛な声が頭から離れずにいる。
―――こんなにも、無力なのに。
無力であるのに、要を守ろうとして。広瀬の方がよほど要を守っているというのに。
彼女の胸中には沈痛な思いが渦巻く。彼を守ろうと直走った
巴の一年半は呆気なく駆け抜けて、今さら心が折れようとしている。波の音が屈折に拍車を掛けて、思わず両耳を塞いだ。
ようやく日没を終え、じきに夜陰が下りようとしている。少女の目前に遥か広がる海景は蒼穹を濃くして濡羽色となり、周囲の明かりは上空に微睡む月ただ一つ。
巴は泣き腫らした眼で月を見上げ、途端砂浜より這い出た影にぎょっとして視線を下ろす。
犬であったが、
巴を捉える眼はただ一つ。それがこちらの生物ではない事を示し、途端犬が少女に向かい口を開いた。
「き、を知らないか」
「……知っています」
喋った犬に、
巴は何の違和感を抱く事もなく頭を縦に振る。少女の返答を聞くや否や、今しがた這い出た場所へ再び身を潜らせる。それが遁甲である事を悟って、その場を一歩も動かずに来る指令の主を待つ。
やがて駆けて来た足音は小走りで、防波堤へ上った金髪は遠景でも十分に目立つようだった。
巴は座り込んだままそちらへ大きく手を振ると、光が駆け寄ってくる。
それは、いつぞやの夜に遭遇した事のある極国の麟。
「廉台輔―――」
「慶国飛仙の者ですね。またお会いできて嬉しゅうございます」
「ええ……」
微かに笑みを湛える廉麟に対し、
巴はただひたすらに頷く。少女の様子に頭を傾げた廉麟はその場に身を屈めようとして、途端鼻を掠めた血臭に身体が硬直する。
巴は硬直の正体に気付くなり、数歩麒麟との距離を置いた。
「申し訳ございません……!」
「いえ……何かあったのですか?」
気付けば、彼女に纏わり着くものは血臭だけではなかった。
巴に対する怨詛―――それが集い、さらに近付き難くなる。以前はここまで酷くはなかったと、かつての遭遇時を思い起こす。
廉麟は少女の腫れた眼元に視線を向けながら、事情を問う。問われた方は一旦僅かに視線を外して思い悩む事暫し。それから、重い口を開いた。周囲による泰麒の迫害行動、怨詛の声、指令の暴走、血の穢れ―――それらを全て聞き届けた頃には、廉麟の顔色は青白く変色していた。
「迎えはいつですか……明日ですか、それとも明後日ですか」
「一刻も早く準備を―――」
「泰台輔にはもう時間が無いんです。彼だけでも……要だけでも助けて下さい!」
その場に深く叩頭した
巴は、必死に至急を訴えかける。廉麟の顔は驚きの色を浮かべていた。
……無関係の人が巻き込まれていく様は、どうしても胸内に悲痛を覚える。これ以上の犠牲者は出てほしくないと願う度、それを嘲笑するかの如く怪我人や死人が続出する。特にこの数日間、
巴には現に居ながらさも地獄を見ているようだった。
原因を止めようとて、彼は術どころか指令自体を覚えていない。指令と会話をする事も困難だった。
故に、“祟り”を止める事は、途轍もなく遠い事のように思える。それならば、ただ彼女は迎えを待つ事しか出来ない。
「どうか……」
吐き出した言葉は重く。首肯の意を聞き届けるまで、
巴は頭を上げずにいる。廉麟は悲しげな表情を浮かべたまま首肯して、
巴に諒承の意を優しく告げる。
垂れた頭の下から洩れた安堵の息は、砕ける波の音に掻き消されていった。
◇ ◆ ◇
翌日、
巴はバスの始発時間までじっと海を眺めていた。バス停前に置かれたベンチに腰掛けたまま、海景に視線を彷徨させる。……昨夜の廉麟との再会は、まるで夢のように思えた。
いざやってきたバスには運転手以外の人影は見当たらず、暫くの間はただ一人、最後部で揺られながら過ぎ行く景色を眺める。見覚えのある街並みに気付いた頃になって、
巴は窓際に光るボタンを押し込む。その際車内を一望して、いつの間にか乗客が数人乗っていた事に気が付く。
一睡もしなければ頭が働かないのも当然だと、
巴は思わず苦笑を洩らした。
バスを下りると、鞄を抱え直した
巴は足早に歩き出す。溜まりきった疲労を落とす為に向かうは、近場のカプセルホテル。店を辞め出てきた少女の主な寝床となり、近日連続で足を運んでいる。
受付に立つ店員は三日目で訝しく思ったが、金銭の払いはしっかりとしているので何も口を挟むことはなかった。珍しくも朝方にやってきた客を店員は眺めつつ、金銭を受け取った代わりに鍵を差し出す。
巴はそれを左手で受け取って、見慣れた廊下を歩き出した。
部屋は一人分が寝るには十分な広さが確保されている。ホテルと名が付くだけに扉には鍵が掛けられ、仮眠の最中に侵入する者も居らず安心して睡眠を貪る事が出来た。
巴は荷を部屋の奥へ押しやって、自らも入ると扉を閉める。鍵を掛けると扉に着けられたカーテンを閉めて、ようやくベッドに身を横たわらせる。
「疲れた……」
心身は共に疲労困憊。どっと押し寄せる疲れと睡魔に、
巴はゆっくりと瞼を伏せた。意識が混濁の渦に巻き込まれていく。
起きたら身形を整えて広瀬の家へ向かおうと考えながら、睡魔に負けた意識は深遠へ落ちていった。
―――誰かの声が聞こえる。
浮上しかけた意識と共に、聴覚はぼんやりとだが声を聞き取る。それが硝子扉越しではない事に気が付くや否や、
巴の意識は一瞬にして覚醒を遂げた。
《 いつまで寝ておられるつもりですか 》
聞こえるは耳元―――廉麟が
巴に目印として着けた指令の声。姿なき声の正体を思い出した
巴は苦笑しつつも半身を起こす。備え付けのデジタル時計に目を向けると、夕刻が迫りつつある時刻。それを確認して、ようやく睡眠の摂り過ぎに気が付く。鍵と着替えを鞄から取り出すと、指令には暫く此処で待つようにと告げて部屋を出る。鍵を閉めて、そそくさとシャワー室へ向かった。
一時間も経たずに部屋へ戻り、
巴は鞄へ荷を詰め終えると財布の中身を覗く。あと数日泊まるには十分な金銭である事を確認すると、外出の準備を始める。
「泰台輔の所へ向かいます」
《 分かりました 》
指令の返答を確認し、鞄を肩に提げると開かれた扉を閉めて鍵を掛ける。キーを鞄にしまい込んで、出口への廊下を歩き出した。
ホテルから広瀬の住むアパートまでは大凡徒歩二十分程度。自転車があれば所要時間は半減されるが、半ば放置の上に盗難に遭ったので手元にはない。人影のない道では時折指令と会話をしつつ、徒歩二十分はあっと言う間に過ぎていく。
ようやく辿り着いた建物前はしかし、以前よりも明らかに増えた多くの報道取材陣に包囲されていた。
一先ずアパートの様子を眺めようと野次馬の中に加わろうとして、途端
巴の足は地に貼り付けられたように動かなくなる。自らの力で持ち上げる事も出来ず、足元に下ろした視界は濃厚な影を捉えた。
―――押さえられている。
考えは脳裏に過ぎり、途端胸内よりの声を聞く。
《 それ以上近付いてはなりません 》
緊迫を含む口調に内心首を捻り、何故と問う。指令はやや間を置いて口を開いた。
《 饕餮がおります 》
―――あれは泰台輔の指令ですが。
《最早指令と呼べるものではない……我らは、これ以上近付くことが出来ません》
お許しを、と小さな侘びを最後に、胸内の声が途絶えた。
足元の影は周囲と区別がつかない程に薄くなり、指令が身を後方へ退いたのだと分かる。
巴は深い溜息を落として、再度アパートを見上げる。二階の奥に位置するために、この立ち位置からでは見えない。
一度諦め、せめて連絡だけでもと近場の公衆電話を探そうとして、アパートから視線を逸らしたその刹那。
シャッターの落ちる音を左側より聞いて、
巴は目を見開き音のした方向へと振り返る。さらにもう一度同音が響き、フラッシュに目を焼かれる。視界が点滅して、巧く機能しない。
思わず目を掌で覆いながら屈み込むと、
巴の頭上より声が掛けられた。
「葬式の時に高里君の隣に居た子だよね?ちょっと話を聞かせてくれないかな」
一人の記者の言葉によって、群がっていた野次馬がさっと割れる。少女の周囲に空間が生まれて、そこへ記者が飛び込んだ。さらに男の声を聞きつけてやって来た他社の記者がマイクを向ける。
「先日の山門の事件も、やはり彼の仕業と思いますか?」
「高里君はあの事件について何か話したんでしょう?」
「これまでの祟りについては―――」
記者がさらに増えて、質問が蹲った少女に遠慮なく集中する。他者の言葉と重なり合い聞き取る事さえ出来ない
巴は、その体勢のまま視界の回復を待つ。胸内からここは一度退くべきだという忠告のみを受け取って、首肯の意を彼に伝えた。
「だんまり決め込んでないで何か一言って下さいよ」
記者の言葉は次第に苛立ちを露呈させるようになる。痺れを切らしながら突き出し続けるマイクは微かに震えている。これでは埒が明かないと、一度手元を引いた矢先に少女が動いた。
鞄を抱えたまま、記者の間を強引に通り抜ける。俯きながら駆け出した
巴を目で追って、次第に姿が小さくなる少女の足元へ視線を向ける。獣にも似た頭部が少女の影より顔を出し、まるで様子見のように集う記者の方をじっと見据えていた。
見間違いだと思い込んだ記者は、隣に佇む他社の者の顔を見て息を呑む。
彼もまた何かを発見したように呆然として立ち、真横からの視線に気付いた男はそちらを見やる。影を見たかという問いに、問われた方は言葉もなく一つ頷き返した。
◇ ◆ ◇
明日の午前中に訪ねると広瀬に連絡を入れた
巴は、カプセルホテルの自室に戻ると指令から饕餮の話を聞く。誰もが恐れる化物であると指令は言った。だが、と
巴は思う。饕餮が既に理性を失ったのならば、要にも危害が加えられている筈だと。その様子が無い事から、泰麒の指令は理性崩壊の一歩手前と判断する。彼女は一旦そこで思考を打ち切った。
一度を仮眠したら此処を出ると指令に告げると、返答を受ける前にベッドへ伏臥する。そのまま瞼を伏せて、頷く気配を最後に薄らいだ意識は溶けていった。
翌早朝、午前五時十分前。
自然と目が覚めた
巴は身形を整え、早々にホテルを後にした。
漣国宝重である呉剛環蛇を駆使して蓬莱へ赴いているとの事を廉麟の指令より聞き、さらに今現在は延麒が海岸に居る事を知って急ぎ向かう事となった。
巴の影に隠形していた者には延麒の元に行く旨を伝えるよう頼み遁甲して行かせる。偶然通りかかったタクシーを捕まえ、目的地を海岸沿いへと伝えた。
それから十分後、急ぎと伝えた事もあってか近道を走り海岸沿いへ辿り着いた
巴は、料金を払いタクシーから降りる。堤防を越えた先の風景を一望して、そこにぽつりと見つけた人影に目を凝らす。黒髪の少年だったが、胎殻なのだろうと目を細めて海岸へ下りる。途端、戻ってきた影が少年の正体を答えた。軽く相槌を打って、彼の元に駆け寄る。
「六太!」
「
巴……」
ほっと安堵の息を吐く延麒。少年の隣に立つ堤防の壁面には光を帯びた環が二つの世を繋いでいる。それで、すぐに帰る予定であったのだと
巴は察した。
「迎えは―――」
「早ければ今日の夜、尚隆が来ると思う」
そう、と相槌を打つ
巴を見上げて、延麒は表情を硬くする。随分と見ない間に心なしか痩せたように見えた。激励を掛けようとして、言葉を喉に詰まらせる。……先日見た泰麒の気配では穢瘁が酷い上に病んでいる状態である事を知った。それ程酷いのならば、やはり彼女にも苦労をかけてしまったのだろう。そう思えば、延麒の口から自然と詫びの言葉が零れ落ちる。
「最後まで、ちびを見守ってやってくれ」
「分かった。……もう帰る?」
「ああ、俺たちはこれから泰麒を迎える準備をする。蝕の被害も考えないといけないしな……」
「…、大変だね…」
まあな、と延麒は苦笑を零す。
巴はつられて笑い、次いで口を引き結ぶ。気構えを革めた表情が真摯となって少年を見やる。
「じゃあ、また」
「ああ。またな―――」
途端、呉剛環蛇の内より麒麟が姿を現す。延麒へ手を伸ばし、六太はその手を掴むと他国の麒麟と共に勢い良く環の中へと消えて行った。彼らの姿を見送った後、
巴は踵を返し海岸を後にする。
「……落ち込んでる場合じゃない」
呟かれた言葉は、さも
巴自身に言い聞かせるようだった。
堤防を越えると、先程乗車したタクシーの姿が視界に映る。
巴は目を瞬かせて階段を下りると、外に立っていた運転手が彼女に向かい手を振る。
「帰りも乗って行くんだろう?」
「え?ええ。お願いします」
開かれた後部の扉を潜り席に座ると、運転手もまた車に乗り込み少女に行き先を問いかける。広瀬宅の住所を言いかけて、
巴は口を噤んだ。アパート前が先日同様記者に包囲されていれば、タクシーの運転手へ迷惑が掛かる上に自身も囲まれざるを得ない。故に手前で止めてもらう他になかった。
運転手へ行き先を伝え、車は発進する。流れ行く景色を眺めながら、彼が存在すべき世界の景色を胸中に思う。
アパートから随分と遠い場所にてタクシーを下りると、
巴は料金を支払い終えて鞄を背負い直す。走り去る車を見送った後に、小走りで広瀬宅前へと向かう。あとは記者が少ない事を祈るばかりだった。だが―――彼女を待ち受けていたのは、同じ制服を纏った者達。騒がしくも行き交う警官らの間を通り抜けて、野次馬の少ない隙を見てアパートの階段を駆け上がる。玄関扉に貼られた紙を破り剥がすと、扉を数回叩く。
「広瀬先生、いらっしゃいますか?」
巴は扉に向かい問いかける。途端、内側よりチェーンを外す音が聞こえて、扉が細く開かれた。隙間から顔を覗かせた広瀬は、
巴の姿を確認すると部屋に入るよう促す。指示に従い素早く駆け込んだ少女は、肩に提げていた鞄を玄関に下ろした。
和室からやって来る要の姿に酷く安堵を覚えて、思わず顔を綻ばせる。
「二人とも無事で良かった―――」
「ああ……」
広瀬は少女の表情をまじまじと見詰める。今まではずっと要の事ばかりを心配していたのだと思っていた。だが今は、二人の無事に安堵した様子でいる。……たとえそれが本心でなくとも、自分達には少なくも味方が居るのだと思えば詰め続けていた気が楽になった。
次第に喧騒が酷くなる外を気にしながら、それを覆い隠すかのように目前に座る広瀬と要を交互に眺めつつ他愛ない話をする。少なくとも、話によって緊張続きの二者の肩からは僅かに力が抜けたように見える。
巴はさらに話を続けようとしたところで、扉を乱打される音と罵声の酷化によってさっと緊張の色が戻る。
さらには窓からの投石が始まり、遂に窓硝子を破り石が飛んで来た。
―――無事と安堵している場合ではない。
通路から投げ込まれる石は窓を硝子破片へと変えていく。次々と足元に転がり込む石の中には拳大の物もあり、運悪く頭部に当たれば重傷を負い兼ねない。
耐え兼ねた広瀬は、要をユニットバスの中へと押し込む。次に
巴へ視線を向けたが、彼女は割れた窓硝子に目を据えていた。このままでは危険だと腕を掴み、驚く
巴を強引に引き連れて共に閉じ篭る。罵声と投石が収まるまで、じっと耐え続けていた。
◇ ◆ ◇
周囲がようやく鎮まったのは、昼時を過ぎた頃の事だった。
駆けつけた警察官によって三者は無事保護され、パトカーで警察署へと向かう。広瀬は事情聴取の為に個室へ案内され、要と
巴は廊下に置かれた長椅子に座り聴取が終わるのを待っていた。
巴は何気なく要の様子を窺って、疲労を濃厚に浮かべる顔に顔を顰める。
「疲れた?」
「はい……少しだけ」
首肯する要に、無理もないと哀れに思う。心身ともに受けた弾劾の大きさは計り知れない。まして、本来ならば敬われる仁道の生物。あちらでは、ここまで怨まれる事もない筈なのに。
―――世界の差はこうも違う。
「少し寝た方が良いよ。肩貸すから」
「でも……」
「良いから寝ておきなさい」
「―――はい」
巴に強く促され、要は諒承する。僅かに緊張が解けて、控えめに隣へと寄り掛かる。常に相手の事を考える彼はまだ、麒麟の性を失ってはいない。そう考える
巴の聴覚には、大した間も経たずして微かな寝息が聞こえてくる。彼を起こさないようにと、
巴もまた瞼を伏せてじっと動かなくなった。
広瀬が聴取を終えて戻ってきた頃には、寄り添うようにして二人の眠る姿が廊下の長椅子にあった。
巴がふと目を覚まして瞼を持ち上げると、目前に佇む男性の姿が視界に映る。それが以前に会った後藤である事を思い出すと、軽く目を見開かせる。……何故、此処に居るのだろう。
彼女が口を開くその前に、ようやく一人の起床に気が付いた後藤がおう、と声を上げる。広瀬ともう一人の教師もまた視線を下ろして
巴を見やる。三者からの注目を受けて、思わず困惑の色を貌に露呈させた。
「あの……」
「十時先生、三人になっても迷惑ではありませんか?」
「ええ、構いません。大丈夫ですよ」
広瀬と、彼の呼んだ十時という人物を交互に見やって、僅かに頭を傾げる。未だ事情の呑み込めていない
巴の様子に、後藤が事情を軽く説明した。驚きつつ話を聞き終えた
巴は、十時に向かい頭を下げて礼を告げると彼は軽く頭を横に振るだけだった。
その後さらに目を覚ました要に事情が説明され、彼がとった
巴と同様の行動に十時は笑う。まるで兄弟のようだと告げると、二者は呆然として顔を見合わせていた。
十時の車で隠れ先のマンションへ向かい、彼は部屋へ到着すると一通りの説明を終えてそそくさと部屋を出て行く。三者は一礼を以って見送り、ようやく極度の緊張から解放された。
窓を開けると、潮の香りが広瀬の鼻を掠める。潮風が堤防を越えてゆるりと流れ込み、窓脇のカーテンを揺らす。午前の糾弾が嘘のように思えて、唐突にぽつりと呟かれた要の言葉に
巴は彼を見た。
「ぼくは、何者なんでしょうか」
そう告げた要は、どこか不安げに瞳を揺るがせる。この世にいる自身の存在感に疑問を抱き悩む―――足場が確立していないが故に心も揺らぐ。そんな彼を間近に眺めて、
巴は僅かに悲しげな顔をする。
「どうして呼ばれたんでしょう」
高里、と静かに呼ぶ広瀬の声。口を閉ざす事のないまま問いは続けられた。
「ぼくはそもそも、どちら側の人間なんでしょうか?」
「こちらの人間に決まっている」
「……そうでしょうか」
静かに目を伏せ、静寂漂う部屋の中で要はこれまでの事を思い返しては胸を痛める。多くの人が亡くなってしまった。悲痛を胸に留めたとしても、彼らは決して帰っては来ないというのに。
「せめて、帰る道を思い出せたら……」
ゆっくりと瞼を開いた要の視界に、
巴の姿が映る。……そういえばと、要は先日の件を思い出した。葬儀の際、彼女は話があると言ってはいなかっただろうか―――?
窓枠に切り取られた遠景を眺める少女の姿に目を細めて、途端広瀬の声が耳へ届く。
「夜になったら、食事ついでに散歩にでも行くか」
「ええ。要も行くよね?」
「はい」
遠景から視線を外した
巴は、広瀬を見た後に要へと視線を向ける。笑みを湛える彼女の姿を眺め、要は先日の件について問う機会を逃してしまった。
夜陰が下りた事を確認して、三者はようやく外へと赴く。夕食を摂り終えると、その後僅かに足を延ばして海岸へと出かけた。
暗色に染まった海景を眺めながら、汀に沿いゆっくりと歩く。月は枝のように細くも照らされ、寥々とした印象を与えながらも空に存在を示す。月は自ら輝いていないのだと知った際の淋しさを、
巴は思い出していた。
海を前にして潮の香りは強くなる。打ち寄せる波は足先を掠めて、そぞろとその身を退いていく。強弱のある波をじっと見詰めて、要は砂浜を踏み締めて立ち止まる。不意に背後で足音が止んだ事に首を捻った
巴は彼を振り返った。広瀬もまた背後へ視線をやって、要が真摯として彼女を見据えているのが分かる。
「
巴さん―――教えて下さい」
「要……?」
「あなたは一体何を隠しているんですか」
息をごくりと呑んだのは、広瀬と
巴どちらだったか。広瀬は突然の問いと普段見る事のない覇気に驚きを露として、
巴はこの機会に何度目かの問いを受けた事に目を軽く見開かせていた。
要、と宥めるようにして呼びかける。彼は応えようとしなかった。
暫し躊躇い、やがて区切りを着けるかのように長く溜息を吐く。初めて見る頑なな態度が
巴の胸を打つ。
三者の間に沈黙が漂い始めた頃になって、彼女は意を決し口を開いた。
「……私は、あなたが忘れてしまった一年間の記憶を聞き及んでいます」
「え……?」
要は目を瞬かせる。同時、心底ではやはりと納得する自身がいる事に気が付いた。彼女は自分の事を知っている……それは、以前から感じていた事だった。彼女の消えた四年間と自身が消えた一年間―――恐らく、行ってしまった場所は同様なのだろう。そう考え、眼光を強めて
巴を見やる。
二者の間に立つ広瀬は不意にやめろ、と声を上げかけて咄嗟に口を噤む。……止める必要が何処にあると言うのだろう。何故止めかけたのかは、広瀬自身でさえも分からなかった。
「教えて下さい、ぼくは一体―――」
「倭国にて身分を隠しざるを得なかった事をお詫び申し上げます―――泰台輔」
不意に
巴の片膝が砂上に着かれる。左拳を右手で包み込み、それをゆっくりと目前に掲げる。
その仕草に、要は誰かの面影を重ね見た。決しては似ていない、けれど同じ動作―――そう、確かにあの時は白灰髪の。
甦りかけた記憶はそこでふいと途切れ、惜しく思う要に静かな声が掛けられる。彼女は冷静を装いつつ、丁寧な口調で言葉を紡ぎだした。
「
私は慶国尭天山金波宮が主、慶主景王赤子より飛仙を拝命承りました者に御座います。この度、雁国は延王並びに延台輔より命をいただき、戴国泰台輔の捜索及び保護を務めんとする為倭国へ馳せ参じた次第に御座います」
「泰……台、輔」
長々とした台詞を聞き届けた要と広瀬は呆然とする。要は言葉を聞き取り顔を歪めたが、広瀬は意味が理解できずに首を傾げる。どういう事かと説明を求めたところで、頬を撫ぜる風によって言葉が閉ざされる。
風に運ばれた潮の香りが、濃くなった。
◇ ◆ ◇
気が付けば、いつの間にか広瀬の背後に小柄の女性が佇んでいた。要に向かい、タイキ、と
巴同様の発音で呼び掛ける。次いで女性の口元が弧を描き、安堵の情を浮かべていた。
だが、それを怪しく思う広瀬は要の腕を掴み引き寄せる。引かれた方は僅かに蹈鞴を踏んで、困惑した表情のまま広瀬の顔を覗き込む。
「あんたは何者なんだ」
「廉麟と申します。それ以上は申し上げられません」
廉麟はゆるりと首を横へ振る。ふと真横に佇む
巴に視線を向けると、一切口を開く事なくひとつ首肯を見せるのみ。単純な反応だったが、それによって彼の状態を知る事が出来た。僅かに息を吐き出した廉麟は、再び要を背にする広瀬へと話しかける。
「延王がお出ましになります。王がお渡りになるからには大きな水害になります。あなたはどうか、彼らを置いて少しでも高いところに逃げてください」
「ふざけたことを」
「泰麒は角を失くしたので仕方ないのです。さあ―――」
広瀬、その背後に立つ要に向けて廉麟は手を伸ばす。それによって数歩ばかり下がった男性の姿に悲しげな顔をして、背を向けた彼女の姿が豹変する。形が歪み縮んでいくように見えて、別のものへと豹変していく。その様子に目を見張るばかりの広瀬は、目前に悠然と立つ生物に呆然とした。雌黄の毛並みを持つ、鹿にも似た獣。途端に宙へと駆け上がり夜空に燐光の線を描く。
仰ぎ見ていた三者の中から、途端ぽつりと声が上がる。
「―――思い出した」
広瀬と
巴は声のした方角を見る。彼は、無意識に口元に笑みを湛えていた。
「どうして忘れていたんだろう……決して、お傍を離れないと誓ったのに」
汀へゆっくりと近付く要の姿を、
巴は静かに見守る。広瀬は驚きのまま要を目で追って、恐る恐るとその名を呼ぶ。
呼ばれた方はくるりと振り返る。強く浮かべた眼光には決意の色が含まれていた。
「ぼくは、戻らなければならない」
「待て、一体何を思い出したんだ」
広瀬は慌てたように要の肩を掴む。訳も無く焦燥に駆られて、掴んだ肩を軽く揺さぶる。それでも、彼の決意が薄れる様子は見られなかった。
ゆるりと頭を振って広瀬から離れた要は、未だ微かな笑みが含まれている。
「ぼくは―――人ではない」
「……何を言い出す」
「麒麟なんです。泰王の、麒―――」
「お前は人の姿をしているじゃないか。両親だってちゃんと人間だった……!」
「ぼくは胎果です。恐らく、彼女も」
「なに……?」
彼女、と彼が向けた視線はやや離れた場所に佇む
巴の姿。タイカ、と理解不能の単語を聞き顔を顰めながらも広瀬が
巴へ顔を向けると、彼女は冷静を装ったまま突如口を開いた。
「本来はあちらで生まれる筈が、誤ってこちらの人の腹に宿った者を胎果、と」
「ありえない」
否定の意を示す広瀬は必死だった。唯一の同胞を失いたくないが故の否定とは考えたくなかった。……それが、醜い感情である事を広瀬は知っていた。
巴から視線を外すと、目前の同胞を見据える。空に弧を描く燐光が視界の端に映り込んで、思いついたように言葉を口にする。
「麒麟だと言うのなら、お前も化けてみせてくれ」
「角を失ってしまったので出来ません。だから、自力で帰ることも出来なかった」
「帰る―――?」
「戻らなければなりません。戻って、王をお助けしないと。ぼくは記憶を失くしたために恐ろしいほど時間を無駄にしました」
真摯とした少年の声に思わず口を噤む。……彼が一年間を思い出せたらと、広瀬の望んだ結果が今に至る。それは喜ばしい筈であるのに、広瀬の胸中には負の情が渦巻き始めていた。
刹那、背後から砂を踏み締める足音が二人の元に近付いてくる。
「部屋にお戻り下さい。延王が迎えに来られます」
先程までの口調とはどこか違った少女に、広瀬の顔は自然と顰められる。淡々と告げる
巴にどこか苛立ちを覚えながらも睨めつけるように視線を合わせた。それで怯む事のない相手であると知っていても、彼はそうせずにはいられない。
―――彼女は、この世界でも上手くやっていた筈だ。決して、存在不適合者などには見えなかった。……だというのに。
「お前も“帰る”のか……」
「帰ります。元々私は、泰麒をお守りする為に蓬莱へ渡って来たのだから」
巴の言葉からは、迷いの情を微塵も感じ取る事さえ出来なかった。……彼らの決意は、揺らぐ様子がない。
自分達の帰るべき場所。帰還を果たそうとする思いを胸に抱いて、不意に頭上から降りた女性の声に面を頭上へと向ける。
「迎えの刻が来ました―――津波はもう、止められません」
焦燥を含ませた声音。恐らくは延王が呉剛の門を開いたのだろう。そう思いつつ、
巴は夜陰の下りた海景へと視線を走らせる。遥か遠く、闇と同化した水平線に、ぽつりと小さな光が浮かぶ。細波が数を増すと、次第に波が騒ぎ立つ。緩やかに逆流を始める波は一気に膨れ上がると、水は何重にも円形を模っていく。
異様な光景に目を凝らす広瀬に、
巴は声を掛けた。
「早く、少しでも高い所に逃げて下さい」
「……お前たちは、この世界に未練は無いのか!?」
「戻らなければなりません。ここにはもう、ぼくの居場所はない」
要の口調は落ち着きを保っている。すぐ傍らには
巴が並び、廉麟の姿を仰ぎ見続けている。二者の姿を見比べながら、途端吹き荒ぶ風に広瀬の身体が煽られた。数歩よろめいて下がると、遠景の海上に浮上した渦の幅が広まる様子を垣間見た。……いよいよ、彼らは帰還を果たそうとしている。
「―――どうしてお前たちだけなんだ」
「……先生」
「おれは帰れない……なのに俺を置いてお前たちだけが戻るのか――!!」
暴風の中、広瀬は要の腕を掴む。汚いエゴだと分かっていた。それでも、止めようと手を伸ばさずにはいられなかった。
要は悲嘆の溜息を落として、瞼を伏せる。
「あなたは人間なのです―――こちらで生きなければならない」
「彼女はどうなんだ!彼女だって人間だろう……!!」
「私は仙です」
唐突な告白。その言葉に広瀬は視線を逸らして
巴を見やる。髪色を除いて何の変哲もない少女。だが―――彼女は、確かにセンと告げた。文字は仙人としか思い浮かべる事が出来ない。
「仙は不老長寿……首か胴を刎ねられなければ永遠の時を生きられる。それは、人の枠から外れてしまっている」
―――仙人になりたくて、憧れていた。
いつだったか、彼にはそう話した事があった。そう思い起こしながら、憧れていたものに目前の少女が為っていた事実に呆然とした。だが、広瀬がなりたかった仙とは事情がかけ離れている。少なくとも、仙人になった事が喜ばしいようにはとても見えなかった。
広瀬は思わず顔を顰めると、ふと要の視線に気が付いた。直視に含まれたものが、別れを告げている。彼が必死になって僅かに見出したのは、惜別の念。読み取った広瀬の手は、自然と腕を離れていく。
「行って下さい。ここが、あなたの生きる場所なのだから」
「高里―――」
「……さあ、早く高い場所へ」
要と
巴に押し出されて、浜辺を堤防へ向けて数歩進む。のろのろと歩き、一度だけ振り返った広瀬は、背後で深々と頭を下げる要と山に向かい指を差す
巴の姿を目にする。彼女の方は暴風の中にも関わらず、繰り返し叫びを上げていた。
―――山へ、早く。
彼女の口から言葉を読み取って、ああ、と広瀬は思う。彼女は、最初から広瀬の身も案じていた。要さえ無事であれば良いなどと思ってはいなかった。
別れ時にようやく知った情と彼らとの別れを惜しく思いながら、広瀬は駆け出した。
―――決して、一度も振り返ることなく。
彼の姿が見えなくなるまで、二人は背を見送り続けた。それから惜別の情をもって夜景を眺め、要はふと海上に渦巻く光の元へ視線を向ける。暴風にも関わらず、海鳴りにも似た音が聞こえる。まるで浸透するように脳へと届き、
巴はふと浮上した光に目を凝らした。
上空を飛行する影は三つ。それらをじっと眺めつつ、先頭を切る影が降下を始める。二者の頭上へと下りつつあった。
次第に近付くにつれ、その背に騎乗する者が居る事を察する。
巴は、迎えだと要に小さく告げる。要は無言で首肯しながら、その時を待つ。
やがて、彼らが手を伸ばせば届く場所にまで降下した妖魔――指令、その背に乗る人物が少年に向かい問うた。
「―――泰麒か」
問われた方は、男の言葉を聞き入れ目を見開く。
巴は大国の王の殻を目にして、目を細める。男もまた初見の二者の顔を見やって、改めて問いを投げかけた。
「泰麒、と言って分かるか」
これには、要が一つ首肯を見せる。その様子を確認して、彼の額にひたりと指を添えた。はっきりとした口調で少年に告げる。
「―――延王の権をもって太師に叙す」
言うや否や、男は要の腕を掴み指令の背へと引き上げる。無事に乗り終えた要の姿を確認して、男は砂浜へと降り立つ。彼は利き手で指令の背を一つ叩いた。
「悧角、行け!」
指令は要を騎乗させたまま身を反転させ、開かれたままの呉剛の門へと急ぎ駆け始める。駆け出しを確認して、すぐに視線を外すと一人残された少女を見詰めた。男はすぐに
巴の元へと近付く。
「
巴」
「―――延王君で御座いますか」
確認するように問う少女の言葉に、一つ頷く。それから傍らに連れてきた他国の麒麟から借り受けた指令の名を呼ぶ。
「貂燕、」
《 御意 》
獅子の姿をした妖魔は降り立たずも体勢を低くする。延の手を借りて指令の背へと騎乗した
巴は焦茶色の毛並みをしっかりと掴む。それを合図に、指令は上空へと駆け上がった。
呉剛の門へと向かい駆ける指令の横に延を乗せた班渠が並ぶ。それを確認して、
巴は最後に一度だけ背後を振り返り見る。
―――最後に見た景色は、降り出した雨によって霞む都会の街並み。その景色が次第に蜃気楼の如く掻き消えていくようで、伏せた瞼の裏にぼやける直前の姿を鮮明として浮かべ、脳裏に焼き付け続けていた。