- 弐章 -
恭国の首都州に聳え立つは連檣山。
その山頂に構えられた王宮、霜楓宮の内宮にてひとつの動きがあった。
一人の女御が仕事を終えて、主上の元より身を引く。主殿を退出したその先に、一人の初老が佇んでいる。
「青稟」
「内宰……何か御用でしょうか」
青稟と呼ばれた女御は、一礼をして顔を上げる。齢は二十の前半だが、その歳にしてはやや落ち着いた雰囲気を纏う。周囲への気の遣いによって、同僚や内宰からも信頼を寄せられていた。
変わりない女御の様子に内宰はひとつ頷くと、刻まれた眉間の皺が僅かに深くなった。
「先月の蝕で、久方振りに海客が来てな。お前に海客の世話を頼もうと思うのだが」
「海客の者が、こちらに?」
軽く眼を見開いた青稟に、初老の男は首を振った。その様子に彼女は首を捻る。
それはどういう事かと質疑を口に出そうとした青稟を前に、内宰は渋々とその口を開いた。
「本人たっての希望で、住まいは里家になった。小学へ行き、言葉を習うそうだ」
「まさか――――」
「そのまさかだ。里家には仙籍に入っている者などおらん。悪いが、やってくれるか」
女御は呆然としたまま、内宰の顔を見上げた。
仕事は昼前までだという話を加えられ、続けて説得を受ける青稟は顔を俯かせる。
結局、内宰の命を跳ね除ける訳にはいかず、渋々とだがそれを引き受けてしまった。
――
巴が出て行ったのは、やっぱり私達が悪かったんじゃないかしら
嗚呼、これは酷い夢だ
――……喧嘩ばかりしていたからな、当然かもしれん
なんだって、
―――ねぇ、お姉ちゃん帰って来ないの?
私がいなくなってから、こんな―――
榻の軋む音で、意識が浮上する。横たわらせていた身体に妙な力が入って、再び軋みの音が室内に響いた。
見仰げば木の色ばかりの天井が嫌でも視界に入る。それを何とか逸らそうとして、頭ごと横に落とす。ぶれて入った新しい視界には、静かに寝息を立てて眠る幼き子供の姿。
その様子に、
巴はゆっくりと安堵の息を吐いた。
彼女が恭国へと漂着して一月。
その期間を大凡里家で過ごし、置かれた環境になかなか馴染む事が出来ず、苦悩の時を送っていた。
中でも、言葉は最大の障害となる。幼い子供でさえ話す言語も聞き取る事が出来ず、日々僅かに覚えた単語と身振り手振りのみで会話をやり過ごしていた。
それでもまだ、
巴にとって苦悩は続く。
その一つが―――夢の存在。
鮮明に映し出されるその夢は、
巴の心情を容赦なく荒らす。胸を掻き毟るような思いのまま醒めた意識は、それ以上の安眠を許さない。睡魔は遠ざかるままで、眠れない日々が続いた時も幾日あった。
そればかりは、他人が手を出せるものではない。故に、苦は刻々と深くなっていく。
里家に簡易の臥牀は残っておらず、仕方なく榻を二つ繋げた上で寝ていた
巴は、その寝心地に耐えられない事もあってか自然と早起きになってしまった。
榻をなるべく静かに片付け、厨房へと足を向ける。榻の上で静かに時を過ごす事は、夢で起きた映像が不意に甦るようで怖かったのかもしれない。
井戸から水を引き上げると、桶に移し変えてそそくさと厨房へ戻る。手前に置かれた甕の中へと水を注ぎ足して、
巴の一日はようやく始まりを告げた。
厨房に置かれた食材で朝餉を拵え用意を済ませると、箒を手に取り庭へ駆け下りる。そのまま庭掃除を始め、それは里家の子供が皆起きるまで続けられた。
大分掃き終えたところで、軽い足音が
巴の元にやってくる。
顔を上げたその先には、見慣れた少年が彼女を見上げていた。
「おはよう」
「うん、おはよう」
少年は挨拶の声をかけ、
巴もようやく覚え慣れたばかりの挨拶を口にする。
それに満足したのか、少年は厨房へ向けて駆けていく。
後姿を見送って、掃き集めたものを片付けながら不意に思う。
せめて、軽い会話だけでも出来ればいいのに、と。
◇ ◆ ◇
里家に訪問客があったのは、その日の夕刻時の事だった。
物を指差しては、その名を繰り返し
巴に伝える少女達。
巴がひとつ覚える毎に指を差す対象は変わっていく。それが
巴にとっての勉強の一つであり、少女達にとっての遊びとなっていた。
一人の少女が、物を探して庭へと降りる。
陽の傾く寒空の下、視線を巡らせたその先にふと、空から降下してくる騎獣が目に入る。それが里家の門前へ降りてきた事に目を丸くした少女は、遊びの最中に関わらず慌てて駆け戻った。
「お客さんだよ!騎獣に乗ってたの!」
少女の声に顔を上げた閭胥が、おやと声を零す。
「一体どなた様かね……」
ゆっくりと榻から立ち上がり、客人を迎えるために門へと向かって歩き出す。その様子に何も言わずただ見守っていた
巴は、僅かに首を傾げる。客という単語が入っていたのは理解できた。だが、その後に一体何と言ったのだろうか。
榻に腰掛けながら考える
巴。
だが、すぐにその答えは帰って来た。
「
巴、お客さんだよ」
「ん……?」
名と再び聞いた単語に、思考を一旦中断させる。見れば、閭胥と共に行った筈の少女が戻ってきていた。その背後には、恐らく客人であろう人物が、
巴の前へと歩み寄ってくる。一歩踏み出す毎に揺れる艶やかな褐返色の髪に、
巴は思わず目を見張った。
「貴方が
清坂 巴さんですか?」
「……はぁ…」
更に目を見開いた
巴の顔を覗き込んで、女性は名を尋ねた。それにこくりと頷いた
巴の表情は未だ固まったまま。
自分を訪ねてきた者の言語が、まさか日本語で来るとは思わなかったのだろう。
巴は頭部を殴られたような衝撃を受けている。
「仙籍に入っているので、言葉は不自由しないのですよ」
「センセキ……?」
ええ、と頷く女性を目の前に、呆然とした表情のまま知識を掘り起こす。
……はて、センセキとは何であったか。
「王宮の方でしょうか」
「内宮に務めております、名は青稟と」
「青稟、さん?」
「はい」
ぎこちない呼び方にも青稟は応えた。
国府での用事はあと半月後の筈だ、ならば何故此処へ来たのだろう―――
戸惑う
巴とは正反対に、青稟は青碧の眼を細めて思う。こんな若い者が、果たして国の役に立つのだろうかと。
「通訳者として参りました」
「通訳者―――」
一礼する青稟を前に、
巴も慌ててそれに倣う。最後に日本語で話した記憶は一月と少し前だった事に気が付いて、同時に懐かしさが込み上げてくる。通訳者としてと目前の女性は言った。だが、それとは別の思いが胸に涌き上がる。それを果たして口にして良いかと言われると、どうしようもないのだが。
逸らした視線を再び合わせ、恐る恐る口を開いた。
「非礼だとは思うのですが、貴方様にお願いがございます」
「何ですか……?」
「言葉を、教えてはいただけないでしょうか」
その言葉に驚いたのは、青稟だった。
真直ぐに見上げてくる海客を前にして、数度瞬きを繰り返す。この国に馴染もうとしている少女の意気に、些か偏見の枠内で見ていた青稟は少しばかりその枠を外し見ようかと考えた。家に帰りたい、私も仙籍に入れてほしいなどと言うのなら、潔く見限り出て行こうかと思っていたのに。
互いの間に訪れたのは、暫しの沈黙。
やはり駄目なのだろうかという思いが
巴の胸内に過ぎる中で、口を閉ざしていた青稟がようやく言葉を発した。
「通訳は昼前までですから、その間に習いたい事があればお聞きなさい」
その言葉に、
巴は勢い良く顔を上げる。
つまりは……習いたいものがあるのなら、自分から進んで来るようにと。そういう事だろうか。
「ありがとうございます!」
頭を下げた
巴に、青稟は僅かな苦笑を零していた。
◇ ◆ ◇
「青稟さん、敬語は止めていただけますか?」
「あら、駄目ですか?」
「いえ、そういう事では……」
里家の門まで見送りをするため、青稟と共に着いて来た
巴は口を篭らせる。年上であるにも関わらず、敬語を使われる事は
巴にとってむず痒くなるものだった。それを知る由もない青稟は首を捻ったが、一応承諾の意を出す。頷いた女性の姿に、
巴はほっと安堵の息を落とした。
「だったら、貴女も止めなさい」
「ー……ええと」
「面倒だから、呼び捨てでいいわ。ね?」
―――目は口ほどにものを言う。
敬語で畏まる姿が本来の青稟だという事はまず無かったし、それでも鼻を高くしている訳ではない事は分かった。
だが、面倒だからと全てを取り払う大雑把さがあるなどと思ってもみなかった
巴は、些か複雑な心境下に置かれていた。
苦笑を零しながら、その意に応え頷く。
「分かった、青稟」
門を潜ったその先に、武装をした兵一人と、騎獣一頭が青稟を待っていた。
続いて門より出てきた
巴は、騎獣の姿を認めると表情が固まる。目前にいたのは天馬であったが、未だに見慣れない獣の姿に近寄ることが出来ないでいる。
「また明日ね、
巴」
「うん」
二人を乗せ、悠々と空へ駆け上がる姿を地上から見送る。陽は既に落ち、周囲には常闇が落ちていた。そのために、小さくなるその姿を最後まで見守る事は出来なかったが。
一歩を踏み出すような期待感。
彼女はその感覚を、一晩噛み締めていた。