<div align="center">- 八章 -</div> 自転車もそのままに鞄一つ抱えてパトカーに乗り込んだ
巴は、砂沢と共に警察署へと向かう。要が事情聴取を受けるために署へ来る事を知って、先回りをしていた。
だが―――いざ到着した要に、
巴は声を掛ける事が出来なかった。
衝撃のあまりに呆然としたままの彼に掛ける言葉を探したところで、見つからなかったのである。
その後、
巴の強い希望により遺族の解剖に立ち会える事になった。砂沢は何度も止めるように説得をする。あれは決して好奇心で見てはならないものである、と。
だが結局、大学の法医学教授にそれを告げると渋々とだが諒承を受ける。その時―――彼女の目には、好奇心とは全く異なる情を灯していたような気がした。
数時間もの解剖を耐えてみせた少女に、法医学教授は自身の感心を迎えに来た砂沢へ伝える。あれ程人型の崩れた遺体を目にしても僅かに眉を顰めるだけの人物は初めて見た、と。さらに解剖中の様子を聞かされた砂沢は少女に疑問を抱かざるを得ない。
「あの子は、何処かの医大の……?」
「いえ……遺族の知り合いです」
砂沢の答えに、教授は目を見開く。驚くのも無理はないと、視線を逸らしながら腕に掛けていた上着を抱え直す。暫し考え込むような風を見せる教授は、俯かせていた面を上げて渋々と答えた。
彼女の精神は麻痺している可能性がある、と―――。
解剖を終えて廊下に座り込む
巴は、口を覆っていたマスクを顎へと擦り下げる。残暑がある割には冷ややかな廊下の空気を一杯に吸い込んで、磨り減った神経をゆっくりと落ち着かせた。
不意に甦る解剖での記憶。
肉塊と化した身体、マスク越しでさえ分かる充満した腐臭、区別のつかない腐敗と傷跡、所々に見える白骨―――。
それらを脳内の隅に追いやって、無理にでも教授の言葉を思い出す。彼らは大型の獣に噛み殺された、と。それが分かれば、
巴にとっては十分な事だった。
どの指令がやったのかも、予想がつく。
気を落ち着かせて、ようやく立ち上がった
巴の元に駆けて来る足音がある。それは迎えである砂沢だった。彼は、至って冷静を保つ少女の姿を暫し凝視している。その視線に気付いた
巴は不審の眼を向けて、首を捻った。
「砂沢さん?」
「
清坂巴にもう一度聞く。君は一体何を隠しているんだ」
下ろされた視線を正面から受けて、
巴はあからさまに顔を顰めてみせる。二度目となる質問に、答えは変わらない。何も、と呟かれる返答。たとえ目前の男が警官という身分であっても、彼女が真実を語る気は皆無であった。
昨日同様の返答に砂沢は溜息を吐く。彼女が何かしら秘匿している事は様子から察知できる。だが、こうも口が堅く閉ざされていては他に知る術を持たない。どうしたものかと思い悩む砂沢に、
巴は要の元へ戻る事を告げた。ああ、と頷いて先を歩き出した刹那、背後から小さくも声が掛かる。
「―――もし、」
「ん?」
「もし、私は不老不死だと言ったら、貴方は信じてくれますか」
唐突な問い。それは到底信用までには至らぬような話だった。思わず目を丸くした砂沢は、僅かに苦笑交じりで首を横に振る。
「そんな馬鹿な話が―――」
「信じてもらえないのなら、お話しする事はできません」
―――有り得ない話。
そう胸内では思いながらも、一切笑みのない少女の声に若干の違和感を覚えた。
無言で横を通り抜けてゆく
巴の後姿を眺めて、足取りが確かである事を確認する。どう見ても精神面に支障は皆無のよう。
「……行かないんですか?」
「ああ、今行く」
巴の声がして、はたと考え込んでいた意識を引き戻す。距離は既に遠く、廊下の角に佇む少女の姿を確認して廊下を小走りで駆けて行く。出口までの案内の為に少女の横を通り過ぎた砂沢は一瞬、憂いの含まれた横貌を垣間見た気がした。
◇ ◆ ◇
自転車を取りに公衆電話のある場所へ戻ったが、置いてあった筈の自転車は跡形も無く消え失せていた。大方誰かが持って行ったのだろうと考えながら、
巴は荷を抱えて下車する。
「明日、遺体を火葬の後に寺で通夜だそうだが……君も行くのか」
「ええ。要が心配ですから」
ひとつ頷く少女は、街路の最中に吊るされた時計を見やる。じき斜陽の始まる時刻を確かめて、車の扉を勢い良く閉めた。
「何故そこまで高里要にこだわる」
「姉と慕ってくれる者を見棄てる事なんてできません」
言って、
巴は車体から身体を離す。距離を置いて、車の発進を見送ろうとしていた。
砂沢は言葉を聞き届け、暫しの間じっと
巴の顔を見やる。精神が麻痺していると教授は言っていたが、恐らくそうではない。彼女の確立した遂行意志が固いだけの話だ。何を成し遂げようとしているのか、それは未だ砂沢には理解できない。だが……目的の中に高里要が含まれている可能性が予測として生まれる。
「では、失礼します」
「ああ」
歩道へ上がり丁寧に一礼する少女。最後に一礼のままの姿を一瞥して、砂沢はアクセルをゆっくりと踏み込んだ。
翌日、
巴は朝に広瀬宅に何度か連絡を入れて、ようやく繋がった受話器越しに通夜の行われる寺の所在を訊ねた。解剖の結果が出次第火葬場へ赴き、遺骨を持って寺へ向かうという。了解の意を伝えると、要には後で会えるのだからと電話先を代わってもらう事なく受話器を置いた。
近場の地下鉄に乗り、寺に最寄の駅で下車をする。駅から暫く歩いた場所に、高里と名字が書かれた通夜案内の看板が見える。電柱に括り付けられたそれは、街中に存在感を異様なほどに現していた。
案内に従い道を進むと、ようやく寺の山門へ辿り着く。長い石造りの階段をゆっくりと上り、時折視界の端に蠢く何かに
巴は首を捻る。足を留めて振り返るも、蠢く何かは跡形も無く消え去っている。僅かに眉を顰めながら、再び足を次の階段へと踏み掛けていく。
僅かに鼻を掠める潮の香りによって、忘れかけた何かを思い出そうと記憶が走馬灯の如く巻戻されていく。それは
巴自身の意思ではなく、危険を察知するような、本能にも似た思考―――。
なかなか思い出せず、内心に靄の掛かったまま寺へと上がり、要を待つ為に境内へと向かう。時間帯が早いのか、弔問客は本堂に点々とするのみだった。他と言えば、山門に集いつつある報道陣の姿。それらは決して、弔いの心など持たぬ者達の集い。流石に奥まで入り込む様子は無かったが、
巴は彼らの様子に苛立たしさを感じる。通夜と葬儀ぐらいは離れるべきだというのに。そう思いつつも境内の端へと足を運ぶ。彼女は多少なりとも、一人で思案する時間と場所を欲していた。
だが、
巴は角を曲がった廊下の隅に一つの人影を目にする。目を凝らして、そこに高里家の斜向かいに住む者の顔を見出した。思わず足を止めた少女の足元が、僅かに軋みの音を鳴らす。その音によって、俯かせていた面を上げる人物。
「―――あなた、」
驚きの含まれた声と、まじまじと少女を見やる視線。それを受けた
巴もまた、目を見開かずにはいられなかった。
「伯母、様……」
「どうして貴女が此処にいるの」
さも居てはならない者に対しての強気な口調に、
巴は一瞬怯むも足を退かせる風はなく。一呼吸で情を切り替えるなり、真正面から伯母へ視線を向ける。対峙する形となって、口を開きかけたのは
巴の方だった。
「私は、」
「和真も見つけていないのに、よくのこのこと私の前に現れて……!」
少女の言葉に重ねるかの如く、女は今まで胸内に顰めていた思いを吐き出すように言葉をぶつけた。
―――あの子は、初孫だったのよ。
彼女にこの気持は分からない。分かる筈がない。内孫を失った悲しみと、我が子を失った悲嘆をぶつけてくる夫婦。二人はいつも最後にこう締め括るのだ。母さんがあの子供を居候させなければ……と。
嘆きたいのは自分も同じだと、女は嘆きを胸内にしまっていた。だが、いざ行方知れずだった張本人が目前に現れて、必死に抑えていた悲しみが次々と吐き出されていく。
「貴女のせいで、あの子達は家で嘆くばかりなのよ?」
伯母の言葉に、
巴は思わず顔を顰める。その様子など余所に彼女は淡々と言葉を続けていた。
「結局、貴女に関わった人達はみんな不幸になっていくじゃない。あの子達も、和真も、高里さん達も、残された要君も……」
「伯母様……」
高里要は祟る、と以前から周囲の噂によって知っていた。だが、と女は思う。本当は、
清坂巴が神隠しの犯人ではないのか。要の祟りの裏で彼女が操作しているのではないか。神隠しの者達と皆深く関り合いのある事がその証明になるのでは、と。
今は彼の祟るという噂からの恐ろしさよりも、目前の人物への憎しみが勝っていた。
巴の顔をまじまじと、憎悪を込めた視線で見やる。
「祟りだって、本当は貴女が起こしているんじゃないの?」
その言葉に、
巴は今までにない驚愕と衝撃を覚えた。気を張っていた貌は酷く歪められて、吐きかけた否定の言葉を喉に詰まらせる。和真を行方不明にさせてしまった責任と悲痛な思いが、
巴の胸に去来していく。
違うと精一杯頭を横に振りたかった。だが一方で、今ここで否定をすれば彼が祟るのだと首肯しているようなもの。それは
巴にとって絶対にしてはならない事だった。
思い悩む少女の服を、突然握り締めるものがある。しっかりと掴まれたまま身動きの出来ない
巴に、伯母は叫ぶ。
「返して―――あの子を、返してよ!!」
途端、
巴の貌に戸惑いが浮かぶ。出来る事ならば、少女は耳を塞ぎたかった。
暫し嘆きの声が境内に響き続けて、それがようやく止んだ頃には要も広瀬も、多くの者が本堂や境内に集い始めていた。
◇ ◆ ◇
本堂には高里の遠い親戚にあたる者達が集い些細な揉め事を起こしている。要は親戚らと本堂に残り、後藤や広瀬は庭に降り鐘楼の縁に腰掛け静かな会話をしていた。
その最中、途中に境内より歩いてきた少女が夜陰の下りた庭へ足を踏み入れていく。二者は人影に視線を向け、後藤はそれが何時ぞや学校へ来た者であると判断した。
「あんたは……」
「―――後藤先生、ですよね。要がお世話になっております」
数歩前進し、距離を縮めて深く一礼する。その姿はさも要の保護者のようであった。
いや、と軽く頭を振る後藤と、その隣で口を閉ざしたままの広瀬。
広瀬は訝しげな目付きで
巴を眺め、つい先程告げられた後藤の言葉を思い返す。それらを目前の彼女に重ねていくと、不可解な事実に気が付いた。
彼女は要と同様四年間の記憶がなく、四年ぶりに現れた少女は成長を遂げていた……要から聞いたのだから、違いはないはず。だからと言って、彼と彼女が同じ存在のようには見えない。高里要を守ると決意し、彼の為ならば自身の犠牲も厭わない。それは、裏を返せば他人はどうでも良いという事だろう。後藤の言葉に当て嵌めると、言わば彼女は広瀬と同類のようなものだ。
……だが、彼女は故国喪失者の風がない。神隠しの事を覗けば、高里に執着するただの人間である。
――だが、高里は彼女に心を開いている。
彼が故国喪失者だけに心を開いているのではなかったのだと思えば、広瀬の胸内に落胆にも似た情が渦巻く。
僅かに面を下げる広瀬を余所に、後藤は
巴へ軽く頭を下げ返す。
「
清坂さんはいつこちらへ」
「ちょうど昼頃から居りました」
本堂から伸びる微かな光。それを受けた
巴の顔を見やり、後藤は僅かに眉を寄せる。少女の腫らした目元が笑みを作ろうとして歪みかけていた。
敢えて見て見ぬふりを決め込んで、後藤は軽く相槌を打つのみに留まる。
その後本堂での揉め事が終わるまで、
巴は要の学校生活を後藤から聞き出していた。
……その日、無事に通夜が終わると
巴は要と顔を合わせる事なく、山門への階段を慌てたように駆け下りていった。
翌日の葬儀に足を運んだ
巴は、本堂前にて佇む要の姿を見つける。要はすぐ様彼女の姿に気が付くと、小走りで駆け寄った。
「
巴さん……良かった、昨日はすぐに帰ってしまったと聞いて」
「用事を思い出して先に帰らせてもらったから。昨日はごめん」
「いえ―――」
要は首を横に振り、微かに目を細める。周囲は祟ると噂される当人を見物しにやって来た者達ばかりで、小声で続けられる噂話を敢えて耳に入れる事なく、纏わり着く視線も気にせず二者は暫し会話を続けた。
やがて葬儀の開始時刻が迫り、そろそろと本堂の方角へ人が流れていく。二者もまたそれに続き、最中
巴が小さく声を掛ける。
「要―――これが落ち着いたら話があるんだけど、いいかな」
密やかに告げられた言葉は要に伝わる。周囲は聞き耳を立てていたが、多くの足音によって彼女の声は掻き消されていた。
「分かりました」
一つ頷いた要もまた、了解の意を伝える際に自然と小声となっていた。
葬儀は滞りなく粛々と進められ、弔問客の焼香を終えるとやや間が空いて、要は短くも礼儀通りに挨拶を告げる。
巴はその様子を本堂の隅に座り聞き届けていた。
要の挨拶が終わりに近付いたところで、突如悪寒が
巴の背を駆け抜ける。誰に聞こえる事のない声を耳元に届けられて、彼女は思わず瞠目する。
《 泰麒 》
女怪の声だと分かった時は既に遅く。事は本堂の外より聞こえた地響きのような轟きを聞き、次いで指令が何かを仕組んだのだと察した。
辺りは騒然として、遠くより上がる悲鳴を聞いた広瀬は血相を変えて本堂を急ぎ飛び出していく。
巴もまた続こうとして、騒音に混ざり言葉を発した。
「汕子、どうか台輔のお傍に……!」
誰もそれを聞き取る事無く、少女は足元に告げるなり本堂を駆け下りた。参道に赴けば山門が倒壊したのだと分かって、一瞬にして
巴の頭から血の気が失せた。……瓦礫となった山門に、敷かれた者達がいる。
要もまた駆けると、やはり彼は祟るのだという声が辺りに感染する。さらに煽るかの如く、彼らの後方に佇む少年らが現場を見下ろしつつ言葉を吐いた。
「あんな大騒ぎして、無事ですむわけねぇのに」
「だよな。祟るなんて放送しといて信じてねぇんだからなぁ」
けらけらと笑いが聞こえてきそうな程に、彼らは報道陣を見下している。その言葉に要はさっと顔色を青くして現場の下に駆け下りていく。
巴もまた要の後に続いて、積み上げられた瓦礫を退けていく。広瀬や周囲にいた数名もまた作業に参加して、救出作業を開始した。
彼女は指令の仕業と思った。彼――泰麒には饕餮が存在する。伝説上の妖魔と言われる程の化物であり、その化物を絡め取ったのが泰麒――高里要である。
だが……今の彼には、指令と会話をする事や抑える事が出来ない。その術までもを忘れてしまっているのだ……このままでは泰麒の穢瘁が悪化するばかりだと、最後の救急車を見送った
巴は頭を抱える。
その後、一人の警察官がやってきた。周囲は要に事情を聞くものだと思っていたが、警官が手招きをして呼んだ先には、要の隣に佇む少女の姿。二者は参道の端に寄り、警官の方は最初に西園寺と名乗る。
紹介のすぐ後に少女に伝えられたのは、西園寺の部下にあたる砂沢の事故死だった。