浅黄の橋

名前変換

主人公設定
-設定注意-


・登場人物は後の芳極国女王(胎果)
・次の芳国麒麟が胎果の赤麒
・峯王登極前には再び戴国に泰主従が戻っている
・多少の設定矛盾
・表示できない文字は代わりの文字を使用
(PCからのUPなので、勝手に変換される文字もあり)
 など
上記を踏まえた上で閲覧をお願いします。
閲覧後の苦情はご遠慮下さいまし。


-人物設定-


■蓬莱
髪色:黒   眼色:黒
■十二国
髪色:白藤   眼色:菖蒲
■共通
性別:女
年齢:十五(※序章時)

家庭や友人などの取り巻く環境に疲れ、何の生きる目的も見出せないまま生活を送っている少女。
当時高校一年生。(高校生活は僅か一月半)
五月中旬、高波に轢き流されて、気が付けば恭州国の海岸へと漂着してしまった。
自分の生には関心がないくせに、他人の生き死にとなると何故か必死になる。
十二国へ流されてからは、とある人物の指摘により自分のために生きるという事をようやく学び始める。
■補足:高校では元弓道部。それ以前、小学中学年の頃より弓道を習っていたので趣味を越えて特技と化した。
■騎獣:赤虎。名は緋頼(ひらい)。猛獣として扱われる騎獣だが、彼女には従順。
名前
名字


- 六章 -




 翌日、仕事の休暇を取ったは自転車で要の通う高校へと赴いていた。

 周囲に喧噪はなく、正門を潜りなおもしんと静まり返る校舎。その様子に首を傾げながら、門脇に設置されている駐輪場へと自転車を置く。腕に通した時計の短針は北西、午前十一時を過ぎたころ。

―――今は授業中か。

 自転車の鍵をズボンのポケットに収めながら、の足は来客用の玄関へと向かう。早く着き過ぎた事に一人苦笑を零して、道の途中に差す木陰をゆっくりと通って硝子張りの扉の取っ手を掴む。金属の冷たさに心地好さを感じつつ、扉を手前に引いた。

 玄関を潜ると、左側手前に見える受付口。クーラーをかけている所為か、硝子窓はぴったりと閉ざされている。は窓を覗き込んで、中の者が気付くようにと数回硝子を軽く叩く。ようやく開かれた受付窓の向こうには、中年の男性がを見上げている。

「何でしょう」
「高里要の身内の者です。あの―――」
「玄関に上がってお待ち下さい。ああ、スリッパは来客用の下駄箱にありますので」

 男性は向かいに並べ立てられた下駄箱を指差す。しっかりと取り付けてある戸の表には、大きく明記された賓客用という文字。
 軽く頷いたはくるりと身を反転させて、靴を脱ぐと段差によって隔たれた玄関へと上がる。下駄箱よりスリッパを取り出し、代わりに靴を放り入れた。

 事務室と隣接された職員室。だが、が玄関前にて担当の者を待った時間はとうに十分を過ぎていた。忘れ去られたのではないかと心配が過ぎるも、事務室より出てきた中年女性にからからと笑われる。

「後藤先生はいつも科学準備室に居るから仕方ないんだよ。もうちょっとお待ち」
「はい―――」

 さらにその後、玄関前にて待機から五分。
 ようやく現れた男性教師は、先程女性事務員の言った後藤という人物らしかった。

「お待たせして申し訳ない」
「いえ……こちらこそ、多忙の時期に無理を聞いていただき有り難う御座います」

 互いに軽く会釈をして、後藤の案内で絵の保管された美術室へと向かう。先を歩く後藤の背を眺めつつ、もまた後を追う。

 廊下にはやはり人影一つなく、時折何処からか教師の声が聞こえるだけだった。だがそれもすぐに掻き消えて、静寂を落とす廊下に二つの足音が反響する。建物内に多くの者が居るにも関わらずしんとして静まり返る様は、にとって異様にまで思えた。

 周囲を見渡しながら歩を進め、階段を上った先は三階。その隅の部屋に取り付けられていた札の文字は―――科学準備室。
 美術室へ行くのではなかったのかと思わず首を捻るに、後藤が準備室前で振り返り僅かな苦笑を洩らす。

「美術室は今使用教室だったんで、高里の絵だけこっちに持ってきたんですよ」
「そうですか……」

 成程、と頷くの前から扉が滑り消える。戸が開かれたのだと分かって、次いでつんとする油の臭いに眉を寄せた。
 臭いに対し別段嫌悪感は無かったが、突如冷気と共に漂う臭いを吸い込めば誰でも首を傾げるだろう。その程度の、慣れれば差して気にならない程度の臭いだとは思う。そう心底に思いつつも、扉を潜った。

 机であろう場所は物が乱雑に置かれ、壁には戸棚が連なり立つ。科学準備室と言いながらも、半分美術室のようだった。
 窓辺に並べられたイーゼルの上には、絵が数枚並べ立てられている。窓から差し込む陽が逆光となって遠景からではよく見る事は出来ない。思い切って後藤の横を通り過ぎイーゼルの元へ近寄ると、の眼は一枚の絵に釘付けとなる。
 ―――これは、まさか。

「高里の絵が分かるのか」
「え?」

 後藤の言葉に、は背後を振り返る。どういう事かと目線で訴えると、の横に並び立った後藤は左端に立てられた絵を指差した。

「これは、俺が描いたものだ。ついでに右隣のやつもな」
「……試したんですか」

 僅かに屈めていた身体を伸ばして、は目を細める。何故と問いかけようとして、絵をじっと眺めている男性教師を前に口を噤む。後藤は隣に立つ少女を横目で見やる。それから要の書き上げた絵へ視線を移して、無意識に腕を組んだ。

「高里に姉はいない。だがあいつは、土曜の午前、姉に絵を見せてほしいと言った」
「姉―――」
「あの高里がそこまで慕ってる人物だったら、あいつの絵を容易く見分けられるだろうと思ったんだがなあ」

 実際にそうだったと笑いを零す後藤に、もまたつられて笑む。実のところ、彼女が反応したのは書き込まれた風景だった。
 曖昧に描かれた輪郭、複数の不透明色が混濁して塗り込まれぼんやりと朧気な印象を与える。見る者によって捉える印象は異なる作品だろうと、数歩距離を置いて改め作品を眺めている。
 刹那―――は、はたと気が付いた。

「―――禁門」
「ん?」
「いえ、何でも」

 思わず発してしまった言葉に、後藤は反応する。対しは首を振りつつも、絵を覗き込むようにして見やる。
 ……白は、雪。
 極国の冬季、雪原のような遠景。時を思い起こせば、彼がこの風景を描ける事も納得がいく。そうは一人考察して、途端背後から開く扉の音に意識を引き戻された。

「後藤さん、ちょっと良いですか」
「おう」

 教員らしき人物に呼ばれ、後藤は準備室から出て行く。がらりと閉められた扉を確認して、は要の絵へと視線を戻す。他にも何か描いているのだろうかと周囲を見渡すが、迂闊に物を触る訳にもいかない。仕方なくじっと眺めていると、大した間も経たずに扉の開く音が準備室に響いた。
 振り返ったその先には、先程後藤を呼んでいた教員の姿。

「後藤先生は今用が入りまして……すぐに戻ってきますので」
「分かりました」

 教員の言葉には頷くまま、絵に視線を釘付けている。その横へ男性教員が並ぶと、ちらりとを一瞥する。少女は男性の事など一切気にしない様子だった。

「……高里の、姉と聞きましたが」
「ええ、そう慕ってもらっています」

 教員――広瀬は少女の言葉に首を傾げる。では、実の姉ではないのだろうか。
 思いつつも、ただ一点を真摯として見詰めるへ容易に声を掛ける事は躊躇われる。その後沈黙は落とされ続け、ようやく破れたのは後藤が用を終えて戻ってきた際の事だった。
 はくるりと身を反転させると、絵を指差しながら後藤に問い掛ける。

「要の絵は、他にもありますか?」
「あと数枚はあるな」
「すべて見せていただけます?」
「ああ―――広瀬、そこの戸棚の絵出してくれ」
「分かりました」

 広瀬は若干躊躇いながら指示された戸棚の絵を引き出していく。意外にも、それらは油絵のものが多かった。
 酷く禍々しい印象を与えるもの、先程の絵同様輪郭の曖昧な風景画のもの、傍から見れば何を描いたのか理解出来ないもの……それぞれがイーゼルの上に立て掛けられて、全てが異彩を放つ。
 後藤と広瀬は傍から眺めつつ眉を顰めていたが、はただ呆然として絵を見やる。


―――饕餮、蓬山、十二国。


 十二国の形は以前に見た地図の記憶を掘り起こして一致させる。風景画はかつて少年から聞いた遠景の特徴と一致している。禍々しいまでの暗色を混濁させ浮かばせる獣の姿は、確かに以前垣間見た指令のもの。
 は思わず複雑な色を浮かばせて顔を俯かせる。じきに思い出すやもしれない期待と、無事帰還の可能性に対する心配。それだけが胸内に交差していた。

「これで全部だ」
「そうですか……ありがとうございます」

 後藤に向かい頭を下げ、すぐに上げると再び絵を一望する。
 その後も後藤らと共に暫し眺めていたが、十分後に鳴り渡るチャイムを合図には学校から身を引く事にした。



◇ ◆ ◇



 学校から仕事中の宛てに連絡が入ったのはそれから四日後の事だった。
 店の電話にて連絡を受け、は驚きつつも受話器を代わり用件を聞く。要が二階の窓から落ちたとの事に、さっと血の気が引いた。次いで、病院から母親が要を迎えに来ないとの一報を聞き、一旦受話器から耳を離す。背後では心配そうに佇む店長の姿。

「すみませんが、」
「今日はもう終わりで良いよ。弟さん、心配なんだろう?」
「ええ……埋め合わせは必ずしますので」

 は店長に軽く頭を下げつつ電話に戻る。一度高里家に寄った後に病院へ行くと告げれば、受話器の向こう――後藤が病院名と所在地をに教えた。それを一度に呑み込むと、最後に礼を短く告げて電話を切る。腰巻のエプロンを解きながら小走りで店を出て行った。


 自転車を勢い良く漕ぎ、大凡二十分ほどで高里家前へと辿り着いた。同時に斜向かいの伯母宅が視界の端に見えたが、は一切視線を移す事なく高里家の門の前へと到着する。
 普段門は閉ざされていたが、今日は僅かに開かれていた。誰かが訪問しているのかと間をすり抜けて砂利を踏みしめる。―――そこに、要の母親と広瀬の姿があった。

「あの子は人間じゃないんですから」
「そんな」

 思わぬ言葉を聞き入れて、途端の足が立ち止まる。飛石から逸れた足は再度砂利を踏んでいた。その音にはたと気が付き振り返る広瀬と、彼女に聞かれた言葉を顧みて思わず口に手を宛てる要の母親。
 は驚愕を露としたまま、その場で足を硬直させている。

清坂さん―――」

 少女からの返答は無かった。ただ、驚愕に満ちた顔が悲しみへと変貌していく様は広瀬にとって悲痛に思えた。
 佇むに視線を向けて、母親ははたと我に返ったように目前の広瀬へと声を掛ける。

「わたしがこんな事を言ったなんて、あの子には言わないで下さい。お願い」

 瞬時にして怯えた風を見せる要の母親に、も広瀬も胸内に落胆を渦巻かせる。親にさえ怖れられる要の存在が、不意に酷く遠いものに感じた。

「言いません」

 広瀬はきっぱりと言い放ち、もまた首を横に振る。二者の返答に僅かな溜息を吐く母親は、広瀬に封筒と保険証を突き出す。突き出されたそれを受け取りながらどこか思案するように俯いて、懐にしまったところで広瀬は軽く面を上げる。

「高里君は……暫く家に戻らない方が良いんじゃないでしょうか」

 思わぬ言葉に、要の母親は怪訝そうに目前の彼を見やる。横からは不安げに見上げるの視線があって、広瀬は貌に苦渋を浮かべたまま口を開いた。

「落ち着くまではぼくがお預かりします。それで、良いですか?」

 母親は頷く。酷く安堵した面持ちが自身の元母親の影と重なって、複雑な情を抱く。
 身を翻しそそくさと奥へ入ってしまった女性の後姿を眺め続け、すぐ後に広瀬を見やる。は俯いたままの男性の背を軽く叩いて、早く病院へ戻ることを促した。






 近場の駐輪場へ自転車を置いてから、は駐輪場の外で待つ広瀬の元へと駆け戻る。それからタクシーを捕まえると、二人で乗り込み日赤の病院を告げると車は走り出す。
 後部座席にて時折揺られながら、広瀬がぽつりと言葉を洩らした。

「高里の味方は少ないな……」

 それはあまりにも少なく、心許無い。隣に座る少女もまた要を心配しているとはいえ学校にまでは手が届かないのだ。そう思えば、広瀬は自然と自身の重要性を感じる。

 流れ行く風景へ目を凝らしながら、は広瀬の言葉に軽く頷く。一つまた身体が揺すられて、途端遠景から目を逸らしたが口を開く。

「でも私は―――たとえ一人ででも、要を守りたい」

 決意を含む真摯とした声に、広瀬は隣を驚き見やる。彼女の断固として強い意志が垣間見えたような気がした。
 守りたい……それは、彼女の本意である。
 別段泰麒だからという訳ではなく―――姉と慕ってくれる弟のような存在を大切にしたかった。要も、そして和真も。
 未だ見つからぬ少年の姿を脳裏に過ぎる記憶の中から見つける。悲痛な思いを胸に抱きながら、決意は革めて。


 車内で呟かれた言葉はたったの二つ。
 病院へ到着するまで、二者はその後一切口を開かなかった。










 は広瀬に対し要の退院用意を手伝うよう勧めると、広瀬は保険証と封筒を手渡すと早足で病室へと向かっていった。その背を見送ると会計の場所へと向かい、そそくさと清算を済ませる。会計を担当した看護婦は当初の姿を訝しげな目付きで眺めていたが、姉だと告げるや否や態度が穏やかなものになる。要に対する同情の言葉を掛けられ、愛想笑いでそれを流した。

 程暫くして要を隣に連れた広瀬の姿が見えて、は座っていた長椅子から腰を上げる。ほっと安堵の息を吐きながら二人の元へ駆け寄ると、要は目を見開いて彼女の姿を視界に入れた。

「どうしてここに―――」
「窓から誤って転落したって要の担任から連絡が来たんだ」

 顔を綻ばせるに、要は彼女が今日この時間帯に仕事が入っていた事を思い出して申し訳なく思う。小さくも詫びの言葉を告げる要に、少女は首を軽く振った。
 行こう、と広瀬からの促しが掛かって、三者は病院を出る。

 病院から然程遠くない場所にある地下鉄へ向かった広瀬に、要は最初一度帰ると告げて別れようとした。それを二人が引き留めて、次いで事情を説明する。要は、広瀬に一つ侘びを告げて頭を垂れていた。
 二者を見比べて、は区切りを着けるように一息を零す。

「じゃあ私はこれで」
「え……さんは来ないんですか」

 うん、と頭を縦に振る。広瀬が着いているのなら大丈夫だろうと思い、一度出直して来ようと考えていた。何分、服装が仕事用の服のままだったのである。
 要は落胆の表情でを見る。それに気が付いたのか、傍らに佇んでいた広瀬が鞄からメモとペンを取り出して何かを書き込んでいく。ペンを動かす手を止めると、そのページを破りに差し出した。

「住所を教えておくから、明日は高里の隣に居てやってくれ」
「ええ、分かりました」

 メモを受け取ると、書かれた住所に一度目を通す。その下に書かれた電話番号を確認して、は一つ首肯を見せた。

「要、広瀬先生、また明日」
「ああ」
「帰りは気を付けてください」

 二人に見送られながら、は来た道を戻り帰路へ着くための足を目で探す。駐輪場に置いた自転車を取ってから帰らなければならない事を今さら思い出して、一人密やかな苦笑を洩らす。

明日、と再確認するように呟きながら、運良く通り掛かろうとしたタクシーを挙手で捕まえる事ができた。



◇ ◆ ◇



 その夜、久方ぶりに会った同級生との飲み会を終えた女性は、友達と店前で別れほろ酔い気分のまま道を歩いていた。
 大通りの裏に続く小道をゆったりとした足取りで進む。点々と続き地面を照らす街灯の下、電柱の脇に蹲るようにして白い小動物がいる。白毛が僅かに蠢いて、それが小型犬だと分かった。
 数歩近付いた女性は、さらに暗闇の向こうからゆらりと現れた金の髪の女性に目を見開く。変わった身形をしていたが、顔形は外国の者に見られるような特徴はない。小柄な少女だ、と女性は思う。

「き、を知りませんか」
「きー?鍵でも失くしたの?」

 少女は困ったような面持ちのまま頭を横に振る。その様子に女性は首を捻ったが、ふうん、と問いをあっさりと流す。

「たいき、というの」
「よく分かんない。他の人に聞いてよ」

 途端不機嫌になった女性の態度に、少女はひとつ頷くや否や身を翻す。近場に蹲った犬が顔を上げて、少女の後に続いた。
 あれが飼い主なのだと分かった直後に、一人と一匹は壁へ浸透するように消えていく。
 ほろ酔いが一気に醒めた女性は仰天の声を上げるや否や、大通りへの道を死に物狂いで駆けていった。





 波の砕ける音が響いて、潮のにおいが防波堤沿いを覆う。普段よりも幾分か波が高いような気がして、愛犬の散歩中であった女性は足を止めた。
 吹く風は緩やかであったが、耳へ届く波音は荒れている。珍しいと思いつつも、愛犬は前へと進み始める。リードを引かれて、女性もまた歩き出す。無事に散歩の道を辿ろうとしていた女性はふと、暗がりの前方に犬を連れた少女の姿を発見した。
 普段見た事も擦れ違った事もない人物に、やはり今日は珍しい日だと思う。
 女性の姿に気が付いたのか、少女は犬を引き連れて次第に近付いてくる。

「たいき、を知りませんか?」
「たいき?……聞いた事は無いですけど」
「そう―――」

 少女は落胆の表情を浮かべ顔を俯かせる。気落ちする姿が気掛かりになったのか、頭を傾げつつ相手方の顔を覗き込むと、その影からひょっこりと犬が顔を出す。女性を見上げるその目は、顔中央にたった一つ。
 立ち尽くし唖然とした貌が、恐怖で引き攣り上がった。

「早く見つけなければならないのに」

 独り言のように呟いて、少女と犬は身体を靄のように溶かしていく。その様に身体が竦みあがって、声にならない悲鳴を上げて腰を抜かす。
 荒れていた波は、いつのまにか静まりかえっていた。





 若者は、恋人を待っていた。
 一世一代の賭けをするかの如く、懐にしまい込んである小箱を何度も指で確認しながらじわりじわりと迫る刻限を待つ。夜景の見えるテラスへ立つ足元からは、緊張が競り上がっていく。
 若者の緊張は最高潮に達していた。

 ふと背後から足音が近付いて、青年はぎこちなく背後を振り返る。その姿が恋人ではない事に安堵の息を落とすと、次いで自身へ向けられている少女の視線に気付いた。
 何か自分に用だろうかと疑問を浮かべたところで少女の足音と衣擦れが留まる。

「き、を知らない?」
「木?」
「たいき、を探しているの」

 少女は困り果てた顔をして青年を見る。青年もまた理解出来ぬ問いに首を捻り、知らないと答えた。深い苦慮を含んだ溜息を落として、少女は踵を返すと広がる闇の中へと消えていく。
 後姿をじっと見送った若者は呆然とその様子を眺めると、入れ違うように待ち人である恋人が駆けて来た。去った少女の事を訊ねると、擦れ違う筈の道に少女の姿は全く見当たらなかったという。
 蒼然となった青年は、消え去った闇のある方角をただただ眺め続けていた。





 警察官はいつもの夜道をバイクで巡回中のところであった。
 近日事件の多発状態に巡回の数が増え、誰もが僅かな緊張と苛つきを抑えつつ仕事をこなす。彼もまたその一人で、赤信号によって停止させたバイクのハンドルを指で小突きながら信号が変わる時を待っていた。

 刹那、歩道に視線を彷徨させる女の姿が街灯に照らされて浮かび上がっていた。綺麗に染められた金髪は光に濡れて、頭を動かす度にきらきらと光を帯びている。
 その姿を不審に思い、警官はバイクから降りると車体を押して歩道へと入れる。未だ挙動の不審な点が見られる女は、警官の声掛けによってようやくそちらへ振り返り見やる。日本人では有り得ない目色の双眸が警官の顔を見上げていた。

「君、こんな時間に迷子か」
「……探し物があるのです」

 警官は、奇妙な女だと訝しんだ。日付が変わるまでにはあと一時間ほど。夜も更け始める時間帯に奇妙な衣服を纏う女が一人探し物――――それは、男にとある噂を思い出させる。近日見かける、女幽霊の噂を。

「きを、知りませんか」
「お前……まさか―――」

 同僚より聞いた冗談のような話がぴたりと重なり合って、思わず女の肩を掴む。途端、影より飛び出した犬が警官に勢い良く飛び掛かった。一瞬の激痛を伴ってそれを振り払うと犬は掻き消え、それどころか女の姿も一切なく。
 ふと手元へ視線を落とせば、肘から下が全てごっそりと無くなっている。
 あまりの衝撃に驚愕を露としたまま言葉を失って、警官はそのまま意識を手放した。





 日付が変わる直前の事だった。
 防波堤脇の細い歩道を、自転車を押し進めながら歩く一つの影がある。女性と表すには幼気な面影を残している為に実際の年は定かではなかった。
 少女は緩やかな曲線を歩き曲がると、防波堤上に佇む女の姿を遠方に見つける。何かと見上げた先、徐々に近付くにつれてそれが綺麗な身形をした者だと察する。艶やかな金髪に視線が釘付けられて、ふと女の見下ろした視線の先に足を止めた少女が映り込む。女には、少女の衣服に光のようなものが付着しているように見える。

「そこに居ると、風邪を引きますよ」

 手前に自転車を止めた少女は、軽々と防波堤へ登る。怯える風もなく女の隣へ並び立つと、海に向かい軽く背伸びをしていた。少女の様子を隣で見ていた金髪の女は、その横顔に向けて柔らかく問いかける。

「き、を知りませんか」
「き?」
「そう―――黒麒麟の」

 女は問いを続けようとして、少女の驚いた表情を視界に留めて言葉を飲み込んだ。今まで訊ねてきたどの者よりも異なる反応だった。そうして返答を待つこと数十秒―――返って来たのは、少女から女に対しての革められた慎ましき発言。

「……何処の台輔と存じませぬ事をお許し頂きたく、畏れ多くも問うて宜しいでしょうか」
「漣の者にございます。泰麒をお探ししておりますが、知りませんか?」

 は、と片膝を着くなり拳を片手で包み込む動作をとる。顔と重なるよう腕を上げて、少女は口からするすると事柄を口にした。

「泰麒は私どもが保護しております故、逸早く泰麒帰還の使者を遣わして下さいますよう、慶国飛仙の者が言うておりました……と、どうかお伝えいただきたい」
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