- 五章 -
夏の傾向、残暑に覆われた街並みは未だアスファルトからの照り返しが強い。
陽射し降り注ぐその中で、彼らは依然として影を求める。誰もが足早に行き交う最中、じき斜陽を迎える帰路にとある二人の姿はあった。
数歩ほど先を行く
巴を追うようにして歩く要は、夕刻の陽によって翳る背をじっと見詰める。寂しげに映る後姿が次第に儚く消えそうに思えて、咄嗟に
巴の腕を掴んでいた。
驚きつつも振り返る少女は、まじまじと要の顔を眺める。はたと自身の行動を顧みるなり掴んでいた腕を放して数歩後退していく。
「うん?」
「……いえ、何でもありません」
要の様子に、
巴は不思議に思い首を捻る。
嫌われただろうか―――消極的な考えを脳裏に過ぎらせて、
巴からあからさまに視線を逸らす要の元へと歩み寄る。それ以上の後退は無く、そうではないのだとほっと息を吐いた。
だが……避けられる理由が、あまりにも思いつかない。仕方なく苦笑で済ませると、再度足を運び始めた要の横に並ぶ。それも別段嫌う仕草を見せる風はない。
さらに思考を働かせると、先日
巴が優香に告げられた事柄を頭に思い浮かばせた。
―――彼は不可解な絵を書くのだという。それも、全ての絵が奇妙か異様らしかった。記憶と係わり合いがあればと、
巴は意を決して要に提案を出す。
「今度、学校に行っても良い?」
「でも……」
「要の描いた絵が見たいから」
唐突な言葉に、要は戸惑いを窺わせる。
彼女が突拍子もない言葉を口にする事は多々あった。提案の度に意表を突かれ、つい当惑が顔に露となってしまう。対し、
巴が嫌悪を感じる事は皆無であったのだが。
暫し思いあぐねて、要は面を上げた。
「―――先生に」
「ん?」
「先生に、頼んでおきます。いつがいいですか?」
「出来れば土曜の午前に」
「分かりました」
歩を進めながらの首肯の後に、要は並行する彼女を横目で見やる。差して普段と変わらぬ表情からでは、内心を窺うことは出来なかった。……だが、彼は知っている。
自分に慕情を掛けてくれる彼女はいつも、変わらぬ表情の裏に何かしら思案していることを。
―――彼女が、「 」であったなら良かったのに。
途端無意識に胸内へ挙がる言葉に思わず首を捻り、疑心は閊え留まる。それは絵を描く度に感じる懐かしさにも酷似していた。
不意に足を止めた要を、
巴は不思議に思い振り返る。斜陽によって顔の所々に差す影が、僅かな不安を煽る。
「
巴さん」
「うん?」
「あなたは一体、何を隠しているんですか」
唐突な問いに、一瞬ひやりとする。それでも貌は冷静を装いながら、要に首を傾げて見せた。だが……実のところ、
巴の装いはあまり巧いものとは言えない。それでも今まで隠し通せたのは、すぐに別の話題へと摩り替える余裕があったからだった。
これほど真摯に、真っ向から問われた事はあまりにもなく。
「どうして?」
「最近、何かに急かされているように動いてる感じがしていたので……」
思うようになったのは、一体いつからだっただろうか。
今まであった余裕がいつかの日を境に無くなり、穏やかな雰囲気が快活へと変貌していった。その様子を懸念に駆られる思いで見守っていたが、いくら問いかけたところで答えは同様のものばかり。
「気のせいだよ」
聞き慣れた台詞。判然としない返答。相好を崩し、再び踏み出される足。斜陽に翳る背―――。
要はその姿に向け、はっきりとした口調で言葉を切り出す。
「ぼくは、」
立ち止まった足元、動きのあった陰影もまた伸びたまま形を保つ。四ヶ月前の出来事以来、決して面に出す事の無かった負の念が影に詰められているような気がした。
振り返った
巴に対し、意を決して吐露を続ける。
「……ぼくは最初、あなたが死ぬかもしれないと思った」
「要―――」
軽く見開かれた目が、まじまじと要を見る。驚きに包まれた表情から決して目を逸らそうとはしなかった。
「ぼくに深く関わってしまった人は、怪我をしたり……死んでしまったり……でも、こんなに沢山の時間を共に過ごしても、
巴さんだけは無傷で」
多くの者が傷付いてきた。その度に祟ると言われ、疎外を受けて来た。だというのに、
巴と数年ぶりの再会を果たしてから一年半以上、彼女は噂を然程気にする様子もない上に怪我一つもなく生活していた。要にとっては唯一共に居て安堵を感じる人物にまでなっていた。……だが、それでも。
「―――時々思うんです。あなたは、ぼくの記憶について何かを知っている」
これといって目に見える確証は無い。ほぼ要の勘に近いものだったが、それでも問わずにはいられなかった。空白の記憶……それが、彼の胸に大きな穴を開けている。時折理由も無く感じる懐かしさと焦燥と。理由を解明する為には、記憶が関連しているのだと、要なりにそう思索していた。
一歩を踏み出して、
巴に向かい問う。
「教えて下さい……ぼくは一体、」
「一ヶ月」
途端、要の言葉を遮り告げられた言葉の意味に内心首を捻る。僅かな間を置いて、
巴は困ったような顔をしたまま僅かに笑みを口元に浮かべた。
「一ヶ月後……十月になったら教えるよ」
「それは―――」
何故、と問いかける言葉をすぐに呑み込む。やはり何かを考えていたのだろう。要はそう考え、次に彼女が述べる言葉を待つ。
巴はその様子に感謝をしつつ、僅かに開かれた距離を数歩で縮めた。
「だから、今はあまり詮索しないでくれると助かる、かな……」
「―――……分かりました」
「うん、ありがとう」
未だ釈然としない気をしまい込んで、要は頷くと足を進める。気が付けば、じきに降る闇が薄らと周囲を覆い始めていた。早く帰らねばと
巴は思いつつも、先を行く彼の背にじっと視線を据える。途端順々に点く街灯の光に自然と目が細められて、人工の陽に降り注がれる要を眺め続ける。
「―――最後までお守り致します、台輔」
呟いた決意の言葉は、要の耳に届く事なく霧散していった。
◇ ◆ ◇
その日は九月最初の金曜、陽が上昇を始めたばかりの午前の事だった。
北山宅は、既に普段通りの生活を送る。
夫は仕事によって外出中、妻は仕事を辞めて家事に専念。子を失った事を除けば、周囲と何ら変わらない夫婦生活を過ごす。
妻は僅かな一休みを終えて家事を再開させようと椅子から腰を上げる―――刹那、聞き慣れたチャイムがリビングに木霊する。慌てて身形を整え玄関へと向かう。警察が我が子を見つけたのかもしれないという期待は、四ヶ月が経過した今でも持っていた。……持たずには、いられなかった。
玄関の扉へ駆け寄り覗き窓に目を凝らす。そこに……招かれざる一人の客が、扉越しに佇んでいた。
扉を開けた途端、妻は形相を変貌させる。殺意にも似た念の篭められた視線を相手に突き付け、それを微動だにしない少女は一つ、深々と頭を下げた。
「この度は、謝罪に参りました」
―――彼女がこうして謝罪に来たのは電話を除けば実に四ヶ月ぶりのこと。
姿を見るだけでも激しく襲われる嫌悪感を何とか押し留めて、妻は家へ上がるようにと無言のまま促した。しっかりと頷き玄関の戸を潜る少女は、リビングへ辿り着くまで口を引き結ぶまま沈黙を保つ。殺気立たせる女性は椅子への着席を指示したが、軽く首を横に振るのみだった。
「弁解は、ありません」
「当然よ」
視線は互いに逸らされている。
女性は棚上に飾られた子供の写真へ視線を向け、
巴の眼線は机上に落とされている。いつの間にか冷気に覆われたリビング内に、沈黙が落ち続ける。しんと静寂に包まれて、途端近場の台所より聞こえた水音を耳に入れると
巴は真直ぐに和真の母親を見やった。
「彼の両親と伯母が傍に着いているのだからと、安心しきってしまった事が私の落ち度です」
その言葉に只ならぬ苛立ちを覚え、次いで心の片隅に首肯する自身がいる事に気が付く。
―――否。そんなもの、認めたくはない。
あれは自分らの所為ではない。そもそもの元凶が目前の少女なのだ。彼女が居候として居なければ……いや、それ以前に神隠しから帰って来なければ、家族円満に生活を送って来れたというのに彼女は邪魔をした。幸せを奪取していった。今さら頭を下げに来て、それで和真が戻って来る筈も無いのに。
「それは―――」
「大変、申し訳ありませんでした」
捲し立てようとした女性の言葉を遮るようにして、
巴は謝罪の言葉を伴い頭を深々と下げる。少女はあくまで冷静を崩す事は無かった。
頭を上げると、暇の言葉を告げるなりくるりと身を反転させる。和真の母親にはそれが逃走の風にしか見えず、離れ行く背に向かい悲痛を含ませる胸内の言葉を叫ぶ。
「あんたなんて、ずっと帰って来なければ良かったのよ!!」
リビングに反響する声。心底に潜ませていた本心。それをようやく放ち、刹那―――少女の足がぴたりと立ち止まった。
巴は頭のみを傾け、和真の母親を横目で見やる。一時の沈黙の後に、少女の言葉がぽつりと聞こえた。
「―――そう、ですね」
僅かな悄然を伴って、
巴は玄関へ向かう足を再び進める。
少女が角を曲がるまで、女性はただじっと視界に映る姿を睨めつけていた。
その日の夜、昼からの仕事を終えた
巴は近場の公衆電話へと立ち寄った。
ボックス内で財布を開き、小銭を確認しては電話上へと積み上げる。人通りの少ない道故に公衆電話を使う者はあまり居ないだろうと
巴は考えていた。……彼女とて、差して多くの時間が掛かる訳でもない。
小銭を数枚入れて、久方ぶりに思い出した番号を入力する。それと同時、僅かな緊張によって背筋が伸びる。
……数回のコールの後、電話口に出たのは本家の伯父の声だった。
『―――はい』
「こんばんは、
巴です。夜分遅くに申し訳ありませんが、母はそちらに居りますでしょうか」
『……ああ、ちょっと待ってな』
受話器の向こうから、怪訝そうな伯父の声が途絶える。雑音のような低音は男性が
巴の母親を呼ぶ声だろう。
巴がそう漠然と考えていると、突然受話器から控えめな小声が耳へと届く。
まともに耳へ添えると、今度は鮮明な言葉が聞こえてきた。
『……もしもし』
「母さん?」
『……本当に、
巴なの……?』
巴はうん、と短く返答をする。それにほっと安堵したのか、様々な話題が受話器越しに行き交う。
身体は健康か、伯母の苦情の件、和真の件―――。
話題の大凡二割のみが子を心配する問いに割かれ、残り八割は本家に送られた苦情と
巴の他兄妹の事ばかりだった。だがそれでも、
巴は最後まで話に耳を傾けた。この電話が、最期になるのだと思いながら。
一息の区切りを見計らい、
巴は口を開く。
「今日電話したのは、報告ついでに別れを言いたかったから」
『別れって―――』
「私、一人暮らし始めたの。年内には仕事の都合で海外に転勤してその後も転々とするみたいだから、もう連絡は取れないと思って」
『……そう』
母親の声からは何の情も読み取る事が出来ない。残念に思っているのか、それとも。
少なくとも
巴を引き留める言葉は一切も無く、だからこそ彼女は決心を強めた。
―――私の居場所は、あちらで良い。
『―――元気で、やっていくのよ』
「うん。じゃあね」
別れの挨拶を告げた後、先に切ったのは
巴の母親……だった人物。
途絶えた事を知らせる通信音が受話器から聞こえる。その音に耳を傾けたまま、受話器の取手を強く握り締めた。
「―――さよなら、母さん」
電話を掛け終えると共に、絶縁に対する複雑な感情を胸に押し留めて。
巴の周囲への縁切りは、その日を境に急増していった。