- 四章 -
和真の行方不明から大凡三ヶ月。
捜索は打ち切られ、悲愴を訴える夫婦は
巴の居候先を訪れるなり罵声を浴びせた。
……子を失った事への夫婦の当たり口が、彼女になっていた。
それを咎める者は居らず、
巴自身も顔を暗くするばかりで反論も出来ぬまま。
やがて、
巴が居候する事が迷惑だと伯母に告げられて、彼女はついに伯母宅より出奔をしてしまった。
八月上旬の野外は何処も灼熱の地と化して、仕事や私事で道を行き交う者達を苦しめる。額に汗を滲ませ、影あらば僅かでも身を踏み込ませて陽射しより逃れる。特に、大通りではそういった者達の行動がよく目立っていた。
そうして小さな公園の隅に一つ聳える大樹の下、木陰に入り陽から逃れる者の姿は、二つ。
優香と
巴、どちらも夏なりの軽装を身に纏う。片手には自販機で買ったばかりの缶飲料が握られていた。
「良いの?」
「うん、今日はバイト休みだから」
言って、
巴はぐいと一気に飲料水を含む。
―――あれから、出奔の後。
巴の働き先は既に時給の高い方へと移り、店長の紹介によって古いアパートの一室を借りることが出来た。午前六時から午後三時まで働き、終えるなり要の通う高校へと向かう。……尤も、今は夏期休業中に入った為に態々足を延ばさずとも良いのだが。
まるで砂漠のように揺れ歪む遠景を遠巻きに眺めて、優香はふと大樹へ寄り掛かる
巴を見上げた。
「それで……あの子は見つかったの?」
「ううん。手懸り一つ見つかりやしない」
「そう―――」
聞かない方が良かったかもしれない。優香がそう気を落とせば、
巴は軽く笑って手をひらりと振る。気にするなと一言声があって、俯きかけていた頭がさらに垂れた。……三ヶ月前、彼女が責められていた事を知っているからこそ、尚更に申し訳ない。
ふと佇んでいた気配が移動して、顔を上げた優香はその背を目で追う。後ろで手を組むまま、陽射しの注がれた遠景を眺めている。少しして、明る気に放たれる言葉。
「今日ぐらいかな。和真と会ったのは」
影間際で立ち止まった少女の後姿は、どこか寂しげに見えた。
「これからどうするの?いつまでもそうしている訳にはいかないんでしょう……?」
優香の問いに、
巴は振り返る。彼女はまるで何かを察しているようだった。その様子に苦笑を零して、うん、と頭を縦に振る。そのすぐ後に、はっきりと返答を告げた。
「逃げたまま帰るつもりはないよ。だけど―――まだ、心が据われないから」
和真の行方は依然として知れぬまま。
だが、消え方としては神隠し―――あちらへと渡った可能性は無きにしも非ず。それを確かめる術は無かったが、蝕が無くとも十二国へ渡った例は以前耳にしていた。
そうして、
巴は思う。
少年はもしや胎果なのでは……と。
考えに耽る
巴を見やって、優香はただ心配そうな情を浮かべて言葉を掛けた。
「……頑張って」
「うん」
ありがとう、と小さく礼を告げた
巴は、顔を綻ばせて微笑んでいた。
◇ ◆ ◇
夜陰が下りても、外の蒸し暑さは変わらず風までもが生温い。半ば鬱陶しく思いながらも気分転換の為に海岸へと赴いた
巴は、周辺を暫し散策していた。
辺りに人影はなく、ただ静かな波が岸辺へと打ち寄せる。街の喧噪とは程遠い地で、様々な事柄を思い起こす。……不意に甦る少年の笑顔に胸が痛んだ。
防波堤の上へと腰掛け足を投げ出すと、潮の匂いが鼻を突く。闇を漂わせる海面には月の影が歪に映り、漠然とそれを眺めていた―――刹那、波が逆巻き始める。
それは以前にも、
巴が見た事のある光景。かつて十二国より帰還する為に創られた蝕の現象……虚海の海路。
「まさか―――」
巴は自然と身を傾けて、海をまじまじと見詰める。環は何重にも交差して門を模り淡く光を放つ。波は高くなり、最中門の中央より一つの光が闇夜へ向けて放たれた。
仰ぎ見た
巴の視界には、長く伸びる光跡。
岸辺へ向かい滑り落ちていく小さな光……それは、鮮明となってようやく正体を突き止める事が出来た。
雌黄の毛並み、金の鬣、纏う燐光―――。
日本に存在する筈のない、神獣の姿―――麒麟。
鹿にも似た体躯は上空にて翻り、真直ぐに少女の元へと駆け下りてくる。闇の中光を帯びる輪郭が鮮明となって、
巴が腰掛けていた防波堤の上、彼女の真横へと蹄を鳴らして着地した。
戸惑いつつ
巴は覚えある麒麟の名を呼ぶ。
「……六太?」
返答はない。代わりに、雌黄の体躯が縮む……否、縮み容が溶けるように見えた。思わず目を見開いたところで、上空より降りて来る一つの影に気が付き顔を上げる。ぐずぐずと溶けかけたものは妖魔の名を口にした。悧角、と―――。
狼にも似た妖魔の口元には、布袋に包まれた何かが咥えられている。それを、少年の姿を形成した者に差し出す。急ぎ包みに手を伸ばした少年―――六太は、隣の少女があからさまに顔を背ける様を見やって、思わず苦笑を落とした。
「悪い
巴、そんなつもりは」
「仕方ないよ、転変したら―――うん」
半ば言い聞かせるような言葉を吐く
巴は、明らかに動揺の色を窺わせていた。延麒は再び侘びの言葉を入れると、そそくさと袖を通し終える。身形の崩れを整え終えて、ようやく少女を振り返った。
「
巴―――久しぶり」
「一年半ぶり、かな」
巴は指を折り数える。彼此一年と七ヶ月……その過ごした時の中で、様々な出来事があった。走馬灯のように駆け抜ける過去の記憶は鮮明に、そして痛烈に。未だ区切りのつけられない思いを胸に抱いて、浮かぶ情は混濁していた。
静まりつつある波を横目に、延麒は首を捻る。
「泰麒は、」
「……泰麒の時の記憶が全部抜けてる。体調はまだ良いようだけど」
「……そうか」
延麒は軽く相槌を打つ。記憶喪失については以前より予想していた事だったために、然程驚きはなかった。それよりも体調についての報告の方が彼には意外に感じられた。それが彼女のお陰だと言うのなら、嘗ての一日半の講習は有功であったといえる。
ほっと胸を撫で下ろして、延麒は改め
巴の顔を覗き込んだ。
「景王が泰麒を連れ戻そうと動き始めた」
「陽子が……」
思わぬ名に、
巴は思わず目を瞬かせる。同時に胸内の底より一つの希望を見出す事ができた。
これで泰麒はようやく居るべき場所へ戻る事が出来るのだと。
「他国にも協力を要請するつもりでいる。九月にはこちらに人員を送る事も出来そうだし……あともう少しだけ、泰麒を頼む」
「分かった」
巴の頷きを確認して、延麒は悧角を呼ぶ。背後より姿を露にした指令は体躯を伸ばし防波堤からゆっくりと下りる。延麒の隣へ並び立ったところで台輔と呟く声が上がった。一瞥のみ視線をやって、延麒は防波堤から悧角の背へと飛び乗った。
「帰る?」
「ああ、本当は一日探そうと思って此処まで来たんだ。けど、泰麒の状態も聞けたし、他に探していた雛も無事蓬山に帰ったらしいから、こっちに用事は無くなった」
「そう……」
視線を逸らし、
巴は僅かに項垂れる。久方ぶりの再会を嬉々とする状況でない事は理解していたが、それでもやはり別れとなると惜別の念が内心に犇き渡る。その思いをどうにか留めて、延麒を見やる。
「
巴」
名を呼ばれて、肩に僅かな力が入る。次いで、真摯とした表情に
巴は口を引き結ぶ。
「―――頼む」
胸に浸透する、託された意志。
真摯として告げられた言葉に、力強く頷いてみせる。引き受けた大役に戴の未来が掛かっている事を胸内に思い起こしながら。
巴はそのまま、振り返る事なく走り出す。
背後で小波の喧騒が聞こえていたが、彼女は聞こえぬふりをしたまま夜道を駆け戻っていった。
◇ ◆ ◇
八月最下旬某日。
巡回を終えて署へ戻ってきたばかりの砂沢は、突如上司に招かれ共に休憩所へと赴いた。
西園寺は長椅子に腰掛けながら煙草を手に取る。目前の机に乗せられた灰皿を手前へ引き寄せ、隣に腰掛けた部下を一瞥した。
疲労の嵩む顔を俯かせる砂沢を余所に、西園寺は点火前の煙草を口端に咥え込む。ライターを手に取って、言葉を投げかけた。
「お前、神隠しの事件に首を突っ込みかけてるらしいな」
「それは―――」
言い渋る砂沢に、西園寺は大きく溜息を吐く。部下の気持は理解出来ていたが、あれは危険であると判断して避けていたのに。彼はよりにもよって、その事件に興味を持ってしまった。
その件が気に掛かって仕方がなく、こうして呼び出した次第なのだが。
「やめとけ」
「ですが、それでは彼女達の記憶は曖昧なままです。まだ行方不明の者が二人……いえ、三人も居るのに手懸りだって、」
途端、砂沢は不意に言い止す。怪訝な面持ちで向けられた視線を受けて、言葉が喉に閊えた。次いで落胆の色を浮かべて肩を僅かに竦める西園寺は、咥えていた煙草を手に取る。部下に向けた視線には、冷ややかな情を含ませて。
「砂沢―――」
「……これ以上の行方不明者を、出したくはないんですよ」
彼の内心には、初めから退く気など毛頭無かった。たとえ上司からの忠告を受けたとしても、密かに手懸りを探すつもりでいた。そこまで首を突っ込もうとするのは、恐らくあの少女の哀愁漂う表情を垣間見たからだろう。彼はそう思いつつ、隣で煙草に火を点けた上司の顔をじっと見据える。
その視線に耐え兼ねたのか、大きく吐き出した煙と共に溜息が落とされる。じろりと目線を合わせて暫し沈黙を落としていた西園寺は、再び煙草を咥え直して立ち上がる。目前に並ぶ自販機前まで歩くと、上着の内ポケットより財布を取り出した。
最上に並ぶコーヒーへ視線を留めながら、時化た顔付きをしたまま口を開く。
「……どうしてもって言うなら、二つ奇妙な事を教えてやる」
「奇妙?」
首を捻る砂沢の耳に、がこんと缶の落ちる音が聞こえる。灰皿があるにも関わらず、飲み終えた缶を灰落としの代わりに使う上司の癖は未だ直っていないようだった。
ゆっくりと振り返った西園寺が、空いている左手の指を一本立てて見せる。
「一つ、その事件に首を突っ込んだ奴ら全員が大怪我をしている」
砂沢は思わず息を呑む。祟るとは聞いていた……だが全員という言葉に、それが上司の警告である事が窺えた。つまり、深く関われば怪我をするぞ、と―――。
部下である自分を心配しているのだと思う反面、事件から早く手を引けと脅迫を受けている気がした。
さらに立てられた指が一本増えて、西園寺は言葉を紡ぐ。
「もう一つ―――去年三月の記憶喪失者は、他の喪失者と皆面識が深いって事だ」
これには砂沢も思わず顔を顰めていた。裏を返せば、彼女を調べれば何かが出てくる筈だと解釈せずにはいられない。追求しようとしたところで、勿論、とさらに事実は続け様告げられる。
「四ヶ月前に消えた、北山和真ともな」
「―――まさか」
「事実そうなんだよ。その日は一時巷を騒がせていた坊主も一緒だったそうだが」
祟ると噂をされていた少年。彼もまた、神隠しに遭った一人だった。そして四ヶ月前、浅い川に落ちた四歳の少年が行方不明となった。その川の深さは、平均的な大人が浸かり胸部にも達しない程度。明らかに底の見える緩やかな川へ落ちたというのに、四ヶ月が経過した今も発見の報告はない。そして、その二者と面識ある人物。
――― 一体何があったというのだろう。
「くれぐれも、怪我には気を付けろよ」
買った缶コーヒーを一気飲みして、灰を缶の中へ払い落とした西園寺は未だ長椅子に腰掛ける砂沢へと目を向ける。
願わくば、部下が事故に巻き込まれる前に手を引いてくれる事を胸内で祈りながら。