- 三章 -
《 ――― 王 ――― 》
《 ――― 泰麒 ヲ ――― 》
巴の日本帰還から、大凡一年と二ヶ月。
無事に年を越し、要は週に四日ほど伯母宅へ招かれるようになった。度々泊まりに来る和真にも懐かれ、屋根裏部屋に集まり話をする時間は楽しく思えた。
―――少なくとも、
巴も要も和真も、心からそう思っていた。
「要、五月の連休に何処か出掛けない?」
巴の唐突な提案を受けて要と和真は顔を上げた。遠出は初詣以来に無く、来たる連休の予定も全く立てていない。和真の休日は常に此処であったし、要も差して何処かへ赴こうとは考えていなかった。
要は本へ釘付けていた視線を逸らすと僅かに頭を傾げて、寝台上の彼女に問う。
「何処か、ですか?」
「電車を乗り継いで、森林公園にでも遊びに行ったりとか」
寝台の上に置かれた雑誌。よくよく見れば、それが旅行雑誌である事が分かる。数冊の間から薄いパンフレットを引き抜くと、大雑把に目を通していた。和真もまたそれに倣って雑誌を開くが、少年の眼に映るのは連なった説明文ではなく写真のみ。
子供ながら顔を顰めつつ眺めている和真の横顔に要は笑って、少年の横から捲られた雑誌を覗き込む。右上には、深緑に彩られた渓谷の写真が載せられていた。
和真は頭を上げて、
巴の顔を覗き込む。
「僕は?」
「親御さんの許可が下りたらね」
丸い双眸が瞬かれる。その様子に苦笑する
巴につられて要もまた笑みを零し、少年の手元に載せられた記事に視線を落とした。
―――新緑生い茂る、草原の丘。
風景に覚える懐かしさ。それが、絵を描く際の感覚に酷似している。……想像ではない、あの絵に。
「
巴さん―――」
「うん?」
「此処に、行ってみませんか?」
要は雑誌の一箇所に指を差す。和真も
巴もそれを覗き込むと、まじまじと写真を眺める。晴天の日、外で弁当を広げるにはちょうど良い場所のように見えた。
所要時間は大凡一時間半ほど。朝方に余裕をもって出立すれば現地でゆっくり出来るだろう。そう考えながら、
巴は一つ頷く。
「じゃあ此処に行こうか。和真の親御さんには後で連絡するから」
「―――うん!」
満遍の笑みを浮かべる少年は、大きく頭を振って応える。二人はいつの間にか弟のような存在として和真を親しんでいた。それは今も変わる事無く、親の未許可にも関わらず三者の旅行話は次第に発展していく。
話が打ち切られたのは、伯母が食事時を呼ぶ頃になってからの事だった。
◇ ◆ ◇
五月連休の中日に入れた予定は、当日になって人数が倍となっていた。
和真の両親と伯母も付き添いで行く事になり、込み合いもあって電車を乗り継ぎ大凡一時間。その後バスと徒歩で四十分をかけ、目的地はようやく姿を現す。
草原と思われていた写真の場所は、なだらかな丘の上に広がっていた。
緩やかな斜面から一望する景色は爽快で、遠景には山の輪郭が碧く霞む。丘一面に生えた草花が風に揺られて棚引く。緩やかな斜面を下った先には、底浅くも細い川が流れていた。
頭上は蒼穹の晴天。来る夏を前に陽射しは暖かく、程よく風が吹き渡る。良い日に恵まれたと遠景を眺めながら
巴は思う。
「
巴、要!晴れて良かったね!」
両親と手を離してくるりと振り返った和真は、背後の二者を見上げる。どちらも景色に目を奪われて、視線はようやく声のした手前へと下りていく。嬉しそうな少年の顔に、
巴も要も思わず顔を綻ばせた。
「そうですね―――本当に良い天気で」
「うん!」
大きく頷いた和真は、傍らの両親に話しかけ、丘の麓を指差す。そのまま伯母や両親と共に丘を下っていく様子を見送って、ただ二人だけが丘の上に残された。
小さくなる四人の背から視線を逸らさず、要は小さくも言葉を零す。
「―――懐かしい気がするんです」
「懐かしい……?」
頭を傾げる
巴に、要は一つ頷く。
「以前に、此処とよく似た場所を知っている気がして」
「要―――」
微かな戸惑いの色が浮かぶ顔を横目で見やる。思い出そうとしているのだろう、遠景へ据える眼が僅かに細められる。
巴は答えを解っていたが、口に出す事は出来ない。今ここで正体を明かして、どうなるか分からないのだから。
暫しの後に顔を俯かせる要に、
巴は軽く肩を叩いた。
「あまり、焦らない方が良いよ」
「でも……早く思い出さないと、」
―――大事な何かを失ってしまう。
何かは分からない。だが、焦燥は日が経つにつれて胸内から湧き上がってくる。確証は無かったが、敢えて言葉にするのなら、それは恐らく本能だろう。
王との誓約を忘れてしまった、故の焦燥。
《 泰麒 》
不意に女怪の声が
巴の耳に届く。はたと彼の足元に視線を下げると、白い腕が草の陰間から伸びていた。
「―――汕子」
「え……?」
「いや、何でもない」
巴は首を振って言葉を誤魔化す。記憶のない状態で女怪の事を話す訳にもいかず、まして要は女怪の腕に気付いていない。無為のまま話せば何かが崩れ落ちるような気さえしていた。
要は彼女の誤魔化しを差して気にする事なく遠景へと視線を戻す。その様子に
巴はほっと内心安堵の息を吐いて、その場にゆっくりと腰を下ろした。
巴に倣い要もまた草原の中に腰を落ち着かせる。
風が通る度に擦り合う草の音が、時の流れを穏やかに感じさせていた。
「……ひとつ、聞いていいですか?」
「うん?」
突然ぽつりと隣へ向けられた言葉に、
巴は瞑っていた瞼を薄く開いて少年を見やる。彼の視界は未だに遠景を捉えていた。それでも、彼の問いは続けられる。
「あなたは、ぼくの事を気に掛けてくれている……でもそれは、何かしら理由があるんですよね?」
疑問を持って訊ねる要の横顔は真剣そのものだったが、
巴は顔を綻ばせて彼の肩を軽く二、三度叩く。そうして、一つ首を振って応えた。
「―――いずれ、分かるよ」
応えはあったが、答えを先伸ばしにするような言葉に要は思わず困ったような顔をした。
だが、その反応を余所に立ち上がった
巴は背を伸ばす。その姿を要は仰ぎ見つつ草の音色に耳を傾けて……刹那、水の爆ぜる音と共に悲鳴が丘の上にまで反響する。
二者は同時に丘の麓の方角へと目を向ける。近辺の水音と言えば、川しかない。
「ちょっと行ってくる。荷物番お願い」
「分かりました」
袈裟懸けしていた荷を放り投げるや否や、
巴は伯母たちが下りて行った方角へ向かい駆け出す。彼女の胸騒ぎは蟠るまま、全力疾走で川へと向かっていった。
―――事態は、騒然としていた。
水面に向かい叫ぶ和真の母親、その傍らに寄り添う父親。その場にしゃがみ込む伯母。姿の見えない、赤髪の少年。
和真が川に落ちてしまった事のみを理解して、
巴は川端に駆け寄る。沈んでしまったのなら、助けなければと。
だが、そんな筈はない。
―――底まで透き通って見えているのに。
「和真……和真は何処に行ったの!?」
母親の叫びは、
巴に胸を穿つような衝撃を与えた。次いで、脳裏に浮かんだ言葉は。
……神隠し、と。
◇ ◆ ◇
暫くして、地元の警察が現場に到着した。
捜索は夕刻まで続けられたが、結局少年の姿を発見する事は出来ず。
署の控え室で捜索の結果を待つ
巴たちは、悄然と、また落胆の色を落とし黙然としていた。
高里家には既に連絡を入れ終え、要もまた連絡を待つ。隣に佇む
巴は悲痛な情を隠しつつも眉を顰めたまま瞼を伏せている。だが当然、彼女以上に心を酷く痛ませているのは和真の両親だった。
「こんな所に誘われなかったら……」
顔を伏せたまま涙ながらに呟く和真の母親に、寄り添っていた父親も頭を垂れる。大切な一人息子が行方不明になり、正気でいられる筈もなく。不意に顔を上げた母親は、視界の端に映った少女へと振り向き睨めつけた。
「そうよ……あんたが誘ったんだもの……あんたの所為よ!!」
悲鳴にも似た言葉に、おい、と咎める声が上がる。八つ当たりのような言葉を受けて、
巴は目を見開きながら女性の方角へと顔を向ける。向き直った少女には、突き付けられる指。
「あんたの所為で和真は―――!」
「止めないか……!」
食って掛かる母親を、父親と伯母が宥めようと肩を押さえて引き戻す。
巴はただ視線を彷徨させて、貌に困惑の色を浮かべる。騒然となりつつある控え室に、突如扉の開く音が聞こえた。
入ってきた者が警官数名だと分かるや否や、母親は縋るようにして彼らの元へと駆け寄った。
「どうでしたか……!?」
今にも鳴きそうな母親の問いに、彼女の欲しかった一報はすぐに跳ね除けられる。
「必死の捜索にあたりましたが……残念ながら、発見する事は出来ませんでした」
「……うそ、」
口元を震える手で押さえたまま、ふらりと数歩後方へと退がる。悲痛な顔を見ていられなかったのか、警察官の誰もが視線を逸らし、顔を俯かせていた。
次いで、更なる捜索の依頼をする母親に、警察官の一人が頷き案内をする。男性もまた足取りの定まらない妻に付き添い控え室を出て行こうとして、途端女性が勢いよく背後を振り返った。
「和真が見つからなかったら、あんたは人殺しと同じよ!!」
「奥さん……!!」
思わぬ言葉に、警察官が控え室から女性の退出を促す。それに協力しながらも
巴に一瞥をやった男性の目には、僅かな怒りが篭められていた。
閉められた扉の内には警官一人と三者のみ。複雑な色を浮かべたまま拳に力を篭める
巴に、身体を折り曲げ伏せっていた伯母がぽつりと呟く。
「貴女の所為じゃないわ」
伯母へと視線を移す
巴は、面を上げた彼女の顔を見やる。目に涙を浮かべて、視線は床へ落とされている。それはまるで、視界を他へ向けたくはないようだった。
「貴女を信用していた私が悪かったのよ」
言うなりゆっくりと椅子から立ち上がり、伯母もまた夫婦の後を追う為に控え室から消え行く。その言葉に驚愕を露にしたまま、
巴はただ呆然と立ち尽くす。
刹那、少女の見せた無言の嘆きが、暫しの間止むことは無かった。