- 二章 -
八月初旬。真夏の日々が往来する中、
巴は差して何事もなく帰還から五ヶ月の時を過ごそうとしていた。
早朝の仕事を終えて帰宅した
巴は、普段通りに居間へと顔を出す。テーブルに頬杖を着きながら新聞へ視線を落とす伯母は、ふと足音に気が付いて顔を上げた。普段通りに労いの言葉を掛けて、席を勧める。従って椅子の背凭れに手を掛けたところで、
巴は普段はないものに気が付いた。
テレビの前に置かれた、ソファの向こう。
「……伯母様、あの子は?」
「うん?」
指を差した方角には、ソファに横臥する子供の姿。一見して五歳にも満たない幼年の子供に、
巴は瞬きを繰り返し凝視する。そうして背後を振り返ると、マグカップを片手に持っていた伯母は表情を嬉々として子供を見やった。
「ええ、私の孫なの」
「孫―――」
「三日間預かる事になったのよ。もし良ければ、遊んであげてね」
「はぁ……分かりました」
頷いた
巴は椅子へ腰掛けつつも再び子供の姿を眺める。やけに綺麗な赤毛が第一印象として彼女の脳裏に残った。
数時間後、伯母の外出によって居間に残された
巴は仕方なく子供を連れて屋根裏部屋へと上がる。
部屋では暑さを紛らわせる為に扇風機を首振りにするが、ただ生温い風が解放された窓へ緩々と流れ出るだけだった。外は無風に近く、蝉の復唱が酷く重い耳鳴りのように聞こえるだけで、暑さは刻々と昇りゆくばかり。
巴は重い溜息を吐いてちらりと子供を見やる。……涼しげな顔が、僅かに羨ましい。
「ね、きみ」
「うん?」
寝台に横臥する子供は顔を上げて
巴を見る。首を傾げる様は実に子供らしい。
「名前は?」
「和真っていうの。おねえちゃんは?」
「私は
巴」
「
巴!」
突然の称呼に
巴は苦笑を零す。子供であるからと妥協しつつも窓際の椅子へ座り直すと、視界の端には陽射しの降り注ぐ道路が見える。灼熱に歪む遠景は何処か遠い国を思い浮かばせた。
窓枠に凭れ掛かる少女の後姿は、逆光の陰となって和真の視界に映る。寝台の上でぼんやりとその光景を眺めていると、不意に
巴が振り返った。
「和真君はいつまで居るの?」
「八月いっぱい」
「―――そっか」
五歳に満たない子供のはっきりとした答えに半ば驚きながら、
巴は頷く。扇風機の風に煽られ揺れる赤毛はよく目を惹いた。染め抜いたような猩々緋は、
巴の脳裏に東の王を甦らせる。……だが、それを振り払うかのように扉の開く音と帰宅した者の明るい声が階段下より聞こえてきた。
ただいま、とはっきり告げられた声に和真は目を輝かせて屋根裏部屋の階段を下りていく。消えていく小さな姿を
巴は見送って、途端ひょっこりと扉の間より現れた頭にぎょっとする。
「
巴も行こう?」
「う、うん―――」
向けられた笑顔と共に、右手を掴まれる。
巴の手を握る小さな掌は、暫くの間離れることは無かった。
◇ ◆ ◇
夕刻時、蒸し暑さが僅かに軽減される頃に
巴は屋根裏部屋を出る。僅かな小銭が入る財布をポケットにしまい込むと、居間に居る二者に声を掛けて家を後にした。
家の脇に立て掛けられた自転車を引き出して、ゆっくりとペダルを踏み漕ぎ出す。緩やかな風を身体に受けて、
巴は目を細めつつさらに踏み漕ぐ。向かう先は通学路の通りにあった。
だが―――十字路に差し掛かった
巴は、視界の端に映った人影を見るなり唐突に方角を変更する。その表情は驚きを貌に貼り付けたまま、信号が青に変わると共に自転車を軽く押し出す。人影は、徒歩のようだった。
「杉本―――!!」
「え……?」
人影が振り返る。どこかで聞き覚えのある声に疑問を抱きながらも、杉本優香は後方へと視線を滑らせた。
だが……そこには見知らぬ顔の女性。
何故名字を知っているのかと、募る疑心を抑えて女性の顔色を窺う。口元に僅かな笑みを湛えているのは、気のせいだろうか。
「良かった、人違いじゃなかった」
「あの……私、あなたを知らないのだけど―――」
「……ああ、この顔じゃあ分からないか」
困ったような顔をする優香に、
巴は苦笑を洩らす。胎殻のある状態で対面した事は無かったのだ。僅かの間を迷って、閃いたように言葉を口にする。
「
江寧と言えば分かる?」
「え―――
江寧、さん?」
うん、と頷いてみせる
巴の姿に、かつての面影は見られない。戸惑いながらも顔をまじまじと見詰める優香に、
巴は困ったように笑っていた。
「―――時間があるなら場所を変えて話さない?私、あなたに聞きたい事があるの」
自転車を押しつつやってきた公園には、ちらほらと遊ぶ子供の姿が見受けられる。はしゃぐ子供達の姿を遠巻きに眺めながら、近場の廃れ掛かった木製のベンチに二者は腰を下ろした。
途中、自動販売機で買った缶飲料は既に生温くなっている。二者はそれを片手に、喧騒とは言い難い程の騒ぎを耳に聞き届けていた。
「……あの世界から戻って来て、もうじき一年が経つのね」
ぽつりと優香が零した言葉は、独り言を洩らしているようにも聞こえる。何処へ向けて話す訳でも無かったが、
巴は無言で頭を縦に振る。
「―――中嶋さんは」
「変わらず元気だよ。益々王様らしくなってきたし」
「そう……」
複雑ながらも思い起こすように遠景へ視線を彷徨させる。昨年七月の乱を見届けて、優香は日本への帰還を果たした。あれからどうしているのかと心配をしたところで、その心はかつての友人に届くことなどなく。知る術を持たない彼女の前に現れたのは、あちらに居た筈の者。以前関わりのあった少女だった。
……だが、と優香は思う。
彼女が何故こちらに居るのか。自分を引き止めて、何かしら用があるのだろうかと。
不思議に思い隣の女性へ視線を向けると、
巴はただ笑うのみ。
「
江寧さん、どうしてあなたが此処に」
「泰麒を探しに」
「それって―――」
躊躇うように言葉を喉に閊える優香に、
巴はあっさりと答えを告げる。
「戴国の麒麟。彼が帰るまで手助けをする為にこっちに戻ってきたんだ」
彼女の言葉に、ああ、とようやく優香は思い出す。彼女は元々こちらに住んでいた。その事をすっかり失念していた。
巴から逸らした視線は自身の手元へ落として、顔を僅かに俯かせる。
―――彼が帰るまで、手助けを。
「帰ったら、あなたはどうするの?」
「うん―――あっちに戻るつもり」
そう断言する
巴に、優香は頭を傾げる。
「いいの?あなたの居場所は」
「此処で作ろうと思えば作れる。けど、私はあちらへ戻ると多くの人に約束をした」
恭国連檣の者達。慶国尭天の者達。
彼らから様々な教訓を学び、多くの知識を教わった。感謝は耐えない。だが、未だ多くの者達に礼を返す暇もないまま日本へ来てしまった。その上、此処まで戻り手の平を返すような事はしたくない。
膝上に乗せた拳に力を篭めて、
巴は重い溜息を吐く。それから気を入れ替えるように笑って、隣の少女へと顔を向けた。
「また、会ってくれる?」
「ええ……
江寧さんが良ければ」
ありがとう、と柔らかく微笑みかけて、ベンチの凭れに寄り掛かる。
周囲はじき、夜陰が下りようとしていた。
◇ ◆ ◇
すぐに優香と別れを告げ、自転車を押して居候宅に着いた
巴は周囲を改めて見渡す。既に陽が暮れている中、街灯が道を照らして昼間と錯覚を受けそうになる。頭を振ってその感覚を払い、家の脇に自転車を止めてから玄関の扉を開けた。
「おかえり!」
入るや否や小さな駆け足が聞こえて、玄関前に明るい紅緋が姿を現した。駆け寄ってくるものだと思っていた
巴は、そのまま玄関前に腰を下ろして三つ指を着く少年の姿に目を丸くする。次いで、居間から聞こえるテレビの音に和真の行動の意味をふと思い当てる。
「―――和真君、今度は何を見たの?」
「時代劇!」
はは、と僅かに苦笑を零して小さな子供の頭を撫でる。やや口を引き結ぶ、三歳にして覚えの良い少年の瞳はまっすぐに
巴を見上げていた。撫でる手を留めて、自然と頭を傾げる。
「どうしたの?」
「
巴にお客さん。お父さんってひと」
和真の言葉に、
巴はぴくりと手を止める。
酒に溺れ、暴力的だった父親。家庭を大事にする事もなく、身勝手極まりなかった男が今さら、何の用で。
怒りは僅か数秒で脳裏を通り過ぎていく。男が帰るまでは怒りを抑えていようと考えつつ、
巴は靴を脱ぎ玄関に上がる。いずれ話し合う予定を引き伸ばしていたに違いはない。今一度気持を据えて、それから居間へと続く廊下を歩き出した。
巴が居間へ顔を出したところで、伯母が椅子から腰を上げる。心配を抱えて少女を見やる伯母の横には、無精髭を生やした男の姿があった。男はただ何も言わず少女を睨むようにして眺めている。上下する視線は、さも品定めをするかのように。
視線に不快を感じ顔を顰めた
巴は、場から一歩踏み出すと冷淡に告げた。
「何の用」
「四年も姿晦ました上に、よくもでかい面して居座れるもんだ」
「酒に明け暮れて暴力を振るう男よりはましだと思ってる」
「んだと―――」
乱雑に椅子を引き倒して立ち上がった男はかつて娘であった少女を見下げる。その背後には顔を覗かせる子供の姿。丸い双眸が男をじっと捉えていた。
「離婚した時点で父とは思ってないから」
「てめえ、十五年間誰が育てて来たと思ってんだよ」
「母さんと私自身だけど」
「ふざけんな!」
突き出された拳に、頬が弾ける。
倒れかけた身体を壁に着いた腕で支えて、
巴は男を睨めつけた。殴られた頬はじんと痛みを訴えるばかりで、別段彼女の心が痛む事はない。
伯母は微かに悲鳴を上げる。その声を聞きながら体勢を立て直すと、途端
巴の腹に膝がめり込まれる。今度こそ、少女の身体が傾いた。
「
巴……!」
「今まで食わせて来た分、返してもらうのが当然だろ!ああ!?」
二度、三度。倒れた身体に続け様蹴りが入れられて、
巴は歯を食い縛り耐えていた。鈍痛が腹を襲う中で、ようやく男の気配が離れる。背後で座り込む和真の様子を薄く開いた横目で見やって、
巴の拳が怒りに震えた。大きく息を吸い込むと、数回その場で咳き込む。
少年に、目前で暴力を見物などさせたくは無かったのに。
「―――私は、」
巴はゆっくりと身体を起こす。足取りの覚束ないままゆるりと立ち上がり、刹那―――握り締めていた右手を男の顔面に向けて振り上げた。
「お前を食わせる為の人形じゃない!!」
思わぬ反撃に面食らった男は後方へと仰向けに倒れ込む。仰臥したままの男を見下ろしたまま、
巴はすっと息を吸い込み、胸内の言葉を吐き出した。
「働きもせずそういう言葉を口にして、恥ずかしいとは思わないのか!」
ひしひしと伝わる怒り。
唖然とする伯母と和真を視界の端に捉えながら、
巴は綴る言葉を止めようとしない。
「私とお前はもう他人も同然なんだ……いつまでも父親振るんじゃない!!」
居間に満ちる気迫によって僅かにたじろぐ男は、殴られた口と鼻元を掌で覆いながら上半身を起こす。娘だった少女の顔には、悲痛にも酷似した怒りが刻まれている。
巴はわなわなと震わせる拳をゆっくり開いて、深く一呼吸をする。そうして、訣別の意を込めて言葉を口にした。
「もう二度と、関わらないでよ」
言い捨てるなりそそくさと居間から引き上げた
巴は、屋根裏部屋に踏み込むや否や寝台に伏臥する。心配で後を追ってきた和真は扉を閉めると、彼女の隣に駆け寄り寝台上に腰掛けた。
「怪我、大丈夫……?」
「……ちょっと痛いけど、大丈夫」
巴は痛む腹に笑いを引き攣らせる。まさか仙だから、とは言えまい。尤も、治癒が早まる事は有難いのだが。
そう思い苦笑しながら半身を起こすと、心配そうに見上やる和真の顔が視界に映る。
「喧嘩はだめよってお母さん言ってた」
「和真はしなくて良いの」
「
巴もだめだよ」
口を引き結び強気の口調で言葉を放つ和真は、大きく首を振った。
「痛くなるのは、見たくないよ」
今にも泣き出しそうに顔を歪める和真の姿に
巴は思わず目を瞬かせ、次いで痛みを隠し柔らかく笑った。小さな子供が心配をしてくれる事に嬉々として、
巴の左手が和真の頭を撫でる。先程の鋭利とした空気を微塵も感させる事なく、口元が弧を描いた。
「―――ありがとう」