<div align="center">- 一章 -</div> 日中に騒ぐ風は、陽射しの暑さを緩和させる。足元はアスファルトからの照り返しを受けて些か暑さを感じるものの、点々とある木陰へ足を踏み入れると僅か一時の間に熱さを忘れる事が出来た。
じき初夏と梅雨を迎えようとしている五月最後の休日。二人が向かった先は、彼女の住処。
巴に宛がわれた屋根裏部屋だった。
「お帰り
巴ちゃん。いらっしゃい高里君」
「ただいま、伯母様」
「お邪魔します」
二者は其々挨拶を告げると、靴を脱ぎ家の中へと上がる。
玄関より左隅にある階段を軋みの音を立てつつ踏み上ると、目前に塞がる木製の扉を引いて中へと入る。……要を迎えに行く前に
巴が解放した窓からは、柔らかな風が吹き込んでいた。
「良い部屋ですね」
「ありがとう。……ああ、そこに座って」
窓付近に置かれた椅子を指差すと、後ろ手でドアを閉める。一つ頷いた要は言われた通りの椅子へと腰を下ろし、浅く掛けた。部屋に漂う花のような香りが酷く馨しい。
寝台へ腰掛けた
巴はふと、窓の風景を見やる要の姿を目に留めた。四年間の成長は未だ驚きがあるものの、差して態度が変わる訳ではない。安堵の息を吐くと同時―――彼には、大凡一年間の記憶に空白が存在する事を知った。……その一年間、十二国に携わる全ての記憶が、抜け落ちている。
果たして教えて良いものかと、
巴は一月余りの間頭を悩ませていた。
「……要」
「はい?」
「食事の終わりに、体が重くなったりしない?」
「え?―――ええ、確かにあります」
頷く要に、
巴の質問は続く。
「肉類を食べたいと思ったことは?」
「……いえ」
「頭を他人に触れられるのは嫌?」
「……はい」
「そっか。ありがとう」
彼女は笑顔で礼を告げる。……だが、内心は酷く焦燥にも似た情が急襲していた。
少なくとも、食を変えなければ要の容態は悪化し、最悪の場合に死を招き兼ねない。数日で頭に叩き込んだ知識を必死に掘り起こしながら、
巴は俯く。
―――どうにか、しなければ。
それから二人の間には些細な話が続いた。
世間の話題が主であったが、高里要の“祟り”について、
巴は一切触れようとはしなかった。要もまた、その話題を自ら口にしようとはせずに会話を続けていた。
刹那、階段下より彼を呼ぶ伯母の声が響く。よく通る声は屋根裏部屋にまで届き、要は自然と椅子から腰を浮かせる。
「要君、ちょっといらっしゃい」
「―――分かりました」
要は一度
巴へ視線を向けると、対する無言の頷きを受け取って、呼ばれるままに扉を開けて出て行く。そうして部屋に一人残された
巴は、異様な空気を感じ取っていた。
窓から差し込む陽は青白く、吹き込む風は途端に止む。場に生物の存在がある事を異様と感じるほどの気迫。ぴりぴりとした、まるで殺気に満ちた空間を肌に受ける。
扉の向こう、階段下の声は遮断されたように物静かになっていた。
「―――なに」
一言口を開く
巴の声音は僅かに落ちる。足元に帯び漂う冷気は、次第に下肢を這い上がる。思わず身を震わせて、
巴は不穏な影を視界に捉えた。……その形は、確実に陽によって出来た陰などではない。
獣の姿をした何かが壁へと這い登り、その存在を露とした。
- オ マ エ ハ オ ウ ノ テ キ カ -
突如脳内へ直接叩き込まれる言葉。低い呻りと共に問われた言葉の意味に目を見開くと、さらなる重圧を以って再び問われる。
《 オ マ エ ハ 、 王 ノ 、 敵 カ 》
「違う―――私は、慶国飛仙の者」
重圧に抗いながらの答えは、獣に疑心を与えた。ケイ、と呟かれた名の後に、
巴は意を決して言葉を発する。
「雁国延麒より、泰麒保護の命を賜り蓬莱へ来た……私は、王の敵ではない……!」
叫ぶようにして発した言葉は、窓が開いているにも関わらず外へ響く様子はない。これも獣の力かと脳裏に考えを過ぎらせて、視線は変わらず壁の陰へ釘付けている。彼女の額からは、冷汗が伝い落ちていった。
対峙は僅か数分。その数分が、
巴には遥かに長い時が経過したように思える。
……そうして、先に折れたのは陰の獣の方だった。
影は縮むようにして床の陰と混濁し、やがて冷気までもが消えていく。跡形もなくと思われたが唯一、強い潮の香りだけが部屋に遺されていく。
時が動き出したように、先程まで耳に届く事のなかった音が聞こえ始める。刹那、
巴は緊張の糸が切れたように後方の寝台へと倒れ込んだ。
要が戻ってきたのは、それから数分経過した後の事だった。
◇ ◆ ◇
―――お前は、王の敵か。
巴の脳内に叩き込まれた問いは、こびり付いて離れようとしない。些か鬱陶しく思いながらも、要を家まで送る為に玄関へ向かう。ふと見送りに来た伯母が玄関にて首を捻る様を眺めて、
巴もまた頭を傾げた。
「伯母様、どうしたの?」
「要君がお昼頃、呼びました?って一階へ下りて来たのよ」
「はあ……そうですね」
「私は呼んでないのだけど……
巴ちゃんも聞こえた?」
「―――ええ」
考えに耽る伯母の様子に、
巴は思わず眉を顰める。では、あの時聞こえた声は―――彼女もまた思考に浸りそうになって、慌てて引き戻す。今は、彼を送りに行くのだった。
「じゃあ、送りに行って来る」
「ええ、行ってらっしゃい」
「お邪魔しました」
「また来てね、要君」
「はい」
柔らかな声で見送る伯母と要を見やって、
巴は玄関の扉を開けた。
空は、今にも茜色に染まろうとしている。
ほぼ斜向かいに位置する高里家の門はぴったりと閉ざされていた。
要は隅に小さく造られた門戸を押して、背後に佇む少女を見上げる。彼が門を潜るまで、
巴は待ち続ける。一月の間に、それを知った。
「また、明日」
「ええ。また明日」
振り返り様、門越しに別れを告げると彼女もまた笑顔で手を振る。要はその様子に胸を撫で下ろすと、門戸をゆっくり閉める。そうして道端にただ一人残った
巴は、身を翻して帰宅への僅かな道を辿る。
……否、辿ろうとした。
「
清坂さん―――?」
突如として名字を呼ばれ、声の元を振り返る。そこには、以前
巴の病室へやって来た警官の姿があった。
すぐにドアノブから手を離し、彼の元へ向き直ると警官―――砂沢は小走りで駆け寄っていく。
「あれから何か、思い出したかい?」
「……いえ」
巴は静かに首を振る。胸内に僅かな謝罪を秘めつつも、この事実をまともに受け取らないのは当然の事なのだと思う。桃源郷は誰もが一度は思い描くものだが……所詮は夢物語の果てに現実を見る。夢だと断言を受ければ終わりで―――そもそも、あちらは桃源郷などではない。
顔を俯かせる
巴。その面持ちが砂沢には記憶を思い出せず意気消沈としている様にしか見受けられなかった。思わず同情を寄せながらも、彼女の肩を軽く叩いた。
「あまり、塞ぎ込まないようにな」
「はい―――あの、じゃあこれで」
「ああ」
砂沢の頷きを見上げて、
巴は踵を返すと小走りで玄関へ向かう。時は既に夕暮れ、長い道に羅列した街灯が点き始めて、辺りに満ちていた茜色が人工の光によって消え失せていく。彼女の背もまた照らされて、その背に再び声が掛けられた。
「ひとつ、聞きたい事がある」
「何ですか?」
ゆっくりと顔のみを向ける
巴。その姿に差して支障の見られない事を再度確認して、砂沢は問う。
「君は高里要と共にいて、怪我はしていないのか」
見開かれた眼には、ただ驚くばかりの色が浮かぶ。祟りの噂が本当かどうかなど、彼には確かめる術が無い。だが、高里要に関わった多くの者が死傷している事には違いない。彼女が未だ知らないのならば、一応忠告として教えるべきだと思っていた。
……だが、返答の言葉には情の欠片もなく。
「――失礼します」
巴は瞼を落とし丁寧に頭を下げる。それからそそくさと玄関の戸を開き、彼女は扉の向こうへと消えていく。
街灯に頭上を照らされたまま砂沢は一人、暫しその場に残されていた。