- 零章 -
曇天の下、海が啼いていた。
その日夜陰の降りた地は、逆巻く波と共に凛冽とした風が吹く。予報外の雪模様に誰もが身を震わせて、足早に道を行き交う。
荒れ狂う天候のもと、当然の如く防波堤に人影はない。海鳴は周囲を轟かせ、傾き降る雪は吹雪にも似ていた。
地をうっすらと覆う、白々とした綿塵。荒風に吹き飛ばされることなく落ちる雪は、冷え切った防波堤の上に伏す影の頬へと落ちて溶けゆく。
三月中旬の名残雪はただ深々と、地に身体を横たえた身へ降り積もっていった。
その日、警察署に一本の電話が舞い込んできた。
つい先程救急車で運ばれた少女の身元が不明のまま、困っているという。目を覚ます気配はなく、幾つか不審な点もあるので是非来てほしいとの要請だった。
了解の意を電話越しに伝えた警官――砂沢は受話器を置く。かちゃりと小さく音が鳴って、背凭れに掛けられた上着を片手に取る。
「病院か?」
砂沢が振り返る。彼の背後に立つのは、書類を小脇に抱えた中年の男性。首を傾げ、電話手前に走り書きされた付箋へ視線を下ろした。
「西園寺さん―――ええ」
「前にもあったな。昨年の七月に……名前は確か、」
「杉本優香ですか?」
「ああ、そうだ、それそれ」
軽く相槌を打つ西園寺は、砂沢の上司にあたる。ベテランにしては警官にある気難さを持ち合わせておらず、頭が固い訳でもない。ただ、巡回の際に仕事をこなす姿は一変、まるで別人のようだったと砂沢は思い起こしていた。
書類を机上へ乗せ、空く手を軽く振って西園寺は笑う。
「前は覚えていないの一点張りだったからなあ。来た親はすぐ連れ帰っちまったし」
「そうですね」
覚えてないない、とは行方不明中の記憶の事だろう。誘拐事件かもしれないと事情を訊ねようとしたが、少女は記憶に無いと言い続けていた。彼女の他に学友が二人消息が知れないと告げれば、それも知らないと返されてしまう。結局原因が明らかにされないまま戻ってきてしまったのだが。
「ま、行って来い。今度はもしかしたら覚えてるかもな」
「そうだと、良いんですが」
失笑を机に落として、砂沢は上着を片腕に掛けて歩き出す。おう、と背後より軽い返答が聞こえて、上司に見送られて彼は署を出て行った。
◇ ◆ ◇
署から然程遠くない場所に病院はあった。
周囲には個人の医院がぽつぽつと点在するのみで、入院できる程の総合病院と言えば一つしかない。大概の入院患者は五階建ての内最上階に纏められ、先程運ばれた患者もまた五階の個室に収容されていた。
一直線に続く小奇麗な廊下を看護婦に先導されながら、砂沢は運び込まれた患者の容態を訊ねる。
「意識は戻りました。ですが……まだ曖昧のようで」
「そうですか……」
昨年の少女もまた、訪ねた際に呆然としていた。首を振り続けられなければ良いと、砂沢の胸に淡い期待が宿る。思いを秘めたまま、目前を行く看護婦の足が留まる様子を視界の端で捉え面を上げた。
彼女の頭上には、507号室の部屋札。
「失礼します」
軽いノックを二、三度。それから取っ手を右へ引くと、遠巻きに見えたのは白いカーテンのみだった。縁起の良い色が病院では何故こうも悪く見えてしまうのかと僅かな息を零して、砂沢は看護師の後に続く。
「起きられました?」
「―――ええ」
カーテン越しに、若い声が聞こえた。短くも穏やかな声音にほっと息を吐いた看護婦は、視界を覆う白布に手を掛け一人分通れる幅まで引く。ようやく向こう側へ辿り着く事が出来た砂沢は、若い声の主を目にして、自然と眉を顰めていた。
―――なんだ、あれは。
穏やかな表情にかかる、白藤色。日本人にある筈のない、根元から染め抜いたような髪色は怪訝を思わせる。
上着は一見隣国の服装だったが、よくよく見ればまた違う印象も取らせる。……昨年の少女もそうだったと、思い起こして。
凝視の眼を向けられて、少女は困ったような顔をする。視線は泳いだ末に傍らの看護婦へ留まると、首を傾げた。
「すみませんが……あの方は、どなたでしょうか」
……彼の耳に聞こえてきたのは、たどたどしい日本語などではなく。流暢な言葉遣いは間違いなく日本人のものだった。
「警察官の方ですよ」
「砂沢と申します。よろしく」
「宜しく、お願いします」
差し出された少女の手は、傷だらけになっていた。
「名前は?」
「
清坂 巴です」
はっきりとした名乗りに、手帳を開こうとした右手が止まる。姓名共に聞き覚えがあり、それが以前両親の喧嘩の度に帰って来た学生の子であった事を思い出す。……同時、数年前に母親が涙ながらに捜索願を出していた光景が不意として脳裏に過ぎる。
「……それは」
「―――?」
「覚えていないか?四年前、二度ほど君の家に行っただろう。両親の喧嘩の悪化で」
「……ああ、あの時の」
巴は思い当たって、しっかりと警官を見上げた。人の良さそうな笑みを浮かべて見下ろす砂沢を直視したまま、やや間を置いて首を捻る。……何故、警察官がわざわざ自分を訪ねてくるのだろう、と。
「あの……それで、」
「少し訊ねたい事があるんだが、正直に答えてくれ」
「―――取り敢えず、立って聞くのも難でしょうから、どうぞ」
穏やかな口調のまま、
巴はベッドの横に置かれた丸椅子を引き寄せる。患者の気遣いに看護婦は口元を押さえくすりと笑った。慌てて
巴の引き寄せた椅子に手を掛け、自分の力で手前へ持ってくる。患者に気を遣われては仕様がないと、砂沢は苦笑する。
椅子へ腰掛ける警官を見終えて、看護師はそっと病室を後にした。
白のカーテンが閉められる光景を横目で見やって、砂沢は改め手元の手帳を開く。
「……君は四年間何処にいた。何故そんな格好をしているんだ」
砂沢の問いに、彼女は微かに瞼を震わせる。視線を手元に落とし、瞼を伏せてゆるりと頭を横に振る。瞬間、彼は昨年の光景を彼女に重ね合わせた。まさかと考え付く予想は、たったの一つ。
「覚えてない、のか……?」
「……ええ」
思わず頭を抱えたくなる少女の答え。二件目で、未だに手懸り一つ掴めずにいる。
―――決して、神隠しなどではないはず。
そう思い丸椅子から立ち上がった砂沢は、懐より名刺を取り出す。白地に黒文字の面白みも無い名刺を僅かの間に眺めて、それを患者へゆっくりと差し向けた。
「何か思い出した事があったら、ここに連絡してほしい」
巴は差し出された名刺を受け取って、しっかりと頷く。その様子にほっとして、丸椅子を元の場所へと置き戻した。出て行くのだと察して、
巴は砂沢に向かい一つ頭を下げる。彼もまた、軽く会釈をして病室の扉へと歩き出した。
視線のみを上げて警官の後姿を見送り、
巴はそっと息を吐く。ごめんなさい、と内心で小さく詫びた。
―――本当は、全部覚えている。
◇ ◆ ◇
巴は入院中数日間の大半を、病室で過ごしていた。
その間に転がり込む情報の殆どは悪いものであったし、不憫に対し哀れみの視線を
巴に向ける看護婦も少なくはなかった。
当然か、と光の差し込む廊下を歩きながら僅かに苦笑を零す。
―――両親の離婚。
―――嘗ての家は蛻の殻。
―――弟の少年院入り。
凶報ばかりを聞き届ける
巴の表情に浮かぶのは、僅かな翳り。帰国早々幸先の悪い始まりに、先案じは脳裏を駆け巡る。
それでもと、
巴は思う。
此処でやるべき事を、決して投げ出すつもりはないのだと。
退院の日、
巴の元にやってきた迎えは、父の姉だった。
伯母は病室に入るや否や声を明るくして声を掛ける。背後を振り返った
巴の顔は自然と綻ぶ。元気と明るさが取柄―――それは、四年の月日が経っても変わる事の無いものだった。
「
巴ちゃん、よく無事で……!」
「伯母様……」
駆け寄る伯母の姿が
巴の視界の目前にまで辿り着く。安堵で綻ぶ顔が微かに胸を突いたが、それは頭を振る事によってすぐに打ち消した。
寝台へ上げられた荷へ視線を移した伯母は、取っ手を肩へと提げてにこりと人懐こい笑みを浮かべる。
「暫くは私の家で暮らす事になるからね」
「分かりました」
こくりと頷いた
巴の顔に、朝にあった翳りはなく。
二人はそのまま、病室を後にした。
巴が目的を見つけたのは、それから一月後のことだった。
四月中旬。大凡一月前の雪が嘘のような温暖の気候に、ようやく蓬莱の常識を思い出した
巴は記憶ある限りの場所を巡る。
家、親の職場、通学路、学校―――。
次に公園へ向かおうと、大通り沿いの歩道を歩く。陽のある時こそ通行は多いが、それも沈めばやがて行き交う車の数は半減する。今は夕刻、その歩道を少し歩いたところに、彼女の始まりの場所はあった。
新緑の芽生える木々が砂利の敷かれた地を隔離するように覆う。中央にぽつんと立つ街灯と廃れかけた遊具は四年の月日を越えても変わらないように映る。
かつてこの公園での遭遇が、
巴の人生に変貌の兆しを与えた。帰還したとしても、その事実が変わる事はない。
拳に軽く力を篭める。目を細め佇む
巴、その背後より、突如砂利を踏み締める音が聞こえた。
始め、
巴はただ散歩中の者だと思った。
彼は、どこか具合が悪いのかと思った。
「あの……大丈夫ですか?」
「え?ええ、大丈夫―――――」
振り返った者と声をかけた者、双方共に目を見開き言葉を失う。
直視された視界は瞬き一つすら下ろされる事なく、硬直状態に陥る。一陣の風が通り過ぎて、その間に新緑の揺れる音だけが耳に届いていた。
互いに四年越しの遭遇であったし、互いの容姿も変貌を遂げている。ただ、残された面影を見出して、それが誰であるかを理解した。
「高里、要……君?」
「―――はい」
声変わりを終えた低音。だが、
巴には彼の肯定の一つを聞くだけでも十分だった。
―――よく御無事で……泰台輔。
思いを胸に、彼女は柔らかく笑いかける。
―――斜陽の中、日没間近のことだった。