- 拾伍章 -
拓峰に集っていた王師が明郭へ出立して、数刻が過ぎたころ。
陽の暮れかけた拓峰の市街、その中央に位置する郷城には変わらず人の波があった。
乱を治めた新王に拝謁賜りたいと、陽子の行く先々の道脇に駆け寄り叩頭する者は後を絶たず。仕方なく市民が入る事のない郷城内にて散乱する武器の片付けを祥瓊や鈴と共に手伝っていた。
江寧は怪我人の為に食事を運び終えると、陽子らの片付けに加わった。四人でゆっくり話をしつつ片付け、結局夕餉を口にしたのは、闇夜を照らす月が天高く昇った頃の事だった。
郷城内は、ようやく安穏たる休息の時を得てしんと静まり返っている。多くの者が廊下を駆ける足音も、遠くより叫ばれる伝令の声も、今はもう聞こえない。深夜ともなれば、誰もが安眠を貪るように深く眠りについている。……ただ、数名を除いては。
拓峰へ滞在の間、楼閣内の房室の一部屋を四人の寝床として使用する事になり、臥牀二つの他に榻を合わせた床二つを用意していた。
鈴と共に榻を運んでいた陽子は、榻を合わせ終えると顔を上げ振り返る。背後でも、祥瓊と
江寧が榻を運び終えた所だった。
「明日は祥瓊や鈴と明郭に行って来る予定だけど、
江寧はどうする?」
「私は此処にいるよ。拓峰の復旧は当分掛かりそうだし―――」
「そうよね……家が燃えた人だって、大勢いるもの」
州師によって焼かれた街は、州師の兵の協力により復旧が始まっている。それでも人手は少なく、当分の間は拓峰へ留まる事となった。……少なくとも、里家の閭胥が無事に救出されるまでは。
ああ、と鈴の言葉に頷く
江寧は、榻の上を手で払う。それを見やって、陽子は肩を竦めた。
「そんな時に空けて、やはり迷惑を掛けてしまうだろうか」
「明郭へ行く事がやるべき事なら、迷惑も何も無いと思う」
「―――そうか」
軽く笑って、其々の寝床へと腰掛ける。今までにないゆるりとした時間の中で、彼女たちもまた休息の中に身を置く。
―――行き交う言葉は、夜も更けた頃まで続いていた。
拓峰に留まること五日。
里家の閭胥が無事救出され、拓峰へと送り届けられた。
陽子は郷城内に閭胥を招き入れる。虎嘯と夕暉は閭胥と面識があり、後で会いに行くのだと
江寧らに言うなり人混みの中へ身を投じていった。その背を見送って、祥瓊と鈴もまた手を休めていた手伝いを再開させる。
「―――閭胥って、里家のだよね?」
「ええ。道を知る偉い方だそうよ」
鈴の返答に、
江寧は納得したように頷く。先程閭胥を迎えた陽子は、ほっと胸を撫で下ろしたように見えた。縁あって頼りにしているのだろう、と漠然とながらも思う。
鈴は屈めた身体を伸ばして、
江寧を見やった。不意に五日前が思い起こされて、何気なく問いを口にする。
「そういえば……
江寧、桓魋や虎嘯たちには話をしたの?」
江寧はいいや、と軽く首を振る。
「なかなか同じ時に暇ができなくて……まだ、なんだよね」
「遠甫が無事に助け出されたんだから、陽子が金波宮へ戻るのは近い筈だわ。今日の内に時間を見つけて話した方が良いわよ」
「―――うん、そうする」
祥瓊の促しに返答をしたものの、桓魋たちには上手く話をした、と三日前に陽子より告げられている。安堵はしたものの、虎嘯と夕暉には直接話をしなければならない。
後で言って来る、と
江寧が告げれば、二人は快く頷いた。
◇ ◆ ◇
夕刻、陽子が明日拓峰を発つと決め、祥瓊と鈴も共に金波宮へ向かう事となった。
焦燥に駆られた
江寧は急ぎ虎嘯を探し、夜に時間を取り付ける事が出来た。だが、少しばかり慌てた様子を目にして、虎嘯は首を捻る。
「
江寧、一体何を急いでいる」
その問いに、
江寧は答えなかった。応える事が出来なかった。……彼らには未だ、蓬莱へ戻ることは伝えていないのだから。
首を振って問いをやり過ごすと、すぐに踵を返す。そうして駆け出し掛けた
江寧の肩を、虎嘯は咄嗟に掴んだ。目を見開き振り仰いだ
江寧の視線は、肩元へ伸ばされた腕を辿り男の顔へ。虎嘯は右横にいる夕暉の元へ視線を下ろしていた。
「夕暉、空けられるか?」
「うん。行っといでよ」
おう、と頷く虎嘯を眺め、次いで夕暉を見る。送り出すような少年の言葉に、思わず
江寧は声をかけた。
「夕暉は―――」
「ごめん、
江寧さん。ぼくはもう聞いてしまったから」
―――誰から、と聞くまでもない。
大方、桓魋と共に陽子の話を聞いたのだろう。果たして陽子が何処まで話したのかは分からなかったが、急ぐ理由を尋ねた虎嘯の隣で夕暉が僅かに顔を俯かせていた様子を、
江寧は何気なく目にしていた。近日中に去る事も、知ったのかもしれない。
「……分かった」
頷いた
江寧を、夕暉は苦笑して見やる。ふと
江寧の肩を掴む手が失せて、真横を男が通り過ぎる。
「こっちだ」
虎嘯が案内したのは、先日
江寧が身分を明かした、あの箭楼だった。
階段を上がり、その場に見張りとしていた一人に暫し箭楼から外れてもらうよう頼めば、二つ返事でそそくさと階段を下りていく。その背を見送って、壁に寄りかかる虎嘯へと視線を移す。彼の視線は、窓の外に広がる遠景へと向けられていた。
「―――虎嘯」
名を呼んだ
江寧の元に、虎嘯の視線が遠景から引き戻される。短い返事の後に、呟くような言葉が
江寧の口から洩れた。
「虎嘯は、何も聞かないんだね」
「誰だって込み入った事情を抱える時だってある。だが、それを敢えて聞き出そうとするのは野暮だと思ってる」
「そう―――」
その気遣いに、
江寧は安堵の息を密かに吐き出す。正直なところ、一体どう説明すれば良いのか話が纏まっていない。だが、敢えてそれを聞かないという虎嘯に、内心で感謝をする。
隣へ並び、
江寧もまた拓峰の閑地を眺めた。以前は州師や王師に覆われていた、今はがらんとして殺風景な閑地を。
そうして暫し遠景へ目を留めていると、頭上からやや明るい声が聞こえた。
「ともかく乱は治まった。呀峰も靖共も捕まった。溜飲が下がって、それで落着なら良いじゃねえか」
何事にも拘る事のない虎嘯の言葉。
江寧が見上げた先にはやはり、彼の笑む姿があった。
「
江寧がどんな身分だったにせよ、あるのは共に戦った仲間って事だけだ」
屈託無く笑う虎嘯。その言葉が
江寧の胸にじんと響いて、思わず顔を俯かせる。四年前ならば、この別れが惜しいとは思わなかったのに。人は変わるものだと思いながら、思い起こす記憶を走馬灯のように駆け巡らせて。
「……虎嘯」
「うん?」
「……ありがとう。虎嘯には、とても感謝してる。夕暉にも、鈴にも……もちろん、祥瓊や桓魋、それから主上にも―――」
「お、おい……どうした?」
途端次々と思い出すように言い出す
江寧を凝視して、思わず顔を覗き込む。彼女は口元に笑みを湛えたまま、切なげに笑っていた。何かあったのかと頭を傾げれば、うん、と
江寧が頷きを見せる。
「単身赴任ってところかな」
「?何だ、それ」
ぽかんとして訊ねる虎嘯に、
江寧は思わず声を上げて笑う。
この時だけは、緩やかに時間が流れているような気がした。
―――旅立ちは、明日に。
◇ ◆ ◇
翌日、大衆に見送られた陽子らは、王師の騎獣によって金波宮の禁門へ辿り着いた。遊学中の王が帰還したと宮中に広まったのは、昼過ぎのことである。
暫くは掌客殿にて泊まる事となった祥瓊と鈴、
江寧だったが、清香殿で一晩を過ごし翌朝を迎えた内一人には待ち受けている者があった。襦裙に着替え終えた
江寧が戸を開くと、女官が戸の傍にて佇んでいる。一体何かと首を捻った時、
江寧に気付いた女官は慌てて叩頭礼をとった。
「あ、あの―――」
「主上より、仁重殿にお連れするようにと仰せ仕りました。延台輔と景台輔がお待ちです」
はた、と
江寧の動きが止まる。
六太が来ていたのか。そう思う反面、陽子の半身にはまだ一度も会った事がない。景王自らが堅物と言うのだから、礼儀はしっかりとしなければと身を引き締めた。
掌客殿から仁重殿までの道程は遠く、
江寧には随分と時間が掛かったように思えた。まして先日の疲労は抜け切れていない。身体は重く、辿り着いた時には思わず溜息を零し、その後に呼吸を整える。相も変わらず、豪奢な宮中に落ち着く事はない。
「台輔、お連れ致しました」
「お通しせよ」
扉前、内より情のない声が響く。陽子曰くの堅物という言葉が
江寧の胸内に概念を作り上げ、その声によって概念が完成したと言ってもよかった。
女官によって、ゆっくりと開かれる扉。その向こう、大卓の前に腰掛ける金の髪の大と小―――景麒と延麒が、開かれた戸の向こうへ視線を向けていた。
江寧の姿を認めるなり、延麒は椅子から立ち上がる。
「
巴……!」
「お久し振りです、延台輔」
礼儀として、片膝を着き拱手をする。その様子に目を見開いた六太は、彼女の背後に女官がいる事を忘れていた。
江寧が一歩踏み込むと、扉がゆっくりと音を立てずに閉められる。女官の離れ行く足音を確認して、同時に延麒が小走りで駆け出す。景麒が延麒を止めようとした時には、既に
江寧の元へと寄っていた。
「延台輔―――」
「別に良いだろ景麒。他に誰が居る訳じゃない」
「しかし……」
半ば戸惑いを見せる景麒に、
江寧は苦笑を零す。彼がこういった親しい光景にあまり慣れていないのだと思い、六太の肩に手を添えて僅かに押す。傾げた頭と共に揺れる金髪を一瞥して、
江寧は改め礼をとった。
「お初にお目にかかります、景台輔。この度は私が慶国飛仙を拝命賜りましたこと、快く承諾して頂けました事を御礼感謝申し上げます」
「此度は、泰麒捜索の為との事で承諾致しました―――どうぞ楽に」
はい、と立ち上がる
江寧を見やって、景麒が軽く頷く。椅子へ座るよう促せば、一礼して対面側の席へと腰掛ける。六太は景麒の隣へと回り座った。
「それで、六太……出発は?」
「明後日だ」
六太の予想外の返答に目を見開く
江寧は、首を捻り問う。
「明日じゃないの?」
「
巴には今日と明日、麒麟の事を学んでもらう」
「麒麟の―――」
「泰麒の身を案じて世話を焼いてくれるなら有難い。けど、その為にはまず麒麟についての知識が必要になる」
少年の言葉から、その責任の重さを感じ取る。口を引き結ぶ
江寧に目を細めた景麒は、彼女から泰麒を助けたいという意志を見出す。あの頃幼かった黒麒麟が行方不明との一報を聞き、既に約五年の月日が流れた。今も蓬莱で生きているのなら、助けたい。胸内にその願いを秘めたまま過ごした五年は、とても長かった気がする。……そう思い、景麒は瞼を伏せた。
「俺は明日、景王に用があるからそっちへ行って来る。その間は景麒から教わってほしい」
「―――分かった」
力強く頷く
江寧に、景麒や延麒の意志も然りと頭を縦に振った。
翌日、午前は延麒が景王の元へ行ったために景麒が麒麟についての知識を
江寧に教えた。午後になれば景麒が州候の仕事があると出て行き、代わりに戻ってきた延麒が続きを教える。一挙に覚える事は難であったが、それでも
江寧は気を張り続け集中して脳に叩き込む。
夕刻には麒麟二人が揃うころ、緋色の髪の王は二人の少女を連れて仁重殿へとやって来た。
「
江寧―――ご苦労さま」
「主上……麒麟は大変なんですね」
「は―――?」
ぐったりと卓上に伏す
江寧に、鈴と祥瓊はくすくすと忍び笑いを洩らす。景麒は徐に眉を顰めて、咳払いをしていた。
「―――余計な事を言わないように」
「そう言うな景麒」
「主上まで……」
眉間に寄せた皺が深くなる。苦笑しつつも陽子は
江寧の座る席の傍に寄り、重ねられた紙を見やる。筆で綴られた懐かしい文字の並びに目を据えていると、筆を手に取る
江寧が思いついたように陽子を見上げた。
「そうだ―――主上、私の緋頼を預かってくれないかな」
「ああ、構わない。帰って来るまで、責任を持って面倒をみるから」
「ありがとう」
柔らかく笑むと、
江寧は筆先を紙に乗せて綴り始める。達筆という程ではないが、読める者からすれば整えられた字だった。
墨を足そうと筆を置くと、ふと顔を上げて景麒と延麒を見やる。二者の麒麟の双眸は、視線に気付きそちらへと移る。
「そういえば、さっきから聞きたかったけど……」
「何だ?」
「要―――泰麒も麒麟だから、鳴蝕を起こしてこちらに帰ってこられるはず」
麒麟は普通、王の傍を自らの意思で離れる事はないという。だというのに、何故帰って来ないのか。四年前、延麒と知り合う前日に江寧は高里要の家を訪問していた。彼からは、何の異常を感じる事も出来なかった。なのに、何故―――。
綴り途中の紙へ視線を落とすと、ぽつりと呟かれる声がある。
「……多分、帰ってこられない理由があるんだろう」
「理由?」
「鳴蝕の方法を知らないとか、」
「記憶喪失、とか……?」
「十分に有り得るな。そもそも、戴で何があったのかは誰も知らない」
延麒の歪めた顔に、悔しげな情が浮かぶ。
「戴の情報は、何も入ってこないんだ」
◇ ◆ ◇
全ての知識を教え終えた延麒は先に用意された清香殿の一室へ下がり、景麒もまた仁重殿内にある臥室へと身を引いた。
江寧らもまた清香殿へ引き上げると、最中に鈴が声を掛けた。
「
江寧、ちょっといい?」
「うん?」
前を歩いていた
江寧は振り返る。そこに立ち止まるのは鈴と祥瓊。
「あと少しだけ、話していかない?」
「―――じゃあ、ちょっとだけ」
控えめに頷いた
江寧に二人は笑いかける。だが、途端その笑みに含まれる何かを感じて首を捻った。疑問を抱く
江寧を余所に、二人は祥瓊に宛がわれた客房へと向かう。少女たちの足取りは、然も軽いように見えた。
二人の案内によって
江寧は祥瓊の客房前へと招かれる。扉の前で足を止めると、ここで待つようにと告げて祥瓊は開かれた扉の内へと消えていく。廊下からは微かに会話の声が聞こえたが、それを言葉として聞き取る事は難しい。
「誰かいるの?」
「ええ、
江寧が勉強してる間に着いたの」
「―――?」
それでは答えになっていない。
言いかけた言葉は、直後再び開かれた扉によって遮られた。
「どうぞ、入って」
「うん……失礼します」
祥瓊に促され、鈴に背を軽く押され、
江寧は戸を潜る。踏み入れた起居はどの場所とも然程違いはない。そう思いつつ、起居を一望する。
―――そこに、ある筈のない姿を見た。
目を見開き凝視する
江寧の足は、既にそこで留まっている。背後からやってくる少女たちの足音すら、耳に入る事は無かった。
「どうしたの……?」
「俺の姿を見た途端、凍りついたままだ。それ程驚くとは思わなかったが」
男――桓魋は
江寧の顔を面白そうに眺めている。予想を越えた彼女の驚愕は、正面へ回り込んだ二人の少女までも驚かせた。慌てて声を掛けると、
江寧ははたと我に返り祥瓊を訝しげに見る。
「……どうして、桓魋が此処に」
「夕方到着したのよ」
「主上に招かれてな」
――夕方。
ちょうど景麒が戻ってきた頃だろうかと思い返しながら、
江寧は桓魋を見やる。小奇麗な袍衫を着用し椅子に腰掛ける様はどこかの官吏のようにも見えた。―――否、彼の着ている物が位袍と理解して、再び
江寧を驚かせた。同時、陽子が自ら招いた理由も察する。
半ば困惑の表情を浮かべる
江寧に、鈴は恐る恐ると言葉を掛けた。
「
江寧は熱心に勉強していたから、声を掛けるのは迷惑かなって思って」
「気遣いは有難いけど……どうして、桓魋が祥瓊の客房に?」
「私が呼んだの」
問いに答える祥瓊は、招いた男へちらりと視線を向ける。彼女の視線に含まれた促しを受けて、桓魋が口を開く。
「必ず後で話すと言ったろう。主上の口から説明されても、一応はお前の口から聞いておきたいからな」
一先ず、と着席を促す桓魋に軽く頷くと、
江寧は近場に置かれた椅子を引く。腰を落とし、男を直視した。
……確かに話すと約束した。たとえ口約束だったとしても、それは変わらない。
僅かに息を卓上へ落とし、改めて桓魋と、傍の榻へ腰掛ける鈴と祥瓊を見やる。そうして、
江寧の口から発せられたのは始まりの四年前より。
―――四年前、恭に流れ着いた胎果。
陽子と出会った、雁行きの船の中。楽俊との出会い、延台輔よりの招き。
……半年後の、約束。
景麒奪還の際、王の援護役としての抜擢。別れを告げに赴いた慶に、不在の返答。……そうして、虎嘯たちとの縁。
乱の終結前日に拝命を受けた、慶国飛仙。
走馬灯のように駆けめぐる月日の記憶は、長いようで短い。だが、と
江寧は思う。
これからは、道標のない道を行く。誰にも左右される事なく、自分の意志で進む道を決めるのだと。
……全ては、自分の為に。
全てを聞き終えた桓魋は、貌に若干複雑な色を浮かべながらも納得の意を出す。それにほっと安堵の息を吐いた
江寧の表情は、穏やかなものになっていた。
◇ ◆ ◇
日を越し、しかし未だ空に広がる闇夜を眺めながら、
江寧は禁門前に佇む。隣には既に延麒が立ち、その時を待っていた。
江寧は視線を足元へ落とし、佇むままゆっくりと瞼を伏せる。――――覚悟は既に、決まっている。
「……
巴、」
「分かった」
……時が来た。
延麒の呼ぶ声に、戸惑うこともなく頷く。
刹那、指令が影から伸びるように這い上がると、狼にも似た体躯を闇の中に浮かび上がらせる。延麒は悧角と名を告げて、意を悟ったのか
江寧へ顔を向けた。
無言のまま背へと騎乗する少女。そこには緊張も不安も窺わせる事はない。ただ、それだけが少年に安堵を生んだ。
この四年間、罪悪感を背負い続けてきた。巻き込んでしまった後悔と、勝手な願いを押し付けた事に対する申し訳のなさ。時折胸を啄まれては胸内で告げる謝罪の言葉。
それでも、泰麒を救ってやりたかった。
延麒は改めて胸内に謝罪を秘めると、
江寧の前へ騎乗する。そのまま、悧角は地を強く蹴り上げた。
暫しの間、悧角は陸のある上空を駆け続ける。
江寧は僅かな風を頬に受けながら、広がり続ける闇に漠然と視線を据えていた。
じきに海へ出ようとしたところで、ぽつりと延麒が僅かに顔を伏せて言葉を零す。
「―――ごめん」
「……六太?」
「
巴には
巴の人生がある。どう生きるかは自由だ。誰にも束縛する権利なんてものはない。けど……おれは今、
巴の人生を捻じ曲げようとしてる」
語尾に掠れた声。少年の言葉を全て聞き取って、
江寧は首を横へ振った。
「―――捻じ曲げられてなんてないよ……私も泰麒を救いたいから」
「
巴……」
延麒の呟かれた名と共に空気が変化する。虚海へ出たのだと気が付いて、延麒は拳に力を入れた。―――間近に迫る、別れ。それを惜しむ事など、少年には出来なかった。
不意に頭上から
江寧の声がする。風を受けて靡く髪が頬や耳に当たって、上手く聞き取る事が出来ない。彼女の視線は既に月へ向けられ、傾けた耳に届いたのは穏やかな少女の声。
―――行こう。
その言葉を受け、ただ、静かに頷いた。
「台輔、じきに」
「ああ……」
少年の額は光を帯び、月の呪力を借り受け波を呼び覚ます。何重にも環となって広がる歪……それが、繋がった瞬間のもの。
延麒はそれを最後と決めて、少女を振り仰ぐ。視線は既に待ち構えていたように延麒へと向けられ、微笑を浮かべた。
「行こう、蓬莱へ―――」
環の内へ消えていった姿は、やがて閉じる歪と共に飲み込まれていく。
虚海はまるで何事も無かったかのように、静けさを取り戻していった。
-地の憧憬 東雲の丘-完