- 壱章 -
闇の中を彷徨して、一体何処へ辿り着くのだろう。いや、一生このまま何処にも辿り着かず彷徨い続けるのかもしれない。
…ともかく、私は、死んだ。近い内に
清坂巴の身体は腐敗して陸に打ち上げられる。醜態を晒す事になるが、それでも構わなかった。
けれど……“私”自身は?
波の音が、少女の耳に浸透する。
朦朧とした意識の中、半身が冷えている事だけは分かった。潮の匂いが鼻を衝いて、次第に意識が鮮明になる。…それで、自分が死なずに何処かへ流されてしまった事に気が付いた。
渾身の力を振り絞って、少女は上半身を起こす。流される以前の場所と同じように見えたが、背後には防波堤らしきものがない。代わりに鬱蒼とした森が広がって、孤島のような感覚に陥った。
「どこ……ここ…」
足取りの覚束無いまま立ち上がる。少女の制服は水を吸い上げて酷く重い。張り付いた袖やスカートを鬱陶しく思いながら、ゆっくりと足を進め始める。森の入り口へ辿り着くと、樹木に背を預けて海を眺めた。
……黒い海。歪む渦潮。
少なくとも、
巴には目前の海が故郷にあるものとは思えなかった。
「日本じゃ、ない……?」
ぼそりと呟いた言葉に、返答が来るはずもなく。
愕然としたその声は、風がいとも容易く掻き攫っていった。
まともに動かない身体を半ば無理矢理に解すと、少女は森の中を彷徨い始める。
僅かに湿った地は所々に足場を緩くして、幾度も転倒しては立ち上がる。その度に制服は灰茶色に汚れていき、さらには幾度目かの転倒で足を痛めていた。今では左の足首が赤く腫れ上がってしまっている。惨めな姿となった少女はそれでも、構わず歩き続けた。
時折樹木を凭れの代わりにして休憩を挟みつつ、歩き続けた先にようやく終わりが見えてくる。木の間から遠景が垣間見られるのだ。その中でも点々とした小さな建物を目にして、ようやく安堵の息を洩らす事が出来た。
動かない左足を引き摺りながら、急ぎ樹木の群集を抜ける。
そこに広がる光景を目の当たりにして―――
巴は、呆然と佇んだ。
畑の中の所々に建つ木造の家。周囲に広がる野の半分には作物が実り、風が吹く度波のように靡き渡る。道は畑の間を細々と通り、時折人が荷を背に負い行き交いを繰り返していた。
コンクリートも、電線柱も、車も無い。都会育ちの
巴には目前に広がる現実が酷く珍しく、そして眩しかった。
巴は未だ知らない。
自分が、虚海を越えて辿り着いてしまった地の事を。
辿り着いた、その州国を…――――
◇ ◆ ◇
蓬莱を覆う次元を越えたその先に、虚海に囲まれた十二の国が存在する。
金剛山を取り巻くようにして繋がり歪な輪を描く四大四州国、四方に浮かぶ四極国。その一国の土地は倭国と同等と言えよう。
北西の内に位置する四州国の一つを恭州国という。
国氏は供。王の名を、蔡 珠晶。
最年少の女王にして在位九十年、その長きに渡る王朝は今現在も傾く事なく国を安泰とし統治していた。
恭州国へ漂着する海客の数は決して多いとは言えない。三年から四年に二、三人程度の割合で流されて来るが、大概は遺体となって虚海の面を彷徨するか、波によって浜へと打ち上げられる。故に、生存したまま発見される海客は九十年が経過した今現在でも稀となっていた。そうして、恭国の民がその存在を忘れかけた頃―――それは、唐突にやってきた。
蝕。
突発的な転変地異が襲い、しかしそれはすぐに過ぎ去っていく。その後に海客が来るとされるが、それは十二国と蓬莱や崑崙の世が繋がる所為だとされている。…尤も、人は虚海を渡る事が出来ない為に、それを確認する術は無いのだが。
……先日、恭国を変異が駆け抜けた。
大規模なものではなかった事が幸いして被害は然程無かったものの、民の幾人かは脳裏に海客の存在を過ぎらせた事だろう。そうして、多くの民が予想したように、彼女は海客として此処、恭州国へと辿り着いた。……ただ一つ予想外だったのは、
渡る事の出来ない虚海からやってきた少女には、未だ命があったということ。
「――…―――……――?」
樹木に背を預け、地に腰を下ろしていた
巴はふと顔を上げる。頭上から差していた陽が、今は何者かによって遮られていた。大きな深茶の瞳を瞬かせ、彼女の座高ほどの背しかない少さな子供が、
巴の顔を覗き込んでいたのだ。覗き込まれた当人は幾度か眼を瞬かせながらもすぐに少女を凝視する。だが、周囲に人は居らず一人で来たらしい事を確認すると、やがて疑心も薄れていった。膝を抱えて首を傾げる少女に硬くなっていた表情を和らげて、言葉を紡ぐ。
「君、一人?お父さんとお母さんは?」
頭を軽く撫でながら、遠くに動く人影を見つめる。晴天の下、木陰に潜んでいた
巴にはその影が眩しく見えた。
暫く視線を風景に固定していたが、言葉に対しての反応が無い事を疑問に思い、視線を戻す。目の前の少女を見ると、きょとんとした様子で
巴をまじまじと見ている。どうしたの、と再び声を掛けた刹那、少女が首を傾げたまま言葉を発した。
「?ー…――――?」
その言葉に、
巴は思わず息を呑む。最初は聞き取れないだけだと思っていた。だが、それが中国語にも似た言語である事に気が付くと、一瞬にして思考が固まってしまう。…少なくとも、ここが日本ではない事は確実だった。
―――何故早く気付かなかったのだろう。
見知らぬ土地、聞き知らぬ言語。言葉が分からなければ、現在地を知る事も帰路への道を聞く事も出来ない。…それが不安を掻き立てては焦燥を呼ぶ。
「―――!」
叫ぶ少女を、思わず見やる。何かを叫んだが、一体何を叫んだかも理解できない。しかし、やがて二つの人影が大きくなるにつれて
巴は焦った。……人が、来る。
逃げようにも先程痛めた左足は赤く腫れ、身体を支える事も儘ならない。じくじくと足から伝わる痛みに耐えながら、背にしていた樹木に縋りつつ右足のみで立ち上がる。あちこち破れて汚れきった制服を纏い、裸足のままの格好は、あまりにも悲惨なものだと、
巴は僅かに苦笑を零した。
やがてやってきたのは細身の中年男女で、それが少女の両親なのだと分かった。
巴を見るなり、女性は小さく悲鳴を上げる。男性は驚愕した表情のまま
巴の顔から視線を外さない。二人に注目された
巴はあまりにも違いのある服装と暫しの沈黙で戸惑いを見せていた。
「あの…すみません、」
「―――」
「―――……――…――――」
「――――」
男女の間に交わされる言葉を聞き取ろうとするが、やはり理解する事が出来ない。その中で、不意に先日遭遇した少年を思い出す。勿論、関連性など一切無いと思考を振り切って、
巴は改め現実を瞠った。
時折
巴の顔を一瞥しては話し込む男女に不安を感じて、地へと視線を向ける。腫れた左足は痛みを増すばかりで、どうにもならない。困惑を隠せないでいる
巴に刹那、声が上げられた。少女が、
巴の足の異変に気が付いたのだ。少女が指差した先を辿って、それに気が付いた女性は慌てて
巴の下に駆け寄った。
巴が驚く暇も無く地へ座らせられて、益々困惑の色を濃くする。
「あ、あの……」
「――――…――」
「―――!」
小さな少女は、女性の言葉に頭を大きく縦に振るや否や、細い道を全速力で駆けていく。
巴はその光景を目で追うのが精一杯だった。
「――――…」
「ええと…」
「――、―――――…」
突然、熱を持った足首を擦られる感覚に
巴はびくりと肩を震わせる。それを見た女性は思わず目を細めて、未だ警戒心のある
巴に微笑った。それから緩く抱き締めて、頭をゆっくりと撫で下ろす。
「――……―――――」
「っ……」
突然の温もりに、思わず瞼を目一杯に押し上げて見開く。言葉は分からなかったが、慰めてくれている事だけは理解できた。
……けれど何故、他人に対してこんなにも優しく出来るのだろう。
生温い雫が一つ頬を伝わる感覚。
小刻みに震えた瞼を伏せると、緊張と警戒の糸が途端弾ける。意識は漆黒に塗り潰されて、すぐに闇の底へと落ちていった。
◇ ◆ ◇
―――波と共に命が消えてしまえばいいと思った。本当にそうなれば、どんなに楽な事だろうかと。望まれない人間だと言うのなら、あの時溺死してしまえば……身体が、波に巻き込まれて沈めば良かったのに。
…どうして、私は生きている。
あたたかな、香りがする。
冷えた身体を覆う柔らかな布の感触と時折小さく爆ぜる薪の音に、薄らと意識が甦っていく。視界は未だ朦朧と―――それこそ、物体の輪郭さえ分からない程に。……ただ
巴が理解できたのは、外から建物の中へと連れて来られた事ぐらいだろう。
ぼんやりとした視界一面は淡い光と木材の色のみ。……そこに、聞き慣れない言葉が耳を掠めてくる。
「―――…?」
「ぁ………」
身を無理矢理引き起こそうとする
巴に優しく制止を掛ける。ゆっくりと臥牀に横たわらせると、横に置かれた榻へと腰を掛けた。部屋の中には女性と少女、
巴で三人。少女は竈へ身体を向けているために、臥牀からでは顔が見えない。料理の手伝いだろうかと
巴は何気なく思いながら、不意に足の違和感で視線を足元へと下げる。…左足が、何かで固定されている。僅かに引いた痛みで、彼女が治療をしてくれたのだと気が付いた。それと共に申し訳ないと内心思う。大いに迷惑を掛けてしまったのだと。
…せめて言葉が通じていれば、礼のひとつでも言えるのに。
程暫くして、男性が三人の男を連れて部屋を訪れた。
巴を凝視しながらも話し合う三人に、臥牀の上で上半身を起こした
巴は顔を俯かせたままの女性を見る。その様子に半ば不安を感じながらも話し合いが終わるまで身を起こした体勢のまま待っていた。
女性に渡された茶のようなものを口に流し込み、身体が温まったところで男達の話し込む声が途絶えた。
巴は男性に抱え上げられて、外へと連れ出される。途中までは隣に少女が着いていたが、馬車の荷台へ下ろされた時には既にその姿が無い。周囲に出来た人だかりの後ろで立ち止まってしまったのだ。
乗せられた馬車の上、人だかりの視線が自分へ向けられている事に気まずさを感じる。それと同時、不意に重ね合わさったのは先日両親の沙汰で同じような光景に遭遇した時のこと。あの時も、こうして多くの視線を向けられていた。
――――私は、見世物じゃない。
周囲でざわめく未知の言葉が嫌になって、思わず両手で耳を塞ぐ。蹲るようにして座っていると、やがて馬車は動き始めた。
人の声が消えるまで、
巴は一度も顔を上げる事は無かった。
補強されていない道の所為で馬車は揺れる。慣れない移動方法に内心戸惑っていたものの、目的地は然程時間が掛からず到着した。群集の街を初めて目にした
巴は日本の建物との違いに呆然としたまま県城へと連れて行かれる。本当に自分が違う国へ来てしまった事実を突きつけられているような気がして、若干眩暈が襲う。出来ることなら、今すぐにでも喚き出したかった。
県城へ入ると男達は事情を説明して
巴を引き渡す。それが終わるとそそくさ出て行った。物事が移り変わりすぎて、
巴は何が起きているのか理解できていない。ただ、連れて来られた、としか。説明が欲しいものの、言葉の通じる者が居ないためにそれすらも聞く事が出来なかった。
………此処へ、来るまでは。
見知らぬ男性に抱え上げられたまま、県府の応接間へと連れられた
巴は小卓の前に置かれた榻へと下ろされる。そのまま部屋から下がる男性と入れ替わりに入って来たのは初老の女性で、
巴を見るなり声を震わせ呟いた。
「一体何年振りでしょうか…」
「え……」
その女性から聞こえてきた言葉に、思わず瞬きを繰り返す。……日本語だ。
三日も経過していないというのに、こちらで聞くことの無かったその言語が酷く懐かしく感じる。
「海客の方ですね」
「かいきゃく…?」
「海から来た方のことです。海客はこちらの言葉が話せないと聞きましたが」
「ああ、はい……まったく」
「では出発する前に一通りこちらの事を説明致しましょうね」
笑みを湛えながら予め用意されていた茶を淹れ始める。その姿を見ながら、彼女は最後の言葉が胸に引っかかった。“出発する前に”と。また何処かへ連れて行かれるのだろうかと思うと胸内に不安が絶えない。まだ、何処へ来てしまったのかも分かっていないのに。
女性は淹れた茶を
巴の前へ置き、ゆっくりと榻へ腰掛ける。硬い表情のまま視線を宙へ泳がせている海客に目を細めて笑んだ。そうしてゆっくりと、言葉を掛紡いで。
「さて…まずは世の事をお話しなければ」
「世って…」
それから始まった女性の話………それは、
巴にとって耳を疑うような話だった。
世界を治める天帝。海を治める竜王。
四大四州四極国からなる十二の国。
十二の王、神獣である麒麟。
虚海を越えて存在する幻国…蓬莱・崑崙。
まるでどこかの御伽噺でも聞いているかのような感覚。自分がその御伽噺のような世界に居る事が全く信じられない。神の意があると信じられる世界。その神の意を伝える神の獣。存在する国は十二。神の獣に選ばれる王の存在。
巴のいた国が幻、夢の国と称されている事実。
隣国へ奇跡的に流れ着いたのだと思っていた。しかし、真実は思っていたよりもずっと深刻で、故郷はずっと遠い場所に存在していたのだ。
…
巴はそれを理解した途端、椅子が倒れるのも痛む足も構わず勢い良く立ち上がる。
「帰れますよね!?」
「…残念ながら、人が虚海を渡る事は出来ません。例え蓬莱や崑崙から来たとしても、帰る事は無理でしょう……」
「…そんな……」
絶望の淵へ追いやられた気分だった。言葉の通じない、しかも恐らくは
巴の持つ常識が通じない世界……そこへ突如放り込まれて、どうやって生きて行けと言うのだろう。
涙が頬を伝う。崩れるように床へ座り込み両の掌で顔を覆う
巴を、女性はただ見守ることしか出来なかった。
◇ ◆ ◇
その日、
巴は嫌という程泣き続けた。目前の現実を拒絶する思いと、絶望を伴って。
拒絶したところで何一つ変わらない事は分かっている。だが、そうしなければ自分の中にある何かが崩れ落ちる気がした。
――ほんとうに、独りになってしまった。
目を腫らした状態に関わらず、翌日の早朝には兵士が出発する為の馬車を準備をしていた。朝陽さえ眩しく感じる眼は外の風景をなかなか受け付けない。
巴は昨日話をした女性が客房へ来た際にそれを告げると、女性は
巴にと持って来た着替えに足して風除け用の布を用意した。
「こんなに腫れて…」
「すみません……」
謝る声も酷く枯れている。そういえばこちらへ来てから少しばかり声が低くなった気がすると、ぼんやりとした頭でそう思う。髪色もすっかり落ちてしまった。潮で抜けたのか、それともあの家の女性に洗われたのかは定かではない。黒染めはすっかり落ち、髪の色は白に近い紫色になっている。こんな髪色では不審な目で見られるのではないだろうかと不安に駆られていた。
そんな
巴の気持ちも構わず、馬車の元へと案内される。怪我をしていた左足は一晩を越すと痛みが引き、多少は歩けるようになっていたので人の肩を借りながらも馬車までの距離をゆっくりと歩いていた。
「あの…郡都、ですよね?」
「ええ」
恐る恐る尋ねる
巴に、女性は笑みを湛えて応える。それでも、彼女の胸内に涌く戸惑いが取り除かれることはない。場所は一応聞いたが、説明された街の大きさをしっかりと記憶しているかは定かでなかった。
海客が現れた事については既に国府へ知らせを出している。海客は技術を伝えるとされているため優遇されているが、まずは国府へ連れて行く必要があった。それには二つの州を越えなければならない上に、移動手段が馬ならば十と数日を要する。それではあまりにも時間が掛かる為に、郡城――県城の二つ上――と連絡を取り、騎獣で国府まで送り届ける事となったのである。故に郡都まで赴き、そこから国府までは統治者である大守に海客を任せる事とした。
郡都に向けて馬車が動き出す。髪を隠すように布で覆いながら、遠くなる女性の姿に深く一礼する。女性もまた、馬車に向かって深々と頭を下げた。
―――私はこれからどうなるのだろう。
下げていた頭を上げながら、ぼんやりとそう思う。あっと言う間に小さくなってしまった女性の姿。視界の端では地が滑り過ぎ去っていく。その光景を黙然として眺めながら、絶望の念を抱かずにはいられなかった。