- 拾肆章 -
南 の雲橋を横転させ、止める事に成功した桓魋と陽子は酉門前へと急ぎ駆け戻る。そこには既に虎嘯らの姿があって、陽子は鉄槍を担ぐ男の名を呼んだ。
「虎嘯!」
「そっちも止められたようだな」
「ああ。北はどうだった」
「火箭のお陰で何とかな」
鉄槍を持ち主へ向け投げ戻すと、軽々と受け取った桓魋は笑みを浮かべつつ軽く首を振る。酉門の箭楼から少数の人影が出る様を、視界の端にしっかりと捉えながら。
「―――
江寧はどうした」
「まだ箭楼だろう。出てきた気配がない」
「気配―――?」
陽子の答えに首を傾げて、地平線に雑然と連なり留まる車へ目を向ける。酉門より直線状に位置する車数台だけが闇より黒々として佇む。燃えたのか、と過ぎる考えに目を細めて、視界を火の燻る酉門内へと向けた。
―――先程よりは、火が衰え始めている。
「終わった?」
突如その声は、陽子らの頭上より響く。空を仰げば、衰えた火に照らされて赤虎が急降下してきた。酉門の内へ体躯を下ろし地に落ち着くと、弓を袈裟懸けした
江寧が赤虎の背を跨ぎ下りる。門扉を潜り通るところで、虎嘯が手を挙げた。
「やっと戻ったか」
「うん。箭楼から見ても動きはないから、大丈夫だと思う」
「そうか」
先程まであった騒音も、今となっては過去のもの。閑地は既に静寂が戻りつつある中で、拓峰の街では未だ木々の燃え落ちる音が耳に届く―――雲橋を止めたところで、全てが終わったわけではない。
揃ったところで、鉄槍を担ぎ直した桓魋が周囲へ声を掛けた。
「一旦郷城へ戻るぞ」
「ああ」
集う周囲の者達が応を返して散り行く。雲橋の向こうに居るであろう州師―――それは今、完全に足並みが止まっている。完全に体勢を立て直すのならば今しかない。
駆け出した者達の後を追う
江寧。その背に向かい、顰めた声で陽子が声を掛ける。
「
江寧、後で話がある」
「―――分かった」
過ぎ際の言葉。
疑問は胸内にありながらも、ひとまずは頷きを見せて陽子と並び郷城へ走り始めた。
街の者が郷城入りした事もあって、行き交いの波が出来るほどに密度は増える。その間を縫い通る事を躊躇って、
江寧は緋頼に騎乗すると城壁を越えて上空より入り厩舎へと向かった。
最奥へと連れ行くと、柵を外しながら緋頼を見やる。一声で促せば、藁の敷かれた舎の中へと大人しく踏み込む。その場で体躯を落ち着かせた赤い虎に一つの礼の告げると、
江寧は傍らに待っていた陽子の元へと歩き出した。
「大人しいな」
「私に対してはね」
大袈裟に肩を竦める
江寧。顔には苦笑を浮かべて、陽子もまたつられるように口角を引き上げる。
そのまま歩き出した陽子の横へ並ぶと、人気のない場所を探して郷城内を歩き回る。一つ一つの部屋を巡れば意外と多い上に広いもので、さらに人気の無い場所があまりない。仕方なく昇紘の使用していた房室まで足を運んだ。
大凡二、三日前に踏み込んだこの場所にはあまり人が近寄らない。此処へ来れば郷長への恨みを思い出しそうだと、ある男の発言を思い出す。確かに、豪奢な装飾は記憶に残る上に目が痛くなる。だが、その房室を陽子は人が居ないからと場所に選んだ。
近場の壁に凭れて、入口付近に佇む
江寧を見やる。
「
江寧、何か隠してないか?」
「―――いや、別に」
彼女は緩く首を振る。……その際、一時僅かに硬くなった貌を陽子は見逃さない。嘘は下手ならば面に出る。そうして彼女も例に漏れる事は無かった。
一つ溜息を零して、逸らしたままの視線を呼び戻すように話を切り出す。
「以前景麒が北韋へ来た時、延王からの書状を持ってきた」
「延王―――」
―――ああ、ようやく反応した。
江寧の視線ははっきりと陽子に向かう。やはりと軽く頷いて、同時に僅かな落胆が生まれる。乱が治まり次第、彼女を招こうと考えていた陽子にとっては尚更大きな落胆だった。
「これが終わったら、蓬莱へ帰るのか?」
肯定も否定もなく、代わりに呟かれたのは
江寧の短い詫び。それが肯定の代わりと受け取ったのか、陽子は一人頷く。だが、それを然程気にする様子もなく、話は続けられる。
「蓬莱へ帰還する前にやるべき事があるのだと、延王からの書状にはあった。
江寧はそれを教えてもらったのか?」
「まだ、何も」
首を横に振る
江寧に、陽子は目を僅かに細めて壁から背を離す。では、まだ本当に何も知らされていないのか。
探していたと言う割には当人への説明が不十分である。その事に対し溜息を零すと、
江寧もまた僅かに顔を顰めた。そうして陽子は
江寧の“やるべき事”を言葉に出す。
「仙籍に入れるらしい」
こればかりは
江寧も目を見開き驚愕する。そのような話は一度も聞いていない。延からも、延麒からでさえも。
何故陽子に教えたのか、その魂胆が一向に見えてこない。胸内の疑問は、すぐに質疑となって表れた。
「どうして、」
「書状に書いてあったのはそれだけだから、よく分からない。けど、もしも慶で出会ったのなら宜しく頼む―――と」
「頼む?」
頭を傾げる
江寧に、陽子はああ、と頷く。
これより王宮を出て行く者に対して官職を与える事は流石に出来ない。つまりは、仙籍へ入れたとしても地仙ではない。
――― 延王君は何を考えているのか。
そう思えば、
江寧は僅かに眩暈を覚えて、手は自然と額へあてられる。
「書状の内容を読ませたら、景麒は良いと言ってくれた」
「ケイキ―――陽子の麒麟か」
「ああ。でも、珍しくすぐに頷いたな」
そう言って、陽子は栄可館で会った景麒の様子を思い出す。あれは本当に珍しい光景だった―――書状に目を通していく内、いつになく眉間に皺が寄っていく麒麟の姿。漢文は読めないので内容を読んでもらい、良いかと問えば僅かに躊躇いながらも頷く。……あれは本当に、稀な反応だった。
はたと思考を引き戻して、陽子は僅かに逸れた話を戻す。
「こんな事をする時間などない事は分かってる。だけど、」
「だけど―――なに?」
言い渋る陽子の顔を、
江寧が覗き見る。
「今の内にやっておかないと、乱が終わり次第居なくなるような気がして」
「……確かに、そのつもりだった」
驚きを誤魔化すように笑みを貼り付ける。乱が終結次第、緋頼と共に隣国へ赴こうと思っていた
江寧の考えは見事に予測されていた。―――誰に気付かれる事もなく韜晦を決行しようとしていたのだが、それも出来なくなってしまった。
「やはりそうか」
「他の人には私から言う。だからこの事は、皆に黙っていてくれないかな」
「分かった」
頷いた陽子を見やって、
江寧は口を引き結ぶ。つかつかと歩み寄ると、目前で片膝を床に下ろして拱手をした。未だ付けている指環が灯に照らされて鈍く光る。陽子はそのまま手を伸ばして、指を額に添えた。
「勅免を以って慶国飛仙に任ずる」
「謹んで、拝命賜ります」
拱手と共に下げられた頭は深く。
一瞬、
江寧が伏せた瞼の裏に“彼”の姿が過ぎった気がした。
◇ ◆ ◇
未だ燻り続ける市街を眺めながら、
江寧は歩墻の上で朝の陽を迎える。
形式上とはいえ、慶国飛仙となった彼女のその後、眠りは酷く浅いものだった。抜け切れていない疲れを追いやるように背を伸ばすと、何処からか名を呼ぶ声が聞こえる。
「
江寧、こっちよ」
声のする方角を見れば、手招きする祥瓊の姿が目に入る。それで駆け寄った
江寧に、丸く握られた御飯が差し出された。
「お腹は減ってない?」
「―――そういえば、すっかり忘れてた」
緊張が身体を支配して、食欲が麻痺していた。だが、目前に食事を見ればへこんだ腹に手を当てる。……食欲も、戻ってきた。
差し出された握り飯を手に取ると、まずは一齧りする。それから数口を運んで、手元の飯はすぐに無くなってしまった。
「急いで食べると、喉に詰まらせるわよ」
「うん」
咀嚼しつつ頷き、思わず笑い合う二者―――その元に、桓魋の慌てたような声が届いた。
「虎嘯!西の空を見ろ!!」
「うん?」
彼女達の傍にて食事を摂っていた虎嘯は、桓魋の言葉に立ち上がる。一瞬にして緊張の走る空気の中で、桓魋は短くもその深刻さを告げた。
「―――龍旗だ」
王の旗―――誰もが蒼然と、次いで騒然となる。騒がしくなった周囲の中、階段の下より虎嘯を見上げる桓魋の元へ、夕暉が真摯として問いかける。
「軍旗の色は!?」
「……紫」
江寧は目を細める。龍旗と言われようと、生憎王宮内の知識は詳しく叩き込まれていない。ただ、その焦燥からして州師よりも格上の軍という事だけは理解出来た。
……その隣で、祥瓊が呆然として呟きを零す。
「……禁軍」
階段を駆け上がる祥瓊と鈴の背を見送り、浮き足立つ市民へと視線を移す。禁軍と呟いた祥瓊の言葉が耳に残ったまま、
江寧は門闕の前にて佇んでいた。
そこへ階段を駆け下りてきた虎嘯もまた門闕へと足を運ぶ。騒々しさを増す様子を眺め、最中
江寧の姿を認めるなり手をひらりと振る。気が付いた彼女の面持ちは重く。
「
江寧」
「上はどうだった?」
見上げ訊ねた
江寧に対し、怪訝な様子を露にした虎嘯は僅かに声を潜める。
「……一軍が揃った」
「そう。―――もう一つ、聞いていい?」
「何だ?」
「禁軍って、なに?」
それは普段何気ない問いを訊ねるように、しかし傍から聞けば驚かれる質疑を口にして、虎嘯を驚かせる。彼女は決して常識を知らぬ訳ではない。だが、この事態にして焦燥のない
江寧を目にすれば、確かに知識はないようだった。彼女の問いが周囲に聞こえなかった事は幸い、さらに囁くようにして言葉を口にする。
「王の軍だ。私物でもある。だから王以外の誰も、禁軍を動かすことは出来ねえ筈だ。―――お前、知らないのか」
「宮中の事まで勉強してないから。一年間は言葉を覚える事で精一杯だったし」
「一年間……?」
首を捻る虎嘯に、はたと言葉を止める。滑ってしまったと、困りつつも苦笑で誤魔化せば、虎嘯はそれ以上訊ねてこなかった。
江寧は改めて話を持ちかけようとしたところで、頭上から降る少女の呼び声に顔を上げる。虎嘯もまた歩墻を仰いで、身を乗り出した鈴が二人を見下ろしていた。
「
江寧、陽子が呼んでるわ!」
江寧が歩墻に上がると三つの人影があった。祥瓊と鈴、陽子―――彼女達の視線は、拓峰の外に広がる閑地へと向けられていた。……詳しくを言えば、閑地に列する王師を。
陽子はふと歩墻に立つ人物に気付くと、王師へ向けていた視線をそちらへ向ける。白藤の髪が陽を受けて銀のよう。
「
江寧、」
「今王師の事を聞いたよ。誰かが命もなく勝手に動かしたのは、誰……?」
眉を顰め問う
江寧に、三者は顔を見合わせる。首を捻り、何気なく逸れた視界は閑地へ。幾人か動く者はいるものの、王師自体は依然として並ぶまま動く気配はない。それは、何かを待っているように見えた。
江寧の様子を見つめて、祥瓊は口を開く。
「豺虎は、三人居たのよ。止水郷長、和州候―――元冢宰の靖共」
「靖共……」
呟かれた名に、陽子は頷く。眼に強く色を灯して、その意志をはっきりと口にした。
「私に無断で勝手な事はさせない」
佇む少女は、既に王としての面へと変貌を遂げている。鈴と祥瓊は陽子の言葉に賛同するように頷いて、意志を確かめ合った。そうして歩墻へと招いた人物へ向き直ると、背筋を伸ばした
江寧の姿がある。
「―――赤子」
「
江寧は虎嘯たちに門を開けないようにと伝えてほしい。私は……待っている」
「――、御意」
陽子の意味有り気な言葉に、誰を、とは敢えて問わなかった。不安の欠片すら見せる事の無い王の姿を眼にして、三者は託す事にした。
―――拓峰の、行く末を。
江寧は深く一礼すると、頭を上げるや否や身を翻し、階段を駆け下って行く。鈴と祥瓊もまた後に続き門闕へと向かう為に駆け出す。……最中、はたと疑問を抱いた祥瓊は陽子を振り返った。
「……陽子、
江寧が本当は何者なのか知っているの?」
「ああ」
陽子の口元に、僅かな苦笑が篭った。
「あとで分かると思う」
◇ ◆ ◇
郷城の正門、その箭楼にて少数の人物で集う虎嘯らは暗澹としていた。
王師二軍の到着。
報告のたびに声を荒げ門闕へと殺到する人々。嘆く声は党に落胆を落とし、不安は瞬く間に侵食していく。険呑とした空気を漂わせた街中、ついには絶望の声までもが広がり続けていた。
街の様子を一望して溜息を落とす虎嘯は、横に佇む桓魋へと視線を移す。彼の眼もまた据えているのは批難と不安に溢れる街並みである。
「桓魋、あんたは素性がばれてねぇ。吉量を使って逃げな」
「勝手に人を腑抜けにせんでもらいたいんだが」
「そうか―――
江寧はどうだ」
「逃げ出す気なんて毛頭ないよ」
後方より聞こえる少女の声に、動揺は含まれていない。この状況下において落ち着いているのは祥瓊や鈴も同じだった。歩墻より戻ってきてから、緊張を抱えている様子などない。虎嘯や桓魋は頭を傾げ、夕暉が何かあったのかと問えば、三者とも頭を横へ振るばかり。だが―――それが彼らの不安を軽減させる元ともなっている。
二軍が揃い終えて暫しも経たないころだろうか……一人の男が箭楼へ上がってくる。
「虎嘯―――」
「どうした」
「街の代表だって連中が来てるんだが」
対し拒む事のない虎嘯に、男は頷き下っていく。その間に虎嘯の周囲を警戒する者達があって、前へ出る者もいた。その前方には祥瓊らが立つ。緊張の糸を引き巡らせて、時を待った。
やがて六人ほどの男たちが上がって来ると、場は今までにない緊張に包まれた。代表である革午は一見武器を所持していなかったが、警戒するに越した事は無いと、虎嘯を囲む者達の身体に力が入る。これまで落ち着いてきた
江寧も、弓を持つ掌に力が篭った。
「門を開けてくれ。私たちはお前たち逆賊の捕虜だ」
「お前たち無頼の連中が、こんな事をしなければ―――」
革午の言葉を皮切りに、罵り蔑む言葉が次々と吐き捨てられていく。否もせず悄然とする虎嘯に夕暉は心配をして、途端発せられた少女の声に、皆が驚愕を露とした。
「いい加減にしなさいよ―――!あんたたちは昇紘が憎くなかったの?昇紘のやり方で良いと思っていたの!?」
「鈴……」
「だからあの子が昇紘に轢き殺されても―――何も、してくれなかったの!?」
―――清秀。
昇紘に殺されてしまった。悲しみは胸に突き刺さり、憎しみは胸内に留まる。溜飲が下がらない限り、それはいつまでも残り続けるだろう。だが、彼らは苦しみを背負い続ける方が良いと言う。
「―――いいか、私らだって昇紘は憎かった。だが、仕方なかったんだ……頭を下げなきゃ生きていけなかった」
「耐え続けて、先に見出すものがなくても……?」
「―――!!」
江寧の言葉を耳に入れ、顔を俯かせた革午の拳に力が篭る。視線を上げる男の視界に入るのは、逆賊に手を貸していた少女たち。王師が来たとて動じる事の無い者たち。その姿が、男たちを余計に苛立たせた。
「昇紘を倒してくれてありがとよ!だがあんたらは、代わりに王というもっと大きな豺虎を引き寄せたんだ!」
「王は、あたしたちの敵じゃないわ」
「現に禁軍が来てるじゃないか!王が拓峰の叛乱を許すなと命じたんだ……!!」
「違うわ―――王は存じ上げないことよ」
きっぱりと断言したのは、鈴の隣に立つ紺青の髪の少女。革午は僅かに視線を逸らして見やると、凛とした表情を以って視線を合わせた。
「全ては昇紘、呀峰を統べるもう一匹の豺虎―――元冢宰の靖共が仕組んだこと」
その言葉に驚いたのは、革午たちだけではない。虎嘯や桓魋までもが眼を見開いて、祥瓊の背を凝視する。鈴と
江寧だけが、彼女の言葉に首を振る。
「止水から搾り取ったものが和州へ、それが靖共のところへ流れ込んでいた。昇紘の行いがばれれば自分が危ない―――だから、靖共が禁軍を動かしたのよ」
淡々と告げる真実に、桓魋が怪訝そうにしながらも祥瓊の背に問いかけた。
「祥瓊……お前、そんなことを何処で」
知った―――そう告げるまでの言葉を遮断してまで、祥瓊は話を戻そうとする。街の険呑とした空気は、いつ張り裂けるか分からない。市民が耐え切れず暴動に出る可能性もある。故に、ここで時間を掛けてはいられなかった。
改めて革午を直視する祥瓊は、切りかけた話を再開させる。
「王は禁軍を出したりなさらないわ。その証拠に、禁軍はあれ以上動かない。本当は、王以外が動かしてはならないものだからよ―――ただの脅しなのよ!」
「そんな保障がどこにある!王も靖共と癒着して、呀峰たちの味方をしてるんじゃないか……!」
『有り得ないわ』
革午の反論に、三者が口を揃えて否定の言葉を放つ。それは、場に居合わせた誰もが怪訝な顔付きをするであろう光景。状況下は最悪。だというのに迷いすらなく断言するのだ、猜疑の眼を向けられようとも仕方がない。
「王を知っているような口振りだな」
背後に佇む桓魋が首を傾げつつ問いかける。それにも一切の躊躇いさえもなく、頷き答えた。
「知っているわ」
「新しい、慶の王を―――」
「なんでお前たちみたいな小娘が王と面識を得る!」
小娘―――その言葉によって、祥瓊の表情が豹変を遂げる。少なくとも、“仲間”である祥瓊の貌ではない。
不意に祥瓊の脳裏に甦る、鷹隼宮の悲劇。思わず眼を細めたが、それで言い出す覚悟を決めた。一息の後に、放たれる言葉。
「―――
私が、王に面識あるのがおかしいか」
「あたりまえだろう―――っ?」
「我は芳国は先の峯王が公主、祥瓊と申す。一国の公主が王に面識あってはおかしいか。我の身元に不審あらば、芳国は恵候月渓に聞くが宜しかろう。先の峯王が公主、孫昭をご存知か、と」
革午は思わず言葉を喉に詰まらせ、眼を見開いた。今にも信じられないと声を上げそうな半開きの口元が引き攣った。
そういえばと、
江寧は雁国へ足を運んだ際の事を思い出す。
供から延宛てに届いた書状の内容は確か、芳の元公主の逃亡―――そこまで記憶を掘り起こしかけ、思考を区切る。今はそれを思い出したところで、別段関係はない。
「我は父が身罷り、景王を頼って慶国に参じた。景王より依頼を受けて、和州の実情を見聞していたまで。景王におかれては、この乱を機に一気に靖共らを捕らえる御意向である」
「まさか……」
連なる言葉には気迫が含まれている。男たちは幾度も眼を瞬かせ、少女の言葉が未だ信じられないと疑いをかけ始めたところで、鈴が一歩を踏み出した。
懐より取り出した旌券を手にして、革午の前へと進む。
「―――これを」
それは一見、何の変哲もない旌券―――だが、裏を返せば、少女が旌券を渡す意味をようやく理解する事ができた。
―――采王の、御名御璽。
表情は凍りつかせたまま、旌券と少女を交互に見比べる。まさかと眼を丸くさせたままの革午を見やって、鈴は丁寧な物腰で事を話し始める。
「あたしは才国琶山が主、翠微君にお仕えする者です。采王御自らのお達しあって、慶国は景王をお訪ねしました。不審あらば、長閑宮に問い合わせてごらんなさい。その御名御璽に、不審あればの話だけど」
鈴は自然と口元に笑みを湛える。革午は既に言葉を失って、呆然としていた。
この場において二国の王に関わる人物を目の前にすれば、誰でもこうなるだろう。そう胸内で苦笑を零し、彼女は鈴の横へと歩み並ぶ。半歩ほど下がった鈴と祥瓊は顔を見合わせて、何をするのかと
江寧を見守る。
「―――王師が動かないという保障はない、と言ったな」
「あ、ああ……そうだ」
「このまま市民が落ち着いてくれるのであれば、民の安全、並びに王師が動かぬ事を保障すると約束出来るだろう」
「なに―――?」
眉を顰めた革午を見上げて、
江寧は言葉を綴る。口調を変えたのは意識的だったが、あまり似合わないものだと惜しみつつ、長く息を吐く。周囲がしんと静まり返ったところで、再び
江寧が口を開いた。
「そもそも、門を開けるなと改め命じたのは主上にあらせられる。王は拓峰の民を助けようと、この郷城に居られるのだ」
「な―――」
「お、おい……」
「ちょっと、
江寧……」
革午らは驚愕の声を上げた。それは彼らだけではなく、虎嘯や夕暉、桓魋までもどういう事だと口々に問う。鈴と祥瓊は視線のみを合わせると、
江寧に向かい声を掛ける。二人の元へ半身のみ振り返ると、柔らかく笑った。
「お前は―――」
言い止した革午の言葉を汲み取って、一つ首を振る。すぐに裾を一払いすると、
江寧は丁寧に礼をとる。ゆっくりと、男たちへ拱手を―――。その光景に誰もが凝視する中で、彼女は静かに口を開いた。
「申し遅れまして―――慶国景王赤子より飛仙を拝命賜っております、
江寧と申します」
その言葉に、誰もが声を失った。
先程まで王について吐き出していた男たちも、王に和州の見聞を望んでいた者たちも、王を知る筈の二者すらも。
……そんな話は聞いていない。
祥瓊は胸内に驚愕を秘めてちらりと鈴を見やる。鈴もまた驚きつつも祥瓊へ視線を向けて、それから頭を深く下げている
江寧へと。
彼女は、頭を上げ様ちらりと二人へ目配せする。それにはたと冷静を取り戻して、再び鈴と視線を合わせると軽く頷きあった。
礼を解いた
江寧の両脇に並ぶと、三者は不安を微塵も感じさせる事のない、晴れやかな微笑を浮かべる。
「景王を信じてお待ちなさい」
「決して、悪いようにはしないから」
◇ ◆ ◇
革午ら街の代表が、納得して箭楼を下りていく背を見送る
江寧。ほっと溜息を吐いて、自身も此処を出ようと歩き出す。何よりも、今は以後を振り返ってはならない気がした。
「―――
江寧」
桓魋の声であったが、敢えて耳に届かなかった事にする。そそくさと出て行こうとしたところで、突如感じる背後からの気配。慌てて振り返った
江寧の目前には、眼に戸惑いにも似た色を灯し見下ろしている桓魋の姿があった。
「お前が今言っていた事は本当か?」
低音に乗せた猜疑。対して
江寧は一つ頷くと、彼女を注視する者たちを見渡した。浮かべる情は様々だったが、その大半は驚きと動揺に満ちている。
江寧は向けられた視線に耐え切れず顔を逸らすと、周囲を宥める声が快濶に響く。
「ともかく、これで市民は治まる。今はそれだけでいいじゃねえか」
「だが、虎嘯―――」
虎嘯を振り返った桓魋は、僅かに眉を顰めて言い淀ませる。そこへ言葉を差し入れたのは、祥瓊だった。
「そうね。景王が助けてくれるとは言っても、今理由を聞いている余裕はないもの」
「祥瓊……」
そうでしょう?と周囲に微笑み掛ければ、頷く者が複数。桓姙はそれらを見渡して、最後に
江寧へと視線を戻す。
祥瓊の言う通り、確かに今余裕はない。先程、念の為に隔城の守りを固めると話し合ったばかりで、これから箭楼を抜け指示を渡さなければならない。他にやる事もある。……それらを思い出せば、虎嘯や祥瓊の宥めに応じる事ができた。
江寧は拳を目前に突き出して、桓魋を見上げる。
「何だ?」
「必ずあとで話すから。ほら、約束……指きりじゃ、子供っぽいと思って」
「―――?」
「え」
首を傾げる男を前にして、一瞬
江寧の表情が固まる。思わず鈴へ視線を向けると、少女は苦笑しながらも首を振った。
「こっちじゃ指きりはないのよ」
「そう……だったよね、うん」
はは、と誤魔化すように乾いた笑いを洩らすが、周囲は首を傾げるのみ。一体何かと問おうとした男の声―――それを遮るように、窓の外を見上げて大声を上げる祥瓊の声が箭楼内に反響した。誰もが、焦燥を含ませる声音に振り返る。
「―――鈴、
江寧……!」
名を呼ばれ急ぎ窓へ駆け寄った二者は、祥瓊の指差す方角、遥か上空へと眼を凝らす。他の者達も集い見上げた空の向こう―――雌黄の毛並み、金の鬣を持つ獣の姿。
「あれは―――」
誰もが愕然と空を仰いで、呆然とする。次いで弾けたように箭楼を駆け下りていく祥瓊と鈴、その後に続き男達が次々と窓から離れ行き、歩墻への扉を目指した。
最後に虎嘯が駆け出しかけ、ふと視線を窓元へ移すと未だ残る者がいる。名を呼び駆け寄ると、歩墻へ向けていた視線が虎嘯の元へとやってくる。
「行かないのか?」
「もう少しだけ、此処にいるよ」
「―――そうか」
すぐに外へと戻された顔を一瞥して、虎嘯は身を翻し箭楼の階段を駆け下りていく。
一瞬見た彼女の横顔は、酷く穏やかなものに見えた気がした。
「陽子―――」
景麒の背へ騎乗し、空を駆け上がる姿は正に王。王師の目前にて叫ぶ声は、閑地を覆う禁軍によくよく響き渡る事だろう。
そう思いながら、
江寧は窓の外を見やる。出会った時より随分と王らしくなったと笑み、同時、じき治まる乱と共に世へ別れの刻限は迫りつつある事を惜しく思う。
―――いつか再び慶の地を踏む時、国が少しでも良い軌道へ乗り始めていますよう。
星のない空の下、
江寧は僅かな祈りを零す。時が経ち、王師が引き返す様を眺めて、ゆっくりと瞼を伏せた。