- 拾参章 -
月白色の空、ようやく陽の昇り始めた頃合に見えたのは、東の空に見えた影。それは群れを成したまま、少しずつ姿を鮮明としてやってくる。徐々に聞こえてくる羽音は、多くの視線を上空へと集めた。歩墻に立つ夕暉が、叫ぶようにして正体を明かす。
「空行師だ!もうこんなに早く―――!」
「みんな隠れろ!!」
―――天馬。
明郭の空行騎兵と判断を下した夕暉は上空に目を据えたまま、虎嘯は咄嗟に避難を下した。はたと顔色を変えて箭楼の扉を目指す者達が殺到し、辿り着くまでに降り掛かった矢を受ける者は少なくない。
鈴と夕暉は虎嘯に連れられ、近場の箭楼へ飛び込んだ。陽子と
江寧も彼らの後に続いて、騎兵からの標槍を受ける直前に何とか滑り込む事が出来た。
そのまま正門の最上階へと駆け上がり、弩や床子弩の準備をする者達に加勢をする。戦棚を立て回し終えて、陽子はふと横にいた筈の
江寧の姿を探す。すぐに見つかった彼女は床子弩に程近い、並べ立てられた戦棚の前にいた。
「
江寧、何をして―――」
矢を番える
江寧。その先にあるのは戦棚の僅かな間から見える上空。時折過ぎる空行騎が空を切るのみ。
その間から、撃ち落そうというのか。
「くそ、速い」
虎嘯の声を聞き届けて、
江寧は引き絞った弦から手を放す。矢は見事戦棚の間を抜けて、一騎の天馬の首を撃ち抜いた。
「よし―――」
一人頷く
江寧に、陽子は目を見開く。本当に撃ち落してしまうなんて――。
驚く間も無く二射目が構えられ、陽子は目を離し弩に箭を張ろうとしたその時、すぐ横から男達の叫びが上がった。
「だめだ、矢が尽きた!」
「弩がまだある、弩と弓を使え!標槍はないのか!」
怒号が飛び交い、忙しなく動き回る者達の中、
江寧は着実に空行騎を落としていく。腕に痛みは走っていたが、状況はそれを気にするどころではない。窮地に陥ったその中で、やるべき事をやるのだと次の矢を矢筒から抜き出した途端―――背後の戦棚が、弾け飛んだ。
見るも無惨な戦棚の木端と、砕いたであろう馬型の騎獣……その背に乗った人物が、慌てて振り返った者達の視界に映る。
「乗り込ませるな!」
虎嘯の声と同時、陽子が騎獣の目前へと構え出る。その背後で夕暉と
江寧が弩と弓を向ける様に、鈴は思わず声を上げた。騎獣に乗った人物に、よくよく見覚えがあったのだ。
咄嗟に陽子の前へ両手を広げて庇い出る。
「待って、敵じゃないわ!労のところで会った人よ!!」
言って、鈴はくるりと陽子らに背を向ける。騎獣に乗った人物――少女を見上げて、急ぎ駆け寄った。武器を下げる者達はその様子を見守りながら、不意に近場からの交戦の声が響き外を見上げる者がいる。そうして思わず驚愕する男達を余所に鈴と少女は言葉を交わす。
「鈴、無事だった!?」
「祥瓊、どうして―――」
無言で指を差したのは外―――四門の一つに集う州師の、その向こう。
「え―――?」
近場にあった床子弩の間へ駆け、覗き見た
江寧は騒然となっていた周囲の様子にああ、と納得する。祥瓊が指した先は青龍門であったが、各門に押し寄せる群衆は州師を圧倒していく。よもや窮地に立たされそういった光景を目に出来るとは誰が思うだろう。
「あれ……」
「軍勢?一体どこの―――」
同じく覗いていた陽子の呟いた声と共に、
江寧が訊ねるような口調で言葉を零す。刹那、視界の端にちらりと入った一頭の騎獣を目で追おうとして、振り返った
江寧は祥瓊の騎獣が箭楼から離れ駆け行く光景を見た。
祥瓊と同じ種の騎獣に騎乗している人物は、騎獣を宙で留まらせて口を開く。片手に携えた槍が、
江寧の印象に残る。
「あんたが、鈴か?」
「ええ。あなたは―――」
「俺は桓魋という。祥瓊の仲間だと言えば分かるか?」
呆然としながらも鈴は頷く。彼女の隣で外を眺めていた虎嘯は、思わず男を振り返った。
「じゃあ、あれは……あんたの仲間か―――?」
「州師よりも早く着いたぞ、褒めてくれ」
桓魋はそう言って、口元に笑みを湛える。四門に広がる交戦の音は騒々として絶える事はなく、数の多さを窺わせた。
「総勢で、五千いる」
◇ ◆ ◇
暫しの間は交戦の音が聞こえていたが、やがて上がる歓喜の後に消えていった。
州師の拘束を済ませ次第、桓魋の率いた群衆は内より開かれた郷城の中へと入る。各配置を指示したところで、桓魋と虎嘯は郷城の外側を並び歩きつつ言葉を交わしていた。
「上には上があるな、呀峰を狙う奴らがいたとは」
「なに、俺たちは呀峰の体面に傷を付けておきたいだけ。―――まさか、本当に郷城を落とすとは思わなかったぞ」
「そいつは俺の手柄じゃねえ。仲間がふんばってくれたお陰だ」
屈託なく笑う虎嘯に、桓魋もまた口角を引き上げた。大事を遣って退けた拓峰の者達もなかなかだと、胸内に思いながら視線を郷城の端から一望していく。ふと桓魋が見上げた先、歩墻の上で集まる三人の姿が目に留まる。祥瓊、鈴―――それから、赤髪の青年。
どうした、と虎嘯の声が耳に届いて、ゆっくりと振り返る。
「―――先程から思っていたが、随分と若い者達も居るのだな」
「うん?……ああ、鈴や陽子のことか。夕暉なら、俺の弟だが」
―――挙げられた名は、三人。つい先程見た箭楼の光景を思い出して、いや、と桓魋は首を軽く振った。
「ああ……いや、もう一人居なかったか」
「それなら多分
江寧だろう。あいつだったら、今は負傷した仲間の手当てに当たってるはずだ」
一間を置いて、そうかと頷きを見せる。その様子に虎嘯は問いかけようとしたが、不意に言い掛けた言葉を飲み込む。桓魋の率いて来た者達は皆既に氏を持つ者達ばかりだろう。それで成人にも満たぬ若者が戦場に居れば、多少の違和感はあるというものだ。
虎嘯は考えながらも、空を見やる。―――夕刻までには、未だ程遠い色をしていた。
江寧らによって大半の治療を終わらせた頃には、陽が既に真上へと昇っていた。
郷城の人々は穏やかな雰囲気のまま、一時の間に疲れを癒している。緊張のない様子に自然と顔を綻ばせて、
江寧は治療用具を入れた行李を抱き歩く。
包帯が無くなれば、何処かの部屋にあった袍衫でも襦裙でも破り持って行けばいい。そう考えていた
江寧の背後へ、男の声が掛かる。
「すまないが、サクはないか?」
「サク、ですか―――行李の中にはちょっと……」
流石に髪結いの道具までは持っていない。思わず苦笑を零すと、男は頷いた。―――先程箭楼にて見た、あの男だった。
「あなたは確か―――」
「桓魋だ。
江寧というのは、お前か?」
「え、ええ、はい」
桓魋を見上げて戸惑いがちに首を振る。わざわざ探してまで頼む用など、無い筈だ。それにも拘らず目前に立つ男の姿に、
江寧は一歩足を後退させる。
「――左腕は大丈夫か」
瞬時に不具合のある部位を聞き突かれて、
江寧は目を見開かせる。何故それを、と胸内に疑問を抱き見上げた男の視線は、完全に左腕を凝視していた。……だらりと下げたままの左腕。右腕のみで行李を抱えているのは、左を必要以上に動かしたくは無かったからだった。
ふいと視線を逸らすと、
江寧の視界に身を翻す男の姿が映り込む。下げていた視線を僅かに上げると、桓魋が軽く手招きをしている。
「ほら、来い。その腕で弓を引く訳にもいかんだろう」
「は……」
意外にも、口から漏れたのは間の抜けた声だった。
「引き攣りだ」
「引き攣り?」
鸚鵡返しのように問い返す
江寧の言葉に、ああと頷きつつも棚を漁っている。先程、桓魋は適当に部屋を覗き、小卓と榻の置かれた小さな房室らしき場所へ躊躇なく足を踏み入れた。
江寧は行李を小卓へ置き、勧められて遠慮がちに浅く腰掛ける。男は、先程から何かを探しているようだった。
「痙攣状態だ。腕が耐えられなくなれば、力が篭り続けるのは当然だろう。そのままの状態でいれば、腕が攣る」
「へえ……」
「弓を扱う者の中には、お前さんと同じ症状が起こる者がいる。その若さで弓を引いているからな、あるのは当然だ」
桓魋は棚から取り出した包みを行李の横へ置くと、椅子を引き寄せて
江寧と対面するように置き座る。未だ戸惑う
江寧に苦笑を洩らしつつ、左手首を掴んだ。さらに二の腕へ手を添えると、腕をゆっくりと回していく。
「……痛い」
「痛みだしたのは相当前か」
痛みに眉を顰めながらも、
江寧は桓魋の言葉に耳を傾ける。詳しく知っているような素振りに疑問を浮かべて、手首を未だ掴んでいる桓魋に問いかけた。
「治療の知識は、一体どこから?」
「随分と昔に教えてもらった」
へぇ、と関心して、処置を始めた手元を見下ろす。袖を捲りながら、桓魋は苦笑交じりに言葉を告げた。
「手慣れていたようだが、弓射の方法が違う」
「やっぱり、違う?」
「ああ」
江寧は思わず言葉を詰まらせる。以前より薄々気付いていた事だったが、直に断言されると何とも言えない。……カーボン製の和弓だったあの頃が懐かしい。
逃避からか思いは昔に馳せる。刹那、
江寧の逃避意識を引き戻したのは目前にいる桓魋だった。
「終わったぞ」
「あ―――ありがとう」
江寧が再度腕を見た時には、既に包帯が巻かれていた。袖を下ろし、礼を一つ告げて立ち上がる。―――随分と、痛みが和らいだ。腕を動かしても、支障はない。
再び礼を告げれば、いや、と桓姙は首を振る。然程気にしていない男の様子に、
江寧の口から思わず言葉が零れた。
「私は剣の扱い方を知らないし、赤虎以外の騎獣に乗る術を覚えていない。まして陽子のように俊敏じゃないから……特技と言ったら、弓ぐらいなもので」
「そうか……」
それを取ったら、何も残らない。目が良いだけでは、何も出来やしないのだ。……だから、治療はとても有難い。
桓魋が開けたであろう行李を片付けて、周囲の榻と椅子の位置を戻す。そろそろ桓魋も持ち場に戻らなければならなかった。
部屋を後にしようとした
江寧はふと、扉の前で立ち止まる。今さら気が付いた事柄に思わず声を上げて、振り返った彼女を桓魋は不思議そうに見る。
「ん?」
「桓姙、今貴方は何語で話していたつもりだった?」
「なに―――?」
薄く笑って、
江寧は今度こそ扉の向こうへと消えていく。一体何かと思い返して、理解出来ずに首を傾げる桓魋が部屋に取り残されていた。
◇ ◆ ◇
その夜、箭楼にて仮眠を取る事となった陽子らは、先客の姿に目を見開いた。
「おかえり」
「
江寧―――今まで何処に行ってたんだ」
「緋頼のところに居たよ」
陽子の後に続き入って来た祥瓊と鈴は
江寧を見やる。その内祥瓊は、彼女と面と向かう事は初めてだった。言葉をどう切り出すか僅かに迷って、祥瓊の様子に気が付いた鈴は微かに笑う。
「祥瓊、この人が
江寧よ」
「あ―――」
「そういえば、二人がこうして会うのは初めてなのか」
「ええ……」
江寧はきょとんと目を見開いて、ゆっくりとその場から腰を上げる。祥瓊もまた控えめに笑うと、手を差し出した。
「祥瓊よ、よろしく」
「
江寧です。こちらこそ、」
「……なんだか硬いな」
陽子の発言に、鈴はくすりと笑いを零す。僅かに咎めるような祥瓊の声がして、
江寧の顔が自然と綻ぶ。その一時は、まるで乱など初めから無かったかのようだった。
陽子は二人に素性を明かした旨を伝え、さらに祥瓊や鈴の詳細を明かして
江寧を驚かせる。だがこれでは不平等だと、
江寧自身もまた素性を語った。
恭に流された胎果。偶然にも陽子と出会い乱に手を貸した昨年。今も雁よりの招きがある事。……時間がない事だけは言い出せなかったが。
乱の話の際に、陽子は苦笑を零していた。
「そういえば、途中でいなくなってしまったんだったな」
「それは……うん、ごめん」
侘びを入れる
江寧に、陽子はいいやと首を振る。あの時、延が戦線を離脱するよう勧めたのだと知り驚きはしたのだが、こうして当人に謝罪を入れられると応えに困る。
「……でも、皆苦労してるんだね」
転射の向こうに広がる闇を眺める
江寧の面持ちは、穏やかなものだった。どこか安堵するような笑みを浮かべて、三人を振り返る。
「―――もう寝よう。仮眠は出来るだけ取った方が良いからね」
「そうね―――乱が終われば、ゆっくり話す時間ぐらいあるでしょうし」
「ええ」
それぞれに頷くと、陽子らは壁に寄り掛かる。誰もが募った疲労を少しでも減らすため、次々に意識を闇へと落としていった。
市街を覆い尽くす深淵は、深夜にひっそりと静寂を落とし込んでいる。
異様に静まり返る郷城の中、あれから間も経たずして
江寧の意識は自然と浮上した。
「―――ん」
箭楼へ入り込む冷気が身体を冷やす。手足が冷たくなっている事に気が付いて、背を預けていた壁から離れる。よろよろと立ち上がって、転射より夜景を覗いたが、闇は未だ深かった。
一度覚めてしまっては目が冴えるばかり。仕方なく歩墻へ上がろうと扉を押し開き、緩く吹き通る風に一度身を震わせながら扉を静かに閉じる。
歩墻には少数立つ人影が見えて、
江寧の口からほっと安堵の息が零れた。
少し歩き、人影の見えるあたりで女墻へ浅く腰掛け、市街へと目をやる。拓峰の民は未だ何の行動も見せる事はない。三日州師の襲撃を耐え抜けば明郭で反旗が翻る、と―――そう聞いていた
江寧は、拓峰の民への危害を心配していた。
市街を一望して、ふと闇の中に見える、ほんの小さな点。
「……なに?」
身を乗り出しそうになる
江寧を、背後から人が声を掛け止めた。―――振り返れば、昼間に見た顔が暗がりの中で次第に浮かび上がる。
「桓魋?」
「お前、寝ていたんじゃないのか」
「さっき目が覚めた。……それより、少し気になるものがあるんだ」
言って、
江寧はすぐに視線を市街の街中へと戻した。
先程あった筈の点はない。代わりにいくつかの点を、闇に慣れた眼が捉える。何かと桓魋も隣で目を凝らすが、彼に見えたのは市街の街並みだけだった。
さらに目を凝らして眺めようと目を細めて―――瞬間、ちらりと見える橙に
江寧は瞼を目一杯に押し上げる。それが火と判断する間は数秒も掛からず。
「―――放火?」
「なに?」
「火が、街に―――」
江寧の言葉で、はたと桓魋が気付いた時には既に火の手が見えていた。
「緊急だ、鼓を鳴らせ!」
桓魋の叫ぶ声で、角楼の太鼓はすぐに打たれる。鼓膜を震わせるような音と共に、その深刻さがじわりじわりと胸に迫ってくるようだった。
「何があったの、桓魋!!」
歩墻を叫び駆けて来る祥瓊らの姿を認めると、桓魋は火の出先を指で示す。火事、と呟く鈴に、
江寧は違うと首を振る。桓姙を除く周囲の者は思わず首を捻って、ようやく駆けつけて来た虎嘯と夕暉を振り返った。
「……呀峰のやることなんだもの、分かっているべきだった」
夕暉は火の放たれた街並みから目を離すことはなく。
「―――州師は街ごと、昇紘ごと、ぼくらを焼き殺す気だ」
騒然とする周囲の声を掻き消すように、虎嘯が叫ぶ。
「この時間だ、街の者は寝てるぞ!起こして火を消さないと」
「駄目だ―――州師が待ってるよ。連中はぼくらが城内から出ていくのを待ってる」
「夕暉の言う通りだ。郷城にまで火が届くには時間がかかる。暫くは様子を窺ったほうがいい」
夕暉と桓魋の言葉に、殆どの者が顔を顰める。拓峰の者達は決起に対し頑として動かなかったが、決して見殺しには出来ない。
判断を誤れば多くの犠牲を出す可能性もある選択で、彼らは慎重に事を進めようと考えていた。
―――だが。
「ここで街の連中を見捨てたら、俺たちは単なる人殺しだ!」
―――その言葉で、どれだけ落胆していた心を動かされたのだろう。
虎嘯と鈴の説得もあって、夕暉は避難の策を挙げる。一様に頷く者達の中で一人、先程歩墻にいた筈の姿はなくなっていた。
「―――
江寧?」
「どうした、祥瓊」
「
江寧が、いないわ……」
◇ ◆ ◇
彼らが動くその手前、
江寧は身一つで厩舎へと向かっていた。
弓は夕方、緋頼の傍へ置いたためにわざわざ取りに行く必要もない。鞍を掛け次第出立の用意を終え市街へ向かうつもりだった。
「
江寧!」
名を呼ばれて、踏み出した足が留まる。それが陽子の声と判断する前に、駆けつけて来た彼女の手が
江寧の肩にかけられる。思わず肩を竦ませて振り返った先、背に佩刀をした陽子の姿が視界に入った。
「陽子―――」
「虎嘯たちが探していた。行こう」
指を差すは白虎門のある方角。そちらに視線を向けて、すぐに手元へと逸らしながらもひとつ頷く。ああ、と
江寧の肩を軽く叩いた陽子は、赤虎を引き連れた彼女の横に並び門へと向かった。
最中、陽子が声を潜めて言葉を掛ける。
「あまり気を逸らせないほうがいい」
「―――ごめん」
開かれた白虎門を目前にして、短く侘びを伝えた
江寧に陽子は首を振る。ちょうどそこへ二人の元へ駆けつけて来た虎嘯は既に、大刀を片手に携えていた。
「何してる、さっさと行くぞ!」
開門された白虎門から酉門へ向けて、駆け抜ける者たちの姿がある。途の隅に潜む伏兵と交戦したのは数える程度であったが、それ以上の敵が来ない理由を、
江寧だけは知っていた。
「陽子―――大丈夫?」
「ああ、そちらは気にしなくていい」
気を整えつつ、陽子は剣柄を握り直す。先程から幾度も剣を交えているというのに、その白刃は衰えを知らない。流石は慶国宝重と言えよう。
到着した酉門前は沈黙が潜み、その中で迷いなく門扉を開く陽子の背を見守って、彼女の後に続く桓姙と虎嘯を
江寧は追った。
当然のように散らされた敵兵の転がる閑地へと足を踏み入れた陽子と
江寧は周囲を一望する。半ば戸惑いながらも虎嘯と桓姙が煙の上がる門内を振り仰ぐ。閑地は、門内で上がる火によって仄かに明るい。
「―――待て」
一歩踏み出した
江寧の耳に、桓魋の制止の声が届く。陽子もまた立ち止まると、遠景へ目を据える桓魋を見やる。その視線を辿って、三方は振り返った。
「街に立て篭もるしかないな……雲橋だ」
「雲橋?」
「前に盾を立てた巨大な車を、幾つも連ねたものだ。城を攻める戦車だな」
地の砂を巻き上げて、地平線を覆い押し進められる車の姿。地を引き摺る音と騎馬の足音によって騒音と化し、酉門へと徐々に近付きつつある。
江寧は弓を握り締めると虎嘯と桓魋を振り仰ぎ見る。陽子もまたどう止めるのかと視線に問いを含ませて振り返った。
「あれだけは潰さないと―――虎嘯!」
短い返答の後に、突如虎嘯へ向けて鉄槍が投げ渡される。携えていた武器を地に投げ、慌てて投げ寄越された物を受け取ると、鉄槍と桓魋を交互に視線を移す。
「お前はそいつを振り回して、北側の雲橋を止めろ。騎兵の足止めになる」
口元だけを僅かに引き上げたまま、桓魋は北を軽く指差す。虎嘯の即答の後にそれから、と桓魋は言葉を付け加えて
江寧を見やる。
「それから火箭を用意させろ。
江寧は箭楼へ上がって車上を射ろ。なに、お前の腕なら全て当たる」
「やってみる。南側は、」
「任せろ。援護は陽子に頼む」
ああ、と陽子が頷く最中に桓魋は南へ向けて駆け出していく。虎嘯もまた鉄槍を担いだまま北へと走り、
江寧は駆けつつ赤虎の名を叫んだ。
門を跳躍して
江寧の前へと降り立った緋頼は、体躯を低くして騎乗を促す。頷く間も無く飛び乗った主を背に大きく跳躍する。箭楼の転射の間より中へ入って、ちょうど階段を駆け上がってくる者と鉢合わせした。
「―――矢はあるか?」
「これで、頼む」
腰に予備として備えていた矢筒を取り外し、蓋を開く。男は中に収容された矢を数本取り出すと、そそくさと火矢の準備を始めた。その間に弦を張り直して、視線を遠景へと移す。
――――南が、傾いている。
平行に進むはずの雲橋は、次第に南が進み遅れた暫し後に平行へ戻る。南北どちらも押し留めているのだと察して、不意に向けられた火にぎょっとする。無言のまま手前へ寄越されれば、早く射れと促された。
火矢を番え、出来る限りに弦を引き絞る。狙うは車上―――狙いを定めて、迷いなく右手を放した。
「当たったか!?」
「うん」
江寧の矢は目的の箇所へと命中した。それと同時、北より光の群れが一団と成して雲橋へと飛び行く。男から新たな火矢を受け取りながら、北の光景に目を丸くした。その驚きを悟ったのか、男は腰を上げると転射の向こうに広がる光景を眺めた。ああ、と頷くなり、すぐに作業へと戻る。
「虎嘯たちだな。―――三本はいけるか」
「うん、頼む」
次は三本―――。
そうして番えた火矢を引き絞り、先程同様の狙いで放った―――つもりだった。
「―――消えた」
「消えた?火が?」
当てた筈だった。だが、今や雲橋の進行速度は南北の襲撃により疎らとなっている。不規則では外れても仕方無い。火が消えたのも、矢の速度に耐えられなかったからだろう。そう思えば、自然と眉間に皺を寄せていく。
口を引き結ぶ
江寧を男が宥めて、次の火矢を彼女の手元へと渡した。……刹那。
「どうした?」
「……中央の車が、止まった」
暗がりの中、
江寧の目は遠景の様子を鮮明に捉える。その場に留まった車が荷となり両隣も引き摺られていく。理由は知らないが標的は止まった―――その隙を、決して逃してはならない。
手持ちの火矢で、止まった車を集中的に狙い続ける。その内数本は先程と同様に火が消える様を目にして、その度に顰められる眉。そうしてさらに幾つか放った後……ようやく、車が場に留まった訳を知る。
―――騎馬の悲鳴と、燃え広がる車。
「内側から燃えてるな……運よく射口に入ったか」
「射口?」
「車の内側から箭を放つ為にある間の事だ。内側から燃えたなら間違いないだろう」
外れで設けたな、と励ますような男の言葉に、
江寧は隣の車へ燃え移る様を眺めつつ乾いた笑いを洩らす事しか出来なかった。