- 拾弐章 -
―――赤楽二年二月初頭。
決起を決意した止水の民が最初に襲撃したのは、昇紘の邸宅の一つであった。
その際、邸内に書き残した「殊恩」の文字により彼らは殊恩党と呼ばれたが、それを気にする者など誰一人として居なかった。
殊恩党はさらに、郷城に設備された義倉を燃やしまたも「殊恩」を残して逃走を図る。確実な挑発であったが、止水郷の豺虎はそれを見逃せる程の心情を持ち合わせては居らず、結果州師及び師士を義倉の周囲に。州境に三百の師士を配置させたのである。
しかし、二日殊恩党の動きはなく、兵らがようやく油断の生まれた三日目の早朝―――東の閑地に位置する別の邸宅へ、百の民が押し寄せてきたのだった。
民により制圧された邸宅。その周辺を囲む州師や師士らは外から威圧を掛けるが、民はそれに動じる事無く歩墻より弩を構える。その場には、指揮を下す陽子の姿があった。
「暮れたな―――」
「そうだね……」
指揮官の近場には、低姿勢のまま弓を構える
江寧の姿。呟かれた独り言に返答が来れば、自然と返答をした先を見やる。
「
江寧、緊張を持ってくれ」
「持ってるよ」
冗談を言えるほど余裕がある訳ではない。今一矢でも放ち討てば、恐らく州師は少数ながら動くだろう。―――だが、それでは陽子の思う事は出来ない。そう思いつつも、斜陽を終えようとしている空を見上げて、一つ息を吐いた。
「主楼へ後退しろ。主楼の連中と合流して布陣しなおす」
陽子の指示に、男達は警戒を持ちつつ迅速に後退を始める。一人、また一人と後退を見送って、歩墻に残るは陽子と
江寧の二人のみとなった。邸宅前に並び時を待つ州師を一望して、陽子の視線は手前で弓の構えを解く
江寧を見下ろす。―――彼女は殊恩党の中で唯一陽子の身分を知る者だった。
「……
江寧、これから私がやる事には、目を瞑っておいてほしい」
「分かった」
返答はすぐに。
江寧には大凡検討が着いたのだろう……彼女の顔に、普段見せる苦笑はない。すまない、と短く侘びを入れて、景麒より借りた指令の名を呼ぶ。
「班渠……あとはお前と重朔に任せる。夜陰に乗じて敵の数を減らせ」
《 悪戯に民の命を失いたくはないとの仰せでしたが 》
「他に手が無い、腹は括った。私が許す」
御意、と返答した指令の気配が遠ざかる。一息を零した陽子は、最後に州師を眺めた後に主楼へ向けて歩き出す。その後を追う
江寧に振り返らずも言葉を向けた。
「陽が落ち次第郷城へ向かおう。
江寧、援護を頼む」
「承った」
返答は歯切れ良く。聞き届けた陽子は頭を縦に振り、主楼へと降りて行く。
―――そうして陽の陥没を待ち、陽子と
江寧はようやく次の行動を開始した。
◇ ◆ ◇
それぞれ主を乗せた驃騎と緋頼は、本隊大凡八百の同志が突入した郷城へ向かう為に邸宅より旅立つ。騎獣で駆ければ然程時間の掛からない場所だが、二騎が平行して上空を駆け続ける、僅かな時の間。弓を持つ左手を鞍の上に置いて、
江寧が問いを投げかけた。
「陽子、そういえば邸宅で男の人と話していたけど……知り合い?」
邸宅に居た兵の拘束を手伝っていた最中、兵の中に混じって日本語を話す者がいた。主楼にていくつか言葉を交わしていたが、男の口調は陽子と慣れ親しんだ者のようだった事を、
江寧はよくよく覚えている。ああ、と一つ頷いて、陽子は僅かに視線を前方より逸らす。
「私が、連れてきてしまったんだ。杉本さんと一緒に」
「そっか……これが終わったらあの人は」
「うん、日本に帰してあげたいと思う」
僅かな憂いの情を貌に浮かべて、すっかり陽の落ちた拓峰の街並みを見下げる。ようやく見つけた友人。しかし、彼は昇紘の下に居た。ひとまずは捕らえてあるものの、やはり引っ掛かるものはある。次いで金波宮にて生死を彷徨う子供を思い出し、陽子は憂いを色濃くした。刹那、隣からの呼び声にふと耽ってしまった思考を引き戻して、ああ、と頷いた。そのまま言葉を続ける。
「でも、頻繁に蝕は起こせない。あちらの被害も分からないし……」
「それなら大丈夫、麒麟の蝕はほぼ被害が出ないそうだ」
「え?」
「延台輔から、そう聞いた」
僅かに笑みを零す
江寧を見やってそう、と安堵の息を吐く。それならば然程気にする事もない。乱が党の勝利で終結を迎える事が出来れば、すぐにでも―――。そう思考を回す陽子の視界に少しずつ入ってきたのは郷城、その歩墻に走る武器を携えた男達。駆けつけた兵と切り結ぶ様に、陽子と
江寧は身に緊張を走らせる。
驃騎の上にて水禺刀を抜く陽子と、緋頼の上にて二つほどある矢筒の内片方より矢を抜く
江寧。
「陽子、飛び乗って。少し揺れるけど」
指令を連れ郷城内に降り立つ事は流石に拙い。故に驃騎は出来る限り緋頼に近付き、陽子は差し伸べられた
江寧の手を取る。そのまま緋頼の背に飛び乗れば、途端驃騎が離れ行く。
途端、呻きを上げて陽子を威嚇する緋頼。その首下を、
江寧が叩いた。名を呼び叱咤すれば、呻きの声は途絶える。
「すごいな、
江寧は」
「いや―――陽子、飛び降りる用意を」
ああ、と頷いた矢先見たのは、歩墻を越えた途端に急接近する地面。
江寧の左肩を借り手を置くと、片足を鞍の後ろにかける。低空で駆ける赤虎に驚き後退するその間を狙って、陽子は鞍を軽く蹴った。
滑るような着地を即座に終えて、近場より突撃してくる兵を一振りで斬り払う。さらに横から駆けつけてきた兵が振り上げた剣を、陽子は受け流すと空かさず胸元に一振りを下ろした。
……刹那、真横を過ぎる一矢。
江寧もまた緋頼より飛び降りると、即座に番えていた矢と共に弦を引き絞る。それは陽子が剣を振り下ろしたと同時に放たれ、その先の敵兵を射ち抜いた。
「あの距離から―――」
射抜いたのか、と思わず感嘆する。陽子と
江寧が下りた場所の間は相当あったが、彼女は然程難を感じてはいない。それが心強いと感じて、
江寧が突如声を上げる。
「―――夕暉を!」
「!!」
陽子は振り返り、弓を引く夕暉を見やる。彼の横から、剣を構え突撃する兵の姿。光景を視界に捉えた矢先、駆け出した足は爆ぜるようだった。兵を背から袈裟懸けの一振りで切り伏せると、地に伏した敵兵の向こうから驚愕を露にした夕暉が視界へ入る。
「陽子……!」
「昇紘の官邸へ突入する。援護を頼む」
夕暉の驚きは一間を置いて、陽子の言葉に緊張を引き戻された。一つ頷くと、駆けつけてくる
江寧を視界に捉えてその方角を見やる。彼女の後ろには赤虎の姿もあった。
「
江寧、先に行って虎嘯の援護を」
「分かった」
頷くや否や、
江寧は赤虎を引き連れ駆け出す。―――向かうは郷府、最奥に潜む豺虎の所へ。
―――何処まで来ただろうか。
長く続く廊下を駆け抜け、時折真正面から突撃してくる兵を大刀で薙ぎ散らすと再び走り出す。虎嘯はそうして幾度目かの兵と切り結び、蹴散らした後に大刀を立てると背後を振り返った。
……何かが駆けて来る音に聞こえたが、此処へ到達するまでにはまだ時間がある。そう考える矢先、複数の音が真正面より近付いてくるのが分かる。
立ち止まった虎嘯は大刀を構え、先に辿り着く方を優先する為に正面へ向き直った。
―――刹那に駆け抜ける、凄まじい獣の怒号。
「な……何だ?」
これには敵兵だけでなく、虎嘯までも唖然として立ち止まった。一体何がと思う間もなく、虎嘯の脇を矢が擦り抜ける。前方で立ち止まった敵兵の胸を見事に穿ち、力なく床へ倒れ伏す男の姿。はたと我に返り、それが彼女の仕業と思い当たるまで、然程時間は掛からなかった。
「
江寧か……!」
「―――動くな!!」
さらに一矢が敵兵を見事貫き、残された者は慌てて廊下を引き返す。だが、それを見落とさぬかの如く、廊下を駆けてくる赤い虎。虎嘯は脇へ避けると、真横を駆け抜けた緋頼が逃げ出した兵に喰らいつく。断末魔を聞きながら、仄暗い廊下で良かったと複雑ながら思う。
その直後、廊下をこちらに駆けて来る
江寧の姿をようやく捉える事が出来た。
「無事だったか……邸宅の方はどうだ」
「大丈夫、邸宅の方はこちらが有利になったから」
「そうか……」
「じきに陽子達も来る。先にある程度蹴散らしておこう」
「そうだな。
江寧、援護は任せた」
「承った」
力強い頷きと返答に、虎嘯もまた頷きを返す。そうして再び仄暗い廊下を駆け出していった。
◇ ◆ ◇
その後、すぐに駆け付けた陽子を迎えて、三人で郷府の最奥を目指す。他の者もじきに来るという陽子の言葉は、暫くの後に頷けた。奥殿へ到達するまでに、鈴たちも無事に駆け着けて来たのである。
「外はどう?」
「大丈夫、他の人たちが歩墻と箭楼から見張りをしてる」
江寧の問いに答えたのは、三騅から下りた夕暉だった。そう、と
江寧が頷くと、不意に楼閣の前で前方を行く者達の足が止まる。足元を凝視する彼らに首を傾げると、急に漂う錆鉄の臭いに思わず身を一歩引いた。
「―――どうした事だ、これは」
「仲間割れかな」
言い切った陽子の声が聞こえて、
江寧は思わず眉を顰めた。しれっと知らぬように答えるものだと、内心苦笑する。
男達は分厚い扉を切り倒し中へと侵入を果たす。あちこちの部屋を探し、それからようやく動く人影を見つけたのは房室での事だった。
誰もが沈黙を守り、房室の入口前で足を止める。虎嘯の問いに首を振る影を人の合間から眺め、姿はそれこそ醜い獣が転がっているように思えた。
陽子の問いにさえしどろもどろとなり、脅えた動物のよう。
―――昇紘。
今すぐにでも手元の弓で弦を引き絞り切り矢を放ちたい。
江寧の脳裏に過ぎる思い。左手に持った弓を握り締めて、その思いを留めたのは陽子の言葉だった。
「恨みは分かるが怺えてくれ。……この男は呀峰に繋がっている。こいつを殺して呀峰を逃がしたら、なんにもならない」
陽子の言葉に、いくつもの罵声が飛ばされる。中には嗚咽の声を押し殺す者もあったが、やがて渋々と諒承して房室を出て行く。その人垣を抜けた
江寧は、未だ佇む鈴の元へ駆け寄りながら、背後で上がった虎嘯の声を耳に入れた。
「―――州師が来るぞ!気を抜くんじゃねえ!!」
消沈と化していた士気は、怒号にも似た虎嘯の叫びによって再び騒々しくも取り戻される。その様に感嘆としながら、脅えきっている昇紘をじっと見下ろす鈴の横へ立つ。胸に短剣を抱く鈴の貌にはやはり、複雑な色を浮かべていた。
傍らに立つ夕暉と陽子は鈴の肩を軽く叩き、
江寧もまた鈴の背に手を添える。僅かに震えた手は剣を握り締めて、目に決意を篭める。
「……あんたは、拓峰で子供を殺した」
びくりと身体を震わせた豺虎の姿から視線を外すことの無いまま、鈴は言葉を紡ぎ続けた。
…もう戻ることのない蜜柑色の少年、その最期の姿を思い出しながら。
「あたしは、それを絶対に忘れないわ」
夜半時、負傷した者達の応急処置を一通り終えた
江寧は、一人歩墻に上がっていた。
傍らに包帯――布を裂いたもので、包帯と呼べるかは分からないが――を置くと左の袖を捲る。それを二の腕から肩口辺りへ強く巻き着けると、しっかりと結ぶ。
以前初めて拓峰へ来た際、左腕に激痛が走る事があった。
弓道を嗜む者の中には、弦を引く際に弓を留めていられず左腕を痛める者がある……不意にその事を思い出した
江寧は、自身もそうなのだと思う。
「ほんとに、情けない……」
これからだと言うのに、再発なんて。
袖を下ろしながら、自嘲の笑みを洩らす。以前に診てもらった際に処置の方法を教えてもらえば良かったと、後悔の情を浮かばせる。……せめて、乱が終結するまでは。
射墻の間より覗けば、外は既に州師が集い始めている。
江寧は思わず舌打ちをして、身を低くしながら敵楼へと向かった。扉を開くと敵楼内にいた虎嘯がその方角へ視線を向け、姿を認めるなり軽く息を洩らす。
「なんだ、
江寧か……どうした?」
「怪我の手当てが終わったから、他に何かやる事無いかなと思って」
江寧の問いに、虎嘯は首を横に振った。
「体力は今の内に温存しておけ。夜明け前にはどうなるか分からんからな」
「……動く気配はない?」
「全くねえ。腑抜けな連中が多すぎる」
腕を組み、向けた視線の先には転射より見える市街の様子。沈黙を守り続ける街並みの中、篝火の一つも見受けられない。それが今後どう影響を及ぼすのか、
江寧にも理解はできる。……彼らが動いてくれなければ、それは敗北を意味する。
眉間に皺を寄せて、
江寧は顔を俯かせた。自分たちの住む街だというのに、何故動かないのだろう。そう考えてふと、日本での出来事が思い返された。
―――外で助けを求めても、誰も家から出てこない。自分たちだって、怖い……とばっちりを、食らいたくないから。
「……なるほど、そういうこと」
「うん?」
一人納得したように軽く頷く
江寧を眺めて、虎嘯は思わず首を捻った。一体何だと問うその前に、ねぇ、と
江寧は言葉を掛ける。短い返事をした虎嘯は、未だ転射の前から動かない
江寧の横顔を見つめて、
「虎嘯、ちゃんと生き延びてね」
真摯とした切実さを篭めて、彼女はそう告げる。
揺るぐ事のない視線を受け止めて、虎嘯は返答を出来ずに息を飲む。そのまま、そそくさと逃げるように敵楼を後にしてしまった
江寧を目で追って、貌は不意にも険しくなっていく。
―――戦場で、まさかそれを言われようとは思いもしなかった。
◇ ◆ ◇
―――夜明け前。
市街が大まかに見えるほどに引く闇夜。それらを確認した虎嘯らは、郷城より切り上げ北上する事を決定した。
敗戦したのならば、後に限られたのは逃走のみ。落胆はあったが、昇紘の一件のみでも満足と言い聞かせ、早速最低限の物資を運び逃走の準備をする。
陽の出前にようやく終わらせると、歩墻に上がった虎嘯らはそこに立ち集う同志の顔を一望した。
「どうやら拓峰の連中は腑抜けだったようだが、ここに腑抜けじゃねえ人間がこれだけいる。つまりは、俺たちが止水の府抜けでない人間全部だったってことだ」
虎嘯の言葉に、所々で笑いが上がる。落胆の色を見せていた者達も思わず笑いを零して、歩墻に立つ虎嘯を見上げていた。そのやや背後にて鈴や陽子と並び立っていた
江寧は、逃げる予定であろう方角を眺める。―――果たして、無事に逃げられるかどうか。
僅かに痛む左腕に力を篭めた時、虎嘯は同志を勢い付けるかのように拳を振り翳した。
「さあて、もう一暴れして逃げ出すぞ!」
誰もが彼の言葉に応え、拳を突き上げる。その気迫揃う様子から窺える結束力に、陽子も
江寧も感嘆としていた。
ここまで人を纏め上げるのは容易なことではない。それを一言でやってのけるものだから、同志の虎嘯への信頼は厚い。呟くような陽子の言葉に、
江寧もまた同意し頷き、鈴はそうだろうかと頭を傾げる。―――ただ今だけは、それだけ話せる余裕があった。否、あるように見せていた。
ほっと息を吐く
江寧。
あともう少しの頑張りだと自身に喝を入れて―――何気なく一望した景色に違和感を覚えて、一度視線を通したはずの東の空、陽の昇り始めた上空へと視線を戻した。
―――彼女は、この時ほど視力の良い事を複雑に思った事はなく。
「―――鳥」
「違うわ……天馬よ!!」
聞こえてきた羽音が、死を運んで来たような気がした。