- 拾壱章 -
鈴が虎嘯らの元に加わり、十日を過ぎた頃のこと。
昼時、井戸端で鍋を洗っていた
江寧は、鈴より移動の旨を伝えられて眉を顰めた。事情を聞けば、周辺を嗅ぎ回っている輩が居るという。大方判断したのは夕暉だろう。思いつつも、鈴に了解の意を伝えた。
「にしても、流石に急すぎる」
「少しでも不安があるなら、そうした方が良いって」
「―――夕暉が?」
「ええ」
そう、と頷いた
江寧は、洗い終えた鍋を重ねて立ち上がる。厨房へ向かう足取りは鈴もまた同じく、手の塞がった
江寧の代わりに鈴が戸を開く。一つ礼を告げ入ろうとした所で、偶然にも虎嘯と鉢合わせをした。
「虎嘯」
「事情は鈴から聞いたか?」
「うん」
しっかりと頷いた
江寧を見やって、虎嘯は再び口を開く。
「二人には、荷造りを頼む」
夜陰の降りた夜更けを出立の時として迎え、荷を乗せた馬車は南西へと向かった。
拓峰、南西の隅に建つ妓楼―――そこの主人もまた、虎嘯の仲間である。
妓楼へ移ってから、鈴が物資調達の為に三騅を近郊の廬へ出す機会は頻繁となっていた。
江寧の赤虎は些か目立つため、緊急の用、主に伝令の際に出している。それでも、暇が出来る訳ではなかった。
「決起は近い?」
「そうだな、鈴に頼んだ荷が来次第だ」
「……そう」
思い詰めるように顔を俯かせる
江寧に、虎嘯はそれを不安と読み取ったのか、彼女の肩を軽く叩いて励ました。だが、別段悩みも不安もない当人は自身の肩を叩く男の顔を見上げて僅かに首を捻る。
「―――それにしても、本当に俺達に手を貸して良いのか?」
虎嘯は僅かに躊躇うような素振りを見せる。彼としては、他国の者を巻き込んでまで反を起こそうとしていた訳ではなかった。だが今現在を見れば、他国の者が二人、既に加わっている。当初は躊躇無く迎え入れたが、決起間近となった今更になって不安が煽り始めていた。
複雑な色を浮かべる虎嘯の顔を暫し眺めると、
江寧はうん、と力強く頷く。
「だって、心配で東にも行けやしない」
「―――?」
その言葉の意味を理解出来ずに、虎嘯は首を傾げる。
「どういう意味だ?」
「何でもない」
笑みを湛えて首を振る
江寧。それはどういう意味かと再度問おうとして、駆け出した
江寧の後姿を言葉を飲み込み目で追う。表を指差して、くるりと身を翻す。
「ああ、ほら。鈴を見送りに行かないと」
◇ ◆ ◇
翌日の昼頃、冬器と鈴を乗せた三騅はようやく拓峰へと帰還を果たした。
同志の集った花庁には、鈴への労いの言葉と歓声が交差する。それを隅で聞き届けながら、
江寧は肩に提げていた弓を握り締める。目前の光景を目にして、人に向け矢を放つその覚悟を決めていた。
集った同志に虎嘯の告げた武器の数は、人の数に比べてあまりにも少ない。だがそれを重々承知なのか、反論を唱える声は一つとしてなく。誰もが胸内に不安を秘めながら、それを表へ露にする事は無い。
勝算無く、勝利を掲げる。
江寧にとって、その光景はあまりにも歪となって見えた。
「―――
江寧」
既に解散した同志の後に続き、
江寧も与えられた客房へ戻ろうとしたところで虎嘯に呼び止められる。振り返る前に周囲を一度見回せば、夕暉と鈴の姿は既にない。それから呼ばれた方角へ顔を向けると、間近に歩み寄ってくる男の姿を視界に留める。
「どうしたの?」
「今、手元に矢はいくつ残ってる?」
「全く使ってないから、二百かな。なるべく負担は掛けないようにするよ」
「まさかとは思うが―――全部冬器か」
一つ頷けば、訊ねた側にも関わらず虎嘯は目を見開き驚く。矢とて、千では足りなくなる事は目に見えている。その中で揃えた数の二割程度が私物として手中にあり、尚且つ腕が立つのならば大いに助けとなる。
そうか、と虎嘯は頷きを見せると、
江寧は意を察して応えた。
「大丈夫、援護は任せて」
自信は、はっきりと。
強く意志を灯した眼は、逸らされる事なく男を見上げていた。
―――決起は、今夜に。
周囲の慌しさから時を汲み取った
江寧は、客房の臥牀で横になっていた。今は少しでも仮眠を取ろうと瞼を伏せ、睡魔を待つ。日頃の疲れか、すぐに押し寄せてきた眠気は―――木戸が割れる音によって、瞬時に吹き飛ぶ。
慌てて起こした身体は臥牀を滑るように降り、客房の扉を開く。
「なに!?」
「分からんが、何かに木戸が壊された!」
廊下へ飛び出し、通り掛かりの男に訊ねても明確な答えは得られない。仕方なく他の者の後を着いて行けば、到着の先は表と面した飯堂だった。
破壊された木戸の前……そこに、青年らしき者が男の首下に刀身を突き付けている様を、
江寧は人の合間より覗き見る。様子からして、青年は虎嘯と会話をしていた。
「あの日、どこへ行っていた」
「近所だ。里家が襲われたのはあの日か」
「たぶんあの日の午から夕方。ちょうど私が鈴と話をしていた頃か、その後だ」
二人の会話に、
江寧は首を捻る。それは自身が留守にしていた時の話だろうかと思い返して、表の接客の際に青年と鈴が会話しているという記憶は、やはり無い。
……何より
江寧が気になったのは、聞き覚えのある青年の声だった。
「俺はお前さんがいたとき、宿にいた。鈴と話をしている間に戻っていたからな。麦州候の話をしていただろう。俺としちゃ、お前さんがどうも胡散臭いんで、厨房の方から覗き見してた」
苦笑を零しつつ言葉を口にする虎嘯。
江寧はその後姿を人の合間より眺めて、青年の顔を確かめる為に移動を始めた。
聞き覚えがあるという事は、恐らく敵ではない。思考はそう巡りながらも、些か胸内に引っ掛かるものが気になる。凛々しく、懐かしい声―――。
飯堂へ集い始める同志の中を移動しながら、
江寧は裏口手前に置かれた大卓の前で足を留める。青年の顔は変わらず、頭を覆う氈帽が生み出す陰によって窺うことは出来なかった。
「では……遠甫は、拓峰にいる……?」
「その可能性は高い。―――生死は分からないけど」
首を振る夕暉に、青年は背を向ける。飯堂を出て行こうとする様子に慌てて虎嘯が声を掛けたが、青年はその場からただ振り返るだけだった。
「助けに行く」
「―――無茶を言う!」
「私は、助けなくてはならないんだ」
深刻さを含ませる声音は、真摯に訴える言葉と共に放たれる。事の重要さを改めて認識した者達は、今にも立ち去りそうな青年を引き止めようと声を掛け、群衆の内より抜けた鈴が青年の元へ駆け寄り腕を掴む。
「陽子、待って!」
―――
陽子。
刹那に垣間見た横顔とその名に、
江寧は身を硬直させる。久方振りに見た彼女は、凛々しくなった気がした。
必死に留める鈴の横へ並び立った虎嘯は、頭一つ分程下にある陽子の顔を見下ろす。
「昇紘は常に仲間が見張っている。たぶん問題の馬車がどこに行ったか、分かると思う」
「仲間―――?」
「俺たちは昇紘を張っている。ずっとだ。この三年、一刻たりとも、奴がどこにいたか分かってない日はねえ」
「虎嘯―――あなたたち―――」
飯堂内に集う者達。陽子は佇む男達を見回して、眼を見開いた。揃いの指環、中指に嵌められたそれを見せるように、手を軽く掲げる。鈍く光る鉄の環は、結束の固さを思わせるようだった。
「大層なもんを持ってるが、そいつで仙が斬れるのかい。……なんだったら、仙を斬れる剣をやろうか」
問いを含めた虎嘯の言葉に、陽子は顔元に手持ちの剣を寄せる。見せ付けるように持ったまま、口角を僅かに引き上げ答えを告げた。
「―――斬れる」
◇ ◆ ◇
―――王は、気付いていた。
良かったという安堵と、この反乱によって王を失ってはならないという思い。それだけが内心に渦巻いて、
江寧は戻ってきた客房の中、臥牀へと倒れ込んだ。
前倒れから暫し動かず、しかし考えは巡り続ける。考え続けても意味の無い事は理解していると自らに言い聞かせたが、先案じだけは止める事が出来ない。有耶無耶な気持ちのまま体勢を変えて仰向けになると、急に戸を叩く音が
江寧の耳に届いた。
横になったまま髪を氈帽の中へ仕舞い込み、前深くに被り終えると返答を返す。
江寧の視界は半分ほど氈帽に遮られ、もう半分は天蓋を映していた。故に、戸の開く音は聞こえても、誰が入ってきたのかは目にしていなかった。……今は、独りになりたかった。
「だれ……鈴?」
「すまないが、少し此処で休ませてもらっても良いだろうか」
はた、と
江寧は動きを止める。踏み入れた足音を聞き入れて、間を置いた後に一つ返事をした。陽子はそれに安堵の息を入れると、隣の臥牀へ腰を下ろす。陽子の姿を一瞥した
江寧は、横たわる身体をそそくさと壁側へ向けた。
「……あの」
「ん?」
声を掛けた陽子は、一見限りの青年へ声を掛ける。青年の態度は、先程言葉を交わした男達と違い関わりを遠ざけるような様子に見える。陽子は戸惑いながらも声を掛けたが、返って来たのは素っ気無い返答のみだった。
「あなたは、さっき飯堂にいた人?」
「……いいや」
軽く頭を動かす青年の姿に、陽子は目を細めた。対し
江寧はやや冷汗気味である。
―――内乱が始まってからなら、ばれても良いと思っていたのに。
内心、彼女の思いはその一心のみだ。
「あなたも和州出身?」
「ああ」
「和州の何処に?」
「止水郷―――拓峰」
「……名は?」
江寧は、これには答える事が出来なかった。降りた沈黙に益々の疑心を抱いた陽子は、臥牀からゆっくりと腰を上げる。
徐々に近付く距離―――静かにやってくる足音に表情を硬直させて、
「
江寧、話があるの―――あら、陽子?」
突如戸を開いた鈴は、その名を口にした。
「―――……
江寧?」
鈴の言葉に、陽子は思わず横たわる青年の姿を見下ろす。その名が果たしてこの世界で多いのかどうかは分からない。だが、彼女の知るその名を持つ者はたった一人。
「
坂、
江寧―――」
「鈴―――間が悪いよ」
「え?あ、ごめん」
咄嗟に謝る鈴に苦笑を洩らした
江寧は、臥牀の上でゆっくりと身を起こす。陽子の目は青年と思われていた者へ据えられて、鈴は扉の前で困惑の表情を浮かべていた。
江寧は深く溜息を吐き、次いで陽子に視線を移す。その際に氈帽を外せば、陽子にとって久方振りの顔が露となった。
「
江寧……なぜ」
「私が参加すると分かったら、陽子は私を心配すると思って」
「当たり前だ。だって、
江寧は―――」
「関係ない、なんて事はないよ」
陽子の言葉を遮って、強く言葉を放つ。若干睨めつけるような
江寧の表情に、口に含ませていた言葉を飲み込んだ。細められた鋭い双眸が、反意を語る。
「私は、私の意志で此処にいる」
「
江寧……」
「だから陽子、今回は何も口を出さないでほしいんだ」
決して逸らす事のない視線を受けて、陽子は思わず苦笑交じりの溜息を落とした。此処まで真摯になった彼女の姿を見たのは初めてと言ってもいい。危険も覚悟の上で、意志を無理に捻じ曲げる事は出来なかった。ああ、と陽子は頷いて、ようやく了承の意を示す。
「―――分かった」
「ありがとう」
礼を一つ告げる
江寧に軽く首を横に振った陽子は、そういえばと背後を振り返り、扉の前にて話の区切りを待つ鈴へ視線を向ける。
江寧もまた陽子の背後へ視線を移すと、鈴はそれに気が付いたのか、ふと顔を上げる。
「それで、何かあったのか?」
「夕暉が、これからの事を説明するから来てほしいって」
「うん、今行く」
鈴は前を案内役として歩き、その後を陽子と
江寧が続く。
回廊に面した花庁へ視線を向ければ、そこは既に感化を受けそうな程の緊張と士気に包まれていた。