- 拾章 -
翌日、早朝から中庭にて緋頼の世話をする
江寧の姿があった。
口元に巻かれた手綱を外し、丁寧に毛を梳いてやる。赤虎の体躯は人の倍だけあって世話は長い時間を掛けなければならなかった。あの騶虞もそうだろうかと思い浮かべつつ動かす手。それがやがて終わろうとしていた頃に、夕暉が中庭へと降りてくる。
「おはよう、夕暉」
「うん―――随分早いね」
手を止めた
江寧は、井戸端に手を置く夕暉を見やる。年が明けたとはいえ、外の寒々しさは一向に変わらなかった。温暖の兆しすらも見えていない。故に、井戸の水と言えども冷たさは変わらない。それを今夕暉は使おうとして、背後よりの視線に気が付き振り返った。……何処か、ここ最近の彼女とは異なる貌。
「―――吹っ切れた?」
「虎嘯のおかげで」
「兄さんの?」
意外にも兄弟の名を挙げられて、夕暉は思わず問いを返す。対し頷きを返した
江寧は照れたように笑っていた。
「完全にとはいかないけど……それでも、軽くなったから」
感謝している、と言葉の最後に呟けば、夕暉もまた笑う。以前の日によく浮かばせていた影が今は薄い。
再び作業へ戻った彼女の背を眺めて、良かったと呟いた夕暉の声は、井戸に落とし込んだ桶と水の音によって
江寧の耳に届くことは無かった。
幸先の良い朝。
しかし、それが長く続く事はなく。
陽が頭上へ留まり燦々と照らす頃。
いつものように飯堂にて手伝いをしていた
江寧は、先程出て行った虎嘯より人伝えに呼び出しを受けた。
夕暉に声を掛け手伝いを離れると、そのまま菜園へと向かう。最中、以前にも似たような事があったと思い起こしながらも中庭へ辿り着けば、虎嘯が荷を片手に持ち待っていた。
「虎嘯、この間と同じもの?」
「そうだ」
頷きを見せる男を見上げて、
江寧もまた頷き返す。以前は朝に頼まれたが、昼となれば戻るのは閉門に近い時刻になるだろう。
渡された荷を肩に提げ終えると、緋頼の傍らに置かれていた荷袋の紐を解き始める。
「―――行って来る」
「悪いが頼む」
取り出したのは褞袍と風除けの布。すぐに纏い終えると、赤虎の背に鞍を置く。革を腹の下から通し鞍を固定させと、その上に荷を乗せた。
少し後退する虎嘯を一瞥して、
江寧は緋頼の頭を撫でる。されるがまま大人しくなる虎を見て、少しばかり顔を綻ばせていた。
「行くよ」
首下を軽く叩き、手綱を片手に背へ騎乗すると緋頼の体躯は既に構えられている。それを確認して、手綱を振るう。中庭から一蹴りで宙を舞い上がる赤虎の姿は、頭上の陽と重なりあっと言う間に消えていった。
◇ ◆ ◇
江寧と緋頼が荷を携え拓峰の地へ戻ってきたのは夕刻の閉門間近、ちょうど旅人の行き交いが多い時刻であった。
無事門を通り抜けた
江寧は、帰還への途を歩きながら思う。旅人が居なくなれば、残る街の者達の憔悴が見るからに分かるのだろう、と。
―――陽子、気付いて。
江寧に残された期間は、後僅か二月ほど。それまでに気付いてもらわなければ、此処に居た意味が無くなってしまう。努力が水の泡になってしまう。募る思いと掻き立てる焦燥。この地に王が目を向けるのは、やはり火が点いた後でしかないのだろうか。
巡る思いを胸に、ようやく舎館への帰還を果たした
江寧は虎嘯を含めて数人の男に出迎えられた。口々に労いの言葉を掛けると、荷を虎嘯へ渡した
江寧は緋頼を連れて中庭へ戻ろうとする。刹那、背後からの声によって呼び止められた。
「
江寧、中庭に他の客の騎獣がいるから注意してくれ」
「?うん、分かった」
客と聞き、頷きつつも脇の木戸を開く。彼女が赤虎以外の騎獣を間近に見るのは昨年の乱以来であった。
串風路を抜けながら風除けの布を外すと、首下に冷気が入り込み思わず身を震わせる。慶の一月の斜陽は真冬同様の寒さで、
江寧はふと恭の里家に居た頃を思い出した。
懐かしく思いながらも串風路を抜け終えて中庭へ辿り着く。そこにいたのは、菜園の垣根に繋がれた青毛の馬。馬型の騎獣はかつて陽子が乗っていたがこれとは違う。そう思いつつも、
江寧は立ち止まったまま、まじまじと眺めている。意識は暫し騎獣へ向けられていたが、隅から重い何かが崩れるような音で、集中が途切れる。
江寧は音の先を見やると、そこにはかつて冢堂で見た少女の姿があった。
「え―――」
「……それって……あなたの騎獣……?」
恐る恐る問いかける鈴の姿に首を傾げつつも、緋頼へ視線を移す。それとは赤虎の事なのだろうと思い、
江寧は頭を縦に振る。彼女の返答に安堵したのか、鈴は強張らせていた身体から力を抜いた。
「そう、良かった……」
だがそれも束の間。
見上げた人物の顔に見覚えがある事に首を捻り、記憶を辿れば冢堂で出逢った人物と目前の人物を照らし合わせる。そこでようやく
江寧をまじまじと見やり、声を上げた。八つ当たりをしてしまった、あの時の。
その反応に内心困りつつも、
江寧は声を掛ける。
「無事で良かった」
「ええ―――あの、
江寧さん?」
「うん?」
「あの時はごめんなさい……あなたに八つ当たりをしてしまって―――」
「ううん……鈴と同じ立場だったら、きっと私も同じ事をすると思うよ」
鈴に見せたのは、静かに零した苦笑のみ。うん、と一つ頷き申し訳無さそうに顔を歪ませた鈴は、もう一度謝罪の言葉を呟く。……
江寧には、それだけで十分だった。
緋頼に注意を促し終えると、脱いだ褞袍を片腕に提げて廊下へと上がる。
江寧の後を鈴が追う形となったが、実のところ
江寧に与えられた客房の隣が鈴の客房だった。故に行き先は同じだったが、最中に遭遇した夕暉によって呼び止められる。
「
江寧さん、頼んでいいかな」
「ん?」
夕暉がこうして彼女を呼び止める際には、必ず雑用を頼む。何度目かの声かけによって気が付いた
江寧は、すぐに頷き背後の鈴に別れを告げて身を翻す。
向かう先は……飯堂。
三日の間宿に滞在をした鈴は、ふと何気ない疑問を抱いていた。
江寧は拓峰の者ではない。以前外より来た事を話の中で述べていたので、それは覚えていた。だが今では、時折宿の雑用を頼まれ、彼女も拒む事無く用をこなしている。恐らくは客として泊まっている訳ではないのだと、密かに感じていた。
……だが、その疑問も、どうでもいい。
「――出掛けるのかい、こんな時間から」
「ええ、ちょっと歩いてくるだけ」
「もう門は閉まってるぜ。どこに行くんだ?」
虎嘯の問いに曖昧な答えを返しつつ、鈴は三騅を引き連れて串風路を抜ける。
彼女の心情にあるのは、淀む復讐心のみ。
虎嘯らに遠く見送られた鈴の背は、重圧を背負っているように見えた。
◇ ◆ ◇
――飯堂の方が騒がしくなった。
小さくも与えられた起居にて襦裙を脱いでいた
江寧は、袍衫一式を手に取ったまま耳を澄ませる。
絶える事のない声は、恐らく飯堂に屯していた男たちのもの。普段ならば宥め役である虎嘯の声は、一切聞こえてこなかった。
「虎嘯は出てるのかな……」
やや急ぎめに袍衫へと着替え、氈帽を深く被る。荷をそのままに客房を出た
江寧は、偶然にも廊下で夕暉と鉢合わせとなる。
少年の困った様子に何かあったのかと頭を傾げて、事情を問うた。
「何かあったの?」
「鈴が昇紘の邸宅に向かったんだ。それで、兄さんが止めに行って―――」
「―――ちょっと見てくる」
「気を付けて」
夕暉の言葉に頷くや否や、廊下を駆け夜陰の下りる串風路を通り、表へ繋がる木戸を開く。既に数人の男が佇み、虎嘯らの帰りを待っているようだった。彼らの間を抜けて、
江寧は内環途に向かい駆け出す。
夕暉が言ったのは邸宅とだけだが、代わる代わる見張りをする者達からの情報は夕刻頃に届いていた。
足元に気を配りつつも急ぎ走る。夜が深けただけあって、酔漢の陰の一つすらない。内心ほっと安堵しながらも、途を進む。その手前―――中大緯へ差し掛かったところで
江寧の視界が複数の人影を捉え、咄嗟に身を翻して壁に沿い隠れた。……同時、立ち止まる足音。
「―――誰だ」
ひっそりと問う言葉。その声の主に気付いて、
江寧の警戒はすぐに解かれる。視線を向けた中大緯の先に、彼らの姿はあった。
「無事で良かった」
「心配をかけて悪かったな。戻るぞ」
「うん」
頷きと共に、暗い顔を落とす鈴の姿を見やる。感情を押し留めているような表情が、
江寧の胸に心配を渦巻かせていた。
舎館前にて多くの者に迎えられた鈴は、戸惑いながらも虎嘯に促され飯堂へと入っていく。その間に
江寧は三騅を引き連れ木戸を潜った。串風路を通り抜けて中庭へ赴けば、緋頼がむくりと体躯を起こす。主を見上げると、軽く喉を鳴らして出迎えを伝える。その様子に顔を綻ばせて笑う
江寧は、片手に手綱を持ちつつも緋頼の頭を一撫でした後に三騅の手綱を垣根へと繋ぐ。ひとまずは役目を終えて、井戸端へと腰を下ろした。
……恐らく、鈴は環を受け取るだろう。
その可能性は間違いない。手を組みつつそう思う
江寧は、一つ溜息を吐く。復讐を行えば、傷付くのは両者だ……それでも、せずにはいられない。
「どうにか、なれば良いんだけど……」
呟き夜空を仰ぐ
江寧の姿を緋頼は眺め、やがて飽きたように頭を前肢の上へ乗せる。それを気にする事なく上空へ視線を留め続けていると、中庭へ下りてくる一つの足音があった。
「風邪を引くよ?」
「―――夕暉」
闇へ向けられていた視線を下げると、苦笑を零す夕暉の姿が
江寧の視界に入る。何かと首を捻れば、うん、と頷いて彼女が気に掛けていた話題を持ち出す。
「鈴が仲間になったよ」
「……分かった」
「それで、客房は鈴と二人で使ってほしいんだけど、いい?」
「それは構わないけど、鈴の許可は?」
「うん、もう取ってある」
相も変わらず移す行動が早いものだと関心をしつつも、
江寧は了解の意を告げた。
舎館に備えられた客房は僅か四つ。入れ替わり使用するには十分な数だが、それが半減すれば客の足も少なくなるだろう。……尤も、客の層は決して良いとは言えないものであったが。
返答に満足したのか、くるりと踵を返し厨房へ戻ろうとする夕暉。その後姿を何気なく
江寧が見送って、閉めた戸の音と共に瞼を伏せる。
―――多くの人が、命を落とす前に、早く。
◇ ◆ ◇
翌日、鈴と相部屋になったものの、早朝より伝令の仕事が入った
江寧がその日、彼女と顔を合わせる事は無かった。
結局仕事から帰って来たのが翌の夕刻、閉門の合図である太鼓が鳴らされている最中に通り抜け、ようやく宿へと帰還を果たす。
「お疲れさん。いつも悪いな」
「ううん……少し、休んでいい?」
「そうだな。疲れただろう」
ちょっとね、と笑いを口に含み飯堂を出て行く。相部屋により半房となってしまったが、臥牀はあるので仮眠を取るには然程問題無かった。
扉を引き潜り、起居へ足を踏み入れる。そこで不意に、少女の声が発せられる。
「おかえりなさい、
江寧」
「ただいま。鈴も休憩?」
「ええ」
氈帽を取り、頭上に結い留めていた髪を下ろす。肩よりやや下までの白藤色を揺らして、臥牀の上へと腰を掛けた。その様子を眺めていた鈴は、ねぇ、と問いかける。
「そういえば、
江寧は何処から来たの?」
「恭。そこから雁に行って、此処に来たんだ」
「随分と長旅して来たのね」
鈴の言葉には頷く事が出来なかった。彼女は才より来たのだと、夕暉より聞いている。それで騎獣が無かったのなら、恐らくは船や徒歩だろう。そう考えれば、
江寧は騎獣がいたのだから比べれば決して苦では無かったはず。
江寧は履を脱ぐと臥牀へ上がり、胡座を掻く。対し正座を崩す鈴は、ふと脳裏に疑問として挙がったものを口にした。
「
江寧はどうして虎嘯たちに手を貸すの?」
「……友達が慶にいるから、昇紘みたいな豺虎を放っておいたらいけないと思って」
「友達思いなのね」
くすりと笑う鈴に、
江寧もまた釣られて笑いを零す。彼女の言う友達が、よもや国の王だとは誰が想像するだろう。
密やかな微笑を終えて、ふと窓を見る。陽は既に暮れ、闇夜が降り始めていた。此処へ来た本来の目的を思い出した
江寧は、身を臥牀へ横たわらせる。
「ちょっと寝るね」
「ええ……おやすみなさい」
邪魔をしないようにと、鈴は客房を後にする。扉を閉め終えるまでを見送って、ようやく気が抜けて瞼を落とす事が出来た。
睡魔は時を待っていたかのように、急速に意識を侵食していく。然程時を経たずして、
江寧の意識は深淵の底へと落ちていった。
―――子供。まだ、小さな。
―――赤い、赤い。
―――目指しているのは、光。
―――尊い、光。
彼女が不可解な夢から離脱した頃、拓峰は既に朝を迎えていた。