- 玖章 -
その翌朝、中庭で偶然に夕暉と遭遇した
江寧は、一つ挨拶を交わした後に一つ聞き訊ねた。
「……あの子の埋葬は」
「それなら、今日の夕方だよ」
そう、と
江寧はゆっくりと瞼を伏せる。様子を不思議に思い身を傾け覗き見るが、情を窺う事は出来なかった。顔色を察するその前に、瞼を押し開けた
江寧が地へ向けられた視線を彷徨させる。数秒の間に視界を定めて、ようやく夕暉に目線を合わせた。
「……ちょっと、行って来るね」
「迷惑でなければ、一緒に行こうか?」
「ありがとう」
礼を呟いて、共に中庭から廊下へと上がる。遠くより男達の声が聞こえたが、気にする事のないまま串風路を抜けた。
しっかりした子だと、夕暉の隣を歩く
江寧は何気なく思う。話によれば年頃は十四、五。当時の自身と比べれば、酷く頼りない自分が記憶から掘り出される。意気は自然と落ち、それでも足は表へ向かっていた。
飯堂の表は人通りの少ない途に面している。木戸を開けば、枠取られた視界に人の姿は見受けられない。その光景を認めて、夕暉と
江寧は一歩を踏み出す。
「街は静かだね」
「いつもそうだよ。……皆、昇紘に脅えているから」
夕暉の口から吐かれた豺虎の名に、
江寧の口元が引き結ばれる。
―――昨日、華軒に乗っていた者。果たして、その内側でどれほど残酷な風貌を醸していたのか。……豺虎と呼ばれるだけあると、胸内で黒く渦巻く感情と共に毒吐く。
暗い影を落とす
江寧。その表情に気付いた夕暉は、掛けようとした言葉を敢えて飲み込んだ。
飯堂前にて夕暉と別れた
江寧は、街中をふらりと巡り回る。健勝の顔付きで行き交うは旅人ばかり。横を過ぎる者達に一瞥をくれながら、子門の建つ北へと足を進めた。
―――巨大な閑地が、今や死臭漂う墓地と化している、その場所を目指して。
江寧が墓地へと辿り着いた時、先客は既に数人ほど存在した。
最初は、誰かを弔いに来たのだと思った。
だが、此処は冢墓とは違い、身寄りの無い者が葬られる所である事を思い出し、弔いではないのだと察する。そして近付けば、出来立ての墓の隣に掘られた小さな穴が覗く。……彼らは、墓士だった。
「あの……」
「ん?」
思い切りかけた
江寧の言葉に反応して顔を上げた男達は、半ば虚ろな目をしていた。少女を見るなり僅かに目を細めて、怪訝な顔付きながらも言葉を返す。
「誰か、探してるのかい?」
「いえ。……昨日、轢かれた少年は」
「それなら冢堂だ。連れもそこにいる」
「そう、ですか―――」
連れも居たのか、と脳裏に考えは過ぎる。場所を確認して夕暉と再度墓地へ足を運ぶ予定であった
江寧は、埋葬の前に冢堂へ置かれた少年に手を合わせようと思い、ひとまず墓士たちに向かい深々と頭を下げた。
男達は顔を見合わせ、次にゆっくりと頭を上げる
江寧の顔をまじまじと眺める。そうして駆け去ろうとした少女を、一人の男の声が留めた。
「あんた、この穴に誰が入るのか分かるかい?」
「え?」
振り返った
江寧の顔には、疑問の色が浮かぶ。男達が決して笑う事は無かったが、目には力強いものが灯されている。訊ねた際に含まれた情はなく、無感情にも似たその声音は僅かに皮肉を篭めて吐き出した。
「これは俺たちが掘った墓穴だ。あんたが今聞いていた子の為のな」
◇ ◆ ◇
暗い冢堂の中、少女は暗い面持ちのままたった一人で座り込んでいた。目前には、丸い棺がぽつんと置かれている。しっかりと封をされた棺の中に、昨日あった筈の体温などとうに失くなっている。
―――清秀。
甕のような棺に納められた少年。あの蜜柑色を二度と見れないと思えば、涙は止め処なく溢れて頬を滴り落ちる。宿に帰る事もせず、夕刻までの数時間を惜しみ冢堂から動けずにいた。
「清秀……」
名を口にすれば、更に涙をそそる。涙を幾度も袖で拭って、不意に聞こえた扉の音に腫れた目でそちらを見やる。人影はすぐに扉を閉めると、真直ぐに少女―――鈴の元へやってきた。
「だれ……?」
鈴の問いに、人影からの答えはない。代わりに目前で立ち止まった足が、不意に折られる。少女が見た顔は、棺へと向けられていた。
白に近く、しかし薄く色付かれた藤の髪色が目に映る。綺麗だと思う刹那、棺に向け軽い合掌をする女性に思わず目を見開く。
「あなた―――」
「……ごめんね」
女性の呟くような謝罪に、鈴は続けようとした言葉を途切らせた。何に対する謝りなのかは理解出来なかったが、冢堂へ足を運び合掌する者は、彼女が初めてだった。街の者を薄情と蔑んでいた鈴にとって、彼女の行動は嬉しく……そして、哀しい。
未だ手を合わせ瞼を落としている女性――
江寧に、鈴はひっそりと漂う静寂を破り言葉をかける。
「あなた、街の人?」
今度は返答があった。
うん、と頷き、間近ながら初めて鈴と目を合わせる。逸らす事のない
江寧の眼に、鈴は思わず視線を泳がせた。
「旅の途中だった?」
「ええ……この子を―――清秀を、尭天へ連れて行くつもりだったの」
「可哀想だったね……」
哀れみの言葉でさえ、急に目頭が熱くなる。鈴は再び袖で目元を覆い、その様子を複雑な情を持ちつつ見やる
江寧。泣き止むまでの数分間、鈴の背を撫でつつ見守っていた。
「大丈夫……?」
「―――ええ、ありがとう」
鈴は笑みを作ろうとして、自身の顔が半ば引き攣っている事に気が付いた。ずっと泣いていた所為だろうか、目元が少し痛い。
「ひとつ、聞いていい?」
「なに?」
首を傾げる
江寧に、鈴は一間を置いた後に問う。
「さっきはどうして謝っていたの?」
「―――――」
冷静を装っていた顔が、僅かに崩れた。
眉を顰め、眼を細める。決して鈴を睨めつけている訳ではないその表情は、背後の壁一点へ眼を据え続けている。何故そのような貌をしたのかは解らなかったが、清秀への思いがある事に違いはない。
顔を足元へ下げ俯きかけた
江寧に、再び鈴が声を掛ける。
「あたし、鈴っていうの……あなたは?」
「私は
江寧。昨日、拓峰に来たんだ」
「そう……」
―――では、あの事故に遭遇したのだ。そうでなければ、謝罪を入れる事も……ましてここに来る事も無かったはず。
そう思いを巡らせる鈴の顔もまた暗い。
暫くの間を置いて、ふと俯いたままぽつりと呟いた
江寧の言葉は、懺悔に近いものだった。
「あの時、躊躇いなく動いていたら……」
「……助かったの?」
江寧は突如震えた声の問いを聞き、はたと隣の少女へ視線を移す。震えた両手が拳を作り、鈴の眼は真直ぐに問いを向けた女性へと向けられていた。胸に籠もるのは、縋るような思いと、反面犇めく怒りにも似た何か。
「どうして……どうして動いてくれなかったの?」
「鈴―――」
「そうしたら、清秀が轢かれる事も無かった……街の人だって……!」
勢い良く立ち上がった鈴の顔は、後悔に満ちていた。
「鈴、落ち着―――」
「助けられたのに動かなかったなんて……見殺しにしたのと同じじゃない!!」
はた、と
江寧は身体を留める。投げられた言葉は胸を貫いて、僅かの間の呼吸を忘れていた。衝撃は胸に響くまま打ち留まり、浮かべた表情には複雑が模られる。
「……ごめんね」
清秀に対する謝罪と同じ台詞。それを鈴へ向け、
江寧はふらりと冢堂の扉を潜り出て行く。閉じられた戸の向こう側を、鈴は暫し睨めつけていた。
◇ ◆ ◇
“ 見殺しにしたのと同じ ”
新たな年を迎えても、その言葉は未だ
江寧の胸に留まるばかりだった。
時は赤楽二年を迎えた一月初旬。
いよいよ決起の時が近付く中で、年を十九となった
江寧の胸内には、未だ痼りが残るばかり。不安が膨れ上がるばかりで、それを誰に相談する事も出来ないでいた。
「
江寧、ちょっと手伝ってくれ」
中庭にて緋頼の背を撫でていた
江寧は、虎嘯の呼び声に振り返る。すぐに立ち上がれば、緋頼は擡げていた頭をむくりと起こす。行って来ると言い置くと、小走りで厨房前の戸まで辿り着く。扉を開けたそこに、虎嘯の姿はあった。
用件を問う前に、突如投げ寄越されるもの。それを上手く受け取った
江寧は、それが桶なのだと気付く。
「皿を洗ってほしいんだが、頼めるか?」
「分かった」
虎嘯の頼みに頷くと、桶を片手に引っ掛けたまま厨房の卓の隅に置かれた器を手に取る。重ねられた食器を慎重に抱えながら、中庭の井戸端へと向かった。
黙々と器を洗い続ける
江寧。手を止めれば留まったものが溢れ返りそうで、故にひたすら手を動かし続けている。
あの日の夕刻、埋葬には行かなかった。
否……行く事が出来なかった。
鈴の言葉が胸に留まり続けて、
江寧は次第に罪悪感を感じるようになっていた。出来る事は鈴に申し訳なく思い、謝罪する外にない。無いからこそ、悩み伏せってしまう。後悔は悪化する。
人を助けたいと言いながら行いを躊躇したその臆病さ。助ける力など、それほど持ち合わせてはいないというのに。人を助けられると、思い込みだけが過剰するばかりで。
―――私は、愚者だった。
「っ……!!」
水の張られた桶へ器を投げ込む。水の跳ねる音によって思考を引き戻した
江寧は、重い溜息を地に落とす。挫けた所で、何が変わる訳でもない。昇紘が死ぬ事も、少年が生き返る事もないのだ。
「……情けない」
ぽつりと零した自身への言葉は、滑る水音によって誰に聞かれる事無く掻き消されていった。
その日の夜、人気の無い中庭で一人弓を引く
江寧の姿があった。
弦を引き絞り、その体勢を十秒ほど保つ。そうして放たれた弦の音は清々と、中庭に短く響く。和弓と異なるその音を聞き入って、瞼を伏せた―――矢先、近付いてくる足音に弓を下げつつ目を向ける。
串風路より来る人影は、姿を鮮明とさせる前に声を上げた。
「
江寧、早く寝なくていいのか?」
「虎嘯か―――」
ほっと安堵の息を吐く
江寧に、虎嘯は首を傾げつつも菜園の前で立ち止まる。
「どうした?」
「ううん、別に」
「そんな事はねぇだろう。ここ一月、明らかに落ち込んでる様子だったしな」
「それは……そう見えた?」
ああ、と頷く虎嘯。その姿を暫し視界に留めて、周囲への気遣いを忘れていたのだと少しばかり苦笑を零す。ごめん、と一つ短くも侘びを入れる
江寧は弓を近場の柵へ立て掛けた。改め向き合うと、先に話を切り出したのは虎嘯だった。
「一月前だったら、あの子供が轢かれた後か」
「―――うん」
頷いた
江寧の表情に、笑みはない。
「まだ気にしてるのか?」
「少し、ね……」
代わりに憂いを帯びて、普段見る事の無い貌が垣間見える。内心からの叫びを曝け出そうとしなかった
江寧の、唯一の表現。叫びを幾度も眉を顰めて苦笑でやり過ごした。……だがそれも、限界は間近に。歪に情を曲げたとて、たかが知れるもの。
視線を足元へ落として、
江寧は口を開く。
「言われたんだ」
それは虎嘯へ向けられているようで、言い切りは独白にも酷似していた。虎嘯は敢えて口は出さず、次の言葉を待つ。
江寧は胸内に詰められた情を吐き出すように、顔は地へと向けて告げた。
「助けられたのに動かなかったのは、見殺しにしたのと同じだ、って」
「そんな事、誰が―――」
「あの子供の連れ。冢堂で会って、そう言われた」
不意に少女の顔が思い起こされる。あの時の鈴の顔は、とても見ていられなかった。胸内の苦痛を涙に代えて叫び訴える少女の姿。……少し、羨ましく思っていたのかもしれない。
それでも、鈴の言葉は
江寧の胸にいつまでも棘を残していた。
「事実だから仕方ないんだよ。……私は、無力だから」
江寧の言葉に、虎嘯は困ったような顔をする。返答に悩んでいるのか、視線を宙へ泳がせながら僅かな呻きを零していた。
「虎嘯?」
「なぁ……力があっても助けられねぇ事だってある。けど、それをいつまでも嘆いて立ち止まって、何の意味があるんだ?」
それは、真剣でも真摯でもなく。
軽々とした問いは
江寧の目を見開かせる。切り出した当人の言葉は真剣で重かった。だが、対し軽く掛けられた更なる問いの意味に、今一理解が追いつかなかった。
瞬きを繰り返す少女は頭一つ分と少々上にある男の顔を仰ぎ見て、更に僅かな笑いを含めた虎嘯は話を続ける。
「少なくとも、立ち止まってるよりは何かしら動いた方がましだろう。別にそれで、いいじゃねぇか」
な?と男はきょとんとしたままの
江寧の顔を覗き込む。それではたと我に返ると、停止していた思考を巡らせてようやく意味を理解した。……軽く考えた方が、肩は軽いだろうと気を遣ってくれたのだと。恐らく彼には、彼女が迷い留まっているように見えたのだろう、と―――。
助ける力。今思い返せば、それだけに拘っていたような気がする。守ると宣言していた自身に、偽善を灯していたのかもしれなかった。
「―――ごめん。ありがとう」
「いや」
首を軽く振った虎嘯は、あくまで気易い。その様子に
江寧は思わず口角を上げると、虎嘯は立て掛けられた弓を手に取り振り返る。
「そりゃあ確かに子供は死んだが、あんたの所為じゃない事は確かな筈だ」
「……そうだね」
投げ寄越された弓を両手で受け取ると、長年の癖なのかすぐに左手へ持ち替えた。
頭上を見上げれば、月は流れ行く雲の間から光を差し込んでいる。長居してしまっただろうかと、
江寧はすっかり冷たくなってしまった指先を見る。虎嘯もまた同様であったのか、客房へ戻るよう催促の言葉をかける。
「すっかり遅くなったな……寝るか」
「うん」
頷いた
江寧が向かった先は厨房の戸とは反対に面する廊下。駆け上がる小さな後姿を虎嘯が眺めていると、不意にその背が翻った。
「ありがとう、おやすみなさい」
一つ頭を下げると、肩に弓を突っ掛けたまま廊下へ上がり、そそくさと小走りで角を曲がり見えなくなった。
中庭にはすぐに静寂が浸透していく。その中でたった一人、虎嘯の吐いた溜息がやけに大きく聞こえていた。