- 捌章 -
薄明となる空の下、雲海と程近い中腹に構えられた禁門。その目前、平坦に削られた足場にある人影は三つほど。高所に流れる冷気はゆるりと漂い、肌を刺激する。微かに身を震わせた
江寧の視界は、霧に覆われた地へと向けられていた。
今正に旅立たんとしている彼女の背後には少年と男性が時を待つ。息を吐く度に白くなる靄は風に流され薄ら消えゆく。それらを視線のみで見送り、
江寧を改め見直す。
「もし景王に会えたのなら、宜しく伝えてくれ」
「分かりました」
左手に手綱を握ったまま、
江寧はしっかりと頷く。肩へかけ直した荷袋は僅かに重みを主張していたが、然程苦にする様子もなく背へと負う。迷いや惑いのない表情を眺め、延は笑った。
その横で珍しくも思い詰まる風貌のまま俯く少年を目に留めて、
江寧は控えめに麒麟の名を呼ぶ。
「六太?」
「
巴……本当に、行くのか?」
「なんだ、恋しいのか」
「違う!ただ、心配で―――」
続けようとした言葉を詰まらせた延麒は見上げていた
江寧からふいと視線を逸らす。
顔を逸らされた赤虎の主は、どうすれば良いのかと彷徨わせる視線を麒麟の半身へと向けた。だが、男は苦笑を零すのみ。
「延麒、」
「分かってる。けど、本当に心配だ。慶にはまだ妖魔がいるし、治安だって―――」
「それは過保護だ。それで楽俊の事を過保護と言えたものと思うが」
「う……」
「せめて、笑って見送ってやれ」
茶化を含みながらもただ見送りを促す延の言葉。それで多少は納得したのか、延麒は応答を出す代わりにこくりと頷く。良し、と延もまた頷き返して、視線を手前から
江寧の元へと移した。
「そろそろ陽の出だ」
「はい―――行ってきます」
「じゃあな、
巴」
緋頼の鞍元へ手を掛け、鐙を踏み場にしてひらりと跨る。数度目になるその光景を眺めて、延麒は差し込み始めた陽の光に思わず目を細めた。―――陽が、出ずる。
暖かな陽に漂う冷気を忘れ、目上へと手を翳す
江寧は作られた自身の陰を見下ろす。続けて視線を上げると、同じく眩しさを覚えた二人の姿があった。
―――嗚呼。もう、行かないと。
完全に姿を現す陽を合図として、手綱を軽く振り打たせると共に緋頼へ言葉を放つ。意を汲み取った緋頼は肢体を一度沈ませた後に上空へと駆け出した。
「あ―――」
思わず口から漏れた言葉の端。それを飲み込んで、延麒の足が数歩前へと出る。空に作られた染は時折陽により輝きを放ち、姿は少しずつ収縮を見せる。終いには点となり、空には何事も無かったかのように静寂を取り戻していった。
……次に会う時は、本当の別れ。
江寧を乗せた赤虎は休みなく内陸を駆け続けて半日と少々。無事拓峰の地へ入る事が出来たのは閉門を間近に控えた夕刻時の事だった。
「間に合った……」
門の傍に広がる閑地へと着地した赤虎の背から
江寧は飛び降り、門上にかかる扁額を見上げた。拓峰、という文字が、何処となく寂れているように見える。……それはまるで、街の様子を思わせた。
―――陽子、早く気が付いて。
何も持たない右手にぐっと力が篭る。その様子を不思議そうに振り仰ぐ緋頼は、刹那赤毛に覆われた耳をぴくりと動かした。
「……緋頼?どうし――」
どうしたの、と掛けられた筈の言葉は突如打ち切られる。門の向こうより蹄の音が多数聞こえた。足音は徐々に近付きつつあり、共に聞こえた車輪の音は随分と騒がしい。相当な速度を出しているのかと眉を顰めた
江寧の視界に、突如ふらりと動くものが目に留まった。
―――子供、だった。
大途へと倒れ込む少年らしき姿。その少年の顔色は蒼白に近い。不調に見えたが、すぐに立ち上がり退くだろう。そう思っていた
江寧は、やがて近付きつつある華軒へ目をやる。だが……少年は、慌て立ち退く気配を見せない。
「―――待って」
その場に居た誰もが直感的に轢かれると思うだろう。だが……動く者はいなかった。近場に居ながら手を差し伸べようとする者は、一人として居なかったのだ。
……焦燥に駆られる。今ならば走れば何とか間に合うはず。或いは、緋頼で―――
考えは巡る。巡りながらも動き出した
江寧の身体は、馬の啼き声と共に留まった。あれだけ高速で駆けていたと思われていた華軒が、少年の前で止まったのだ。その光景にほっと息を吐き、胸を撫で下ろす。
華軒に繋がれた馬の手綱を持つ男が倒れ込む少年に向かい怒鳴る。流石に周囲は手を貸すだろう。そう思い、
江寧は緋頼を引き連れて少年の元へと軽く駆け出した。
―――刹那。
車輪は再び、冷徹な音をけたたましく響かせて廻る。
「!!待っ―――」
即座に発した声は、それ以上の悲鳴を以って掻き消された。
一瞬、
江寧は事を理解できずに硬直する。瞬き一つせず、息をする事も忘れ、周囲のくぐもる声も耳に入らず。半開きの口から漏れるものは悲鳴でも呼吸でもない。染まる地の上に不自然な体系で倒れ伏す少年を、ただただ動けず見下ろすばかり。
華軒の車輪が少年の胸を抉った―――
江寧が目前の現状を理解出来たのは、通り過ぎる華軒の姿が視界に入った直後だった。
「……!」
江寧の身体は弾けたように動き出す。傍らに控えていた赤虎の名を呼び、応えたように首を擡げさせる。周囲の言葉など耳には入らず、騎乗した
江寧は即座に緋頼を空へ滑空させる。……直後、彼女の視界の端には少年に駆け寄る紅が見えた気がした。
◇ ◆ ◇
「―――
江寧が?」
「ああ、物凄い形相だったぜ」
飯堂にて、外より戻った男が大途で起きた件を虎嘯に説明の後、見覚えある少女についても話が浮上した。彼女を見た者は男の言葉に頷き、同意を見せる。その行動に、見ていた誰もが胆を冷やしたという。
無茶をしてくれる―――そう呆れかけたところで、表より足音が宿の方角へと近付いてきた。
表へと顔を出した虎嘯は、足音の元が今話題に上がっていた少女と騎獣のものだと知る。ゆっくりと歩いてくる様はどこか意気消沈とした印象を与える。僅かに顔を俯かせる少女は、聞き覚えのある声に名を呼ばれてふと頭をその方角へ向ける。
「……虎嘯」
「
江寧!」
虎嘯の声に、飯堂の者達がざわめく。
江寧は駆け寄って来る虎嘯を見上げて、視線をすぐにふいと逸らした。
「他の奴らから話は聞いたが……無事で何よりだ」
「……うん」
少女の顔を見やった虎嘯は、それ以上の言葉をかける事が出来なかった。一言でも慰めの言葉を掛ければ今にも泣き出しそうな顔をしていたのだ。
一先ずは赤虎を置いてくるようにと脇の木戸を開き、軽く声を掛ける。
江寧は指示に従い、以前のように潜り抜ける。中庭へ辿り着くまで、二人の間に交わされた言葉は一切無かった。
中庭にて赤虎の手綱を放せば、緋頼はその場に座り込む。いつみても不思議な光景を眺めていた虎嘯は、始めぽつりと呟いた
江寧の言葉を聞き取れなかった。
「此処が、」
「うん?」
「此処が、拓峰なんだって事を忘れてた」
「他国から帰って来たんじゃ、無理もねぇさ」
思い詰まったような言葉に、虎嘯は苦笑を零す。豊かな雁から来たのでは、確かに忘れる筈だ。そう思い考える男の言葉に
江寧は顔を上げて、複雑そうな色を浮かべる。
瞼を伏せれば少年の無惨な有様が見えるようで怖い。ただでさえ彼女の脳裏に焼きついて離れない光景であったというのに。
……少年は豺虎に轢かれた。その事実が、未だ心に刻まれたまま。
「あの時、真っ先に行けばよかったのに……本当に、何も出来なかった」
目の良い
江寧にとって、遠景からでも少年のひしゃげた身体は見て取れた。あれではもう助からない事も、分かってしまった。憤りは酷く、すぐに華軒を緋頼で追い、それが郷城の門を潜った事に驚愕した。―――では、あれが豺虎の。
人の命を弄ぶ。その行いによって、どれだけの民が脅え暮らしているのだろう。
「早く、何とかしないとね―――」
深く項垂れ、組み合わせた
江寧の手は小刻みに震えていた。
旅の疲れもあって、客房の一室にて仮眠を取った
江寧は、陽が暮れた頃に客房を出て飯堂へと向かう。右の掌に指環を握り込ませて飯堂の戸を開けば、夜にも関わらず残っていた者達の眼が彼女の元へ集中する。その視線に耐えつつ、奥に腰を掛ける虎嘯の元へと歩み寄っていく。ふとその姿を認めて、虎嘯は軽く声をかけた。
「落ち着いたか?」
「うん―――ごめん、心配をかけて」
いや、と虎嘯は首を振る。仮眠前の顔に浮かんでいた憔悴の色は僅かに薄れていた。その様子に安堵の息を吐き、目前に佇む
江寧を改めて見る。意の篭る双眸、その前に差し出された拳が開かれて、掌に鈍く光を放つ物があった。
……指環、だった。
「いつ、手伝える?」
「そう逸るな……立ち話も難だろう」
ほら、と手前にあった椅子が引かれる。そこへ大人しく腰を下ろした
江寧は、左脇に面する卓の上へと左手を乗せる。周囲に寄せられる空気が微かに変化した事を察して、
江寧は身体を硬くした。肌を刺すような緊張に包まれながらも、虎嘯は話を切り出す。
「総勢の殆どが、止水郷にいる。そうは言っても、千やそこらだが」
「……でも、まだ決起しないのは冬器が集まらないから?」
「そうだ」
冬器の金額は一本につき、戚幟に置かれた武器十本ほどに値する。虎嘯の告げた総勢数に配分するには、莫大な金銭が必要となる。だが……流石にそこまで金銭が集まるとも思えない。
江寧の考えを読み取ったのか、虎嘯は困ったような顔をしつつも答えを告げた。
「足りない分は途中で収集する。倒した兵からも奪えるからな」
「そうだね……」
頷いた
江寧を確認して、話は続けられる。
「その指環は、俺たちの仲間である証だ。拱手をして、麦州産県支錦から来た、乙悦だと名乗れば間違いない。もし困ったことがあれば、誰でもいいから頼れ」
「分かった」
右手に収められていた指環を、左の中指へと嵌める。手を目上へと翳せば、飯堂内の灯火が反射されて朱色に染まり輝いていた。