- 漆章 -
江寧が慶国都から雁国都へ向かったのは、十一月下旬の事だった。
凌雲山の麓に広がる関弓の街に無事到着すると、緋頼を連れて厩舎のしっかりした舎館を探す。午門の方角へ向けて大途を歩き、最中視界の端に捉えた姿に足を留めた。
「―――?」
薄水の背、黒緑の長髪、桜色の髪結わい。
その姿を目で追うものの、すぐに小路へと吸い込まれゆく。些か気になったが、大途の行き交いの中騎獣を連れていつまでも立ち止まっている訳にもいかず、仕方なく歩を進める。あの背には見覚えがある―――そう思いながら。
関弓山の麓に広がる街だけあって、どこも柔らかな彩色が施された建物ばかりで一見豪華に見える。その所為か、
江寧は歩きつつ通り際に眼を通すのみで、なかなか入ろうとはしない。……結局迷う挙句に入った舎館は、大途から小路へと逸れた所にある安宿であった。
「すみません」
「ん?」
江寧を振り返ったのは二人。
一人は台帳を手にした中年の男性。そしてもう一人は、先程見かけた薄水の背の男。男の姿を足元から目線で辿り上げていくと、必然的に男の眼とかち合う。刹那―――見覚えのある顔に双方は唖然とした。
「え、え、えん―――んぐ」
号を呼ぼうとして、駆け寄った男の手が
江寧の口を塞ぐ。頭上を見上げた先、間近にある顔は微笑しているようにも見える。だが……双眸に笑みを湛えてはいなかった。瞬時にそれが焦燥と僅かな苛つきを含んでいる事に気が付いた
江寧は、同時に意味も察する。身分が分かってしまっては、迂闊に出歩く事は出来なくなる、と。
「すまんが、宿泊の人数を二人と書き直してくれ」
「ああ、はい。分かりました」
取り繕うような男―――延の顔は些か引き攣りを見せていたが、舎館の受付を任された男が気付く事はない。それに何故か彼女がほっと胸を撫で下ろして、男の手が数回ほど背を軽く叩く。
「一度外に行くぞ」
「え?―――ええ」
促されるまま来たばかりの宿を出る。建物脇に座り控えていた緋頼に声を掛ければ、擡げていた頭を起こす。そうして近付き頭を撫でる
江寧のやや頭上から、延の声が降り掛かった。
「赤虎は厩舎に置いてくるといい。話があってここまで来たのだろう?」
「延王君―――」
江寧の呼び名に、いや、と延は首を振る。
「今の俺は風漢だ。風に漢文の漢と書く」
「風漢―――さん?」
「まぁ、それでいいか」
軽く頷くや否や風漢は歩き出す。その姿を漠然として眺めると、その背がすぐさま捻り返る。どうした、と訊ねる声で我に返ると慌てて緋頼に合図をかけ、彼女自身も急ぎ男の元へと駆け寄った。
裏の木戸を開いたその向こう、開けた場所に厩舎が備えられ、内数部屋分に騎獣が収まっている。目前の光景を一瞥して、右の手前に空かれた部屋に入るよう緋頼に指示を出す。大人しく入る緋頼を横目で眺めつつ、風漢は木戸に寄りかかり口を開いた。
「随分と従順だな」
「ええ、まぁ……風漢さんの騎獣は、黄海で捕らえたものとお聞きしましたが」
「ああ。だが、それも随分と昔の話だ」
男は懐かしむような情を含み笑う。そうですか、と共に笑う
江寧は、少なくとも百年以上前の事なのだろうと脳裏に考えを巡らせる。だが、最中思考を断つかのように、風漢の言葉がぴしゃりと遮断する。
「今は昔話など必要ない―――ひとまず、腹拵えにでも行くぞ」
「いや、あの、でも」
名を変えたとて大国の主である延の提案に、おろおろと視線を泳がせながら困惑の表情を見せる
江寧。その仕草に笑いかけ、軽く手をひらひらと振る。まるで、親しい者に対して見せる態度のようだった。
「来い。立ち話も難だが、昼を食わず倒れられては困るからな」
◇ ◆ ◇
風漢がふらりと立ち寄ったのは、然程高級感を醸す事のない……それでいて上品さを漂わせる店だった。どちらにしろ、
江寧がそう易々と出入り出来る店ではない事は確かで。今回は敢えてその事に眼を瞑りつつ、風漢の背を追う。
ようやく縮まった背中を前にほっと一息吐くと、振り返った男の足が再び進み始める。
「個別の部屋を用意してくれるそうだ」
「そうですか……」
振り返らず告げた風漢の言葉に対し、彼女の反応は素っ気ない。だがそれを気に留める事なく、店の者に案内されるがまま二人は歩みを辿る。
やがて個室の扉前まで来ると、案内を終えた店の者はそそくさと引き下がる。
江寧は横目で店員の背を眺めていると、がちゃりと扉を開ける男が正面より響く。彼女が視線を戻した時、風漢は既に中へと足を踏み入れていた。
用意された大卓の前で立ち止まる男を見やって、慌てて後を追い扉を閉める。
「此処ならば、盗み聞きもされまい」
「ええ―――あの、延台輔は」
「玄英宮へ帰還した筈だが」
さらりと述べる雁の王を前にしながら、では貴方は何故此処に居ると問いたくなる。だが、その思いを押し留めつつ
江寧は頭を振った。続きの言葉を紡ごうとして、最中扉が叩かれる。
振り返り扉を開けた
江寧の先には……皿を持つ、男の姿。
「先程仰られたもので宜しいでしょうか」
「ああ」
「では―――」
風漢が男の問いに頷くや否や、料理が次々と大卓へと並べ置かれる。大卓の上に乗せられゆく品々を脇で呆然と眺める彼女を風漢はくつくつと笑い、はたと我に返った
江寧は僅かに顔を顰めて見せた。
全ての料理を並べ終えて出て行く男は、退出する際に丁寧に扉を閉める。それを見終えて、ようやく話を進めることができた。
「それで、何故延麒の事を聞く」
「……六太との約束ですが、恐らく一月ほど過ぎてしまう事をお伝えしに関弓にまで参りました」
―――六太との約束。
蓬莱へ帰還する前に与えられた期間は半年であったが、
江寧は虎嘯達を手伝うと決めた際に期間を過ぎてしまう事を予測していた。以前、延より聞かれた問いに対し、今の
江寧ならば頭を横に振るだろう。
既に椅子へ座った風漢は、扉の前に佇む彼女を見やる。
「何か、やりたい事が見つかったのか」
「はい」
頷きは、力強く。
確かな意志の表れに若干驚きつつも、心境を変化させる何かがあったのだと内心密やかに思う。
―――彼女は、精神の成長を遂げていた。
冷めるその前に食事を勧めた風漢は、遠慮がちに食す目前の少女を暫し眺める。憂いのない表情へ眼を据えながら、彼は六太を此処へ招く事を考えていた。
「私は、恵まれすぎてる」
突如としてそう口を開く
江寧に、風漢は思わず顔を上げる。どういう事かと言葉の説明を促せば、僅かの間に戸惑いを見せた後、紡ぐ言葉は些かの重みを窺わせる。
「普通の海客は、王と面識を得る事など有り得ません。単に泰麒の居場所を知っているから、優遇をして下さった。それはありがたいと思っています。ですが反面……甘やかされている気がして」
「何も考えず、甘えて暮らす輩は多い。そう考えられるだけでも良い方だと俺は思うが」
互いに食事の手を留める。
それは、
江寧が以前から思っていた事だった。破格の待遇と言ってもいい優遇の状況は時が経つにつれて違和感を覚えさせた。違和感のある度、泰麒を助けたい為だけに利用している気がする、という延麒が言った言葉を思い出す。
……彼の気遣いも、あるのだろうと思う。
江寧は僅かに顔を俯かせる。その様子を見つつ、風漢が言葉を続けた。
「それに、甘やかしても始終安全な場所に居るわけではなかろう。……景麒奪還の際に断りを入れていれば、腑抜けと称していたかもしれんが」
背凭れに背を預け、風漢はくつくつと笑う。対し苦笑を零す
江寧。最中―――足元に突如起こった光景を、二人は視線を下げ見やった。
足元の床より影が伸び上がる。数度目だというのに、その光景にはどうも慣れずに眉を顰める。風漢は徽芒、と床より突き出た影の名を呼ぶ。
「どうした」
《 台輔から、様子を見てくるようにと 》
「……何かあったのか」
《 先程恭より知らせが入ったようです 》
「延麒には、すぐ戻ると言伝を頼む」
《 かしこまりまして 》
す、と透け消えゆく徽芒を見送れば気配が途絶える。肩を竦めた
江寧に一言声を掛けて、風漢は椅子から立ち上がった。
「悪いが、今夜の寝床を清香殿に移すぞ」
はい、と返答をする
江寧の顔は、妥協後に見せるような情を浮かべていた。
◇ ◆ ◇
すぐさま店を出ると、真っ先に宿へ向かい引き払う。厩舎へ回り、騎獣をそれぞれ取り出すと、二人はその場から飛翔をさせた。
上空に紅白が並び駆ける。禁門へは凌雲山の山肌に沿い上昇するが、麓より飛び立った為に、前方へ駆けるよりも上昇の方が掛かる時間は長かった。
禁門へ辿り着くや否や、門番に趨虞と赤虎を預ける。人に馴れる事のなかった緋頼は、禁門に立つ者に対しての警戒心が大凡無くなっていた。故に安心して預ける事が出来たが、見送る間も無く開かれた禁門を延と
江寧は潜る。
長い階段を上り終えると、延は燕寝へ踏み入り歩く。王の後を恐る恐ると続く
江寧は、待ち受けていた人物に眼を見開かせた。
「今戻った。恭からの知らせは」
「内殿の書房に置いてきた書状へ眼を通してくれ。詳細が書かれてる」
「―――此処で俺を待っているのなら、持ってくればいいものを」
「待ってたのは尚隆じゃなくて、尚隆の後ろにいる客」
延麒は言うなり体の重心を変えて延の背後―――
江寧を指差す。ああ、と軽く頷いた尚隆は、背後を振り返った。
「掌客殿で良いのか?」
「構わん。お前に話があるそうだ」
「分かった。……
巴、」
「うん」
眼を合わせると、六太は
江寧に背を向けて歩き始める。彼女は目前の小さな背を目で追い、ゆっくりと足を踏み出した。
掌客殿内には賓客用の宿舎にと清香殿が設備されているが、その他に様々な施設が設けられている。これまで
江寧が足を踏み入れたのは清香殿のみであったが、今回延麒の案内先は書房、名を蘭雪堂という。
その書房へと案内をする六太の背後で、着いて来ていた足音が突如ぴたりと止む。不思議に思い振り返った先、回廊から覗く夕刻の空を見上げる姿があった。
「
巴?」
「―――六太、ごめん」
突然の謝罪は短く淡々と。夕刻の陽に照らされた横顔には憂いに近いものが浮かぶ。しかし視線は決して合う事無く、
江寧は空を仰ぎ見、延麒は様子を窺がっている。
「……約束の期限、間に合いそうにない」
ぽつりと呟かれた告白に、延麒は目を見開く。咄嗟に問う言葉が口から出ると、ようやく視線を延麒の方角へと下ろした
江寧が答えを口にした。
「帰る前に、やる事が見つかったから」
「やる事って……場所は雁か?」
「ううん、慶」
慶東国。新王が起ち間も無い国。妖魔は未だ出没し、地は荒廃の進行が酷い。彼女はその中で、復興の作業にでも参加するつもりなのだろうか。
延麒の疑問は脳裏を過ぎる。言葉に出そうと口を開きかけて、話を続けようとする
江寧に思わず言葉を呑み込んだ。
「我儘でごめん。でも、これから陽子が治めていく慶の地で、些細な事でも良いから助けになるような事をしたい。……本当に、些細だけど」
自然と湛えた笑みは誰に向けたわけでもなかった。瞼を伏せ、
江寧はかの地を思い起こす。あの酷い有様を、多少でも変える事が出来たらいいのに―――。
延麒は複雑な心境を抱く。だが、それが貌に露となっていたのか、
江寧は延麒を見るなり困ったような貌をする。
「偽善かな」
「そんな事はない」
首を振る延麒にそう、と
江寧は軽く頷く。
夕刻の空はじき闇を迎える。先程より僅かに暗くなった回廊には冷気が少しずつ足元へ満ちていく。……雲海の上とはいえ、寒さが軽減される事はなかった。
延麒は蘭雪堂への移動を促す。頷いた
江寧は歩き出し、途端ぽつりと呟くような少年の言葉を聞いた。
「……終わったら、なるべく早く帰ってこいよ」
前を行く延麒の顔を窺がう事は出来ない。だが、心配しつつも申し出を許してくれた事に、
江寧は微笑った。
「―――うん。ありがとう」
◇ ◆ ◇
「良い雰囲気のところ悪いが」
低く通るその声に、回廊を曲がった二人の肩は不意にびくりと跳ね上がる。背後を振り返らずとも分かる、聞き覚えのある声。
「え、延王君―――」
「いきなり後ろから声かけるなよ……!」
「人の恋路を邪魔するとろくな事がない」
「誰の恋路だ。……で、何だよ」
物陰から身を出す延を呆れたように見上げつつ、延麒は腕を組む。怪訝の含まれた目線も気にせず半身を僅かに宥めた延は、麒麟の背後に佇む姿へと視線を移した。
「
江寧、以前黒海で妖魔に襲われたと聞いたが、本当か」
「え?ええ」
「やはり柳からか」
「……延王君は、柳が傾いているとご推察しておられたのですか?」
「そうだ」
恐らくは朱衡が告げたのだろう。そう
江寧は考え、襲撃の際の記憶を掘り起こす。……あれは確かに、方角からして柳から来た妖魔であった。治世百二十年程と聞き及んでいたが―――どうやら、斜陽は刻々と迫っているらしい。柳の地へ足を踏み入れる前に国が傾きつつある事を
江寧は内心惜しく思う。
「今、楽俊が柳へ向かう準備をしている」
「楽俊が?」
ぱっと顔を上げた
江寧の顔は驚きに満ちている。ああ、と頷いた延麒は自分の腰に手を当てつつ息を吐き出した。
誰かを見聞者として柳へと向かわせなければ、目前にいる男は今此処に居なかっただろう。横目で睨めつけるように見上げて、延麒はそう告白をする。さらに、雁国の王は放浪癖があるのだと告げれば、それには延からの反論が降りかかって来た。
「人の事を言えたものか」
「放浪癖はお前の方が酷い。―――それで、恭からの用件は?」
話を故意に逸らすような延麒の問いに、延はむっと眉を顰めつつも、そそくさと思考を切り替える。
内殿へ向かう最中に朱衡がわざわざ書状を持ってきていた、その際に放たれた言葉がどうも引っ掛かる。さらに書状の内容を思い出せば、胸内に蟠りが留まっているようだった。
何もこんな時にせずとも良いものを。
延は二人を視界に入れる。どちらの双眸も王から逸れる事はなく、ああ、と一呼吸を入れた後に告げる。
「恭で預かっていた芳の元公主が脱走したらしい」
何気なく見やった雲海上の空は、夜の闇が刻々と近付きつつあった。