- 陸章 -
十一月中旬。
時期は既に冬を迎えて、温暖な気候とは程遠くなっていた。
白藍に染まった寒空の下、人々は褞袍を掻き合せて寒さを凌ぎながら大途を歩く。行き交う街の者は少ないが、人波の殆どは旅人であり、その誰もが拓峰の街並みを一見して首を傾げるのだ。活気のない、壊死したようなその街を。
大途から僅かに小路へ逸れた所に建つ安宿。まだ表の戸は閉ざされているが、寒々とした中庭の井戸端にて座り込む人影があった。
早朝から水の音が響いて止む事はない。その音で目を覚ました夕暉は、寝過ごしたのだろうかと臥牀を降りる。早々に着替えて房間を出ると、廊下を小走りで渡り中庭へと駆け降りた。
其処に、白藤の髪を肩ほどまで下ろしている少女の後姿を目に留める。
「
江寧さん?」
「ん?ああ、おはよう夕暉」
夕暉の声で振り返った
江寧。その片手に握られていたのは、昨晩に使われていた鍋。洗っていたのだと分かると、すぐさま駆け寄り傍らに片膝を着いた。彼女は客であるのに、気にせず宿の掃除を買って出る。以前舎館で働いていたから。虎嘯に助けてもらった恩義で。それが、毎度告げる彼女の理由であり言い訳だった。
「有難いけど……お客さんなんだから、こんな事しなくて良いのに」
「有難いならやらせてよ。まだ虎嘯への恩義を返しきってないし」
悴む手を丸めながら笑う
江寧に、夕暉は釣られて苦笑する。
一見行動の変わった客が宿を取り早四日。五日宿に滞在すると告げた客の残る日は、あと一日と迫っていた。
江寧は半日の殆どを見聞と称し、拓峰の彷徨に費やしている。朝はこうして宿を手伝い、昼から閉門前後の夕刻まで拓峰を見聞し、夜になれば宿へと戻ってくる。その繰り返しを三日続け、そして四日目の朝―――
江寧の表情には僅かな暗い影が落ちていた。
無理もない、と夕暉は思う。三日も聞き込めば、口重い民から事実が吐き出される。実情を知れば、ほんの少しでも落ち込みを見せるのは当然の事だった。
互いの間にやってくる沈黙に耐え兼ねて、夕暉が口を開く。
「明日すぐに街を出た方がいいよ」
「どうして?」
「分かったでしょう?拓峰がどんな所か」
残虐非道な豺虎が、街に死臭を蔓延らせる。こんな場所に、いつまでも無関係の者を留めておく訳にはいかない。もし巻き込まれでもしたら、後に引けなくなるのだ。
覗き込むように表情を窺がう夕暉に、
江寧はふと鍋を洗う手を止めて頭を上げる。
「……まだ」
「まだ?」
「まだ、分からない事がある」
「
江寧さん……」
―――深みに、嵌まってしまう。
脳裏に過ぎる言葉によって口に出しかけた言葉は、背後で開かれる扉の音によって飲み込まれてしまった。振り返ったその先に、裏口から中庭へと降りてくる虎嘯の姿があった。
「兄さん」
「虎嘯、おはよう」
「あんた、またそんな事をやってるのか」
呆れの混じった虎嘯の言葉に、夕暉は頷きつつ苦笑する。
江寧は男を振り仰ぐまま、ただうん、と一言返事をした。彼女に悪びれた様子はない。……悪事をしているわけではないが、それでは宿の者の立場がないのだ。
「此処に居る予定は明日までなんだろう。少しはゆっくりしたらどうだ?」
「……そうだね。明日、瑛州に行こうと思っているし」
州の名を口に出す
江寧に対し、虎嘯は思わず首を傾げる。先日飯堂で聞いた話の限りでは、瑛州は既に見聞済みのはず。それを何故再び行く用があるというのだろう。そう思ったのは、
江寧の隣にいる夕暉もまた同じだった。瑛州の何処へ、と聞き返せば、答えはさらりとやってくる。
「うん、尭天へ」
「―――そうか」
夕暉と虎嘯は視線を見合わせる。兄弟の目には自然と猜疑が浮かび上がっていた。勿論、疑いたくはない。だが今の状況で警戒をしなければならない事も分かっていた。次の言葉に迷う虎嘯の隣から、問いが掛けられる。
「
江寧さん、貴方は何者?」
訊ねる夕暉に、
江寧は気兼ねなく答えた。
「雁から来た、ただの旅人」
◇ ◆ ◇
その夜、虎嘯は拓峰の街を巡り終え帰って来た
江寧を飯堂へと招いた。
帰宅前にぴったりと閉ざされた表を目にしていた為に、飯堂には誰も居ないのだと思っていた
江寧は、戸の向こうに集う男達に対して驚く。戸惑い泳ぐ視線の終点は隣に立つ男の顔で、虎嘯は視線に対し中央の大卓に空いた一つの椅子を指差す。座れ、と短く指示を出した虎嘯に頷き、
江寧はその席に腰を下ろした。
剣呑漂う空間を気まずく感じながら、男達の突き刺さるような視線を受ける。それを気にせぬようにと顔を上げたその先に、飯堂へ入ってくる夕暉の姿が目に入った。
「夕暉―――」
「ごめんね、
江寧さん。少し聞きたい事があるんだ」
「聞きたいこと?」
近場の椅子に座る夕暉に向けて僅かに頭を傾げる。頷く少年の言葉を継ぐようにして、虎嘯が話を始める。
「尭天に何の目的があって行くんだ?」
「買い物と、国府に用事があって―――」
「国府に何の用事がある」
虎嘯の強い口調に、
江寧は眉を顰めて戸惑う。
この街の者達は郷長を怨むだけではなく、景王までを疑っている。景王と面識があるなどと言えば、確実に強い疑いが掛けられるだろう。ならば台輔の―――そう思った
江寧は、実のところ慶の麒麟を見た事が無い事を思い出し言い訳を断念した。仕方なくも、懐から紐に括られた旌券を取り出す。
「虎嘯、これ」
「ん?」
紐を首から外し、旌券を虎嘯に手渡す。表には名が書かれているのみ。だが、裏を返せば渡された意味を理解した。
「恭国冢宰―――」
「恭?でも雁から来たって」
「雁には用があったから、寄っただけ」
「お前……その年で、本当に何者だ?」
「ただの旅人だって」
どよめく周囲に、苦笑を零す
江寧。提示する度に返ってくるのは同じような驚きの声ばかり。門での旌券提示の度に見てきたお陰で、その反応に随分と慣れ始めていた。
ともあれ―――掛けられていたらしき疑いは晴れた。それにほっと胸を撫で下ろして、虎嘯に声を掛ける。
「差し支えなければ、疑いの中身を説明してほしいんだけど……」
「―――そうだな。今回は俺の早とちりだ。それに
江寧が聞きたかった事でもあるが……口は堅いか?」
江寧は静かに頷く。彼女の意を確かめて、虎嘯は周囲の男達と目を合わせた。
それを合図に、虎嘯と夕暉以外の者達は次々と退出していく。彼女の対面に空いた椅子に虎嘯と夕暉が腰を下ろせば、空気は緊張を纏う。
江寧のごくりと唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた気がした。
「七割一身の事は知っているか」
「ええ……」
「税七割の内数割は和州候、呀峰に流れている。……何故だか分かるか?」
「上司に貢いで、安全と保護を買っている?」
「まぁ、そうだな」
頷いた虎嘯の後に、夕暉が言葉を継ぐ。
「昇紘は、人を人とも思わない豺虎だ。このまま放っておくわけにはいかない」
「そうね……」
「街の人は昇紘を怨んでいるけど、誰も反旗を翻そうとはしない。……それほどの圧力が掛かっているから」
残虐非道の豺虎。怨嗟の声と共に囁かれる名は郷長に相応しいものだった。だがそれでも、拓峰の民が振り上げたのは怒りを含めた拳ではなく、媚び
諂うような頼りなき掌。圧力に耐えられなくなり逃亡したかった者も居たそうだが、留まる殆どの者達は家族の為と街に残っている。
それら全ての実情を耳に聞き入れた
江寧は、街で見聞していたよりも酷なものと理解して愕然とした。
―――陽子は気付いていないのか。
気付いていれば、とっくに罷免なり国外追放なりする筈であると、そう考えて口を引き結ぶ。やはり和州候が守っているのだ。そうでなければ今頃、昇紘は多大な罰を受けている筈だというのに。
俯き考えに耽る
江寧の意識を、虎嘯の声が呼び戻す。その声にはたと顔を上げて、虎嘯は続きの言葉を口にした。
「だが、いつまでも圧力に屈していれば被害は増える一方だ」
「虎嘯―――」
「俺は……俺達は、昇紘を倒す為の機会を窺がっている」
予想外の言葉に、
江寧は擡げていた頭を勢い良く上げる。見開かれた菖蒲の眼は、暫しの間夕暉と虎嘯を交互に見やっていた。
「党に名は無いが、人は集まっている」
「皆昇紘が憎い奴らばっかりで、物騒だけどね」
夕暉の言い草に
江寧は先程の男達を思い出す。彼らもきっと党に入った者達なのだろう。そう思いながらも僅かに苦笑する夕暉を見やって、釣られて苦く笑いを零した。
「冬器が集まり次第、決起するつもりだ」
「そう……」
「それで―――これからどうする」
うん、と僅かな頷きを見せると考え込むようにして顎に手を添える
江寧に、虎嘯と夕暉は何も言わずに言葉を待つ。それでふ思い付いた疑問に、ふと顔を上げた。
「決起は近々?」
「いや、まだ冬器が足りねぇ。始めるならもう少し集まってからだな」
虎嘯の答えに
江寧は内心首を捻る。
本来ならば冬器は架戟に卸され、相手が信頼ある者かを見定めて売るという。故に大量の武器を売る事も滅多にない。……だというのに、一体どうやって冬器を集めているのだろう。やはり、それなりの伝があるのだろうか。
そう考えてつい口にしそうになった言葉を呑み込む。聞いて、何か出来る訳でもないのに。
……次に
江寧が思うのは、これからの身の振り方だった。
「……一度尭天に行って、それからもう一度雁に行ってくる」
「雁に?」
夕暉の疑問に、
江寧は僅かに口角を上げる。
「頼まないといけない事があるから」
◇ ◆ ◇
五日目、早朝。
腕を動かし、完治を確かめ終えて旅立ちの準備をする。それで支障がない事にほっと一息を吐くと、まずは虎嘯たちに挨拶をするため足を飯堂へと向かわせた。
いざ飯堂へ足を踏み入れると、やはり男達が隅々で屯している。その様子を一瞥しつつ虎嘯の姿を探すが、何処にも見当たらない。厨房だろうかと踵を返したところで、遠くから
江寧を呼ぶ夕暉の声が聞こえる。
「
江寧さん、兄さんが探してたよ」
「丁度私も探してたところだけど……虎嘯は何処に?」
「中庭。ほら、赤虎がいる所」
「―――うん、分かった」
小さく礼を告げて、
江寧は飯堂を出て行く。半ば小走りの状態で廊下を駆けると、中庭に立つ虎嘯の姿がすぐ横に見えた。そのまま廊下から飛んで中庭へ降り立てば、ぎょっとしたように振り返る男の姿。
「虎嘯、私を探してたって?」
「ああ……一つ、聞きたい事があってな」
「なに?」
江寧を見下ろす虎嘯は一呼吸を置いて、それから問いを口にする。
「あんた、もしかして俺達の所に加わる気じゃなかったか?」
「―――どうして?」
「別に、何となくそんな気がしただけだ」
違うのか?と再度問う男を見上げながら、
江寧は思わず笑みを零す。
―――虎嘯には、ばれていたのか。
僅かに肩を竦めて長く息を吐き出すと、軽く首を振った。彼女の様子にやはりと納得をして、虎嘯は半ば呆れるような仕草を取る。
「危険だって、分かってるか?」
「それは分かってるつもり」
でも、と
江寧は言葉を口篭らせる。虎嘯にはそれが言葉を渋っているように見えた。
首を傾げつつも次に出る言葉を待つが、眼があからさまに泳ぐばかりで言葉を発する素振りがない。仕方なく虎嘯は問いを切り出す。
「でも……何だ?」
「……ここまで事情を聞いて、今さら見て見ぬふりなんてしたくない」
「
江寧―――」
「子供が駄々を捏ねるような言い訳だって事は分かってる。だけど、首を突っ込んだのは誰に強制されたわけでもない……私自身の意思だから。聞き逃げなんて、したくなかった」
その言葉は、虎嘯を酷く困惑させた。
つまりそれは、自国の事ではないのにこれから起こす反へ加わりたいと希望しているという事なのだろう。だが……此処を発つのは、その希望以上にやるべき事が見つかったから―――そういう事だろうか。
虎嘯を見上げる瞳に、強い力が篭る。揺るぐ事のない視線は真摯に外ならなかった。
「……もし」
「うん?」
「もし、やるべき事を終えたら……手伝ってくれるか?」
突然の申し入れに
江寧はきょとんと目を丸くして、瞬きを繰り返す。まじまじと虎嘯の顔を眺めると、その意味をようやく理解して再度驚きの顔を見せた。
「い……いいの?」
「そいつはこっちの台詞だ。ここに加われば、後戻りは出来ない。それでも参加するのか?」
彼女に迷いの間はなかった。
すぐに力強く頭を一つ振ると、分かったと承認の意が男から返ってくる。途端、男は片手に収めていた一つの環を
江寧に差し出す。鈍く光る環は鉄製で、ちょうど指に嵌るほどの大きさだった。それを受け取った
江寧は、指環と虎嘯を交互に見る。
「これは?」
「俺達の仲間である証だ。手伝ってもらう前に説明はする。それまで持っててくれ」
「―――分かった」
指環を片手に握り締めて、
江寧は頷く。大切なものを託された、そんな感覚がした。