- 伍章 -
和州止水郷拓峰。その閑散とした街並みの中、大途より少し離れた小路に並び立つ建物の一つ。
そこに、初老の医者はいた。
男は薬の在庫を確認している最中であったが、突如背後からの扉を叩く音に手を止め振り返る。来訪者は誰だろうかと腰を上げれば、鍵の掛かっていない戸が外へ開き消えた。瞼を押し上げたところで、来訪者が勢い良く飛び込んで来る。……その顔には、馴染みがあった。
「虎嘯か。どうした?」
「悪い、こいつを看てくれ」
こいつ、と男――虎嘯の腕に抱えられた人物を見やって、医者は頷く。ようやく腕から下ろした少女を榻へ横たわらせると、握り締められた左腕の震えを見る。その様子に眉を顰めて虎嘯へと視線を移し、視線の意を向けられた方は軽く首を振る。
「腕が痛いのか……」
少女はただ首を振るのみ。頷きに応じて左腕を手に取り、早速診察に取り掛かった。……そして、その背後には気まずそうに佇む男の姿。腕の触診の合間に背後を一瞥すると、僅かに笑いを零して手をひらひらと振った。
「後は任せておけ。儂の仕事だ」
「そうか……頼む」
申し訳無さそうに肩を落として戸の間から出て行く男。
江寧はその後姿へ視線を向けて、閉まる扉と共に瞼を伏せた。
医者に腕を押され、痺れの走る腕は震えが止まらない。暫しの間痛みを堪え待っていると、触診を終えた医者は
江寧の顔をまじまじと見て告げる。
「無茶な弓射の仕方でも?」
「弓射―――……」
医者の問いにはたと思い、傍の壁に立て掛けられた弓を眺めた。
弓道の動作は主に射法八節――八つの節で構成されるが、
江寧が行う動作はその半分。更に本来右手に着ける筈のゆがけがなく、和弓の長さが異なる上に握りは中央。弓や弦の素材も違えば、矢が放たれた際の感覚も違う。にも関わらず、彼女は射続けた。……これでは無茶な弓射と言われても、反論は出来ない。
江寧の硬直した表情に、男性は思わず溜息を吐く。患者の面から心当たりがある事を読み取りそれ以上は何も言わなかった。
時間を掛けて二の腕を揉み解すと次第に痛みが引いていく。ほっと安堵の息を吐いた、その矢先……医者は半ば睨むようにして
江寧を見やる。
「五日は弓を引かんように」
「……はい」
口調は少しばかりきつい。それに苦笑していると、捲り上げられた袖下の腕に薬が塗られる。その上から包帯をしっかりと巻かれ、
江寧はまるで怪我をした気分になる。体内の問題であっても怪我に入るのだろうかと思いながら、彼女自らの手で袖を下ろしていく。
左手を動かすが、その際にあれだけ伴っていた痺れと痛みはなくなっていた。
それを確認すると、身を起こして医者の方へと顔を向ける。
「ありがとうございました」
「いや。……旅の途中か何かか?」
「ええ。今の慶がどんな国か見回っていました」
そうか、と僅かに頷く医者の声は、僅かに低く重さがあった。反応に疑問を抱いたのか、
江寧は男性の表情を窺がうように上目遣いで見ると、その視線に気が付いた医者が呆れたように溜息を落とす。
「国は変わらんよ……女王じゃからな」
「女王だから?それが何か関係でも?」
かつて出会った紅の髪の少女を思い浮かべる。彼女ならばきっと良い王になる―――そう思っていたのは、民も同じではなかったのか。新王に期待はしないのか。そう脳裏に浮かぶ問いを口に出す事は無かったが、民に新王践祚の喜びがないと考えれば胸が痛む。
代わりに出た
江寧の問いに、医者が椅子へ座り直して訳を切り出した。
「近年、就くのは無能な女王ばかりでな……懐達という慶の言葉がある。三百年の長きに渡り治世を敷いた達王が懐かしい、女王は駄目だという意味が込められておるのだ」
巻き直した包帯を手に取りながら懐達の意味を説明する。その言葉に
江寧は目を細め、憂いの表情を浮かべていた。
女王の全てが悪い訳ではない。単に運が悪かっただけなのだろう。だがしかし、それを何かの所為と思いたいのは人の性であろうか。そう考えて、対面する医者に向けて
江寧は笑みを作る。
「……今回は、良い女王ですよ」
「―――?」
「これにて失礼致します。ありがとうございました」
首を捻る医者を余所に、
江寧は榻から腰を上げて丁寧に辞儀をし、壁に立て掛けられた弓を引っ掴む。そのまま近場にある扉を押し開くと、空いた間からするりと抜けて出て行ってしまった。
◇ ◆ ◇
大途から入る小路の入口で一人佇む虎嘯は、少女の治療が終わる時を待っていた。
時折隣に座る赤虎へ目をやって、再度大途へと視線を戻す。
いつ見ても街並みは酷い。活気が無ければ安穏とした雰囲気もなく、あるのは大した整備も施されていない途と廃れゆく建物。その風景は貧しさを思わせ、冢墓の方角へ進めば死の臭いが漂い来そうなほどに酷い。内情を知ってしまえば尚更、それらの印象を拭い去る事は出来なかった。
―――それもこれも、あの豺虎のせいだ。
思えば自然と拳に力が篭る。今腹を立てたところで何が変わる事でもなし、深く息を落として拳から力を抜いた。
……刹那、背後から聞こえる足音。
「すみません―――先程、私を運んで下さった方ですよね」
背後を振り返ると、小柄に見える少女が虎嘯を見上げていた。ああ、と頭を一つ縦に振った男に対して、
江寧はほっと胸を撫で下ろす。彼で間違いはなかったと安堵したところで、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いや……怪我はもう大丈夫なのか?」
「ええ。でも、五日は弓を握るなと言われたから、五日は此処に滞在していないと」
妖魔が出るから、と言葉を添えて
江寧は苦笑する。空を振り仰ぐが、じき斜陽で染まる色が仄かに浮かぶのみ。妖魔の姿を見受ける事は出来ない。そうか、と言葉を返そうとした虎嘯の耳に突如聞こえてくる太鼓の音―――閉門の合図である。
小路からでは見えない門の方角へと視線を向ける虎嘯に、
江寧は今更ながら思い出したように掌を軽く叩いた。
「何処か厩舎のある宿を知りませんか?」
「宿?……だったら俺の所に来るか?その騎獣も置けるし、盗るような輩もいないからな」
「それなら、是非とも」
お願いします、と
江寧は深々と頭を下げる。虎嘯は軽く笑って、小路から数歩踏み出し大途へと出た。
江寧と緋頼はその後を追い駆けていく。
周囲を見渡しては顔を顰める少女の姿を時折振り返り見て、虎嘯もまた眉を顰めた。この町を初めて見る旅人でもやはり、閑散とした街並みが気になるのだろう。そう思いながら、背後の人物へと声を掛ける。
「あんた、名は?」
「
坂 江寧と申します。貴方は?」
「俺は虎嘯だ。旅人に見えるが……何処から来た?」
「雁から」
「そうか―――それなら、周りが気になる筈だよな」
虎嘯の言葉に、応えはない。代わりに問うような視線が背に突き刺さったが、敢えて気にする事なく歩を進めていた。
あまり人の行き交いのない途の一郭に、その宿らしき建物はある。周囲に男達が屯しているという事を除けば、何処にでもある安宿だった。
珍しい騎獣を連れた
江寧をまじまじと見つめ、少女の前を歩く虎嘯へ目を移せば、集中する視線は分散する。窺がうような様子に疑問を抱きながらも、正面脇の木戸前で立ち止まる男に合わせ足を留める。
「こっちだ」
木戸を開き、先に入る虎嘯の後を追って緋頼と共に潜る。串風路にも似た通路を抜けて、開けた場所に出た。
中庭に作られた菜園。
江寧は中庭を一見すると、握っていた手綱を離す。そこでようやく振り返った虎嘯は、赤虎から離れた
江寧の姿に思わず瞬いて、次いで慌てたように駆け寄った。
「おい、手綱は」
「大丈夫。逃げないし、手を出さない限り人を襲う事はないから」
「それなら良いんだが……」
うん、と頷く
江寧の顔には柔らかな笑みが浮かぶ。視線の先には庭園が広がり、それらを眺める少女の横顔を虎嘯は見つめる。先程はあれだけ険しかった顔が今は穏やかになり、落ち着きを保っている。怪我の心配は必要ないのだと、ほっと息を吐いた。
「先に客房へ案内した方がいいか」
「ええ、お願いします」
緋頼へ向け待つように言葉を掛けると、虎はその場にゆっくりと伏せる。意を理解したのだろうと緋頼の頭を撫でて、
江寧はくるりと虎嘯のいる方角へ向き直る。肩に提げられた荷袋を掛け直し、ひとつ頷く。虎嘯はそのまま歩き裏口の戸を開いて、客を中へと招いた。
質素すぎるほどの客房を取ったのは、
江寧にとって久方振りのことだった。
一明二暗の基本造りはあったが、起居に置いてあるのは二つばかりの椅子と小卓のみ。他に差したる装飾が施されている訳でもなく、逆に安堵していた。これならば、ゆっくりと落ち着く事が出来るだろうと。
椅子の上に荷袋を置き、首下に掛けていた風除けの布をするりと抜き取る。大雑把にそれを畳み終えて、荷袋から取り出した財嚢を懐へしまう。そうして客房の扉の前で待たせていた虎嘯の元へと急ぐ。
「お待たせしました」
「いや……それから、敬語は止めておけ。な?」
「―――分かった」
頷いた
江寧に背を向けて、虎嘯は廊下を歩き出す。初めに案内をしたのは厨房で、
江寧は座るようにと勧められて大人しく椅子へと腰掛けた。じきに夕餉である事を思い出し、腹拵えをさせようと連れて来たのだ。
湯飲みへ湯を注ぎ大卓へ置いた所で、ねえ、と
江寧の声が掛かる。
「うん?」
「ここで、凶事でもあったの?」
「―――いや、それはない。街の様子を言ってるなら、あれがいつもの事だ」
「いつも……」
彼女の顔に浮かぶものは疑心。考えに耽りそうな
江寧を、虎嘯が質疑によって引き上げた。
「どうして、そう思った」
「……空から見た冢墓が、やけに大きかったから」
凶事によって、多くの者が亡くなったのだと思った。だが―――街に被害の後はなく、病かとも考えたが、街の様子を見れば殺伐としている。冢墓に立てられている、消えてしまった命の数を見れば街で何かが起こっている事には違いない。……だが、目前の男は決してその事に触れなければ何も説明などしてくれないだろう。そう
江寧は考えて、思い切って訊ねたのだが。
湯飲みを手にしたところで、虎嘯は少女と対面するように椅子へと腰掛けた。
「知らない方が、良い事もある」
「だけど―――」
「五日街を見て周れば、俺が教えなくとも気が付くだろう」
江寧は再度反論をしようとして、視線を合わせた男の強い眼差しで言葉を詰まらせる。彼は決してそれ以上の応えを話はしないだろうと、諦めて手元の湯飲みに口を付けた。
―――知らない方が良い。
そこまで言わせる何かが、あるのだろう。
◇ ◆ ◇
-還翔-
(カンショウ)
雁国の主と神獣がようやく帰還したのは、来訪者の旅立ちから三日ほど経過した頃の事だった。
禁門を潜り燕寝へ上がった所で、出迎えにやって来た朱衡と鉢合わせる。久方振りの顔に延――尚隆は変わりないかと問い、朱衡は当然の如く頷く。あっては困るが、たまには変化を見たいものだと内心苦笑しながら正寝の一つへと向かった。
「そういえば、さっき微かに血の臭いがしたんだけど―――」
「ん?」
延麒――六太の長い呟きに尚隆は足を留まらせて、視線を朱衡に移す。何かあったのかと目で訴えれば、訴えられた方は僅かに溜息を吐く。その様子に尚隆は眉を上げて、彼の言葉を待った。
「……八日ほど前に、
坂殿がいらっしゃいましたが」
「
坂?」
首を傾げる台輔の姿に、自然と溜息は大きくなる。貴方のお知り合いですと小さく補足を告げるが、未だに分からないようであった。
「
江寧殿です」
「……!!」
「何だ、分からなかったのか」
「そっちは覚えてなかったんだよ!」
頭二つ分ほど下の少年を見やって、尚隆は大袈裟に肩を竦める。思わず叫ぶようにして言葉を返した六太を朱衡が止め、その続きを報告するために口を開こうとした。だがそれよりも先に、尚隆が言葉を放つ。
「期限まであと四月もあると言うのに」
「そういや、そうだよな……何かあったのか?」
「頼み事があったようですが、三日前に出て行かれました」
「行き先は聞いたのか?」
「慶国尭天のようです」
―――慶国尭天。
つい先日まで雁の王と麒麟が景の即位式に参じていた場所。もしや延らを訪ねに行き擦れ違いになったのかと、そんな考えが六太の脳裏を過ぎる。彼女が行くとしたら雲海の下。隔てられたその上からではたとえ同じ方角でも行き違いになるのは当然のことだった。
顔を俯かせる六太。その小さな肩に、ぽんと手が添え置かれた。
「そう気を落とすな」
「落としてない」
「……それにしても、彼女がこちらへ来てからお前とはすれ違いばかりだな」
「慰めになってないぞ……!」
「慰めたつもりはないのだが」
口論する王と麒麟を目前にして、朱衡は本日三度目の溜息を床に落とす。これならば王が一人の際に話を出せば良かったと、少しばかりの後悔をした。