- 序章 -
いつものように友達と別れの挨拶を告げて、彼女は足早に帰路へと着く。
教科書の詰め込まれた鞄を少々重く感じながら、足は確実に見慣れた道を辿っていた。弓道部に所属し、授業後の放課に多少活動する時間はあったが、突然の急用に休まざるを得ない。…大方、学校に電話を入れたのは母親だろう。以前のように署まで赴かずにいい事が唯一の幸い事だろうかと、通学鞄を抱え直しながら
巴は思う。
そこらの一軒家と酷似した形で、何の変哲も無く建っている
巴家はしかし、平穏とは程かけ離れた雰囲気に包まれていた。
家の前に堂々と停められた白黒の車。それと距離を空けながらも周辺を囲む人の群れ。目的地まで後僅かだと言うのに、人だかりが出来るだけで何故こうも遠く見えてしまうのだろうか。
「あら、
巴ちゃんじゃない」
いざ人だかりの間を抜けようとすると、近所に住む中年の女性に声を掛けられる。振り返った
巴の元には、降り注がれる多数の冷ややかな視線。それらを無視して、中年女性へひとつ頭を下げてから、人の間を縫って玄関前へと向かう。背後で囁かれる声にも耳を傾けず、見慣れた自宅へと上がりこんだ。
然程広くもない玄関に置かれた靴は、見慣れないものが三足。いずれも黒い光沢のあるもので、それで今回は何人来ているのかが分かった。二階にある自室には向かわず、迷う事無くリビングへと向かう。
「ただいま」
入るや否や
巴を睨め付ける父親と顔を覆い泣き崩れている母親を彼女は交互に見やって、それから隅に座り込んでいた弟と妹へ視線を移す。……この二人が両親を止めてくれていたら、学校から早退する事もなかったのに。
巴の苦い表情に、紺の制服を着込んだ三人の訪問者もまた苦笑を零す。内二人には見覚えがある。多分、前々回にやって来た警官だろう。それに気が付いて頭を下げた
巴に、一人が声を掛ける。
「
清坂巴さんですね」
「はい……ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
再び頭を下げて、今回の騒ぎの件について話を伺う。前回同様、両親の喧嘩の最中に父親が凶器を持ち出し、母親が殺されると警察へ連絡を入れてこうなったらしい。……頭を悩ませざるを得なかった。
「何かあればこちらへおかけ下さい」
番号の書かれた小さなメモを受け取って、玄関へ向かう警官の後姿を見送りながら、思わずこれで四度目だと小言を洩らす。同時に、この光景を二度と見ぬよう願うばかりだった。
◇ ◆ ◇
酒に溺れる父親、働き詰めでノイローゼの傾向が見られる母親、喧嘩の仲裁もせず、陰でひそひそと両親の愚痴を零すばかりの年下の兄弟。
……何故、家庭に恵まれなかったのだろうと時折思う。今更悔やんでも仕方のない事だが、それでも家庭内の沙汰がある度にその思いは深くなりつつあった。いっそ家を出られたらどんなに良い事だろうか、と。
警察が帰ると、家の中は先程の出来事が嘘のように閑散としていた。時が経過した後の両親の和解は恒例のようで、何故彼等が来る前にしないのかと毎回ながら
巴は思う。だが、その平穏のお陰で少しばかり家を開ける事ができた。
軽装で僅かな小銭の入った財布をポケットに入れて、
巴は陽の暮れた大通りを歩き出す。昼間の賑やかさとは一変、車の行き交う音だけが耳に入り込む。行き交う光が、時折目を痛ませては過ぎ去っていった。
それらの光景に深い溜息を道端に落として、ふと視線を上げる。
別段宛ても無く彷徨う
巴の視界に、小さな公園が映り込んだ。
――――少し、暇を潰そう。
公園の土地は小さいが、周囲を細々とした木々が連なり覆っている。まるで公園内が周囲から区切られているようで、彼女にとっては心地の良い場所に見えた。何気なく公園の出入り口に足を踏み込んで、手前に設置されていたベンチへと腰を掛ける。
辺りは街灯が一つ、人工の光を帯びて立っているだけだったが、それでもあのまま有耶無耶とした気持ちで家に篭っているよりは気分が良い。今の時期は春の名残もなく、夏の気配を見せ始めている。湿度はそれほど高くはなく、それ故に夏の夜よりは幾分か過ごしやすかった。
暫く呆然と空を眺める。周囲に広がる漆黒は、まるで夜の空と同化しているようだ。
――――そうして、かれこれ十分ほど見上げていただろうか。
不意に人の気配を感じて、視線を下ろす。下ろしたその先に、ひとつの影がぽつりと佇んでいる事に気が付いた。
大人ではない。暗くてよくは見えないが、歳は十三か十四か…少なくとも、この時間帯に居ることに疑いを感じざるを得ないでいる。影は丁度街灯の真下に居るので、顔は翳っているものの服装は見て取れた。
紺色の上着、緩めの白いズボン、やけに長めでゆったりとした袖。中国にある服と似ているかもしれない。その服の影が途端動き出した。真直ぐに
巴の元へ向かおうとしている。彼女に疑問はあったが、危機感は一切持たないでいた。
当然のように
巴の前で影―――少年は立ち留まる。
「キを知らないか」
「――――はい?」
“キ”、と。聞き知らない単語に首を傾げる
巴に、少年は慌てて訂正を施す。
「高里、って奴なんだけど…丁度、姉ちゃんと同じくらいの――――」
「…高里、要?」
「え、あぁ……知ってるのか?」
「まぁ……」
巴には、その名字に聞き覚えがあった。いや…その人物と面識があると言った方が正しい。この周辺で高里と言えばあの家しか無い筈だと、掘り起こされる記憶の中でそう思う。だが、その人物の名を口にした少年に
巴はこの時初めて不信感を抱く。それに気付く訳もなく、少年は言葉を続けた。
「何処に居るのかも知ってるんだな!?」
「知ってるけど…どうして?」
う、と少年は言葉を詰まらせる。
巴の眼から逸らされた視線はただ暗闇へと向けられている。その様子で更に不審の眼を深くしたところで、刹那第三者の声が上がった。
「タイホ、」
「ああ」
「な、なに……?」
足元から響くような、けれど幾分重低の声に思わず視線が地へ下る。しかし姿形は何もなく、彼女の思考を混乱させた。それを気にも留めずに、少年は地に向けて言葉を零す。反応して返す姿無き者に恐怖の念を抱いた
巴は、数歩身を引いて少年との距離を置く。この子供は、一体何なのだろう。
「それで―――あ、」
気が付けば、足が勝手に動いていた。
駆け出した脚は止まらず、背後を見る事も無い。逃げ出したのは、内心ここから遠ざかるべきだと思ったのが切欠だろう。着いて来る気配も無く、安堵しながらもそのまま無意識に脚が向いたのは結局、一応は安全の確保された自宅への道だった。
◇ ◆ ◇
不可解な子供と
巴が遭遇して、数日が経過したある日の午後。
教室で休憩時間を過ごしていた
巴は突然、担任である男性教師から呼び出された。その理由は、
巴自身がよく分かっている。
―――先日、髪を洗った際に髪の色素が抜け落ちてしまった。普段のように少しずつ落ちていくのなら特に気にもしない。だが、それは今までの比ではなかった。
足元に流れた水は墨のように黒くなり、見上げた鏡の中には自分の知る
清坂巴は存在せず。
学校へ向かう前に慌てながらスプレーで黒く染めたものの、全てが元の色に染まりきる前に使いきってしまった。結局諦めそのまま登校したが、その髪色は黒寄りの紺に見える。……そうして、彼女の予想通り、呼び出されてしまったのだが。
呼び出された会議室にて
巴は事情を説明したものの、教師はその話に耳を傾ける事なく
巴にありきたりな注意を促す。
「どうせ元から染めていたんだろう。じゃなきゃ一気に落ちたりはしないからな」
「染めてませんと何度も言ってるでしょう……!」
「染めてもいないのに一気に髪の色が抜けるなんて聞いた事もない。大体、もしそうなら隠す必要はないだろう」
「どちらにしたってあの髪じゃ呼び出されていたはずだし、今も先生に話したって信じてくれないんだから、どちらにしたって変わらないじゃないですか!!」
「
清坂―――ひとまず落ち着け」
訴えを制しようとする男性教師に向かって、
巴の言葉は続く。
「自然に落ちても、どうせ染めてこいと言うんでしょ?生徒の事情も聞かずに!」
巴の言葉に、制止の声が詰まる。初めて凄む生徒の姿を前にして、出るはずの言葉が全て飲み下されていく。睨め付けるような視線を受けて、男性教師は口を開いた。
「……落ち着かないか」
「―――すみません」
はたと我に返り、浮かせていた腰をゆっくりと下ろす。落ち着きを取り戻した
巴の姿にひとつ溜息を吐くと、分かった、と短くも言葉を紡ぐ。
「それが本当かどうか、確認の為に保護者へ連絡を入れるからな」
待っているようにとの指示を出して、教師は足早に会議室を出て行く。だが、その言葉に
巴は眉間に皺を寄せた。
―――あの親に、連絡をする?
これから男性教師が行うこと。それは、彼女にとって迷惑極まりないものでしかない。
家に居るのは飲んだくれの父親で、酒に酔ったまま電話を取れば、帰って来た際に暴力を振るわれ兼ねないだろう。
巴の家庭事情を詳しく知らない担任教師は、そんな事が分かるはずもない。そう思う刹那、会議室の壁を無意識に殴り、部屋を飛び出していた。
「ごめん、私帰るね」
あれから、拳のじくじくとした痛みでようやく落ち着きを取り戻し、思い足取りのまま教室へと戻った。そこで残っていた女友達数名へ別れを告げて、
巴は教室を後にする。無論、早退する事を担任は知る由もない。
血の滲んだ指の関節をセーターの袖で覆いながら、
巴は学校を出ていった。
家には既に連絡が入っている……今帰っても、待つのは父親の暴言と暴力だ。
思わず眉を顰める
巴の脳裏に、家へ帰るという選択肢は失せる。取り敢えずは親に、知り合いに見つからない場所へ。
――――…つまりは、家出を考えていた。
学校を出て、行く宛てがあるだろうか。
そう考えるよりも早く、潮の香りが鼻を衝く。……此処から海は遠い。余程風が強くなければ潮の香りなど滅多にしないと言うのに、一体どうした事だろう。…風は今、皆無なのに。
不思議と足が海のある方角へと傾く。家出をするのなら出来るだけ遠い場所がいいと、そんな思案が脳裏を掠める。やはり、そう思うのは潮の香りに惹かれたからか。
鞄の内ポケットに収まっていた財布を取り出し、金銭を確認すると近場のバス停を目で探す。足は自然と小走りになっていた。
◇ ◆ ◇
海岸沿いのバス停に一人、少女が黙然としたまま佇んでいる。今にも泣きそうな曇天に目もくれず、防波堤の向こうに広がる海を眺めていた。
灰色がかって何処までも広がる曇天。それに見合わせたかのように荒れ狂う、海。
頬を刺す冷え切った潮風はいつのまにか強く
巴の頬を叩き付けては吹き荒び去っていく。それでも構わず、防波堤を越えて砂浜へと降り立った。風を和らげていた障害物は無く、砂と飛沫を巻き上げては露出した手や膝を打つ。
―――心を表したら、こんな風景か。
呟くようにして吐かれた言葉は、波飛沫によって掻き消されていく。荒れた海と自分の心境を重ね合わせながら、僅かに唇を歪めた。波音と共に足元へ迫り来る波を一瞥して、ただ一色に塗り潰された曇天を見上げる。
空が泣く。
その曇天に、
巴はくしゃりと顔を歪めた。
誰かに迷惑など掛けず、ただ安穏とした日々を望みたいのに、何故?
一体私が何をした?
何もしていない筈なのに、沙汰が起こる度広がる噂を耳にすれば、皆白い目で私を見てくる。
私が起こした訳ではないのに。
―――……どうして。
握り締めていた拳をゆっくりと解く。
―――いっそ、全て投げ出せたら。
私が望まれない生と産みの親は言う。
それなら、目前の引く波と共に命が消えてしまえばいいのに。
雲の上で照った陽が落ちても、
巴は海岸に留まっていた。
防波堤に寄り掛かり、次第に荒くなる波をただ何の感情も持たず眺めている。一時降り続いた小雨と押し寄せる潮風によって、冷えきった手足の感覚は既に鈍い。小雨は既に止み、時折夜空が雲の間から垣間見えるほどになったが、風の冷たさは変わらないまま。やがて月が空へ昇る頃、ざくりと砂を踏み締める音がした。
「……?」
海に向かって、誰かが佇んでいる。
その姿を見ようと
巴は眼を凝らして、やがて見えたのは先日遭遇した少年だった。それに驚いて短く声を上げると、少年はすぐにその声の元を振り返り見る。
「お前……この間の」
「あ……」
少年は小走りで
巴に駆け寄る。不思議と、以前のような不審感は無かった。
「こんな所でどうしたの?」
「あ……いや、何となく。姉ちゃんは?」
「姉ちゃんじゃなくて、
清坂巴。今は家出中かな。君こそ、子供がこんな時間に居たら親が心配するよ」
「俺は別に……
巴の親だってそうだろ」
「家出して心配するような親じゃないから」
「――――何か、あったのか?」
防波堤の上へ軽く上がり、少年は腰を下ろす。自然と
巴を覗き込む形となって、覗き込まれた方は僅かに苦笑を零したまま、視線を海へと投げた。水面に浮かぶ歪な月は波の揺れに合わせて揺れ踊る。時折千切れ途切れる光をぼんやりと眺めて、何も、と
巴は返答を呟く。
「……高里は」
「……まさか、こんな子供まで噂を信じてるのかな」
「何がだ?」
「何がって―――」
首を傾げる少年。その表情は疑心ただひとつ。その様子に、
巴もまた瞬きを繰り返し、まさかと思う。
「噂の事で高里を探してたんじゃ…」
「っ……あいつに何かあったのか!?」
―――勘違いをしていた。
少年の言葉から読み取れば、高里と面識がある。尚且つ噂を知らず、彼の心配をしている。てっきり、いつものような冷やかしの為に探していたのだと思っていたのに。
巴は背を預けていた防波堤から放れ、改めて少年を見る。
「君、名前は?」
「俺は―――六太」
六太、と確認するように呟く。この少年が別件で用事があることを
巴はようやく理解する。理解して、再度声を掛けようとした刹那、砂浜から影が伸び上がった。……少なくとも、
巴にはそう見えた。
「タイホ」
以前に聞き覚えのある声にぎょっとする。声の元は明らかにその影から聞こえて、反射的に身を数歩後退させた。
目前に潜む影は、間違いなく人ではないもの。それに身を硬くさせている
巴に、突如六太の叱咤の声が耳に入る。叱咤の先には、佇む影の姿。
巴は影と六太を交互に見やって、無意識に眉を顰める。
――― この少年は、一体。
「悧角!人目のある所に出るなってあれほど…」
「ですが、そろそろ戻りませんと」
正体不明の影と話している。
それ以上は、
巴の理解が追いつかない。
悧角と呼ばれた影は防波堤の上に立ち上がった六太を見上げる。やがて姿が鮮明となり、狼にも似た頭部が砂に敷かれた影の中から突出していた。分かってる、と六太は見える筈のない水平線を見ながら呟くと、悧角は静かに影の中へと沈んでいく。それから頭を落とした六太の視界に、未だ硬直したままの
巴が映る。慌てて防波堤を飛び降りて、
巴の元へと駆け寄った。
「
巴、」
「……今のは、なに」
引き絞ったようにやっと紡がれた
巴の声に、六太は小さく謝った。―――蓬莱には妖魔などいない。こんな時、一体どう言い訳すればいいのだろう。
「害はないから大丈夫だ」
「……六太は、要と似ているのね」
“似ている”。
その言葉に、はたと動きを留める。核心に近い部分を突かれて、六太は一瞬ひやりとした。しかし、一体どの部分が似ているのかと問おうとして、再び脳裏で声を聞く。
―――台輔、お早く。
時間があまりない事は分かっている。だが、とすっかり視線が上になってしまった
巴の顔を振り仰ぎ見る。表情は未だ硬い。この近くでは、彼女が巻き込まれてしまう。
「
巴、これから波が荒れる。だから早く海岸を離れた方がいい」
「六太は逃げないの?」
「俺も逃げる。だから、先に逃げろ」
六太の言葉を耳にして、差して慌てる風もなく
巴は少年から視線を外して海を見やる。今でさえ十分荒れているというのに、これ以上荒れてしまえば津波が起こるのではないだろうか。
この数分で現実として受け止め難いものを見ていた
巴は、危機感を喪失しながらも漠然とそう思う。
「――…分かった」
巴は六太から目を逸らして、荒れる海を見やる。いい加減、そろそろ帰らなければ。例え親が心配していなくとも、帰るべき所はあの家しかないのだから。……そう思うと、途端胸が苦しくなった。
少年の肩を軽く叩き、別れの言葉を呟くように告げて、
巴はすっかり濡れて頬に張り付く髪を払いながら雨で固まった砂浜を歩く。近場の階段を上がって、一度六太がいるはずの砂浜へ何気なく視線を投げた。
だが、そこに彼の姿は既にない。
「え……」
闇に紛れて見えなかったのだろうと思った。よくよく目を凝らして見た砂浜にはやはり、少年らしき人影は見つからない。一体何処に行ったのだろうかと視線を巡らせた際、ふと視界の端、空に流れ星が見えた。
―――否、違う。
雲の下に星がある筈がない。だと言うのに、その星は眩い金色の光を放って流れるように動き、水平線へと向かって落ちていく。それを呆然として目で追って、途端、潮風の色が豹変する。
「…まずい」
早く海岸を離れた方がいい。
六太の言葉が、
巴の脳裏に過ぎる。彼の言葉に、何故早く従わなかった。だが、今更そう後悔してももう遅い。
近場に迫る、波の音。階段から目前にまで押し寄せる、高波。
「っ…!!」
瞼を固く瞑って、最後に来たのは、波の衝撃と常闇、
…それから、潮の香り。