- 肆章 -
関弓の架戟にて矢を買い溜めて雁を後にした
江寧は夜分、ようやく慶国瑛州へと辿り着く事が出来た。
尭天山の麓、階段状に連なり築かれた街は既に闇夜を落としてひっそりとしている。夜更けに出歩く者は居らず、静寂に包まれた大途を緋頼と
江寧が歩く。当然宿を取る事も侭ならずに街路を歩き見渡すばかりで、
江寧は道端にそっと溜息を落とした。
夜明けまでは遠い。その時間をどう過ごそうかと一旦足を止め、考えながら南―――北の凌雲山とは正反対の方向へと歩き出す。
「緋頼、ごめん。もう少し頑張って」
苦笑を零す主を、緋頼は振り仰ぎ見る。困ったような顔をした
江寧から視線を外して、頭を落とした。
騎手は乗り際に呟くような謝罪をして、鐙を踏み込む。そのまま宙をゆっくりと駆け出した赤い虎は―――紀州を目指して。
紀州へ辿り着くと、数時間ほど州都を巡り歩き尭天へ戻る。まずは国府へ赴き、取次ぎの手続きをしなければならない。向こうは既に王……旌券を見せたとして、会える可能性は低い。せめて言伝か書簡だけでも伝えてもらう事は出来ないだろうかと考えに耽る。
……それにしても、と
江寧は思う。
紀州の州都を巡ったが、今まで荒廃していたのか寂れていた場所が多い。新王が立ったにも関わらず、活気も安穏とした様子もなかった。尭天は幾分かはましに見えたが、それでも隣国と比べてしまえば街並みはどこか乏しい。慶国全土がこの状態であれば、復興は少なくとも数年掛かるだろう。……そう思えば、陽子の苦労は相当なものと見える。
「……大変だね」
旌券を検め、国府へ通された
江寧は思わずそう呟き溜息を落とした。
「―――七月の乱で主上の護衛を務めておりました、
坂江寧と申します」
旌券を卓へ置き、目前で拱手をする人物の言葉に秋官の者はぎょっとした。
七月の乱とは舒栄の乱の事であろうと思い、次に主上とは現在王となった景王赤子の事と察する。そして景王に助力をした大国を思い出し、最後に旌券へと目を通す。
―――裏書には、恭国冢宰、と。
「身元に不審な点がありましたら、どうぞ恭の霜楓宮もしくは雁の玄英宮へお尋ね下さい」
「失礼ながら……雁とは、どのような関わりが」
「延台輔の知人です。―――こちらを見て頂ければ分かりますか」
懐から取り出されたのは、丁寧に封をされた書。封を切り、中に入った紙を取り出し対面している男へと差し出せば、まじまじと書かれた文を覗き込み、驚愕する。
雁国靖州、州侯印。禁門通行許可書。
思わず立ち上がった秋官を、
江寧は目を丸くして見上げる。少々お待ち下さいと告げられ、
江寧がひとつ頷くや否や慌て何処かへ駆けて行った。
「……まさか、こういう時に役立つとは」
感心しつつ、広げていた通行許可書を畳み直し懐へしまい込む。駆け去ってしまった男が戻ってくるのを大人しく待ち、そうして―――待つこと数十分。
位袍とは別の官服を纏った人物が現れ、
江寧の元へと歩み寄ってくる。対し拱手で頭を垂れると、衣擦れの音が彼女の目前でぱたりと止んだ。
「大変申し訳ない。主上は今現在公務が多忙を極めておりますので、謁見についてはお控え頂けますよう」
頭上より響く女性の声。しかし、それは何処かきっぱりと否定をしているようで、聞き受けた少女は違和感を覚える。王の一日について
江寧が知る訳がない。朝は動き始めで多忙だという事は分かっている。だが―――何かが、おかしい。
顔を上げれば、
江寧の視界に目前の官の姿が入る。暫くの間その顔を見やって、短く息を吐き出した。
「……それでは、
江寧が来たとのみ、言伝をお願い出来ますでしょうか」
「承りました」
お願いします、と再び頼みの言葉を口にして、間も置く事無く踵を返す。
会わせたくないのか、それとも何か事情でもあるのか―――どちらにしても、伝言がそのまま陽子に届く可能性は薄い。それならばいつまでも此処に居る意味などないと、
江寧はそそくさと国府を後にした。
◇ ◆ ◇
残り約四月の内の一月を慶国に宛てる事を決めた
江寧は、黄領以外の八州を見回る為に瑛州を旅立った。
始めに最東端である武州へ滞在する。慶東国と言うのだから東端から周ればいいと、ただただ単純な考えに至った結果の行き先である。
次に宣州で三日間。紀州、揚州、麦州と時計回りに巡り、滞在する日数は決して変わらなかった。そうして征州と建州を見回り終えて、最後の和州へと向かう。
「―――それにしても」
不意に呟いた言葉は、向かい風に掻き消されていく。それも気にせず、
江寧は遥か足元に広がる景色を眺めて眉を顰めた。
八州を巡り、土地が荒れ果てている事に気が付いた。さらに新王が女という事から期待は薄い。そして……多くの官吏の専領。
江寧が青稟から教わった納税は一割。だが瑛州で大途を行く人を捉まえ話を聞けば、税は三割だという。
「本当に、大変だ……」
この国を彼女は変えていかなければならない。それが少しずつであれ、民の救いになるのだから。
和州の上空へ差し掛かったところで、緋頼が声を低く呻らせる。聞き覚えのある低音に、思わず周囲を見渡した。
―――蒼穹の空に浮かぶ、影。
「緋頼、左へ……!」
手綱を手前へ引き寄せると、緋頼は騎手の通りに左―――和州の内へ向けて駆け出す。王が玉座に就けば天災は減り、妖魔はいなくなると
江寧は聞いていたが、実際に出没した妖魔を遠巻きに眺めて一気に消え去る訳ではないのだと知った。
上空では狙われやすい上に下は街。落とすならばせめて閑地にしようと再度振り返り……鮮明となった妖魔の姿に目を見張る。
彼女が巧にて初めて射ち落とした妖鳥――蠱雕だった。
体長は今まで射ち落としてきた中で一番大きく、それは人二人分を優に超す。上空を旋回し、轟かせた奇声によって街の者が騒ぎ立て始める。蠱雕の狙いは最初から街人と気が付いた
江寧は、即座に弓を手に携えた。矢筒から矢を引き抜き番え、降下する直前の翼を狙う。
―――腕が、震える―――
弾かれた弦の音と共に放たれた矢は、空を滑り標的の元へと向かう。それは数秒もかからず到達し、漆黒の体躯を穿つ。奇声は悲鳴となり上空でのたうっていた。
様子を見る間も無く二射目を放ち、矢は標的を貫通する。その様はまるで、矢が蠱雕の体躯に吸い込まれていくよう。
三射目に差し掛かった……その刹那。
腕に電撃が走る。二の腕の痛みに思わず顔を歪め、それでも渾身の力で矢を放った。
「っ―――!!」
蠱雕は断末魔を上げて力なく地へと落ちて行く。落下を最後まで見届ける前に、
江寧は弓を袈裟懸けして地へと降りるよう緋頼に伝えた。
左の二の腕を、片手で押さえ込みながら。
思惑通り閑地へ落ちた蠱雕を見やって、長く息を吐く。その中には安堵と共に痛みへの苦が含まれていた。流血も怪我もない。では何だと考える
江寧の周囲には、ちらほらと人が集り始めている。
「あんた、蠱雕を倒したのか?」
「ええ―――射ち落としましたが」
男の言葉に何とか反応を返したものの、
江寧は痛みを堪える事で必死だった。腕には震えが来ている。頭を上げ、男を見上げる余裕もない。声は冷静を装うが、様子は見るからにおかしい。それを自覚していながら、様子までを装う事など出来なかった。
「おい、どうした?」
男は頭を傾げ、俯き加減の
江寧の顔を覗き込む。彼女の険しい表情に驚き、ふと震える左腕に気が付く。……腕に怪我はないが、痛むのだろうと察した。
「動けるか?」
「……ええ、大丈」
「大丈夫じゃないだろう」
江寧の言葉を遮って、男は目前の不調人を抱え上げた。思わず目を瞬かせて男を見上げる。やけにがたいの良い、それでいて雰囲気に鋭さのない男だった。
抱え上げたまま行く先は恐らく医者だろうと考えて、
江寧は緋頼に声を掛ける。
「緋頼、行くよ」
歩き出した男の横を赤虎が並び歩く。その声掛けに今度は男が騎獣の懐き様に目を丸くして、すぐに笑った。騎獣が人語を理解する事は珍しくない事と思っていた
江寧は、その反応を目にして僅かに口を開く。言葉を口にしようとして、再度襲う苦痛の波を唇を噛み締め堪えた。
その様子に、
江寧の身体を抱え直した男は軽く苦笑を零し、次第に小走りとなる。
「医者の所に着くまで、大人しくしとけ」
人懐こい笑みを浮かべた男の顔を見上げた
江寧は、諦め仕方なく彼の言葉に頷くことにした。