- 参章 -
朦朧となる意識。歪に捩れる視界。曖昧な残像。鈍る感覚。膨脹する聴覚。弱々として波打つ脈動。全てが虚ろとなってもなお、少女の手は手綱を放す事など無かった。
雁国靖州関弓山、その山頂に構えられた玄英宮は今、黄昏を落とし宵の闇を迎えようとしていた。
関弓は既にひっそりと夜分の影を落とし、凌雲山の麓に広がる街並の光が点々として煌く。残暑は既に遠のき、風は僅かに冷気を帯びている。
雲海とほど近い関弓山の中腹には、断崖を平坦に削られた足場がある。その奥に聳え立てられた禁門の前、番として佇む者はたったの一伍。彼らは平坦に削られた足場の上にて夜景の中へ視線を投げていた。
警戒心は僅か。然程緊張を持たずして眺めていた漆黒の遠景に、門番の一人がふと口を開く。
「あれは……何だ?」
此処は禁門のある中腹。そこから直上にぽつりと一つの点が浮かぶ。となれば、点は雲海の真下を飛行している事になる。
一人が点に向かい指した場所を番をしていた誰もが見やって、ひとつ呟いた。
「―――騎獣、か?」
闇の中を彷徨する一つの影は、やがて禁門へ目的を定めたかのように滑空する。
近付くにつれ影は鮮明となり、それが赤い虎なのだと分かる。門番は警戒心を強めながら飛来する虎に目を据え続け、虎の上に乗せられている白い何かを発見する。
足場手前にまで近付いた赤い虎―――そこでようやく、白の正体を理解した。
赤虎の上に伏せる、人。当初白と見えていた風除けの布は、赤い斑を作っていた。
「お、おい……!」
門番は足場へゆっくりと降り立つ赤虎の元へと駆け出す。伏せたままの騎乗者の正体を確かめなければと近寄った彼らの足は、途端ぴたりと留まってしまった。
白い人影はどしゃりと鈍い音を立てて虎の背から転落する。多数の箇所には赤が散り、中でも右の脇腹は酷く鮮やかな紅に塗れていた。
動く気配はなく、唯一肌の色が見てとれる手の甲は蒼白と化している。
急ぎ駆け寄った門番の一人が、横倒れた人物の頭部に巻かれた布を取り外す。露となった顔を覗き込んで、内数名は見覚えある顔立ちに思わず目を見開く。
「この方は……」
「俺は急ぎ取り次いでくる。お前達はそれまで此処にいろ」
「分かりました」
伍長は外四名に指示を投げ、急ぎ禁門へと駆け寄る。開かれた門の向こう、目的の場所を目指し彼は走り去っていった。
その情報を耳に聞き入れたのは、大司寇が左内府を出る直前の事だった。
大司寇――秋官長を務める朱衡は、駆け込む秋官の者を見やり足を留める。彼は秋官の長を認めて傍へと駆け寄る。その慌て様に火急の用かと僅かに眉を顰めて、報告の言葉を待つ。
「台輔のお知り合いが禁門にいらっしゃったそうですが、どうやら深手の傷を負っていると」
「……瘍医の手配は」
朱衡の問いに、彼は頷く。台輔の知り合いとなれば、大方思い付く者は数名―――その中でも、今時期の来訪者と考えれば検討はついた。
未だ目前に立つ男へ、仕事へ戻るように命じて今度こそ左内府を出る。行く先が変わってしまったが、仕方がない。
なにせ―――王と台輔は今現在、隣国の即位式出席により不在なのだから。
左内府から掌客殿までの道程は長い。それでも清香殿へと急ぎ赴いた朱衡は、客房より出てきた女官と擦れ違う。そこに台輔の知り合いが運ばれたのだと分かり、閉じかけられた戸を軽く叩く。
叩かれた音に気が付き顔を出した女官は、それが秋官長と認めた途端に目を丸くして、慌て畏まる。開かれた戸の向こう、客房には二人の女官と瘍医の姿があった。
「運ばれたのは、
坂江寧ですか」
「―――!」
客房へ足を踏み入れた思わぬ人物に、女官は叩頭する。瘍医は目を瞬かせて椅子から立ち上がると、歩み寄る朱衡に対し肯定の頷きを見せる。具合はどうかと訊ねると、初老の男は臥室の戸へ視線を向けながら少女の容態を説明した。
「深手は背と右脇腹の二箇所。他の傷は浅いものばかりでしたので」
「そうですか……」
「恐らく、妖魔に襲われたのでしょう」
戸惑いがちに告げられた瘍医の言葉に対し、朱衡は何も言わなかった。それは、以前に延が話した内容を不意に思い出した所為でもある。柳が傾いているのかもしれない……と。
柳の沿岸に妖魔が出没するという噂を確かめに、延自らが隣国へ赴こうとした際には制止の声を強く訴えたが―――果たして、帰国してからはどうか。
そう考え深く溜息を吐いた朱衡に、瘍医は首を傾げる。
「お会いになって行かれますか?」
「いえ、明日の朝議を終えてから再びこちらへ参りますので」
「分かりました」
では、と丁寧に頭を下げる瘍医に一つ頷き身を翻す。客房を出、回廊を少しばかり歩いたところで朱衡の足は立ち止まる。
王と台輔の帰国予定は七日後。それまでには少女の怪我は大方塞がるだろう。だが、あの王が怪我の理由を聞けばすぐにでも隣国へと出掛けかねない。そうなれば、苦労は増えるばかり―――
瞼を伏せれば、考えは巡る。
だがしかし、今は他用を済ませるべきだと思考を切り替え、再び歩を進めていった。
◇ ◆ ◇
―――腹が掻っ切られる。
―――腕が喰い千切られる。
―――脚が握り潰される。
―――身体が肉塊になる。
―――嗚呼、すぐそこに、死が―――
「ぁ……!!」
自ら発した声で、少女の意識は浮上する。
無意識に宙を振り切った手はそのままに、掻いた汗が額から伝い落ちる。荒い呼吸に瞼は目一杯開かれたまま、天蓋ただ一点に視線を据えていた。
……妖魔に身体を啄ばまれる夢を見た。啄ばむという表現では些か優しいが、それ以外にどう表せばいいのだろう。そう思いながら、
江寧は挙げていた右手から力を抜く。腕は肌触りの良い衾にぱたりと落ちて、それでようやく正気を取り戻した。
―――此処は、一体。
勢いをつけて半身を起こそうとするも、力を入れる度に脇腹が痛む。その痛みを耐えながらようやく身を起こし、自分が横になっていた場所を一望する。
広過ぎるほどの臥牀、天蓋から下ろされた錦の幕、その向こう側に広がる臥室らしき部屋……手前の小卓に置かれた荷。
どこか見覚えのある場所に首を捻りながらも、幕の間から身体を出して臥牀を抜け出す。その刹那、潮風が臭覚を衝いて、
江寧は弾けたように顔を上げた。風は半分ほど開かれた窓から流れ込んでいる。ならばその外に海があるのだと考え、次の瞬間に此処が何処であるか分かってしまった。
……しかし何故、と悩む
江寧は窓を全開にして空を見やる。陽は既に高く、じきに昼なのだという事を知った。
「何で、王宮に?」
視界に広がる雲海を眺めつつ、疑問を口にする。勿論この臥室には
江寧以外の誰の姿もない。……少なくとも、彼女はそう思っていた。声が、掛かるまでは。
「身体の具合は如何ですか?」
「!!」
江寧の背後から聞こえた声の元へ振り返ると、そこには叩頭する女官の姿。彼女は思わず息を詰めて、呼吸を忘れていた。
「……どうかなさいました?」
女官は顔色を窺うように顔を覗き込み、覗き込まれた方はようやく呼吸を再開する。首を数回横へ振ると、そうですかと女官の頷きが返って来る。
「それで―――体調は」
「ああ、ええ。脇腹が痛むけど……」
「では、瘍医をお呼び致しますので、今はごゆっくりとお休み下さいませ」
終始叩頭のまま、女官は頭を上げる事無く臥室を出て行く。その様子にほっと息を吐いて、再び静寂はやってきた。
……あの女官は最初から居た訳ではないだろう。途中から戸を開け入ったとしても、その音に気付く事のなかった自身に対して頭を捻る。やはり身体が不調なのだろうか―――。
そう思いながらも、椅子を窓際へ引き寄せると、腰掛けて雲海を眺める。抜けた昨日の記憶を思い出そうと順々に掘り起こすが、なかなか甦りそうにもない。一人呻るところに、戸を叩く音がした。
「はい、どうぞ」
江寧は、訪ねた者が瘍医なのだと思った。そうして開かれた戸の向こう、官吏の衣服を纏った男がひとつ拱手をする。思わず目を丸くした
江寧に、彼は面を上げる。
「瘍医はもう少々後になりそうですが、宜しいですか?」
「え……ええ、構いませんが―――」
硬い履の音を鳴らして、男は
江寧の目前にまで歩み寄る。見上げるようにして視線を合わせると、男は再度拱手をする。
「―――私、秋官長大司寇の楊と申します」
秋官長、大司寇。告げられた官職名に思考が硬直し、途端慌てて拱手をした。
法令や外交を担当する秋官。その長の名は大司寇。何故此処に、と疑問を感じながらも膝を着こうとして……身体が揺らいだ。脚が脱力し、がくんと両足が床に着く。そのまま倒れこもうとする身体を、朱衡が支えた。
「あ―――」
「傷が開く前に、臥牀へ戻られた方が」
「傷……?」
先程脇腹が痛かった事を思い出す。そういえば何故、と今更思いながらも男に支えられて立ち上がる。
「覚えておりませんか」
「ええ……恭を発って、雁へ向けて黒海を渡って、それから途中で―――妖魔に」
刹那、昨日の記憶が湧き上がるように掘り起こされる。妖魔に追われ、矢が尽きて、それから―――。
江寧は思わず顔を青くして脇腹に手を添える。妖魔に脇腹と背中を掻かれた記憶はあったが、その後の記憶は途絶えている。
道理で身体が痛む筈だと納得して、臥牀にゆっくりと腰を下ろした。朱衡の顔を見上げて、
江寧は恐る恐る問う。
「……一つお聞きしたい事があります」
「何でしょう」
「柳は、傾いているのですか」
その問いに朱衡は軽く目を見開き目前の人物を見下ろす。
「黒海で妖魔に遭遇しました。彼等が飛んできたのは左から、方角として考えれば北……柳からでしたので」
恭から雁へ黒海を通り行くのならば、自然と右が金剛山、左が柳となる。左から妖魔が来たのなら誰もがそう考える事だろう。
短く息を吐く朱衡は、声をやや潜めて言葉を口にする。
「……主上は、以前より柳が怪しいと仰っておりました」
「やはり―――」
僅かに項垂れる
江寧を見やって、再び口を開きかけた朱衡の言葉を、扉の音が遮った。振り返った二者の視界には、初老の男性が映る。瘍医だった。
「身体の具合は如何ですか?」
「まだ脇腹が痛みますが……」
「そうでしょうな。少なくとも三日はこちらで大人しくされますよう」
瘍医の言葉に頷いた
江寧に、朱衡はひとつ拱手をしてから背を向ける。退出の意なのだと感じた
江寧は思わず呼び止める。聞きたい事を、未だ聞き忘れていた。
振り返る男に、問いを切り出す。
「主上と台輔は―――」
「お二人は今、雁に居りません。景王の即位式に参ずる為、慶に出立されました」
「……いつ、戻って来られるでしょうか」
「早ければ五日後には」
告げられた日数を内心で呟き、瞼を伏せる。怪我といい入れ違いといい、思わぬ足止めと感じながらも、
江寧は朱衡が立ち去るまで深く頭を下げていた。
◇ ◆ ◇
江寧の傷は全治二週間とされたが、流石にそこまで居座るわけにはいかないと、安静の三日を過ぎた頃に臥牀へ沈めてばかりいた身体を解し始めた。背と脇腹は未だに痛む。だが、それも激しい運動をしない限り傷が開く事はない。故に旅は普通に出来ると自己判断し、出立へ向け備える。
……勿論、見つかれば瘍医に止められる事だろう。しかし、それを気にする事なく着々と準備を進める
江寧。
その最中、久方振りの客が清香殿へと足を運んだ。
扉を叩く音に勢い良く振り返った
江寧は、開けられた戸の向こうに立つ人物を認めてほっと息を吐く。
「秋官長……」
「動いても宜しいのですか?」
「ええ、一応は」
小卓に置かれていた荷を榻に移す。改めて朱衡と向き合った
江寧は、頭一つ分上にある男の顔を見上げて苦笑する。
「ご迷惑をお掛けして、すみません」
「いえ。それで―――いつ出立をなさるつもりでしょうか」
朱衡の問いに、ひくりと口元が引き攣る。思わぬ言葉に動揺の面を浮かばせた
江寧に、朱衡は思わず溜息を吐いた。彼女は嘘が表に出る……まさかと思い問いかけた言葉にこうも反応するとは。
短く詫びる
江寧を見やって、いえ、と返答を返す。
「やはり行かれるのは慶ですか」
「……はい。蓬莱へ帰る前に、今の慶国を見ておきたかったので」
期限まではじき四月を切る。未だ見ぬ他国を巡りたかったが、それは出来そうにない。以前、乱の際に別れも告げられなかった陽子の事も気に掛かる。……とは言っても、彼女は既に王―――簡単に謁見の申し出が通るとは限らない。
……それでも。
「慶を見終えたら必ず雁へ戻ってきます、と王と台輔へお伝え願えますか?」
「分かりました」
江寧の眼は真摯として彼を直視し、それに対して朱衡は僅かに笑みを見せ頷いた。
ようやく胸を撫で下ろした少女に、改めてその時を問う。
「出立はいつに?」
訊ねた朱衡に、
江寧は間を置かず応えた。
「二日後に、玄英宮を出ようと思います」
―――翌々日。
身形を整え終えた
江寧は、陽の出を待たずして清香殿から退出した。
長い回廊を一人反響する足音を聞きながら禁門を目指す。昨晩に赤虎が禁門の前から動かぬ事を、
江寧は朱衡から聞いた。不安はないが心配はある。それを沸々と思い出せば、歩きは自然と小走りになっていた。
禁門への階段は異様な程に長かったが、呪を施されている為に彼女が駆け下りたのは数段のみ。
内側に控えていた門番へ事を告げれば、頷き人一人分のみが通れる間を開ける。門番に短く礼を告げ、
江寧は五日ぶりに禁門の外側へと飛び出した。
「緋頼……!」
深緋色が視界に入るや否や、
江寧は思わず騎獣の元へと駆け出す。主の声で、その虎は横たわらせていた体躯を起こした。
背に荷袋を背負ったまま、赤虎の首元に顔を埋める。五日間をこの岩場で待っていたのだと思えば、途端涙が出そうになった。
「怪我は―――ないか」
江寧はぐるりと体躯を見回し、赤虎に怪我がない事を確認する。しっかりと鞍は着けられたまま、手綱の表面には血の跡が乾き錆色となっている。思わず目を細め―――赤虎に感謝の意を述べた。命の恩人、と。
彼がこの場所を覚えていなければ、主の指示がないために雁の上空を彷徨していた事だろう。そうなれば―――意識のないまま身体から離脱していたに違いない。
荷袋を鞍に取り付けられた革で固定しながら、
江寧は胸内にて何度も感謝をする。そうしてまた、宜しくと緋頼の背を軽く叩くのだった。
全ての準備を整え終えて、
江寧は赤虎の背へ跨ろうと鐙に足を掛ける。
その時―――背後で重みある何かがゆっくりと動く気配を感じ、思わず振り返った。人影が禁門の扉の間から出てくる。それを誰と確かめる前に、鐙に掛けた足を外す。
「誰……かな」
首を傾げるものの、平坦に削られた岩場の広さは大凡小会場が一つ分ほど。さらに陽のない場所から出てきたばかりで、薄暗い中では顔を拝む事は出来ない。……そもそもは門番の交代で出てきたのではないだろうかと、気にせず騎乗した。
……途端、声が耳へと浸透していく。
「出て行く際には、一言でも声を掛けていただけるかと思いましたが」
「秋官長……!な、何故此処が―――」
擦れる裳裾も気にせずやってきた朱衡に、
江寧は慌てて手を振る。弁解の代わりのようだったが、一切の意味も為さなかった。その様子に溜息を吐きながら、
江寧の目前へ差し出した手によって制された。
「今日が出発ならば、適する時間は明け方でしょう。隣国ならば一日もせずに向かう事ができる……違いますか?」
「……ええ、そうですね」
軽く目を見開く
江寧に、朱衡はあくまで笑みを面に貼り付ける。その表情に内心些か怖さもあったが、旅立ち前ではそれもなく。
「―――お気をつけて」
「ありがとう、ございます」
丁寧に辞儀をした
江寧は、背後で待機していた緋頼にひらりと騎乗する。幾分か高くなった視線にも随分と慣れて、朱衡を見下ろす形となる。……彼は拱手をしたまま頭を下げ続けた。それで、行けという事なのだろうと感じて、手綱を振るう。緋頼は低く呻いて、主を乗せたまま断崖の地を駆けていった。