- 弐章 -
「慶に新しい王様が践祚なさるそうよ」
とある客よりその話を聞いた
江寧は、かつて見た紅の少女を思い出していた。
――― 一月。
彼女がそう宣言してから時は早くも二十日が経過する。
その二十日間、
江寧はよく働いた。半年前よりも気を回し、掃除は隅々まで、園林の手入れも日に一度怠らず。忙しなく動き回るその姿に、舎館の主は心配をした。だが、大丈夫かと問えば頷き笑顔を返すのみ。どうしたものかと堪り兼ねて尭衛は榮春に相談を持ちかけたが、見守ってはどうかと返されるばかり。仕方なく様子を見守っていた尭衛に、とある噂が耳に入った。
慶主景王、即位―――と。
「ええ、お客様から聞きましたが」
園林の手入れをしていた
江寧は、手を休めて振り返る。
じきに十月を迎える園林の木々は葉が落ち淋しくなりつつある。それを逆に見立て風流を醸すよう整えていたが、僅かな時間で出来るものではない。昨日から手を入れ始め、大凡半分を終えたところであった。
廊下から園林を眺める尭衛の元へ歩み寄ると、彼はゆっくりと頷く。
「背後には雁があるそうだ」
「そうみたいですね」
「即位式はまだのようだが……」
―――舒栄の乱から一月半。
即位式を終わらせても何ら可笑しい事はない。むしろ、済ませていない事に疑問を感じる。何かあったのだろうかと胸内で心配する
江寧を余所に、尭衛は話を続ける。
「年頃はお前と同じぐらいらしい」
「いえ、一つか二つ下ですよ」
「そうか……」
的確な返答に思わず目を細めて少女を見る。旅の途中で朱旌の小説でも聞いたのだろうかと考えを巡らせて、園林から廊下へと上がった
江寧に視線を釘付ける。彼の視線に気が付いたのか、ゆるりと口角を上げて笑う。……この二十日、その笑みは幾度と無く見てきた。半年という年月を過ぎ、すっかり明るくなったと尭衛は思う。やはり道中で悩み事が無くなったのだと、彼女の笑みを見る度に僅かな安堵の息を洩らす。
少しばかり頬を緩める尭衛の顔を覗き込んで、
江寧は首を傾げた。
「何か良い事でもあったんですか?」
「いや、何でもない」
頭を横に軽く振る。その態度で更に疑問を持ったが、これ以上は詮索するまいと内心で問いを断ち切った。直後、涌いた言葉にはたと約束を思い出す。
「あと、十日ですね」
「ん?―――そういえば、そうか」
舎館の雇用期間は一月、期限は残り十日。日では十月の初旬まで。……だがしかし、舎館の主人はその約束を然程気にせず頭の隅に寄せていた。忘れていたと、尭衛の口から言葉が出れば
江寧は苦笑いを洩らす。
以前に舎館で働いていた一年と二月という期間は、今回がたった一月という事もあってか意外にも長く感じる。出来ればもう少し働いていたいと思う
江寧に、時は長引いてなどくれない。容赦なく過ぎ行く時刻の中で、やりたいと思う事を全て実行しようとしているのだから、一月をこの舎館に取っただけでも長い程だった。
―――それでも。
「……一月って、意外と短いですね」
「やりたい事をやってる間は、時間が早く感じられるだろう」
「ええ……」
園林を眺めている尭衛に、
江寧もまた同じ方角へと視線を向ける。
もうじき、十日。十月初旬、
江寧は恭の地を離れ黒海を渡り雁の地へ赴く。今一度、蓬莱へ帰還するにあたって確認しなければならない事項を雁の麒麟と話し合う為に。
最後に慶国へ渡り、舒栄の乱の際に挨拶を交わせなかった者と会う為に。
……否、相手は王なのだから、果たして面会出来るかどうかさえ危ういのだが。
「兎にも角にも、頑張れよ」
考えに耽り込む
江寧の背を軽く数回叩き、励ましの言葉を投げかける。ありがとうと短く礼を告げれば、尭衛は自然と口角を上げた。
その最中、声は双方の聴覚へと滑り込む。
「手伝って下さいよ、
江寧さん……」
「あ―――すみません!」
視線を下げれば、園林で同じく手入れをしていた胡典が二人の身近に寄っていた。半ば呆れ顔のまま、廊下に上がったままの
江寧を見やる。慌てて詫びの言葉を告げて、少女は再び園林へと駆け戻っていった。
◇ ◆ ◇
それから五日後、雁からの遣いがやってきたのは夕刻の忙しさを過ぎた頃のこと。
丁度裏庭の井戸から水を汲み上げていたところで、誰かが少女の名を呼ぶ声がする。聞き覚えのある声にはたと動きを留めて、月に照らされ地に映る自身の影へと視線を下ろす。影の地からは、小型犬らしき頭部が影から伸びていた。その光景に悲鳴を上げかけるが、慌てて呑み込む。―――それが、以前見た延麒の指令だったからだ。
《
江寧殿 》
「延台輔の指令……でしたか」
《 如何にも。台輔が、いつごろ雁へ来られるのかお聞きするようにと 》
幸いにも周囲に人は居らず、その指令のみが少女に語りかける。奇妙な光景ではあったが、それでも臆する事無く水を汲み終えた桶を井戸の横に置き視線を再度影へと向けた。
「五日後に此処を出立します。延台輔には、十日後……と」
《 そのようにお伝えいたします 》
再び闇の中へと溶けゆく姿に軽く頭を垂れ、しんと静まり返った夜の中で一つ溜息が零される。近日来ると思っていが、人気のない時に現れた事は幸いだった。
自然と力の入った肩を解しながら、桶の取っ手を掴む。足取りは厨房へと向かいながら、
江寧は五日後の出立を思う。
……そして、僅かに痛む胸を抑えていた。
―――延麒が告げた期限まで、あと四月。
最初は、帰りたくないと思った。
次第に、帰れないのだと解った。
やがて、帰りたいと願い始めて。
最後に、帰りまた戻る事を望む。
雁へ向けて出立の当日。
空が白群色を迎えるその前に、
江寧は胸に募る妙な高揚感で目を覚ました。
瞼を開けると、木目柄の天井が視界に広がる。裸足のまま臥牀を降りると、そこには既に二人の姿はない。寝過ごしたのだろうかと思い視線を滑らせて、榻の背凭れに衣類一式が掛けられている事に気付く。小卓に置かれた紙には、それが
江寧の為に用意された着替えなのだと書かれていた。
「……ほんとうに、ありがとう」
榮春が用意してくれたのだろう。そう思い感謝しつつ、一式を手に取る。
初めに小衫へと着替え、その上から薄緑の背子と袖無しの比甲を纏う。七部の袴に足を通すと、細い帯を袴の腰に結び、余る帯を結ぶまま左に垂らす。最後に榻の下に置かれた履を足に合わせた。
大きさは丁度良く動きやすい。軽く身体を動かし解せば、意識もすっきりとする。それから房間を出ようとして、潜ろうとしていた扉が誰かの手によって開かれた。
「あ―――」
「やっと起きたか」
一つ分上にある男の顔を見上げて、
江寧は臆する事もなく挨拶の言葉を告げる。それに対しおう、とだけ返した尭衛は、少女に向かって手招きをした。軽く首を傾げつつも寄ると、男の指が己の背後を差す。
「……?」
「お前に客だ。見送りらしい」
江寧の立つ場所からでは彼の背に隠れて見えないその客は、言葉を一切口にしない。それに疑問を抱きながらも横へ踏み出し見た
江寧の視界に、靡く褐返色が映る。
凛として立つ女性の姿に、思わずかけるべき言葉を忘れて佇んだ。
「―――――」
「あら、私の顔も忘れてしまったの?」
くすくすと笑いを零す女御の姿に、半ばたじろぐようにして反応を返した。
「せ、青稟……」
「見送りに来てあげたのよ。まったく……私に一言もかけず行くつもりだったのね」
「う―――」
「理由は大方分かるけれど」
軽く腕を組みながら、青稟は微笑む。怒っているわけではない様子にほっと胸を撫で下ろした
江寧は、肩を竦めながら短く侘びを告げる。その旨を伝えようとした
江寧はしかし、青稟の言葉によって遮られる。
「彼から聞いたわ。一度倭国へ帰ると」
「うん」
頷く
江寧の頭上に、青稟が手をそっと置く。
「じゃあ、恭の発展に繋がるような文化を倭国から持ってきてちょうだい」
「―――青稟」
唐突に告げられた頼みに軽く目を見開く。彼女の口からそのような言葉が出るとは思わずにいた
江寧にとって意外な話である。恭国の発展の為に、と……唖然としていた
江寧に、青稟は再度頼み事を復唱しながら頭を軽く撫でた。
「いい?」
「う、うん。分かった」
まさか主上の遣いで来たのでは―――そう思いながら大人しくも撫でられ続けている
江寧は、顔を上げ女性の顔を覗き込むように見上げる。
江寧の視線で、その意を察したように苦笑する青稟は、頭をゆるりと振った。
「主上からの言伝ではないわよ」
意を悟られ、
江寧は面を僅かに硬直させる。その表情を目にして幾度か瞬きをする青稟に、突如頭上より声が掛けられた。
「あまり虐めるなよ」
「どうしたら虐めてるように見えるのかしら?まったく、失礼ね」
「それはお前が面白がってるように見えるからだ」
「あらあら、そんな貌をした覚えは御座いませんよ?」
ほほ、と口に掌を添えて上品に笑う青稟に、尭衛は苦い顔をする。会話の節々に棘を含む言い草に、
江寧はきょとんとする。
「青稟、尭衛さんとは知り合い?」
『え』
問いに対し双方同じ言葉を発する様に、少女は困った顔をした。何かおかしい発言でもしただろうか、と。その様子に対して、尭衛は更に苦虫を潰したような顔へと豹変していく。青稟は肩を竦めながら、半ば呆れ顔で問いを返す。
「もしかして、聞いてないの?」
「何が?」
頭を傾げる
江寧に、青稟は隣に立つ男性を指差す。
「尭衛は昔春官にいて、私とは知り合い」
「え―――」
……一瞬、少女の理解が遅れた。
一年以上顔を合わせて来た中、今になって初めて知る事実に驚愕は露となる。世間は狭いと、いつか言っていた誰かの言葉が脳裏に過ぎていく。……確かにそうだと、今なら自然と頷けた。
げんなりとする
江寧の肩を、青稟が軽く叩いて諌める。尭衛は僅かに苦笑したまま、少女を見下ろしている。
「出立前にそんな顔をしないの」
「うん……」
ほら、と扉へ向けて肩を押す青稟に、押されるがまま房間の外へと歩き出す
江寧。その二者を見守りながら、尭衛が後を着いていく。
向かうは厩舎へ。
いつか帰ると約束した少女を、見送り出す為に。
◇ ◆ ◇
舎館の朝方は仕事が多く忙しい。それは一年と二ヶ月の間に
江寧が学んだ事だ。朝の戦場は、彼女も鮮明に覚えている。
……だというのに、時間を割いてまで見送りに来た舎館の者達に酷く申し訳なく思う。
「すみません、尭衛さん」
赤虎を厩舎から連れ出しながら謝ると、いいやと彼は首を振る。その背後に居た榮春や胡典、青稟らは旅立つ者を見守るようにして眺めていた。
荷袋を背に負い、鞍の位置を確認する。しっかりと固定された革から手を放して、少女は背後へと振り向いた。
「―――今までありがとうございました」
頭を深く下げる
江寧に、頭上から降り注ぐのは二人の声。
「元気で……」
「帰ってきた時には、顔でも見せに来い」
惜別の情を顔に浮かべながらも笑顔で送り出す尭衛と榮春。何も言わぬまま見守る舎館の者達。何かを言い出そうとして言葉を呑み込む青稟。……顔を上げ、視界に入るその様子を眺めて、口を引き結ぶ
江寧。
そのまま赤虎の鞍上へと跨ぎ、鐙に足を掛ける。
「―――では」
手綱を持つ手が震える。いつか会えると理解しているはずなのに、先案じへの不安は渦巻くばかり。そしてその情が惜別の哀しさと気付いた時―――彼女は既に、手綱を振るっていた。
慣れた筈の飛翔が、今の
江寧には重く感じる。赤虎の駆ける振動はその重さを掻き消すように身体へ響く。くしゃりと顔を歪めて涙を堪えるように手中の手綱を握り締めていた。
蒼穹の空を駆け上がる深緋は、じきに遥か遠景へと馴染む。大した間も経たずして、それは消えていった。
―――黒海。
雁、柳、恭に面するその虚海は、名の通りに黒々として陰鬱な波を渦巻かせる。透いてはいるが、決して底を見る事は出来ない。それがどれほどに深いものか、果たして知る者が何人居ようか。
そしてその黒海の遥か上空を渡る者が、足元に広がる海底を想像出来ようか。
陽は人々の頭上を目指し刻々と上昇する。蒼穹の空には一つの染み以外に差して見当たるものはない。それは海も同様に、しかし染みの一つすら見当たる事はない。ただ漆黒の海が陰鬱に広がるばかりだ。
そして空にある一つの染みは、東へと向け滑空を続けている。
……
江寧が連檣を出て此既三時間。
何一つ見える事のない海上で、彼女は未だ手綱を握り続けていた。
「……柳に寄っても良かったかな……」
風除けの布を片手で被り直しながら、左側に何も見えぬ遠景を眺める。……方角では北。恭と雁に挟まれた国、柳北国。陸伝いに行くのならば、必ず通らなければならない国。
実際のところ、黒海を渡り行けば雁国の首都である関弓には五日もかからず到着できる。陸伝いには三日ほどかかるが、海を抜けるのならばほぼ一日半で関弓に着く。残りの日数で体調を整えるつもりであった。
陽は容赦なく降り注ぐ中、空に渦巻く風がゆるりと頬に当たる。陽射しを緩和するような心地好さに、手綱を片腕に巻きつけたまま瞼を落とす。……海上に入り、少しばかり流した涙は既に乾いていた。
そうして暫くの間風を浴びて、ふととある事を思い出す。
「そういえば、名前を付けていなかった」
赤虎に話しかけるように、
江寧は背を撫でる。名を付けようと考えてから、随分と時が経過してしまった。何が良いだろうかと、考えを巡らせて再び瞼を伏せる。……以前、
江寧は名を思い浮かばせていた。在り来たりかもしれないと悩む少女は、その名を一度口に出す。
「―――緋頼」
途端、駆けていた赤虎が宙で留まる。慌て鞍を握るが、衝撃で身体が前へ倒れ掛けた。一体何事かと思いつつも身を起こす
江寧に、振り仰いだ視線が突き刺さる。それが己の名かと問うような眼は鋭い。それに一つ頷きを見せると、まるで何事も無かったかのように再び空を駆け始める。赤虎の様子に、思わず首を傾げつつも返答する筈のない者に問う。
「……気に入った?」
赤虎は何も反応を示さず。……良いという事なのだろうと勝手に解釈をした
江寧もまた、再び前方へと視線を移した。気に入ってくれたのなら、それでいいと。
そう思い駆ける赤虎に身を委ねていた
江寧は――――突如響くけたたましい鳴声に、はたと表情を凍らせる。
鳴声の方角は恐らく北。その方向へ顔を向けると、遠方より多数の点が南下していた。……否、赤虎と
江寧を目掛けて飛来してくる。
「妖魔―――なんで……!!」
驚愕する間もなく、次々と急接近する妖鳥から逃れる為に鐙を強く踏む。全力で駆け出す赤虎に、手綱をしっかりと掴みながら叫ぶように言葉を放った。
「緋頼、下へ……!」
江寧の言葉に反応し、駆け下るように急降下する赤虎の鞍を掴み、落下の気圧に耐える。そのまま海上を低空、上空より来たる獣を視界に捉えた。弓に冬器製の矢を番え、定めたと同時に頭上へと向けて放たれる。一羽を落とし、次に来る標的へと視線を移す事にした。
間近に迫る小型の妖鳥を幾羽も射ち落とす。それでも
江寧には数が減っているように見えなかった。
十、は越しただろうか……いや、もしかすれば十五は。ざっと見未だに二十。
―――このままでは、矢が、足りない。
焦燥と不安が
江寧を襲う。矢が尽きては迎撃の術がない。どうすればと思考を働かせながらも頭上に迫る妖魔を射ち払う。更に左上より降下する一羽を射ち抜いて、手を休める事無く弦を引き絞る。
……彼女の指は、酷く擦り切れていた。
「…―――緋頼」
残り少ない矢から手を離し、虎に宛て呟く。頭上へと向け落下する妖魔の死骸を避けて、矢筒の蓋を閉めた。弓を袈裟懸けすると、手綱を手首に絡め鞍の縁を握る。
……あとは、緋頼に命運を託して。
「緋頼―――風のままに」