- 壱章 -
悠然と聳え立つ山の麓に、陽が差し込む。朝を迎えて、首都連檣に人の賑わいがやってきた。
ゆるりと流れ行く人並の中、天上と天下を隔てる雲海をも貫き立つ凌雲山を誰もが一度は見上げる。細い山が垂直となって伸び、それが幾つも重なり合って出来ているために山肌は大樹のような波を作っていた。山の肌は白く、陽の当たる角度によって光の柱が雲を突き抜けているようにも見えた。その姿に人々は目を細めながらも眺め、最中、一つの赤い染みを見つける。
遥か上空で木霊する、一つの咆哮。
点のように小さな影は上空で大きく弧を描き、緩やかに降下を始めた。咆哮を耳に聞き入れた人々は再び空へ視線を向けると、その影は陽に曝されて赤と白に輝く。
地上から肉眼で捉えられるほどの距離まで降下した赤い騎獣は、虎の姿をしていた。その背には鞍が置かれ、人が跨り手綱を取っている。それを目に留めた人々は行き交いを止めると、ある者は再び歩を進め、ある者は久しぶりだと顔を綻ばせた。
低く並び立った建物の間へ、赤虎はゆっくりと降下していく。騎手は僅かに手綱を引いて人通りの少ない道へ降り立たせると、赤虎が数歩足踏みを鳴らした後に身を留める。赤虎の主は鐙から足を放し、勢いをつけてから地へと降りた。
赤虎の手綱を手にしたまま広途へ出ると、行き交いを止めていた人々から声を掛けられる。それに軽く返事をしながら赤虎を連れて、一つの舎館前で立ち止まった。そこに丁度良く舎館の入り口から一人、やや痩身で背の高い男が出てくると、少女の姿を認めるなり小走りで駆け寄っていく。
「
江寧、やっぱりお前か」
「ただいま、尭衛さん」
「ああ、おかえり」
微笑を浮かべて、少女――
江寧は赤虎の手綱を男に渡す。半年にも満たない期間の別離は、まるで一年ぶりの再会の如き感情。双方笑い合う姿は、誰もに親と子を思い浮かばせた。
「厩舎はありますか?」
「ああ、一応三月前から空けている」
「わざわざ空けてもらわなくても良かったのに……」
「気にするな」
赤虎を連れ、裏口から厩舎へと回る。その背を
江寧が追う。少女は赤虎が厩舎へ何事もなく入れるまでの間を暫し見守っていた。
手綱を柵へ括りながら、尭衛は何気なく赤虎の主と話をする。頭部を覆う風除けの布の間から垣間見える顔は、以前よりも凛とした表情を含ませていた。
「図々しい事とは思いますが、一月だけ雇ってもらえないでしょうか」
「ああ、
江寧なら歓迎だが……一月?」
「ええ」
風除けの布を外して、少女の顔が露となる。白藤の髪が陽の下に晒されて、時折白く反射する。紫水晶にも似た菖蒲色の瞳が軽く見開かれて、すぐにふわりと微笑った。
尭衛はその条件を耳に入れるなり振り返った。一間を置いてやっと理解の意を示したが、しかし、と尭衛は首を傾げる。
「何故一月なんだ?」
「それは―――また後ほど」
「?ああ……」
困ったような顔をする尭衛に、
江寧は苦笑を洩らす。そうして厩舎からとある客房へ共に向かう際、目前に長く続く廊下から一人の青年が少女を抱えてやってくる。
「
江寧……!」
「榮春さん―――ただいま」
「おかえりなさい!」
微笑みを湛え
江寧を迎え入れる榮春に、二人の顔も綻ぶ。青年に背から下ろされその場に立つが、嬉々とした表情が絶える事はなかった。……旅立つ前に渡していた手製の襦裙を纏い帰還した
江寧の姿を目に入れて、嬉しくない筈がない。
江寧は柔らかく笑む榮春を眺め、その隣に控える青年へと視線を移す。半年前には見ない顔だと思いつつ、何気なく尭衛を見る。それを感じ取ったのか、ああ、と尭衛は自身の顎に片手を当てながら頷いた。
「一月前に入った新顔だ。胡典という」
尭衛に背を叩かれ、僅かに前方へと押し出される青年に内心苦笑を零しながらも、
江寧は胡典と呼ばれた青年を眺める。赤銅色の髪色に
月白の斑は酷く珍しく、彼が自己紹介を始めるまでは頭部に視線を据えていた。
やがて話し出す胡典に、視線を漆黒の瞳へと移す。
「胡典といいます―――貴方は?」
「
江寧と申します」
軽く会釈をする青年に対し、
江寧もまた軽く拱手をする。双方の挨拶を見終えて、尭衛は軽く掌を打った。その音で三者は顔を上げ、音の元を見やる。笑顔のままの尭衛は、さあ、と声を上げた。
「いつまでも嬉しさに浸る訳にはいかないからな。ほら、仕事だ」
舎館の主の言葉に慌てて走り出す胡典と、ひとつ頷き榮春を連れて歩き出す
江寧。彼女の背に向かい園林を頼むと声を投げると、またひとつ頭を縦に振る様を見る。
少しばかり慌しくなりだした廊下の様子に、尭衛は満足して自身の仕事場へと赴いて行った。
◇ ◆ ◇
その日の舎館は忙しないまま時を終えて、ようやく日没の暫し後に落ち着いた。
後で話があると廊下の擦れ違い様に告げられた
江寧は、持ち場の一段落を終えて房間へと向かう。
大方話があるのは
江寧であり、尭衛ではない。恐らく気を遣い声を掛けてくれたのだと感謝しつつ、彼女は朝方に行ったきりの部屋の前へと辿り着いた。
扉を軽く数回叩けば、内より返答がある。
「失礼します」
身形を整えて、扉を潜る。
―――そこにあった風景は、半年前と何ら変わる事のないものだった。
自然と込み上げてくるものを抑えながら、
江寧は向けられた二者の視線に応える。
「遅くなってしまい、すみません……」
「いや、いい」
「早く入ってらっしゃいな」
榮春の言葉に顔を僅かに綻ばせながら頷く。扉を閉めて身を翻すと、そこには茶器を揃え終えて座る尭衛と茶を淹れ始める榮春の姿。彼の隣、彼女の向かいにある一つの椅子は
江寧の為に用意された席だった。
座るようにと促されるままに椅子の前へと歩み寄り、ゆっくりと腰を下ろす。
「あの、」
「一月の、理由を聞いてもいいか?」
視線を移動させる尭衛に
江寧はしっかりと頷いた。
「―――そのために来ました」
はっきりとしたその声は、尭衛と榮春を軽く驚かせる。
……決意にも似た言葉。半年の中で何かを学び得、成長を遂げた者の声。
二者は思わず顔を見合わせ、おずおずとしながらも榮春が声をかける。
「
江寧―――」
「半年後、蓬莱へ帰る事になりました」
迷い無く放ったその言葉は、榮春にどれ程衝撃を与えたことだろう。一瞬、理解力を失った彼女は呆然として目前にいる少女の姿を見る。
江寧の声はあくまでも落ち着きを保ったままで。
数秒の沈黙の中、ようやく理解する事が出来た榮春はゆっくりと肩を落とす。
この半年の間で、彼女は帰る方法を見つけた。帰りたくないと言いつつも、やはり
江寧にとって在るべき場所は蓬莱の国なのだと。そう思うと榮春の胸が僅かに痛む。
「そう……見つけたのね」
「はい。でも、帰ってくるつもりです」
―――帰ってくる。
その言葉に榮春ははたと顔を上げ、尭衛もまた驚くように江寧を見る。
たとえ無事に蓬莱へ辿り着いたとしても、再び十二国へ渡る事は危険性を伴う。多くの海客は遺体で漂着する。だが……それでも、帰り戻って来ると言うのだろうか。
次々と不安が過ぎるが、それを
江寧は首を左右へと振った。
「無事に行き来できる伝があります……だから、ちゃんと約束できる」
「―――
江寧」
「私は、必ず帰ってくると」
それが、彼女の一線だった。
堰を切ったように溢れ出す生温い雫。それは頬を伝って、ぱたぱたと手の甲へと落ちる。尭衛は驚き慌てて布を差し出したが、榮春は軽く頭を振って顔を掌で覆う。
江寧もまた困った表情のまま、配慮の言葉をかけた。
「榮春さん―――」
「絶対に……帰って来るのね……?」
「はい。だから―――」
泣かないで、と。
そう言葉を掛けようとした
江寧を制して、彼女は幾度も頷いた。尭衛から差し出されていた布を受け取り、涙を拭き取る。その様子を二人は心配しながらも見守り、ようやく落ち着いたところで榮春は僅かに笑いかけた。
「帰ってくるまで、待ってる」
その日の深夜、
江寧は用意された部屋の臥牀を抜け出して窓の傍に佇んでいた。
開け放たれた窓からは、少しばかり冷えた風が入り込む。それを差して気にする風もなく、ただ闇と同一化してしまった凌雲山のある方角をぼんやりと眺め続けている。
―――待ってくれている人達。
数刻前に見た榮春の涙する顔がふと思い浮かぶ。彼女は待っていると言ってくれた。尭衛もまた、同じく帰りを待つと……。
それを裏切るような事は、絶対にしない。
一人密かに誓いを立てる彼女の眼には、力強いものを浮かばせていた。